約束
「――そう、その部分が語幹だから語形変化は昨日教えたのと同じパターンで大丈夫。思い出しながらしっかり考えてみて?」
「……ええと、あー……確か……こう……」
リアンは必死に目の前の文字を睨みつけて思考を巡らせる。
「否定詞はこっちにあるから……人称……は位階からすると複数? あー……だとすると活用が……で……」
「うんうん、頑張れ頑張れ」
隣に立つルシャの表情はにこやかだが、机に向かうリアンの表情は苦悶に満ちており、鬼気迫るものすらある。
脳がフル回転しているのだろう。
ブツブツと呟きながら、何度も目の前の本を指でなぞって確認している。
「……それらは、全ではないが、集合であり……ええと、有限の果てを、反転することにより……?」
「そこは反転ではなくて流転の方が意味としては近いかな。覚えておくといいよ」
「…………はい」
死にそうな顔でリアンは呟く。
ルシャは苦笑してちらりと外を眺めるとパンと手を鳴らした。
「よし、今日はこれくらいにしておきましょ? 根を詰めすぎるのも逆効果よ?」
「……あ、ありがとうございました」
リアンはそのままゴツンと机に頭を落とす。
その四肢からは完全に力が抜け落ちている。
その姿だけ見ればもはや死体と変わりがない。
「ふふ、でも随分読めるようになってきたじゃない。古神聖語を教えて欲しいって突然言われたときは驚いたけど、短期間でここまで修得するなんて凄いよ」
「……身体動かせない分、少しでも新しいことを学びたいと思って。本の内容に関してはもはや欠片も理解出来ないですけど……」
「それはそうよ、一節の解釈一つで派閥が分かれるくらいだもの。もう少し簡単な本があればいいんだけれど、これでも随分読みやすい方なのよね」
「……マジですか」
「まじまじ」
げっそりと深い溜息をつくリアンを見てルシャはクスクスと笑う。
リアンが言葉を教えて欲しいと頭を下げてきたのが15日ほど前。
たったそれだけの期間で解説と助言ありとはいえ、難解極まる神代の法典の文を一部分でも訳せるようになるというのは素晴らしい成長と言える。
そもそも彼は大陸共有語をこの4年程度で読み書き出来るようになったという。
しかも独学でだ。
言語修得に向いていると言われている若さを差し引いても、彼の学習能力が凄まじいものであることは疑いようがなかった。
飲み込みの良い、それも素直な生徒というのは教える方としては非常に気持ちの良いものである。
ルシャは上機嫌にリアンの頭を撫でる。
「……じゃあお疲れのリアン少年に朗報です。先程見た感じだけど、怪我の回復具合はとても順調ね。そろそろ外出禁止令を解除してあげましょう」
「本当ですか!!」
「ただし、何度も言うけれど無茶は無しですからね」
淡桃色の長髪を揺らしてルシャが微笑みながら釘を刺す。
その柔らかげな視線の奥に秘められた鋭い棘を感じ取り、リアンは冷や汗を流しながら繰り返し頷く。
だが、それでも湧き上がってくるような喜びと昂ぶりは抑えきれない。これでようやく身体をまともに動かせるようになるのだ。
「あの! じゃあ早速俺出かけて……!」
「待った。今日はまだ駄目」
既に立ち上がりかけていたリアンは肩を抑えられてその動きを制される。
「絶対無理はしないですから! どうしても俺行きたい所が……」
「ヤーナちゃんのところでしょ?」
ずばりと言い当てられてリアンは言葉に詰まる。
あれきりヤーナとは会えていない。
彼女が無事であることは聞かされている。
幸いなことに後遺症の類も残らなかったらしい。
それでも、直接彼女と一度会って話したい。
その気持ちは日に日に積み重なり、もはや耐え難いものになりつつあった。
「……大丈夫よ。彼女、今日ここに来るから」
「えっ、そうなんですか!? あれ、でもなんで……」
リアンの聞いている話では彼女は怪我らしい怪我もなく、一日眠って魔力が回復したらほとんど元通り動けるようになったらしい。
だが、流石に色々と無茶をしたお陰で家の中で相当揉めたとのことだ。
それはそうだろう、貴族の娘が野盗に一時的にとはいえ拐われたのだから。
せめて自分が頭を下げることで、彼女に責がある訳ではないことを伝えられればとリアンは思っていた。
彼女一人であれば、外に出るなどという無謀は冒さなかったはずなのだから。
しかし、ここまで来るということは問題は無事解決したのだろうか。
リアンは少し肩透かしを食らったような気分になりながらも、久々に彼女に会えることが分かり自然と表情が明るいものになる。
だが、続くルシャの言葉はリアンの甘い期待を打ち砕くようなものだった。
「ヤーナちゃん、お父さんのところに帰るって。だから、この街を出る前にお別れの挨拶に来るらしいわ」
◇ ◇
宿屋ラスカネンは冒険者の止まる宿としては決して安くない宿だ。
外装はそこまで豪華ではないが、何よりも個室の数が多く宿の規模としてはかなり大きい。一階フロアのレストランは常に多くの客がつめよせる人気店でもある。
そんなラスカネンの入り口の前に一台の馬車が留まる。
2頭立ての箱馬車。馬の体躯は立派で、その足の筋肉は見るものが見れば惚れ惚れするような膨らみである。
馬車の造りも黒地の木材で組まれた落ち着いたものでありながら、随所に金の細緻な装飾が施されており、見たものが思わず姿勢を正さないではいられないような気品を醸し出していた。
繰り返して言うがラスカネンは決して安くはない宿であり、質実剛健さには定評のある知る人ぞ知る良荘だ。
そのラスカネンの入り口と比しても、馬車の品格は一目で分かるほどに高すぎた。
「……もしかしてヤーナの家って、もの凄いんですか?」
「あれ、知らなかったの? ユグノアル家は王国十二侯家の一つよ。領地の大きさでいえば五本の指に入る有力貴族なんだけど」
「そんなお嬢様を連れ回すたあ、大した度胸だよなあ」
「リアン勇敢」
からかうようなガストとフィフィの声はリアンの耳を素通りする。
リアンは冷や汗を流しながら馬車を眺める。
大きい。リアンの背丈の3倍はありそうな巨大さだ。
もはやそれは聳え立つ壁のようでもあり、まるでリアンと彼女との間に突然現れた壁のようでもあった。
馬車の御者が機敏な動きで扉の前まで移動すると、扉を叩く。
「――開けて」
中から小さく響く鈴のような声。
重厚な扉が軽くきしむ音を立てながら、ゆっくりと開く。
現れたのは華のような少女。
その身に纏った薔薇色のワンピースは幾重にもフリルが重なり合い、まさに花弁のごとく咲き誇っている。
少女がその足を進めるたびにふわりふわりとひらめいて、幻想的な華やかさを見る全ての者に与える。
リアンの目に浮かぶのは一面に広がる真紅の薔薇園。
ゆるやかに波打つ金の髪は太陽の輝きを抱いている。
濃密な花の香りがリアンの脳を撫でる。幻覚だろうか。いや、彼女の纏った香りかもしれない。
まるで別世界から現れたような少女は聞き慣れた声でリアンに会釈をする。
「久しぶり、リアン。良かった、もう動けるのね」
「……え、ええ。まあ、なんとか」
リアンの返事はあまりにぎこちない。
つっかえつっかえに、何とか声を絞り出しているといった様子だ。
そんな様子を見て少女はくすりと笑う。
「何? どうしたの、いつもみたいに気楽に話してよ」
「……無茶言うなよ」
少女はいたずらに唇を歪める。
そこでようやくリアンは彼女がヤーナであることを確信できて、少しだけ肩から力を抜く。
「てっきり双子の別人かと思った」
「何それ、酷いわね。こんなに可愛い子、他に居るわけが無いでしょう?」
「うん、ヤーナだ。間違いない」
ヤーナは軽口を一言二言リアンと交わすと、その隣に立っていたガスト達に向き直る。
「皆さん、色々お世話になりました。何度も無理を言ってご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません」
「なあに、気にすんなって。賑やかだし華やかだったんでちょっと楽しみにしてたくらいだぜ? 普段来るのは生意気な跳ねっ返りか、汗臭い野郎どもだからなあ」
「……君の頼みを受け入れることは出来なかったが、決して俺たちは君のことを嫌ってはいなかった。迷惑などであるものか」
ヤーナの謝罪をガストは豪快に笑い飛ばし、ロッケンは真摯に返す。
そんな光景を見て、リアンはぼんやりと冷えた心で思う
やはり彼女は冒険者への道を諦めたのだろう。
当たり前だ、あれほどの酷い目にあったのだから。
元々彼女の住む世界は『あちら側』なのだ。今の彼女が、本来の彼女なのだ。
ヤーナがルシャの前に立って親しみを込めた微笑みを送る。
ルシャは穏やかに、だが少しだけ寂しそうに笑っていた。
「ヤーナちゃん、決めたんだ」
「ええ、リアンのお陰で」
突然名前を呼ばれて様子を見守っていたリアンはびくりと肩を震わせる。
この場にいないサラを除く『ジャッククラウン』のメンバー一人ひとりと別れの挨拶を終えたヤーナが踵を返し、再びリアンの方を向く。
先程までのしゃなりとした雰囲気はどこへやら。
スカートが翻るのも気にせずに大股でずかずかと詰め寄ってくる。
まるで初めて彼女と出会った時のような異様な迫力にリアンは思わず腰が引ける。
だが、それよりも少女が距離を詰めるほうが早かった。
少女がリアンの両頬を掴む。
唇と唇が重なる。
時間が止まる。
誰もの動きが静止する。
あらゆる音さえもが、世界から消え失せる。
それは刹那の時であったが、無限にも思われる時間だった。
そして世界が動き出す。
「――私、お父様のところに帰って本気なんだってことを伝えるわ。本当に私がやりたいことを見つけたから。憧れるんじゃなくて、なりたい自分が分かったから」
「……ヤーナ」
ヤーナはリアンの瞳を真っ直ぐに見つめる。
その瞳には強い光が宿っている。
「リアン、私は必ず冒険者になるわ。だから先に行って待ってて。いつか必ず追いついて見せるから!」
「――ああ、俺も絶対にもっと強くなる。一人前になってみせる。だからいつか必ず、また冒険をしよう!」
そして少女は太陽のように笑う。
少年も心からの笑顔を見せる。
二人の小さな冒険はここでようやく幕を閉じる。
だが、これは彼らの始まりに過ぎない。
馬車が遠くへ消えていく。
それを宿屋の二階から見送る影が一つ。
窓辺に寄りかかった金色の魔女はぽつりと呟くのだった。
「……若いわねぇ」
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