未熟者の覚悟

「っづ……ぁああ!!!」


 金属が爆ぜるような轟音と共に、小さな体が地を滑る。

 これで一体幾度目か。

 目の前で少年が異様な男に打ち据えられる度に心臓が締め付けられるように痛む。


 私は壁に寄りかかった体勢のまま必死に突然現れた男とリアンの戦いを見守る。

 見る限り剣で致命打は防いでいるようだが、リアンの劣勢は素人目に見ても明らかだった。先程の頭部への衝撃ダメージが抜けきっていないのだろうか。


「……やっぱり、剣じゃ敵わないか」


 ぽつりと小さく、辛うじてこちらに届くかどうかという声でリアンがつぶやく。


 違う、この男が余りに強すぎるのだ。

 折れた腕を振り回す異常さを差し置いても、戦闘技術の卓越ぶりはこの短い時間でも傍から見ていて分かる。


 だらりと垂らした腕はまるで毒蛇の如くうねり、予想も出来ない軌道で正対する小さな身体に飛びかかる。

 目で捉えられない程の速さの一閃をリアンが繰り出しても、こともなさげに弾き、受け止め、いなしてしまう。


 決してリアンが弱い訳ではない。

 以前闘技場にこっそりと足を運んだことがあったが、その際に目にした戦士と比肩しても決して劣るものではないと、剣の素人ながらに思う。

 だが、そのリアンをあの長髪の男は文字通り子供扱いしてみせる。

 とても片腕を折っている人間(果たして本当に人間なのだろうか?)の戦いだとは思えない。異常としか言いようがない。


『漆黒、まがちて、歪みて、喰らえ――――』


 男から十歩ほど離れた場所でリアンが短く詠唱を始める。

 そうだ、あれほどの近接戦闘の使い手相手ならば距離を取って魔法で叩けば良い。

 そんなシンプルな答えに今更ながらはっとさせられるが、それくらいリアンが考えていない訳がない。何故今の今まで魔法を使わなかったのだろう。


 そんな疑問が一瞬脳裏を過ぎったが、どの道これで決まりだ。

 詠唱は既に完了している。同時に指で宙に描いた印章により術式の構築も効率的に行われており、魔法の発動は目前であることが分かる。

 高速化した短節詠唱ミニオンスペルとシングルアクションの簡易印章レアシールの複合術式。

 洗練された魔法技術に思わず目を惹きつけられる。私があのレベルの魔法を発動させようとすれば、一体どれだけ長い時間をかける必要があるのか。


 だが、そんな強大な魔法の発動を目前にして長髪の男は酷く退屈そうに、ただそれを眺めている。

 逃げようと慌てるでも、突進して止めようとするでもなく、ただその場に立つ。

 まさかこれ程の力の余波を感じない訳がないというのに。


『――【ブラックハウル】!!』


 黒色の魔力の奔流がほとばしる。

 こうなってしまえば関係ない、いかに余裕を見せていようがこの凄まじき魔力の渦に飲み込まれる他に無い筈だ。

 

 だが、次の瞬間私は目を疑う光景を目の当たりにする。


 男がただその右手をまっすぐ前につき出しただけで、黒き奔流はその手に吸い込まれるように掻き消えてしまったのだ。


「――なっ……!?」


 思わず自分の口から驚きの声が漏れるのを止められない。

 抵魔レジストではない、解呪ディスペルという訳でもない。

 まるで地に雨水が吸い込まれるが如く、魔法が腕に呑み込まれてしまったのだ。


「だからあ、魔法はダメだとお、言ってるだろおおおおおお……ぉお?」


 ドスの利いた声で正面を睨みつけるようにしていた男の動きが止まる。

 何事かと視線を逸らせば、魔法を放ったはずのリアンの姿がない。


「むぅううう!!!」


 直後、男が右手を振りかざしたかと思うとギインと耳をつんざく金属音が響く。

 その先に居るのは、中空から剣を振り下ろした体勢のリアン。

 魔法を放った後に、姿をくらましたかと思えば上方からの奇襲をかけたのだと遅れながらに混乱した頭で理解をする。


「――【クラッシュバーン】!」


 紅蓮の炎が炸裂する。

 ちらりと見えたのは金に光る刻印石の独特な文字。

 奇襲の剣撃に合わせて、刻印魔法を発動したというのか。あの一瞬で。


 凄まじい術式の構築速度と、それにも関わらずあれだけ限られた空間に炎を集中させる技量に思わず息をすることすら忘れる。

 しかし炎はすぐに掻き消える。先程と同じ、男の右手に吸い込まれるようにして。


「何度もお、無駄だとおお……言ってるだろおおおおぉおおおぉおお!!!?」


 人のものではない咆哮と共に、獣のような挙動で長髪の男が身を回転させて至る箇所から血の滴る左腕を振るう。

 空中でそれを受け止めたリアンは、弾かれるように地に叩き落され、そのまま土煙を上げながら転がっていく。


「リアン!!!!」


 思わず叫びながらリアンの方へと駆け寄ろうとするが、拘束された足で動けるはずもなく、私はそのままリアンと同じように地に倒れ込んでしまう。


 地に伏せて咳き込んでいる内に、涙がボロボロと溢れ出す。

 リアンはあれだけ必死に戦ってくれているというのに、自分の今の姿は一体何なのだろう。

 惨めだ。酷く惨めだ。消えてしまいたくなる。

 

 言いつけを守らず勝手に動いた所為で拐われて、助けに来てくれたリアンに頼るばかりで、ただ見ていることしか出来ない。

 一体今の私は何なのか。誰かに助けられ、与えられるだけの生き方を変えたくて冒険者を志したのではないのか。

 結局、どれだけ努力したって私に出来ることなど、何一つ無いではないか。


「……無駄かどうかなんて、分からないだろうが」


 ゆらりと視界の隅で小さな影が立ち上がる。

 強い意志の篭った声が耳に届く。


「出来ることをするしかないんだ。例え通じなかったとしても、やってみなきゃ分からない。だから、ありったけをぶつけるんだよ」

「……そうかぁ、ならぁ――絶望して死ね」


 急に声の定まった男が地を蹴る。

 間合いが一瞬で潰れる。まるで地を滑るかのように、動きを感じさせない奇妙な動作だ。先程までの荒々しい動きとはまるで違う。


「……くっ!?」


 放たれる右拳、だと思われる打撃。

 動きが速すぎて目で捉えることが出来ない。

 だがリアンの身体が後ろに仰け反ったことから、攻撃を受けたことは分かる。


 明らかに速くなっている。否、強くなっている。

 まさか、今まで本気を出していなかったとでもいうのか。


「こ、の……! ぐ、ううぅ! がっ……! ぃぎっ!!」


 剣での防御が間に合わないのだろう。

 リアンが身体を仰け反らせては、少しずつ後ろに下がって距離を取ろうとする。

 しかしリアンが小さく一歩退くごとに、男は前へと詰めて逃がそうとしない。

 淡々と、酷く冷酷にただ目の前の小さな標的に向かって拳を放ち続ける。


「リ、リアン……!」


 自分の声が虚しく響くが、それも肉が叩かれる音と悲鳴に掻き消される。

 

 せめて、私が援護出来れば。

 

 その瞬間、手足に激痛が走るような感覚に襲われる。

 実際の痛みではない。一度、たった一度だけ体感した痛みの幻想だ。

 現実の手足には何の痛痒もないはずなのに、魔法を使う想像をしただけであの神経を焼き溶かされるような痛みを思い出して身体が震える。


 駄目だ、出来ない。


 そもそも、リアンの魔法が通じないのだ。

 私なんかの魔法が通用する筈もない。

 そして何よりも、魔法を使おうとすれば間違いなくあの痛みが私を襲う。


 それだけは嫌だ。あの痛みをもう一度味わうくらいなら、どんな辱めを受けてもその方がマシだと思えるほどだ。


「ひ……ひひひ……ひひひひひひひひひひいいいひひいひひいいいいいい!!!」


 狂ったような叫びが耳朶じだを打つ。

 リアンの防御はもはや防御の体をなしていない。

 放たれる十の拳のうち三も防げているかどうか分からない。

 それでも彼は倒れない。

 それどころか僅かな隙を狙って剣を振るい、魔弾を放っている。

 だがその全ては空を切り、手に吸い込まれる。


 もはや勝負の形勢は見るまでもない。

 最初は均衡を保っていた天秤も、今では傾ききろうとしている。


 無理なのだ。

 あれほど強いリアンですら、勝てない相手がいるのだ。

 世界には、抗いようのない絶望があるのだ。


(……もう、戦わなくていい。逃げて。今なら、まだ間に合うかもしれない)


 そうだ、彼が命を賭して戦う必要などどこにもないのだ。

 リアン一人であれば、逃げようと思えば逃げられるはずだ。

 防御結界を貫かれているのか、ところどころ皮膚が裂けた場所から血が滴っているが、それでもまだ彼は立っている。

 その瞳には、まだ力が残っている。


(……なんで、そんな眼を出来るの)


 こんな状況なのに。あんなにボロボロになっているのに。

 敵はあんなにも強いのに。酷く怖くて、ただただ恐ろしいのに。


 だというのにリアンの瞳は強い意志を持って光り、まっすぐに前を見つめている。


(あの眼……知ってる)


 そうだ、あの眼はあの日見た『あの人達』と同じだ。

 どれほどの悪鬼が押し寄せようと。

 絶望的な黒い波に押しつぶされそうになろうと。

 ただ前を見据えて逃げようとしない、そんな迷いない瞳だ。


 その姿に、その瞳の輝きに私は憧れた。

 力を手に入れれば、それを手に入れられると思っていた。

 何にも屈しないような力を手に入れれば、ああなれると思っていた。


(……違うんだ、それだけじゃ駄目なんだ)


 リアンは強い。

 それは力の強さだけではない、心の強さだ。

 絶望に屈しないで、どこまでも抗おうとする意志の強さだ。


(……負けたくない)


 力では敵うはずもない。そんなことは分かっている。

 自分に出来ることなど、何一つ無いのかもしれない。それも理解している。

 それでも、このままここで蹲っているだけではあの日と何一つ変わらない。


(無駄じゃなかったって、証明するんだ)


 私が今日まで積み重ねた日々。

 リアンが認めてくれた私。

 それが無駄だったなどとは言わせない。


 たとえ通じなくても。何の役にも立たなかったとしても。

 ここで動けたならば、きっと私はあの憧れに少しだけ近付けるのではないか。


 身を捩って、近くに落ちていた小石を必死で口に咥える。

 ざらついた砂が口の中に入り気持ちが悪いが、今はそんなことは気にしない。


 歯で無理矢理に固定した小石を地面に押し当てて、身を捩りながら首を細かく前後左右に動かす。

 もちろん硬い地面は軽く一度掻いた程度では削れない。

 何度も繰り返し、同じ場所をなぞるように石を押し当ててはガリガリと動かす。


(必要なのは、とにかく単純で最小単位で完結した構築)


 轟音と共に視界の隅で血飛沫が舞う。

 リアンの首が大きく仰け反り、身体が大きく揺らぐ。

 だが、それでも彼は倒れようとしない。


 大丈夫、彼はきっと大丈夫。

 私は、私の出来ることを。


(焦っちゃ駄目……しっかりと、最低限を作り上げるんだ)


 チャンスは一度。

 私に出来ることなど、彼を信じて動くことしかない。


 歯がギシギシと痛い。唇が切れて血が垂れている。

 それがどうした、歯など折れてしまえ、唇など裂けてしまえ。

 今必要なのは、正確な象形とそれを為す集中力だけだ。


(――よし、あとは発動するだけ)


 目の前に出来上がった一つの刻印を確認する。

 こんな出鱈目なもの、初めて描いた。

 本当に上手くいくかどうか分かったものではない。

 それでも、考えられる限りを考えてたどり着いた答えがこれだったのだ。

 ならば、出来ると信じるしかないだろう。


「――――すぅ……」


 一つだけ息を吸って、覚悟を決める。


「――あッ……ギッ……!!!!!! っ……っは……!!!!!!!!!!」


 魔力を練り上げ始めた瞬間、手足が弾ける。

 毒と金属をドロドロになるまで煮詰めた鍋の中ヘ手足を放り込んだような感覚。

 途方もない痛みと、熱さと、痺れと、つらみと、寒気と、怖気と。

 正常な感覚など一瞬で弾け飛んで何も感じなくなった筈なのに、壊れた感覚に容赦なく絶え間ない極大の悪意が暴力的に流れ込んでくる。


 痛い。痛い。痛くて痛い。気持ち悪い。恐い。嫌だ。痛い。辛い。痛い。嫌だ。


 それでも私は魔力を練るのを止めない。

 ここで止めてしまったらもう二度と動けなくなる。

 それが分かっているから、どれほどの痛みが襲いかかって私を犯そうとも私は体の奥底から力を汲み上げ続ける。


 出来る限り声を漏らさないようにはしているが、実際はどれほどの声が出ているかは分からない。

 彼らほどの実力者ならば気配で気付くだろうか。それも分からない。


 頭が痛みで痺れてもはや思考が形にならない。

 それでも、辛うじて繋ぎ止めている意識で魔力を作ることだけを身体に命じる。

 私という存在の輪郭が溶けて、中心に力の塊が渦を巻き始めているのが分かる。


 こんな感覚は初めてだ。

 肉体の楔から解き放たれて、純粋に力だけを感じている。

 もしかすると私の身体はもはや壊れて、砕け散ってしまったのだろうか。


 だとするならば、それでも良い。

 今はただ、出来ることをするだけなのだから。


「――……ーナ!」


 遠くで誰かが私を呼ぶ。

 その声のする方へと意識を向ける。


 急速に世界が戻ってくる。

 果てのない痛みは変わらず私の肉体と精神を苛んでいる。

 それでも私は私を見失わずにいられる。

 彼が、私の名を呼んでくれているから。


「ヤーナ!!」


 リアンは叫ぶ。

 長髪の男はこちらを意に介すること無く、リアンに襲いかかろうとしている。

 助けるんだ。私が、リアンを。


 不格好でいい。みっともなくてもいい。

 もう箱庭でまどろんでいた私じゃない。最後の最後まで足掻いてやる。


 そして私は魔法を放つ。

 辿り着いた、私だけの魔法を。

 名付けるならば私の始まりである、焦がれるようなこの想いを捧げよう。


 【黄金色の憧憬クリューソス・ヒーメロス

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