序章『ジャッククラウン』4

 巨大な影から、小さな影が分かれてズシンと地が震える。獣の悲鳴が遥かに聞こえる。


「良かったな坊主、お家に帰れるぞ」


 どこからか響く見知らぬ声。続いて何か温かい光が身体を包む。


「もう大丈夫だからね……とても、とても頑張ったね……!」


 陽光よりも柔らかで、暖かく、慈愛に満ちたそんな光。途端に全身に走る激痛。

 手放しかけていた生の感覚が急速に復元されていくのを感じる。


 苦痛に顔を顰め、閉じた瞼をゆっくりと開くと、ぼやけた視界が次第にクリアに研ぎ澄まされていく。

 遠くはなれていた音が、間近に感じられるようになっていく。

 首を傾けて、泣きそうになりながら慈母の如き微笑みをこちらに向けている女性を見る。

 まるで春の花のような髪色の美しい女性。

 もう心配はいらないと語りかけるように手を握りしめてくれている。


 その傍に立つのは凄まじき大剣を構えた男性。

 短い茶髪に日に焼けた肌。鎧の上からでも分かるほど隆起した筋肉と、素肌に覗く無数の疵痕は戦士の証だろう。

 こちらを一瞥すると、戦士は獰猛な笑みを浮かべる。


「悪いが、得物は横取りさせてもらうぜ」

「散々止めたのに、結局それ?」


 いつの間に現れたのか、傍に立っていたのは戦士の胸ほどまでしか背丈のない小柄な少女。

 だが、その纏う雰囲気はとても童女のものではない。

 短くも銀に光る髪に生来のものであろう褐色の艶やかな肌。ツンと尖った耳と朱玉の眼は亜人の証。短弓を手に立つ姿は熟練の弓士のそれだ。


「結果的にそうなっちまったんだから仕方ないさ、まあその代わりといっちゃなんだけどしっかり守ってやるよ、なあロッケン」

「……まあ、異論はないが」


 不承不承といった感じの太く低い声。

 振り向けば巨大な鉄塊。いや、重鎧フルプレートアーマーに全身を包んだ戦士が立っている。

 さらに目を引くのは両手にそれぞれに持つ巨大な双盾だ。

 ともすれば、鎧の重量と同じくらいはありそうなそれを持ち上げている姿は一言でいえば異常と言えた。

 盾の戦士は回り込むように巨猿と俺の間に立つと、振り返らないまま言葉を放つ。


「少年、無謀は褒められたものではない」

「……はい」


 思わず声が出て、返事が出来る程度に身体が回復していることに今更ながら気付く。

 改めて見てみれば、桃色髪の女性の握る手は淡く光り、何らかの術式が発動していることが分かる。


 ――回復魔法!


 希少な魔法の行使を初めて間近で確認して幾度目かになる驚愕の表情を浮かべると、女性は柔らかでどこかいたずらな笑みを浮かべる。どこか高貴な空気と漂う彼女のそんな仕草に、妙に気恥ずかしくなって失礼なことに目を逸らしてしまう。

 そんな様子を見ているのかいないのか、鎧の戦士は太い声で言葉を続ける。


「だが奮戦は見事。精進しろ」

「は、はい!」


 もしかして褒められたのだろうか。何だか妙に嬉しくて強く返事をしてしまう。

 ズシンと盾を正面に構え、不動で立つその背はまるで雄大な大地の如く。巨大な魔猿は今も目の前で立ち上がりつつあるというのに揺らぐ様子はなく、不思議と不安や危機感すら抱かせない。


 そこでようやく思い出したように魔猿の様子を盾の隙間から覗き見る。魔猿が抑えるようにしている左腕を見れば、手首よりも先が無い。アンバランスになった腕の先端からはドロドロとした血液が溢れ続けている。


 まさか斬り落としたというのか。誰が?

 いや、考えるまでもないだろう。今、目の前で大剣を握っている男以外に誰がいるというのか。


「まあ、坊主のお守りも万全になったとこで、さくっと終わらせるか」

「ん」


 銀髪褐色の少女(?)が短く返事をすると、その姿が掻き消える。

 次の瞬間、トラルエイプの絶叫が響き渡る。


 何が起こったのかと首を回して目を凝らせば、魔猿の潰れた右目に何本もの矢が突き刺さっていた。

 そして遥か向こうにはいつの間に移動したのか、先程まで目の前にいた少女が弓を構えて佇んでいる。


「見えなかった……」

「フィフィさんは身軽だから、あと鬱憤も溜まってたみたいだし一気に発散したのかも」


 くすりと術士の女性が笑う。フィフィというのがあの亜人の弓士の名だろうか。そしてロッケンというのが鎧の戦士の名。


 一体この人達は何者なのか。


 戦闘はあまりに一方的だ。

 自分があれだけ苦戦していた巨猿を苦もなく相手取り、追い詰めている。

 亜人の少女――フィフィの放つ無数の矢は恐るべき速さと精確さで魔猿の急所を居抜き、剣士の男は呆れるほど堅牢な筈の毛皮の上から大剣を叩きつけて強引に砕き、その下の肉を抉っている。

 反撃の拳や蹴りを危なげなく躱し、髪の毛一本かする気配すらない。


 だが一方でトラルエイプの耐久力も驚異的であった。

 自分との戦闘の直後に、全身を射抜かれ、斬りつけられているというのに動きが衰える様子がない。


 そこで、一つの異変に気付く。

 周囲の空気が妙に静かだ。これだけの戦闘だというのに。

 そして一帯に溢れている異常な魔力。


『――――謳え暗紫の王、行く手阻む銀の皿、砕きて八詩の理とせよ』


 どこからともなく響く言霊。ゆっくりと紡がれるそれは余りに美しく、戦闘という場には余りにそぐわない。


『――――万象潰えて華として、濫觴らんしょう束ねて端とせよ、汝の輩此処にあり、汝の輩其処にあり』


 突如として晴天の空が突如罅割れる。

 いや、そうではない。無数の雷が空気を引き裂きながらただ一点へと集まっているのだ。

 そして天に生まれる巨大な光球。

 まるで二つ目の太陽のようなそれに込められた圧倒的な魔力と、その深層にある術式に気付かぬ内に身が震える。

 それは畏れだ。あまりに偉大過ぎる、貴すぎる、そして美しすぎるモノへの。


『終の果てを照らし出せ――――【天酒乱欄メガロ・アストラファ】』


 呪文の宣告と共に光球が弾け、直下へと炸裂する。

 それはまるで神の下す鉄槌。

 幾千、幾万もの束ねられた雷光は術式の理に導かれてただ一点、白銀の獣をそれ以上の白色によってで塗りつぶす。


 吹き荒れる暴力的な魔力の風と襲い掛かってくる物理的な衝撃に思わず身を伏せるが、それらの全ては身を叩くこと無く全て正面に聳え立つ城塞の如き双盾に遮られる。

 加えて術士の女性が俺を守ろうとしてくれているのか、強く抱きしめるようにしているではないか。

 結果、体躯に比べて豊かな胸に顔を埋めることになって僅かに呼吸が止まる。


(やわ……!)


 らかいと思いかけて、慌てて首を振る。この緊急時、それも命の恩人に対して何を考えているのか。


「だ、大丈夫!?」


 そんな俺の様子を見て心配したのか、桃色髪の女性は不安げに声をかけてくれる。


「な、なんでもないです、大丈夫です……」


 何とかそれだけ答えると、安心した様子で女性は柔らかな笑みを浮かべる。罪悪感で死にそうだ。


 目を合わせられず、振り返って見ればそこにはもはや巨猿の姿はない。

 ただ剣士と弓士が魔法の爆心地から少し離れた所で戦闘の後始末として装備の手入れをしているだけだ。


 まさか、あの巨体が消し炭すら残らず消し飛んだというのか。


 信じがたいが目の前の光景こそが現実だ。

 一体どれだけの魔力が、熱量があればそんなことが可能なのか。


 驚愕に目を見開いていると森の中から一つの影がゆっくりと現れる。

 魔獣かと思わず警戒するが、姿を見せたのは一人の女性。

 人形のように細く白い手足に、地に届きそうなほど長い金の髪。

 その顔立ちは思わず背筋が冷たくなる程の美しさで、まるで女神の彫刻がそのまま動き出したかのようだ。


 魔導者の証であるかのようにゆったりした黒色のローブを纏っているが、そんなものがなかったとしてもその身に纏う圧倒的な魔力だけで桁外れの魔術師であることは理解できただろう。


「失敗だわ」


 小さな口から溢れる溜息。誰へでもなく、ただ薄い落胆を示す。


「少し残すつもりが焼きすぎた。不格好な『もどき』を見て、気が立ってたようね」


 その琴の鳴るのような声は、紛れもなく先程の呪文と同じものだ。

 『もどき』というのは、ひょっとしなくとも俺が使っていた魔法のことだろうか。


 自身の魔術の欠陥はよく理解している。これ程の術者であれば、ひと目でそれを看破するだろう。

 あれほどの魔法を見せられた後では、確かに拙い技量に恥じ入るしかなかった。


「……流石にあんだけのもんを突然撃たれるとビビるぜ」

「せめて、警告が欲しい」


 巨猿の間近、つまり魔法の爆心地付近で戦っていた二人が文句を口にしながら歩み寄ってくる。

 見る限り傷一つ負っていないようである。


 金髪の女性は非難を無視して歩みを進める。

 直視出来ずひっそりと様子を伺うと、どうやら先程までの戦闘でこぼれ落ちたトラルエイプの体毛を拾っては何かを確かめているようだった。


「お、坊主もさっきよりはマシな顔色になったじゃねえか」


 その様子に気を取られていると、急に剣士の男性に話しかけられて身体がびくりと跳ねる。

 すると、ずっと回復魔法をかけ続けてくれていた術士の女性がムスリとした表情を見せた。


「言っておきますけど、傷を塞いだだけです。治ったなんて言えないですし、体力が回復したわけでもないですからね。かなりギリギリだったんですよ」


 それはきっと俺への警告でもあるのだろう。厳しい声音が胸に刺さる。

 仮に巨猿を倒せていたとしても、あのままでは命が危なかったのは間違いない。


 回復魔法が一段落したのだろう。

 女性に手を離されたところで改めて身体を起こして膝を畳み、命の恩人達に向き直って頭を下げる。


「俺はリアンといいます。危ない所を助けて貰って、本当にありがとうございます」


 頭を下げた程度で釣り合う恩ではないが、生憎持ち合わせなど無いに等しい。だが、今の俺にできることはこれだけだ。


「ルシャ=エルミルネスよ。このチームのヒーラーをしているわ」


 柔らかな笑みで回復術士の女性が名乗る。


「あと、向こうにいるのがサラ=ストレイファーグナーさん。見ての通り、魔法使いね」


 視線の先にいるのはつまらなさそうに周囲を見分している金髪の女性。


「……名前はフィフィ。役目はスカウト」


 銀髪褐色の亜人で弓士の少女。


「……ロッケンだ。ガードを請け負っている」


 重厚な鎧を纏った双盾の戦士。

 4人分の紹介を終えた所で大剣の男が少年の前に躍り出る。


「ガストだ。見ての通りの剣士、フロントアタッカーってやつだな。一応『ジャッククラウン』のリーダーでもある」


 一瞬その言葉が理解出来ず、ポカンと思考が止まる。そして数瞬遅れて。


「ジャッ……!!!?」


 耳に飛び込んできた単語が、世に名を馳せる最上位冒険者チームの名前だと理解した俺はただ言葉にならない声を上げることしかできなかった。

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