序章『ジャッククラウン』3

 歪みそうになる視界を必死に定めて、呼吸を整える。骨が折れているのか、息を吸うだけで激痛が走るがそうしなければ待っているのは確実な死だ。

 巨大なトラルエイプは油断せず、こちらとの距離を慎重に詰めてくる。明らかに今までの魔猿よりも賢い。

 が、今はありがたかった。正直な話、今突撃されたら何も出来る気はしない。


 僅かな時間、ほんの僅かではあるが体力を回復させる。

 息を落ち着かせ、激痛に身体を慣らすことで魔法一、二回分の精神力を何とか確保する。

 それだけあれば、あとは祈るだけだ。


「……誰にすればいいのかな」


 ふと、祈るといっても信仰の対象がないことに気付く。

 精霊魔法の使い手なら大精霊だし、宗教家ならば信ずる神々がいるだろうが生憎自分はそういったものに属していない。まあ、胡乱な話だと頭を振って思考を切り替える。


 雑念が浮かぶ程度には余裕も生まれたらしい。自分の神経の太さに感謝する。

 死を前にすると人間落ち着くというやつだろうか。

 巨猿はこちらが動かないで休んでいるのを見抜いたのか、牙をむき出しにして四足で地に伏せるように低い姿勢を取る。


 最悪である。

 フェイントも何もない、突撃の体勢。だがあの巨体だ、どこかに掠ればそれだけで死であろう。

 ならば防ぐか避けるかするしかない。分かりやすい話だ。


「分の悪い賭けだなあ……」


 それでもやるしかないのだ。

 巨猿の筋肉が膨れ上がる。ミチミチと筋繊維に血液が流れ込む音が聞こえてくるようである。


 そして爆発。


 一瞬魔猿の巨体が消えて失せたのかと思うほどの、それほど驚異的な初速。

 直後、眼前に膨れ上がる巨体。後ろで踏み切った大地が砕け、巨大な土煙が上がっている。世界が止まったような感覚。


 意識と肉体が切り離され、酷く身体が軽く感じる。

 ただ、気がするだけだ。もはや目前に迫りつつある巨大な肉弾を避ける術はないだろう。

 まともに防ごうにも、それだけの魔法を一から構築する時間はない。そもそも腕を振っただけで身に纏った防御結界を全てぶち破るような化物なのである。


 ならば第三の選択肢、突撃自体の勢いを殺してしまえば良い。


 何者かへの祈りと共に魔力を掌に集めて地面に叩きつける。その下にあるのは小さく粗雑な刻印。

 光が満ちる。

 三六画直列刻印結界――使いまわしといえど、単純な物理衝撃に対しては十分な防御力を発揮する。


 結界は直上に居た巨猿を捉える。所詮はその場凌ぎの刻印、初回の発動で潰れてしまったものも多かったのか発動は不完全だ。完全に勢いを殺せる訳ではない。

 無理な発動と巨大質量の衝突した衝撃によって結界は一瞬で破壊される。


 刻印は焼き潰れ、もはや使い物にならない。

 だが、十分だった。近付く魔猿の表情がしっかり認識できる程度には突撃の速度が落ちる。


 剣を腰に構えて固定し、全力で前へと走る。目標は一つ。こちらを睨みつけて逃そうとしないあまりに巨大な円的だ。

 時間にして数秒に満たなかっただろう。刻印魔法を再発動し、剣を構え、突撃する。

 もはや突撃の足取りすら覚束ないが問題無い。相対速度は勝手に向こうが補ってくれている。


 タイミングを見計らって、全力で前方へと飛び上がる。嫌な手応えと共に剣が深々と巨猿の眼球へと突き刺さり、そのまま俺は勢いのままに猿の背の上と弾き飛ばされる。


「――がっ!! うっ……ぎっ! だっ! あぐっ!!」


 凄まじい衝撃。衝突の勢いできりもみに回転する身体はとても制御出来ず、余りに硬い猿の背をただ跳ねていく。


 始めの衝撃で身体が砕けなかった悪運に感謝しながら、なんとか意識を手放さないように必死に保つ。

 勢いのまま猿の背から放り出され、そのまま空中から自由落下。

 後方からは痺れた聴覚にも魔猿の苦痛の絶叫が響いている。つまり、まだ仕留めきれてはいないということ。


 残った微かな魔力を絞り出すように指先に集める。

 大丈夫、既に仕込みは終わっている。後は、引き金を引くだけだ。


 指を鳴らすと同時に響く鈍い炸裂音。剣の強化に使っていた魔力を暴走させ、爆発させる簡易魔術。

 威力としては程々だが、頭蓋で内側で弾ければいかに頑強な魔獣といえどもただでは済まないだろう。


 数瞬遅れて、受け身もまともに取れずに地を転がる。空気が肺から強制的に排出されて息が詰まる。

 衣服に込めた魔力の残滓が多少は衝撃を殺してくれているはずだが、もはや感覚が希薄で良くわからない。

 どれだけ地を転がったのか、ようやく身体の動きが止まる。


「かっ……は……! ひゅっ……ふ……げぶ……!」


 もはや身体の外も内側もぐちゃぐちゃだ。ただ酷いことになっていることだけは理解できる。魔力も限界を越えて行使したせいで、酷い頭痛と吐き気で意識が撹拌されているようだ。

 今この瞬間、死んでいないことが不思議なくらいだ。

 何とか途切れかけの命をつなごうと、必死に酸素を求めて喘ぐが口から溢れる血で溺れそうになる。


 ああくそ、苦しい、辛い、気持ち悪い。今まで散々味わってきたというのに、全くもって慣れる気がしない。ああいやだ。死ぬ時くらい、さっぱり死にたい。


 ずしんと、視界の隅で巨大な影が蠢く。

 もはや視界はぼやけて輪郭しかつかめない。だが自分が賭けに負けたことは理解する。いい線まではいけてたような気がするのだが、最後の最後で悪運が尽きたらしい。

 影は確実にこちらへと歩み寄ってくる。大地の振動が直接身体に響く。なんて呆気ない。最期なんて、こんなものか。


 ならば、せめて。


「これで……終わりにしてくれよ……」


 魔猿の怒りはきっと正しい。自分が間違ったことをしたつもりはない。だからこの殺し合いはきっとどちらも正しかった。そして、俺は負けた。


 ならば、それで終わりだ。

 頼むから、それ以外に八つ当たりをしてくれるなよと願う。


 巨大な影の歩みが止まり、日差しが遮られる。頭上に影が広がり、拳が落ちてきていることを感じる。


 ああ、もういよいよか。結局俺は、何も為すことができなかったなあ。


 やらなければいけないことがあった筈なのに、浮かぶのは、ただ一つのもはや叶わない、かつて捨てた一つの願いだ。


「……帰り、たかったなあ」


 その瞬間、影が割れた。

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