序章『ジャッククラウン』2
「――っはぁ……!! ぜっ――っつぁ……」
普段用いない規模の魔法の行使に全身が痺れ、心の臓がズキリと痛む。あのまま持久戦をしても勝ち目は薄いと分かってはいたが、正直術式がしっかり発動するかどうかは半分賭けだった。
「あー……なんとか、なったぁ」
剣を投げ出し、その場に大の字に倒れ込んで天を仰ぐ。
全身がギシギシと痛むし、神経が麻痺したように手足の感覚が鈍い。だがそれでも生きている。
目の前には遮るもの一つ無く蒼い空が広がっている。周囲の木々を薙ぎ払ってしまった所為か風が吹き抜けてきて火照った身体に心地良い。
まあ、多少の被害には目を瞑って欲しい。
倦怠感に抗うこと無く全身の力を抜いて目を閉じる。
さすがにこんな危険地帯で寝るわけにはいかないが、縄張りにしていたトラルエイプは一掃したはずだ。他の魔獣がすぐに襲ってくることもないだろう。
しかしトラルエイプが大きな群れを作ることがあるとは知っていたが、ここまで手強くなるとは正直想定外だった。はぐれのトラルエイプとの戦闘経験があったので弱点は分かっていたが、チームワークのなんと厄介なことか。他の群れなす魔獣や魔物と比較しても連携が密だった気がする。
対トラルエイプのセオリーとしては群れの中のボスを倒してしまえばチームワークが乱れ、場合によっては戦意喪失すると話では聞いている。しかし実際にひっきりなしに全員に襲われては、そんな見分けもつく筈もない。
「……全員?」
ふと浮かんだ違和感に思考を止める。
そうだ、群れには必ずボスが存在するはずだ。そのボスが手下と一緒に最前線で戦う? そんなことがあり得るのか?
あれほどの連携をするだけの知性をもった魔獣だ。しかし奴らは最低限の連携をするだけで全員が目の前の得物に闇雲に突進してきた。勿論、ただ凶暴な性質だったという可能性はある。
しかしだ。
もしも、最初からあの中に群れのボスがいなかったとしたら?
剣を拾い、即座に耳を地面に当てる。感覚を尖らせれば、微かに遠くから響く音。それは確実にこちらに近づいている。しかも音から察するに猛スピードで。
――ヤバい。
一瞬で心が冷える。
音からして、明らかに先程までの魔猿よりも巨大な『何者か』がこちらに向かっている。少なくとも、今この状態で戦えるような相手では絶対にあり得ない。
そうなれば一瞬が惜しい。飛び起きて身を翻し木々の濃い方へと飛び込み姿を隠せそうな場所を探す。下手に逃げ回って他の魔獣に見つかるよりは、この近くに潜んだ方がマシだ。幸い気配を殺すのは苦手ではない。
鬱蒼とした森林の草むらの中に飛び込み、うまい具合に見つけた地面の窪みへと身を半分埋める。そして気配遮断。もはやその頃には地に耳を当てるまでもなく、『何者か』の足音は大きく空気を震わせていた。
草むらの僅かな隙間から先程までの場所を覗く。音は地を震わせるほどになり、ついにその主が姿を現す。
「――――――……っ!!?」
乱れかけた気配を必死で押し殺す。それでも僅かに息が漏れるのは止められなかった。
この仕事を始めてから、驚きに出会うことはそれなりに多かったように思えるが、ここまでの衝撃を受けたことは早々無い。
今、先程まで戦いの場にその姿を晒しているのはトラルエイプの特徴を持った魔獣。しかし、明らかに先程までの魔猿とサイズが異なる。
通常のトラルエイプは人間の成人男性と同じかそれよりも少し大きいくらいだ。だが目の前のそれは背丈は優に通常の三倍を越え、腕や足の太さはもはや大木の幹と違いがない。
白銀の毛は一本一本がもはやサーベルの刀身のようで、後ろ髪にあたる部分は長く伸びている。
群れの長に当たる個体は体毛などの一部分に特徴が現れるというが、あんなもの無くても一目瞭然だろうに。
巨大な群長はギョロリとした鈍色の瞳で周囲を舐めるように見回し、仲間たちの成れの果てを確かめる。
そして身を震わせたかと思うと大きく息を吸い胸を膨らませた。尋常でなく胸部が膨れ上がったその奇怪な姿はもはや悪趣味なオブジェのようだ。
呑気にそんなことを考えながらも、次の瞬間に起こるであろうことに思い至って慌てて耳を塞ぐ。
『ホキョオオアアアアアアアアアアアアアアアアアオアオオアオアオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!』
もはや物理的な衝撃すら感じられる程の咆哮。
思わず後ろに下がりそうになる身体を無理やり意志で抑えつける。
大丈夫、居場所はバレていない。このまま隠れていればやり過ごせるはずだ。
魔猿は手下を殺された怒りからか周囲の木々や地面にその拳を振るう。樹齢100年は軽く越えるであろう巨木がまるで小枝の如くへし折れ、岩混じりの強固な大地が薄氷のようにヒビ割れめくれ上がる。
その光景に肝を冷やしながらも、奴には見つかっていないという確信を深める。これならば何とかなるはずだと。
巨大トラルエイプは一通り辺りを破壊し尽くすとようやく理性を取り戻してきたのか再び頭を上げて首を左右に振る。
そして、こちらとは真逆の方向に身体を向けてゆっくりと歩き出した。
(……諦めた?)
何はともあれ、こちらに向かっていないのであれば窮地を乗り切ったということだろう。あんなもの、今の自分が相手できるような敵ではない。それなりに腕は磨いているつもりだが、それでも分相応というものがある。情報を持ち帰って王都辺りの上位パーティーに任せる他にない。
(……巣に帰るんじゃないのか?)
だとすれば、今来た方向に帰るのが自然だろう。だが奴が今向かっているのは明らかに来たときとは違う方角だ。拠点を移動するつもりだろうか。自分の群れが壊滅したのだからそれが無いともいえないが……。
いや待て。
仲間を皆殺しにされたのだ。怒りという感情も明らかに存在している。それなのに、あれほどの力を持つ長が何もせず帰るなどある筈がない。ではなんだ。
決まっている。復讐しかない。
気配は完全に殺している、体臭もクアラの果汁で上書きしている。しかし、先程までの戦闘の痕跡は消せない。
殆ど魔法で消し飛ばされているだろうが、それでも刻印や自分の流した血の跡は残っているはずだ。
つまり、『人間』が敵対者だと奴は認識しているのだろう。
だとすればだ。復讐の対象は『人間』になる。そして今奴が向かっているのは南東。その先にあるものは。
「あれ、これヤバくない? こっち来てない?」
「間違いなく来てる。ルシャの結界で気付かれてはないけど」
「踏まれちゃいますよね!? ぷちって! ぷちって!!」
結界内で音が漏れないことをいいことに上位冒険者チーム『ジャッククラウン』はぎゃあぎゃあと騒ぐ。
ただでも巨大なトラルエイプの出現で度肝を抜かれたところに、完全に隠密しているはずの自分たちの方へと向かってその巨大魔猿が歩いてきているのだから無理はないのだが。
「……やるか」
「横取りにならない?」
「いや、あのチビも逃げてるしセーフだろ」
「毛皮を剥ぐのが面倒そうね」
それでも巨大な猿如きで怯む一同ではない。それぞれの得物を構え、冒険者達に気付く様子の無いトラルエイプに不意打ちの一撃を叩き込もうと最適の距離まで近付いてくるのを軽口混じりに待つ。
だが、最初の一撃は誰もが予想外のタイミングで放たれることになる。
『漆黒、
遠方から短節詠唱と共に空を貫いたのは漆黒の閃光。
不意の一撃は見事に魔猿の後頭部を捉える。
突然の衝撃にその巨体を揺らがせ、そのまま倒れ込むかと思われた魔猿は反対の足を踏み出すことで身を支える。長く伸びた体毛が兜の役目を果たし、閃光は命を穿つには至らなかったらしい。
巨猿が振り返って怒りの咆哮を放つ。だが、もはやその程度で怯む相手ではなかった。
魔法の発動とほぼ同時に飛び出していた少年は、咆哮の衝撃に怯むこと無く巨猿の足下へと潜り込み跳躍、その勢いのまま全身のバネを用いてフルスイング。トラルエイプの急所、脇の下へと斬撃を叩き込む。
通常の魔猿であれば間違いなく即死の一閃。
しかし相手が悪すぎた。
堅牢な鎧と化した毛皮は少年の剣閃を鈍い金属音と共に弾き返す。
それでも少年は先の一撃で相手の防御力を理解していたのだろう。動揺を一瞬で抑え込むと、空中で身体を捻り体勢を整え光る指先で空中に印章を描く。
次の瞬間放たれる黒色の魔弾。先程の斬撃と寸分たがわぬ部分へと叩き込む。
効果は果たしてどれだけあったのか。ひび割れた体毛がぱらぱらと零れ落ちる。しかしダメージを負った様子はなく、魔猿はその巨腕を振りかざし、少年へと叩きつけた。
避けるすべもなく、拳と比してあまりに小さな身体は無残に地を跳ねて転がっていく。
「助けます!!!」「行く!」
その瞬間結界から飛び出そうとした桃色髪の女性と銀髪の少女の行く先を疵だらけの太い腕が塞ぐ。
「どうして!!」「止めるな!」
「まだ終わってない」
必死の顔で叫ぶ女二人と対照的に落ち着いた声音で大剣の男は制する。
二人が振り返れば確かにその先には立ち上がろうとする少年の姿がある。人差し指を立て、ちょいちょいと鈎状に曲げてみせる。
明らかな挑発の仕草。
だがその足元は演技ではなくフラつき、顔には苦痛の色が浮かんでいる。
いかに魔法で強化された身体といえど、先程の一撃で無視出来ないダメージを受けているのは明らかだった。
瀕死と言っても過言ではないような状態。とても戦えるコンディションではない。
元よりあれだけの戦闘の後なのだ、今そうして少年が立っていることが奇跡と言える。
「どう見ても限界です! これ以上は無理です!!」
「見殺しにする気?」
女性と少女の剣幕は凄まじく、これ以上邪魔をするなら排除してでも助けに行くという意志が透けて見えた。
それでも大剣の男が引く様子はない。
「――それくらいにしておきなさい」
そこで水を差したのは金髪の女性だ。その視線は同性の二人を窘めるようにしている。
「あの子供は死にたくなければ隠れていればよかった。出てきたのなら、相応の覚悟の上でしょう。余計な手出しは無用よ」
「でもっ……!」
桃色髪の女性もその言い分は理解出来るのだろう。
しかし、実際に血を流している少年の姿を見ては静観に納得も出来ない。歯がゆそうに唇を噛み締めて、少年の方を見据える。
「……次は問答無用で出る」
「わ、私もです!」
苦虫を噛み潰したような少女の宣言に女性も乗る。しかし、それは次の一撃を少年が受けるまでは見守るという宣言に他ならない。果たしてその時、本当に間に合うのか。それは祈るしかなかった。
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