第二章 花咲く夢幻の子守唄_2




 空のやみあわぐんじように染まりはじめたころ、軒車は粤の城門を通った。

 あかがわらの屋根がひしめく紅とは違い、この小さな都に連なる家々の屋根は黒瓦だった。

 天に向かって反るが美しいろうを過ぎて、ゆるやかな石だたみの坂道を行くと、樹木に囲まれた小高いおかの上に、しろしつくいじようへきが見えてきた。

「……あれが白和園だ」

 そう言った冬輝のまなしは、どこまでも険しい。うすもやに包まれた城楼が目前になり、ゆっくりと軒車がまった。

「すぐに紅にもどるから、おまえたちはてろ」

 武官たちに命じた冬輝とともに、楓花は純白の城楼をくぐった。とたんに目に飛び込んだのは、雑草が乱雑にしげった庭園の先に建つ、げてち果てたきゆうの成れの果てである。

 楓花は立ちすくんだ。黒瓦の破風は崩れ、燃えきた柱はかしいでおり、いたるところに矢がさったままだったからだ。それはまるで、戦の後のよう──。

「代々の皇太后が愛した場所だ。粤の〝しろちよう〟って呼ばれててな。本当にきれいだった」

 冬輝の横顔が、いつしゆんだけもんにゆがんだ。間違いない、これは動乱のきずあとだ。

「……いったい、なにがあったんですか」

「悪い、いまは答えたくない。それについては、かないでくれ。話すのは、まだ辛くてな」

 そう言った冬輝は、いまにも泣きそうな顔で無理に笑った。痛々しい笑顔があまりに切なくて、よほどのことがあったのだと楓花はさとった。それでもこの人は、いつしよに来てくれたのだ。

「なにも知らないで、見たいだなんて言ってごめんなさい」

「いいんだ。きみのせいじゃない。それに実は俺も、久しぶりに見たいものがあったからな」

 強がるようにニッと笑うと、楓花の前を歩き出す。冬輝の口調から察するに、何度もここへ来たことがあるらしい。そのしように、歩く足取りに迷いがない。

 庭園を横切る小川だけが、むなしくせせらいでいた。城楼から続く橋をわたりながら、楓花は辺りを見まわした。冬輝の言うように、きっと美しい場所だったのだろう。しかし、その名残なごりはもうどこにもない……。

(……ううん、あるわ──見つけた!)

 楓花は急いで橋を渡りきり、小川のそばで雑草にまみれてく花々に近づいた。ふっくらとしたたおやかな純白の花弁──たんだ。うすやみに目をらしていると、数は少ないものの、ちらほらと咲いている。人の手が加わっていたら、庭園の一面に咲きほこっていたことだろう。

 さらに、みずみずしい新緑の葉の間に、小さな白い花弁を風にそよがせて、すずやかなかおりを放っている花が目に留まる。けなげにこの場所を守ろうとしているそれは……。

(……まつも咲いてる!)

「白い牡丹や茉莉花が、いまよりももっとたくさん、咲いていたんですよね」

「ああ。いまごろの季節はな」

 楓花はまぶたを閉じて、純白の花々が咲き誇る庭園の光景を想像した。ゆるやかに流れる風と遊ぶ花々。枝葉をらす木々──。

「〝白蝶〟と呼ばれていたのは、庭園の花々が白かったからですか?」

「そうだな。それと、あそこのはくようきゆうそのものだ。かべの白漆喰がしによくえて、白い羽を広げる蝶のようだと思った誰かが名付けたんだろう」

 楓花は時間をかけて周囲を眺めた。空が白みはじめたおかげで、闇にまぎれていた景色がはっきりしていく。それとともに、白陽宮の痛々しさがあらわになっていった。

 何も知らない楓花が見ても、胸がめ付けられる光景なのだ。冬輝であればその何倍も、苦しい思いにかられているはずだ。

(無知ってこわいな。じやに〝見たい〟なんて言えるんだから。そのせいで、冬輝さんを苦しめてる。いまさらこうかいしてもおそいけど……わたしの鹿!)

 落ち込みそうな気持ちが、ため息になる。何度も嘆息した楓花がふとり返ると、冬輝は城壁に向かって歩きはじめていた。と、なぜか城壁が崩れている場所で立ち止まる。どうしたのかと楓花がいぶかしんでいると、こちらを向いた冬輝が声を上げた。

「来いよ、楓花! いいものを見せてやる!」

 きっとそれが、冬輝が見たいと言ったものなのだろう。楓花はすぐにけ出して、冬輝を追いかけた。

「な、なんですか?」

 追いついたものの息が上がってうつむき、胸に手を当てながら深呼吸をしたときだ。

「見ろ」

 顔を上げた楓花は、眼下に広がる景色を視界に映した。

 黒瓦のひしめく町並みの向こうから、黄金こがねいろの光がのぼってくる。そのかがやきが屋根を照らし、黄金の平原へと染めはじめたのだ。

「──わっ、うわぁっ、すごい……!」

「だろ? ガキのころは白陽宮の楼に上がって、よく見たもんだ。わざわざ早起きしてな」

 ここで暮らしたという熙龍帝も、いま楓花が見ている同じ光景を目にしていたのだ。

「……陛下がここを思い出の場所としたのは、きっと、楽しかったからですよね」

「そうだな。たぶん……一番幸せな頃だったんだろう。俺にとってもそうだったからな」

 日射しに目を細めた冬輝の横顔もまた、黄金の光に包まれていく。

「こいつが、ずっと見たかった。でも、どうしても来る勇気がなくてな。陛下もそうなんだろう。よくわかる。けど、俺はきみのおかげで来られた」

 そう言って、冬輝はやっと晴れ晴れと笑ってくれた。

「きみの茶で、陛下をここへ連れて来てやってくれ。昔の、きれいだった頃のここに」

 楓花の胸に、熱い思いが込み上がった。その願いは──絶対にかなえたい!

「なにがなんでも、全力でそうします」

 楓花はすがすがしい空気を、思いきり吸い込んだ。そうしてから振り向いて、ふたたび庭園を視界に入れた。朝日に輝く花々が、たしかな輪郭となって楓花の目に飛び込んできた。ほかにもまだ、咲いている花があるようだ。駆け出して近づいた楓花は、無数の花弁に包まれた白い花を、ばした指先でたしかめるようにでた。

(これは──!)

「そういや、そいつがどの花よりも多く、辺り一面に咲いていたな。どうだ、楓花。茶葉は決められそうか?」

 冬輝にそう問われて、振り返った楓花はみを見せて答えた。

「──はい。決めました」





 その日の午後、楓花たちはなにごともなく皇都に着いた。

 ぼうに戻った楓花は、冬輝たちの労をねぎらうために、心を込めてモーリーホアちやれた。一口飲んだ翼仁は目を丸めて「おいしい!」とはしゃぐ。もくな武官はまじまじとちやはいを見つめ、冬輝はうっとりと息をついた。

 三人に何度も礼を伝えた楓花は、ふと思いつき、たなの引き出しから小さなふくろを取り出して、冬輝に差し出した。

「ん? なんだこれ」

「使った茶葉をかんそうさせて作った香り袋です。これを、陛下に渡してもらえますか」

 はぎれで作ったてのひらにのる小さな袋のがらは、ぐうぜんにも白蝶だった。ニヤッとした冬輝は、それを鼻先に寄せた。

「……へえ、いい香りだな。これは……いま飲んでる茶のにおいか?」

「はい、茉莉花茶の茶葉です。それをまくらもとに置いたり、衣服の間に入れたりして使うんです。欲しがる人にあげているものだし、はぎれを使ったものなので、陛下はお気にさないかもしれないんですけど、少しでもお気持ちがやわらげばいいなと思って。それに、ちょうど白蝶の柄のものがあったので」

「陛下がいらないっつったら、俺がもらうよ。こいつはいいな、妹が喜びそうだ」

「えっ? 冬輝さん、妹さんがいらっしゃるんですか?」

 楓花がたずねると、冬輝はなぜか半目になった。

「あー……いるんだな、これが。つっても、手のつけられないわがままでな」

「けど、都で一番の美人ですよ、しゆんようさんは! それに、まいの名手です!」

「わっ、てき! じゃあ、まんの妹さんですね!」

 翼仁の言葉に続いて楓花が小さく飛びねると、冬輝はがっくりとうなだれた。

「その点に関しては俺も認めざるをえないな。けど、舞とつら以外は全部短所だ、まったく!」

 手を焼いているらしい。楓花も兄を思い出した。楓花が走りまわってけがをすると、文句を言いながら手当てをしてくれたものだ。にくまれ口をたたいていても、冬輝が妹思いなことにちがいはないのだろう。兄貴はだしようにもなつとくがいった。微笑ほほえましく思った楓花は棚へ引き返し、ももいろの小花柄の香り袋を手に取って、冬輝に渡した。

「ではこれを、舞の名手で都で一番の美人の妹さんに、ぜひどうぞ」

 冬輝は喜んで受け取り、やがて三人は席を立った。そこで楓花は、冬輝を呼び止めた。

「冬輝さん。今夜のことで、お願いがあるんです。きゆうはこちらで用意しますから、茶杯はなんのしようもない、まっさらな白磁のものをお願いいたします。奨文さんに、そう伝えていただけますか?」

 冬輝は笑顔でうなずいた。

「ああ、任せろ。じゃあな、楓花。今夜、たのむな」

「はい!」

 三人を見送ってから、楓花はとびらを閉めた。

 迷いはない。あの光景、風のかおり、あの朝日。すべてをいつぱいに込めて淹れるそれは、頭痛やめまいもかんしてくれるはなちやだ。

 緑茶や黒茶に混ぜて飲むのもおいしいが、一茶類だけをていねいに──。

(──願いを込めて、丁寧に淹れよう)

 棚の前にしゃがんだ楓花は、下段にある木箱を取り出した。中でひっそりとねむる、きとおったはくガラスの急須を目にすると、小さく微笑んだ。






 よいやみ。白磁の茶杯は用意したと言う奨文にともなわれて、楓花は三度目となる養宝殿に足をみ入れた。花茶葉を入れたちやつぼと茶さじ、ちやきん、木箱に入った急須を布包みにして持ち、奨文の後ろを歩く。

 えつけんの間の扉の前で、冬輝が笑顔でむかえてくれた。だが、その笑みはすぐにくもった。

「陛下が待ってる。けど……昨日とは違って、相当つらそうなご様子だ」

 奨文は同意をしめすように、小さくうなずいてから楓花を見た。

「……陛下の状態は、限界に近い。あなたにたくすしかすべはない」

 楓花は奨文を強いまなしで見返し、大きく深呼吸をした。

「はい」

「開けろ」

 扉が左右に開く。昨夜ゆうべと同じく、熙龍帝は姿を見せて楓花を待っていた。だが、こちらを見上げるひとみえたけもののようにどうもうで、正気を保つ限界が近いことを知らせていた。

(でも、あせらない。ゆっくり、丁寧に淹れなければ)

 たくを前にして、楓花は静かに座った。熙龍帝はなにも言わず、ただまっすぐに楓花を見ている。昨夜と違って言葉を発しないのは、くるいそうな心を押し殺しているからだろう。きんぱくした気配が間にただよい、楓花の肌にもひりひりとさるかのようだ。

 その気配にさらされたとたん、〝俺と奨文しかいない〟と言った冬輝の言葉が、とつぜん頭によみがえった。それと同時に楓花の胸は、息もできないほど押しつぶされた。

 この広いきゆう殿でんの中で、熙龍帝に真の忠誠をちかっているのは、きっと奨文と冬輝の二人だけなのだ。そのうえ、思い出の場所は焼けくずれている。

 そして、いま。熙龍帝自身は、れたとたんに切れてしまいそうな緊張の糸をまとい、精神の限界にあらがっていた。こうなるまでの間には、よほどのことがあったのだ。

 この方はよほどのことを──見聞きしてきたのだ。

 楓花は包みをほどいた。木箱を開けて、急須を卓に置く。にごりのない、まっさらな風合いの急須を見たしゆんかんおどろいたように熙龍帝の瞳がかすかに見開かれた。

 しやくを手にした楓花は、かまから湯をすくい、白磁の茶杯に注いで温める。

 茶壺のふたを開けて、きくの花を日干しにしたろうはくしよくの花茶葉を茶さじですくう。それを見下ろしながら、楓花は生まれてはじめて全身ぜんれいを込めて、このきつちやの花茶葉に願った。



 ──見聞きしてきたことがなんであれ、その苦しみのすべてを乗りえる力を──。

 ──安らぎとはげましを、どうかこの方に──あたえてあげてください。



 急須に、願いを込めた花茶葉を落とした。ふたたび柄杓を持ち、やさしく湯を注いだ。

 たおやかな香りがふわりと漂い、湯の中で花びらがゆったりと開く。

 はらり。ひらり。小さな菊の花が、白和園にく庭園となって、急須の中でげんにたゆたいはじめた。その様を、熙龍帝は一心に見つめていた。

 楓花は茶杯の湯をちやばんに捨てて、急須を持った。くろがわらを黄金に染めたしが光の筋となって、茶杯に注がれる。おだやかな湯気とともに、甘いほうこうはかなげに立ち上った。とたんに、正座をして横で見守っていた奨文の表情が、にゆうにほころんだ。

「菊花茶です。どうぞ、お飲みください」

 楓花は熙龍帝に茶杯を差し出した。しかし、熙龍帝は茶杯を持たない。代わりに奨文を見やると、息も絶え絶えのこわき出した。

「……四つものまなこに見られていると、いまにも乱心しそうだ。奨文、せめてこの者と二人きりに」

ぎよ

 立ち上がった奨文が、間を出て行く。扉がざされた後で、熙龍帝は茶杯に視線を落とし、ためらいがちに指先をばした。両手で持つとまぶたを閉じ、意を決したようにくちびるへ寄せた。

 ──すっ。

 のどへ流した瞬間、熙龍帝は長く深く息を吐いた。それはまるで、身体からだ中に巣くったき物を解き放つかのようだった。

 ふたたび飲み、また息をつくと、今度は口元に笑みが広がる。熙龍帝はなにも言わずに、時間をかけてゆっくりと味わい、そのたびに急須を見つめ、何度もいきをもらした。

 そうしてやがて、飲み干した茶杯を置いた。

 目を閉じた熙龍帝は、座卓に両手をえたままうつむき、地の底まで伝わりそうなほど深くたんそくした。しばらくどうだにせずにいると、そのうちにゆるりと顔を上げ、静かにまぶたを開けて楓花を視界に入れた。

「──見事」

 最高のめ言葉である。喜びに満たされるのを感じながら、楓花はやっとの思いで言った。

「身に余る光栄です」

「……どこで覚えた?」

「どこで、とおっしゃいますと?」

 急須に視線を移し、熙龍帝はか細い声を放つ。

「……菊花茶は、飲んだことがある。だが、あなたのれた茶の味はそれとは違う。しかも、白瑠璃の急須ははじめて見た。このように淹れることを、あなたはどこで覚えたのだ」

ぼうあるじでもある師から、教えてもらいました」

 楓花を見た熙龍帝は、かすかに口のはしを持ち上げた。

「真の才を持つ者は、良い師にめぐまれる。あなたにはそれがあるのだな」

 またちんもく。伝えるべき言葉をさぐるように、熙龍帝は楓花をうわづかいにした。その瞳には、そうめいかがやきがかすかに宿りはじめていた。

「……黄金に染まる、黒瓦の光景。ずっと見たいと思っていた。しかしそれは、庭園に菊が咲きほこっていた、過去のあの場からながめる光景であって……いまではない。それをあなたは、茶で見せてくれたのだな。俺に」

 ふたたび急須を見つめると、熙龍帝は独り言のようにささやく。

「……こうして眺めていると、心からあんする。茶は、目でも楽しむものなのか。また一つ、あなたに教えられた」

 思いがけないその言葉に、楓花の胸はいっぱいになった。熙龍帝を見つめることしかできずにいると、やがてその瞳がとろりと細められた。

「……なにより、あなたの淹れる茶の味には、奥行きがある。胸の奥に押しやっていた、思い出を蘇らせる力のような。ほのかな光の世界……そのようなものを、うまの奥に感じた」

 ささやくような声音をもらしながら、熙龍帝のまぶたが眠たげに閉ざされていく。

「……あの楽しかったころじゆんすいさが、もどる思いだ。まつなことなどなにもかも忘れて、はしゃぎまわっていた子どものようなじやな力が、みなぎってくるような。まさに夢見心地ごこち……」

 まぶたが重たげに落ちていく。うつむき、小さくあくびをした──瞬間。

「……眠い」

 ふっ、と全身の力がけたかのように、まぶたを閉じた熙龍帝の身体が、ぐらりとかたむいた。

(──あっ!)

 とっさにこしを上げた楓花はそばへけ寄って、熙龍帝の身体をきとめた。

「へ、陛下……!?」

 楓花のかたに頭をあずけた熙龍帝は、口元にみをかべたまま、うっすらとしたいきをたてていた。

(えっ! う、うそ……寝ちゃった……?)


 つややかなくろかみが、楓花の指先をくすぐる。仮面がほおに触れるほど近い。その奥のまつげの長さに気づき、楓花の胸はぐんと高鳴った。熙龍帝の袍から、上質なびやくだんこうにおい立つ。

(……いいかおり……じゃなくって!)

 どんどんと熙龍帝の身体の重みが増していく。どうやら本当に、眠ってしまったらしい。

 楓花はなんとか力を込めて、熙龍帝の身体をかかえ直し、その場に横たわらせようと試みた。けれど、みがき上げられたいたどこがやけにすべってうまくいかず、うっかりぺたんと座ってしまう。その足に熙龍帝の頭をのせた体勢で、あろうことか落ち着いてしまった。

(ど、どうしよう……)

 いまや楓花の足は、熙龍帝のまくらと化していた。

「あっ……あのっ、奨文さん……冬輝さんっ……」

 熙龍帝を起こさないよう、声をひそめて呼びかけてみるも、返事はない。もう一度声を出そうとした寸前、熙龍帝の頭が心地よさげにかすかに動く。息を止め、ぎゅっと身体に力を入れて固まった楓花は、そのとき熙龍帝のそでぐちからなにかが落ちたことに気づいた。

 ゆかに落ちたそれは、楓花がおくった香りぶくろだった。

(──あ。持っていてくれたんだわ!)

 おだやかな寝息をたてる熙龍帝を、楓花は見下ろした。けっして高価なものではないそれを、はだはなさずに持っていてくれたのだ。

 まるで、正気を保つための、お守りを持つように。

「……な……んと……!」

 いつの間にかとびらを背にして立っていた奨文が、あ然として言った。その横に立つ冬輝も目を見開いて固まっている。身動きのできない楓花は、武官の訓練を受ける新人のごとき姿勢のよさで、まゆを八の字にさせながら言った。

「ね、ねむってしまわれました。それであの……た、助けてください……っ」






(……終わった)

 奨文と冬輝から、重ね重ね礼を告げられながら、楓花はその夜茶房に戻った。大役を見事に果たしたというのに、心にぽっかりと穴が空いたようなこの感覚はなんなのか。

「とにかく、終わっちゃったんだもの。もう、あそこへ行くこともないわ」

 それに、熙龍帝に会うこともないのだろう。その事実に、なぜだか深いため息がもれて、に腰かけたままぼんやりとしてしまう。

「本当はどんな人なんだろ。もっと……話してみたかったな」

 そう思ったところで、楓花はいつもの日常に戻ったのだ。地道な人生計画を、続ける日々にかえったのである。

 そう信じきっていた、五日後。

 店を閉めるために楓花がのきさきに出ると、いましも店内に入ろうとしていた様子の奨文に、とつぜん出くわしたのだ。

「わっ! し、奨文さん!?」

 飛び上がるほどおどろいた楓花は、奨文の姿がまぼろしではないだろうかと、何度もまばたきをした。

「店じまいのところ、申し訳ない」

 しゃべった! 幻ではないらしい。あわてて店内に奨文を招き入れ、椅子に座らせる。どうしたのかと楓花がたずねると、奨文はため息交じりに答えた。

「あなたにいただいた花茶葉を淹れているのだが、陛下がそれを飲まれないのだ。二度ほど飲まれたきりで、それ以後は手もつけずにけてしまわれる。陛下自身はなにも言わないが、たぶん、あなたの淹れた茶でなければ、お気にさないのだろう」

「えっ? じゃあ、陛下はまた眠っていらっしゃらないんですか!?」

「以前よりは眠っておられるが、あなたが茶を淹れてくれた夜のような、長く深いすいみんはとられていない」

 それを聞いてほっとしたものの、わからない。どうして飲まれないのだろう?

「おわたしした花茶葉は、わたしがれたものと同じです」

「わかっている。だが、私やによかんの淹れた茶とあなたの淹れた茶では、味のちがいもさることながら、あきらかになにかが違うのだろう。私にはわかる」

 しんみようおもちで、奨文は楓花を見た。

「ほかのだれにも成せなかったことを、あなたは果たした。あなたは見事に、長く苦しんだ陛下の願いをかなえたのだ。誰にでもできることではない」

 奨文の言葉にうそひびきはなかった。純粋に、心からそう思ってくれているらしい。

「……正直なところ、私は茗聖の生まれ変わりなど信じてはいない。だからあなたのことも、叔父おじうえのように生まれ変わりだなどとは、もちろん考えてはいない。しかしあなたには、茗聖にひつてきする茶師の素質があるかもしれないと、私は思いはじめている」

「そっ、そんな……いくらなんでもめすぎです!」

 慌てる楓花を見て、いつしゆんだけ小さく笑んだ奨文は、うでを組むとうつむいた。

「……このようなことをあなたに話すのははばかられるのだが、陛下の政務の量はじんじようではないのだ。私はせんていにも仕えていたが、その数倍は働いておられる。たみに課す税はそのままで財源を確保するには、だいたんに切り込まねばならぬ場があってな。この半年、そこにぶら下がる権力者をせるのに、多大な努力をしておられた。それ以外にも多くのことを成しておられる。私はそれを、そばで見ていた。眠れなくなるのも、当然だったのだ」

 難しい政治のことは、話されても楓花にはわからない。けれど奨文の言葉で、一国の皇帝が背負う重荷のへんりんは想像できた。

 龍国は、いくつもの戦乱の果てに五国が統一された大国である。熙龍帝は、その頂点に君臨しているのだ。あらためてそのことに気づかされて、楓花は胸の高ぶりを感じた。

(わたしはその方に、お茶を淹れたんだわ。しかも、足を枕にされて……!)

 いまさら、いたたまれない思いにおそわれてきた。しかたがなかったとはいえ平民のむすめが、陛下の頭をこの足にのせてしまったからだ。

(……どうしよう。深く考えたことなかった!)

 頭を抱えてしまいたい! そんなしようどうふるえる楓花を見て、奨文がけげんそうに言った。

「どうした、楓花?」

「な、なんでもありません……っ」

 自分の足を枕にしたことなど、眠っていた熙龍帝は知らないはずだ。心の中でなんとかそう自分に言いふくめていると、奨文が静かに言った。

「楓花。また、陛下に茶を淹れてはもらえないか」

 思いもよらなかったその申し出に、楓花のどうはどくんと大きくねた。

「あなたの淹れた茶でなければ、陛下は安らぐときを過ごせない。陛下は言葉にされないが、同じことを願っているのではないかと私は思う。だから来たのだ」

 そう言うと、奨文はふっと微笑ほほえんだ。

「あなたにいただいた香り袋を、常にそでにひそませているのがしようだろう」

「あれを? 陛下はまだ、持っていてくださっているんですか?」

 奨文はうなずいた。楓花の思いに迷いはなかった。これをのがすわけがない!

「お店を閉めた後でもよければ、もちろんです。ぜひ、お茶を淹れさせてください!」

 熙龍帝のことを知れば、なにがあったのかもいずれわかるかもしれない。それを知ったところで、自分になにができるのか、楓花自身にもよくわかってはいなかった。けれど心は、いやおうなしに浮き立ってくる。

(陛下に──また会える!)

 茶をいつぱいくれと奨文にねだられて、楓花は天湖龍井茶を用意した。湯気の立つちやはいを差し出すと、奨文はそれを両手で包みながらささやいた。

「……少し、叔父上のように信じてみたくなる……」

 はい? と楓花が聞き返すと、奨文はたんせいな横顔に、意味深な笑みを浮かべた。

「いや、なんでもない」

 そうつぶやくと口をつぐみ、茶杯を口に寄せた。





※カクヨム連載版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。

続きは本編でお楽しみください。

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流星茶房物語 龍は天に恋を願う/羽倉せい 角川ビーンズ文庫 @beans

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