第二章 花咲く夢幻の子守唄_2
空の
天に向かって反る
「……あれが白和園だ」
そう言った冬輝の
「すぐに紅に
武官たちに命じた冬輝とともに、楓花は純白の城楼をくぐった。とたんに目に飛び込んだのは、雑草が乱雑に
楓花は立ちすくんだ。黒瓦の破風は崩れ、燃え
「代々の皇太后が愛した場所だ。粤の〝
冬輝の横顔が、
「……いったい、なにがあったんですか」
「悪い、いまは答えたくない。それについては、
そう言った冬輝は、いまにも泣きそうな顔で無理に笑った。痛々しい笑顔があまりに切なくて、よほどのことがあったのだと楓花は
「なにも知らないで、見たいだなんて言ってごめんなさい」
「いいんだ。きみのせいじゃない。それに実は俺も、久しぶりに見たいものがあったからな」
強がるようにニッと笑うと、楓花の前を歩き出す。冬輝の口調から察するに、何度もここへ来たことがあるらしい。その
庭園を横切る小川だけが、むなしくせせらいでいた。城楼から続く橋を
(……ううん、あるわ──見つけた!)
楓花は急いで橋を渡りきり、小川のそばで雑草にまみれて
さらに、みずみずしい新緑の葉の間に、小さな白い花弁を風にそよがせて、
(……
「白い牡丹や茉莉花が、いまよりももっとたくさん、咲いていたんですよね」
「ああ。いまごろの季節はな」
楓花はまぶたを閉じて、純白の花々が咲き誇る庭園の光景を想像した。ゆるやかに流れる風と遊ぶ花々。枝葉を
「〝白蝶〟と呼ばれていたのは、庭園の花々が白かったからですか?」
「そうだな。それと、あそこの
楓花は時間をかけて周囲を眺めた。空が白みはじめたおかげで、闇に
何も知らない楓花が見ても、胸が
(無知って
落ち込みそうな気持ちが、ため息になる。何度も嘆息した楓花がふと
「来いよ、楓花! いいものを見せてやる!」
きっとそれが、冬輝が見たいと言ったものなのだろう。楓花はすぐに
「な、なんですか?」
追いついたものの息が上がってうつむき、胸に手を当てながら深呼吸をしたときだ。
「見ろ」
顔を上げた楓花は、眼下に広がる景色を視界に映した。
黒瓦のひしめく町並みの向こうから、
「──わっ、うわぁっ、すごい……!」
「だろ? ガキのころは白陽宮の楼に上がって、よく見たもんだ。わざわざ早起きしてな」
ここで暮らしたという熙龍帝も、いま楓花が見ている同じ光景を目にしていたのだ。
「……陛下がここを思い出の場所としたのは、きっと、楽しかったからですよね」
「そうだな。たぶん……一番幸せな頃だったんだろう。俺にとってもそうだったからな」
日射しに目を細めた冬輝の横顔もまた、黄金の光に包まれていく。
「こいつが、ずっと見たかった。でも、どうしても来る勇気がなくてな。陛下もそうなんだろう。よくわかる。けど、俺はきみのおかげで来られた」
そう言って、冬輝はやっと晴れ晴れと笑ってくれた。
「きみの茶で、陛下をここへ連れて来てやってくれ。昔の、きれいだった頃のここに」
楓花の胸に、熱い思いが込み上がった。その願いは──絶対に
「なにがなんでも、全力でそうします」
楓花は
(これは──!)
「そういや、そいつがどの花よりも多く、辺り一面に咲いていたな。どうだ、楓花。茶葉は決められそうか?」
冬輝にそう問われて、振り返った楓花は
「──はい。決めました」
その日の午後、楓花たちはなにごともなく皇都に着いた。
三人に何度も礼を伝えた楓花は、ふと思いつき、
「ん? なんだこれ」
「使った茶葉を
はぎれで作った
「……へえ、いい香りだな。これは……いま飲んでる茶の
「はい、茉莉花茶の茶葉です。それを
「陛下がいらないっつったら、俺がもらうよ。こいつはいいな、妹が喜びそうだ」
「えっ? 冬輝さん、妹さんがいらっしゃるんですか?」
楓花が
「あー……いるんだな、これが。つっても、手のつけられないわがままでな」
「けど、都で一番の美人ですよ、
「わっ、
翼仁の言葉に続いて楓花が小さく飛び
「その点に関しては俺も認めざるをえないな。けど、舞と
手を焼いているらしい。楓花も兄を思い出した。楓花が走りまわってけがをすると、文句を言いながら手当てをしてくれたものだ。
「ではこれを、舞の名手で都で一番の美人の妹さんに、ぜひどうぞ」
冬輝は喜んで受け取り、やがて三人は席を立った。そこで楓花は、冬輝を呼び止めた。
「冬輝さん。今夜のことで、お願いがあるんです。
冬輝は笑顔でうなずいた。
「ああ、任せろ。じゃあな、楓花。今夜、
「はい!」
三人を見送ってから、楓花は
迷いはない。あの光景、風の
緑茶や黒茶に混ぜて飲むのもおいしいが、一茶類だけを
(──願いを込めて、丁寧に淹れよう)
棚の前にしゃがんだ楓花は、下段にある木箱を取り出した。中でひっそりと
「陛下が待ってる。けど……昨日とは違って、相当
奨文は同意をしめすように、小さくうなずいてから楓花を見た。
「……陛下の状態は、限界に近い。あなたに
楓花は奨文を強い
「はい」
「開けろ」
扉が左右に開く。
(でも、
その気配にさらされたとたん、〝俺と奨文しかいない〟と言った冬輝の言葉が、
この広い
そして、いま。熙龍帝自身は、
この方はよほどのことを──見聞きしてきたのだ。
楓花は包みをほどいた。木箱を開けて、急須を卓に置く。
茶壺の
──見聞きしてきたことがなんであれ、その苦しみのすべてを乗り
──安らぎと
急須に、願いを込めた花茶葉を落とした。ふたたび柄杓を持ち、
たおやかな香りがふわりと漂い、湯の中で花びらがゆったりと開く。
はらり。ひらり。小さな菊の花が、白和園に
楓花は茶杯の湯を
「菊花茶です。どうぞ、お飲みください」
楓花は熙龍帝に茶杯を差し出した。しかし、熙龍帝は茶杯を持たない。代わりに奨文を見やると、息も絶え絶えの
「……四つもの
「
立ち上がった奨文が、間を出て行く。扉が
──すっ。
のどへ流した瞬間、熙龍帝は長く深く息を吐いた。それはまるで、
ふたたび飲み、また息をつくと、今度は口元に笑みが広がる。熙龍帝はなにも言わずに、時間をかけてゆっくりと味わい、そのたびに急須を見つめ、何度も
そうしてやがて、飲み干した茶杯を置いた。
目を閉じた熙龍帝は、座卓に両手を
「──見事」
最高の
「身に余る光栄です」
「……どこで覚えた?」
「どこで、とおっしゃいますと?」
急須に視線を移し、熙龍帝はか細い声を放つ。
「……菊花茶は、飲んだことがある。だが、あなたの
「
楓花を見た熙龍帝は、かすかに口の
「真の才を持つ者は、良い師に
また
「……黄金に染まる、黒瓦の光景。ずっと見たいと思っていた。しかしそれは、庭園に菊が咲き
ふたたび急須を見つめると、熙龍帝は独り言のようにささやく。
「……こうして眺めていると、心から
思いがけないその言葉に、楓花の胸はいっぱいになった。熙龍帝を見つめることしかできずにいると、やがてその瞳がとろりと細められた。
「……なにより、あなたの淹れる茶の味には、奥行きがある。胸の奥に押しやっていた、思い出を蘇らせる力のような。ほのかな光の世界……そのようなものを、
ささやくような声音をもらしながら、熙龍帝のまぶたが眠たげに閉ざされていく。
「……あの楽しかった
まぶたが重たげに落ちていく。うつむき、小さくあくびをした──瞬間。
「……眠い」
ふっ、と全身の力が
(──あっ!)
とっさに
「へ、陛下……!?」
楓花の
(えっ! う、うそ……寝ちゃった……?)
(……いい
どんどんと熙龍帝の身体の重みが増していく。どうやら本当に、眠ってしまったらしい。
楓花はなんとか力を込めて、熙龍帝の身体を
(ど、どうしよう……)
いまや楓花の足は、熙龍帝の
「あっ……あのっ、奨文さん……冬輝さんっ……」
熙龍帝を起こさないよう、声をひそめて呼びかけてみるも、返事はない。もう一度声を出そうとした寸前、熙龍帝の頭が心地よさげにかすかに動く。息を止め、ぎゅっと身体に力を入れて固まった楓花は、そのとき熙龍帝の
(──あ。持っていてくれたんだわ!)
まるで、正気を保つための、お守りを持つように。
「……な……んと……!」
いつの間にか
「ね、
(……終わった)
奨文と冬輝から、重ね重ね礼を告げられながら、楓花はその夜茶房に戻った。大役を見事に果たしたというのに、心にぽっかりと穴が空いたようなこの感覚はなんなのか。
「とにかく、終わっちゃったんだもの。もう、あそこへ行くこともないわ」
それに、熙龍帝に会うこともないのだろう。その事実に、なぜだか深いため息がもれて、
「本当はどんな人なんだろ。もっと……話してみたかったな」
そう思ったところで、楓花はいつもの日常に戻ったのだ。地道な人生計画を、続ける日々に
そう信じきっていた、五日後。
店を閉めるために楓花が
「わっ! し、奨文さん!?」
飛び上がるほど
「店じまいのところ、申し訳ない」
しゃべった! 幻ではないらしい。
「あなたにいただいた花茶葉を淹れているのだが、陛下がそれを飲まれないのだ。二度ほど飲まれたきりで、それ以後は手もつけずに
「えっ? じゃあ、陛下はまた眠っていらっしゃらないんですか!?」
「以前よりは眠っておられるが、あなたが茶を淹れてくれた夜のような、長く深い
それを聞いてほっとしたものの、わからない。どうして飲まれないのだろう?
「お
「わかっている。だが、私や
「ほかの
奨文の言葉に
「……正直なところ、私は茗聖の生まれ変わりなど信じてはいない。だからあなたのことも、
「そっ、そんな……いくらなんでも
慌てる楓花を見て、
「……このようなことをあなたに話すのははばかられるのだが、陛下の政務の量は
難しい政治のことは、話されても楓花にはわからない。けれど奨文の言葉で、一国の皇帝が背負う重荷の
龍国は、いくつもの戦乱の果てに五国が統一された大国である。熙龍帝は、その頂点に君臨しているのだ。あらためてそのことに気づかされて、楓花は胸の高ぶりを感じた。
(わたしはその方に、お茶を淹れたんだわ。しかも、足を枕にされて……!)
いまさら、いたたまれない思いに
(……どうしよう。深く考えたことなかった!)
頭を抱えてしまいたい! そんな
「どうした、楓花?」
「な、なんでもありません……っ」
自分の足を枕にしたことなど、眠っていた熙龍帝は知らないはずだ。心の中でなんとかそう自分に言い
「楓花。また、陛下に茶を淹れてはもらえないか」
思いもよらなかったその申し出に、楓花の
「あなたの淹れた茶でなければ、陛下は安らぐときを過ごせない。陛下は言葉にされないが、同じことを願っているのではないかと私は思う。だから来たのだ」
そう言うと、奨文はふっと
「あなたにいただいた香り袋を、常に
「あれを? 陛下はまだ、持っていてくださっているんですか?」
奨文はうなずいた。楓花の思いに迷いはなかった。これを
「お店を閉めた後でもよければ、もちろんです。ぜひ、お茶を淹れさせてください!」
熙龍帝のことを知れば、なにがあったのかもいずれわかるかもしれない。それを知ったところで、自分になにができるのか、楓花自身にもよくわかってはいなかった。けれど心は、いやおうなしに浮き立ってくる。
(陛下に──また会える!)
茶を
「……少し、叔父上のように信じてみたくなる……」
はい? と楓花が聞き返すと、奨文は
「いや、なんでもない」
そうつぶやくと口をつぐみ、茶杯を口に寄せた。
※カクヨム連載版はここまでです。お読みいただきありがとうございました。
続きは本編でお楽しみください。
流星茶房物語 龍は天に恋を願う/羽倉せい 角川ビーンズ文庫 @beans
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