第二章 花咲く夢幻の子守唄_1
新月を二日後に
「昨夜とはうって変わり、陛下はあなたの
そう言う奨文こそ、嬉しそうである。
茗聖の生まれ変わりを信じていないのに、奨文は
(でも、いやな人ってわけじゃないわ。それほど陛下のことを思ってるってことだもの)
楓花がそんなことを考えていると、奨文はほくほくと浮かれたような
「
「あっ……いいえ。今夜はお茶を淹れません」
楓花の返答に、奨文は
「なに?」
「時間が残されていないことは、冬輝さんからお聞きしました。
「……質問?」
楓花はうなずいて
「はい。一つだけ」
養宝殿へ通された楓花は、
仮面を着けた熙龍帝が
その手前には、花々の
様子を見るためか、
「いい。やめろ」
熙龍帝にそう言われて、楓花はすぐに居ずまいを正した。真正面にいる熙龍帝を視界に入れたとたんに、どくどくと
仮面に隠された表情の見えない顔──その
「茶師、楓花。まずは、この提案を
突然名前を呼ばれて、楓花は飛び上がりそうになりながら返事をした。
「はいっ、ありがとうございます」
「だが、せっかくの闘茶だ。勝敗の
「わかりました。でも、わたしが茶名を当てたとしても、今夜は陛下にお茶を淹れません」
けげんそうに、熙龍帝は片方の目をきつく細めた。
「……どういうことだ」
「陛下にお
「質問?」
「はい。茶葉を選ぶために、どうしても知りたいことなんです」
熙龍帝は射るような
「……いいだろう。なにを問われても答えてやる。当てられるとはとうてい思えないがな」
そう言うと
「急須にはすでに、俺の選んだ茶葉が入っている。では、はじめよう」
茶杯の湯を茶盤に捨てて、急須に湯を注ぎ入れる。
熙龍帝は注ぎ終わった茶杯を、すっと楓花に差し出した。
大陸茶は
(おかしいな。
熙龍帝を
「いただきます」
楓花は茶杯を口に運んだ。瞬間、独特な
(あっ、一茶類じゃないわ。ほかにもなにか茶葉が混ざってる。しかも、適当に!)
それぞれの茶葉の
茶名を当てさせないためとはいえ、大切な茶葉をこんなふうに、
「
知らないのだ。だから、これをしてはいけないのだと、伝えなければいけない。
だがその前に──まずは当てる!
誰もが顔をしかめそうな味の茶を、楓花はゆっくりと味わった。
(一茶類はやっぱり普洱雲茶だわ。これが強いのかな)
茶を口に
もう一度飲み、暗がりに
時間をかけて、舌に残る味を何度もじっくりとたしかめていく。それとともに、
──
まぶたを開けた楓花は、息をついた。そうして、両手の中の
楓花は茶杯を口に寄せてすべてを飲み干し、それを座卓に置いた。
「茶杯を空にしたな。わからなかったのか」
楓花は口元に笑みを残す熙龍帝を見つめた。
「とても難しかったです。でも、わかりました」
熙龍帝の口元から笑みが消えた。
「……わかった、だと?」
「はい。でも答える前に、無礼を承知で申し上げたいことがあります」
熙龍帝が押し
「いろんな人たちが心を込めて育てて、作っている茶葉は、茶師にとって大切なものです。いま、陛下が淹れてくださったお茶には、その茶葉の旨味が感じられませんでした」
「無作為に配合されると、茶葉の旨味は引き出されません。わたしに当てさせないためであることは、わかっています。だけどもしもそうであれば、配合だけでもほかの茶師に頼んでいただきたかったと思います。闘茶は、おいしいお茶を飲んで楽しむ遊びです。いつかまた、このようなことがあったときは、ぜひそうしてください。お願いいたします」
無言の熙龍帝をまっすぐに見つめながら、楓花は意を決して告げた。
「では、答えます。一つ、雲流州原産の普洱雲茶。次に、弦州原産の
熙龍帝は息をのみ、
「……なぜ、わかった」
「十年学びました。いまも学んでいるところです。そのおかげです」
翠明は
熙龍帝は、食い入るように楓花を見つめながら深く
「……すべて、明察だ」
そう言って口をつぐんだ熙龍帝は、まるで楓花の内面のすべてを探ろうとしているかのように、ちらりとも目をそらさない。そうしてしばらくしてから、重たげに口を開いた。
「無知であった俺への
楓花はひどく
「あれを当てるとはな。あなたの勝ちだ。それに、久しぶりに心が
「えっ! い、いえ……あの、申し訳ありません。どうしてもお伝えしなければと思って」
「謝るな。あなたのおかげで、一つ利口になった」
どうにも
印象が変わっていく。本当のこの方は──いったいどんな人なのだろう。
「約束だ。答えてやる。俺への問いとはなんだ」
険しい眼差しを見つめ返しながら、小さく深呼吸をした楓花は、静かに訊ねた。
「大切にされている、思い出の場所はありますか」
瞳を細めた熙龍帝は、きゅっと右の口角を引くと、
「ずいぶんくだらない質問だな。知ってどうする」
「陛下にお
「なぜだ」
「その場の風景や
「おかしな茶師だな。そのようなこと、できるわけがない」
「やってみなければ──わかりません!」
その言葉は、自分に向けたものでもあった。できるかどうかはわからないが、やるしかないのだ。食い下がる楓花の
「……八歳から、二年間だけ暮らした
直後、奨文と冬輝がはっとしたかのように、絶句したのが伝わってきた。
熙龍帝は楓花に視線を移して見すえた。足の上にのせた両手を強く握った楓花は、大きく息を吸ってから、はっきりと告げた。
「──では、明晩。わたしの淹れるお茶で、陛下をそこへ連れて行ってさしあげます」
熙龍帝が、目を見開く。
楓花は拝礼してから、ゆっくりと立ち上がって熙龍帝に背を向けた。冬輝が
「茶名を全部当てたきみにもびっくりだが、陛下の思い出の場が白和園とは……驚いたな」
「その場所をご存知なんですね?」
楓花の問いかけに、冬輝はなぜか
「ああ……。けど、あんなこと言って、どうするつもりなんだ? 楓花」
「たしかに……これは難題だ」
「その場を実際に見て茶葉を決めたいとあなたは言ったが、白和園はすでにこの世にない」
「──ない! そんな、どういうことですか!?」
奨文と冬輝が、意味ありげに顔を見合わせる。嘆息して答えたのは、冬輝だった。
「半年前に燃えたんだ……まあ、いろいろあってな」
半年前。それは先帝が
平民にとって、その頭上に君臨する
なにがあったのか気にはなるものの、いまはそれよりも優先しなくてはいけないことがある。たとえ離宮そのものがこの世にはなくても、景色、風の
「そこは、ここから遠いのでしょうか?」
「紅を出て南東の都、
奨文はぎょっとし、楓花を見下ろした。
「まさか、行くつもりか?」
かなわなければ、想像力に
「はい。行きます!」
馬を貸してくださいと
「
「いーから、気にすんなって。たった一杯の茶を淹れるために、ここまでする茶師なんていないじゃないか。俺も奨文も、むしろありがたく思ってるんだ。だから、きみのすることならなんでも協力してやるよ。陛下のためでもあるからな」
その語調には、裏も表もない
「冬輝さんがそばにいてくれるから、陛下は心強いですね」
目を伏せた冬輝の笑みが、とたんにどこか
「ああ……まあ、陛下には俺と奨文しかいないからな」
(──え?)
口をつぐんだ冬輝は、
(どういうこと……?)
気になる楓花を
紅の城門を出て南東へ、軒車はひた走る。新月を間近にした空に月はなく、星々が
暗闇の
「こんな深夜に一緒に来てくださって、ありがとうございます」
「いいんですよ。禁軍部隊長のご命令とあれば、いつなんどきでもお供します!」
熙龍帝の護衛にはじまり、
「えっ! 冬輝さんって、部隊長さんだったんですかっ!?」
「
「またまたー、
強いらしい。
一人だけいた──と言った、声を。
静まり返った深夜の平原に、馬の
「──隊長、東に盗賊です」
「盗賊!?」
声を上げた楓花は、ぎゅっと
「心配しなくていい」
そう言った冬輝は、
「僕が始末します!」
「月がない。見えるか」
「なにをおっしゃる。目はもう慣れていますよ、お任せを!」
弓の使い手らしい翼仁は、馬にまたがったまま矢筒から矢を
ヒュン、と矢の飛ぶ音が風に乗る。ドスン、と地面に重い音がたつ。翼仁はこだまする
「なんてすばしこいヤツだ!」
翼仁が声を荒らげたとたんに、騎馬の残党が前方に立ちはだかり、道を
「──クソッ、矢がなくなりました! すみません、隊長!!」
翼仁が叫んだ。
「いい、あとは任せろ!」
「たいしたことない。すぐに終わる」
そう言って軒車を降りると、目前に迫る残党に向けて剣を抜いた──
──スンッ!
冬輝の剣が
──ドスッ。
「さすが隊長──お見事!」
翼仁の声で、倒れたのは残党だとわかり、楓花は
目を開けることができないまま、うつむき続けている楓花に、馭者の武官が
「盗賊は罪人です。
残党を殺さなければ、こちらがやられていたのだ。よくわかっている。わかっているが、十年前に見た光景とどうしても重なる。だから苦しいし、息もできないほど
「これも僕らの仕事です」
馭者の武官に言われて、楓花はしっかりとうなずいて
(……みんな、いつかそのことに慣れて、なにも感じないようになるのかな。冬輝さんがもしもそうだとしたら、なんだか……いやだな)
「──おい。あいつだけでも
「きみはそこで待ってろ」
「あっ! いえ、わたしも……!」
とっさに
情けない思いで、離れた場所で見守っていると、冬輝は息絶えている男の身なりを正してやり、両手を胸の上で重ね合わせた。
「悪いな。あんたもいろいろあってこんなことやってたんだろうが、こっちも死ぬわけにいかなくてな。生まれ変わったらちゃんと生きろよ」
「あー……やっぱりいやなもんだな、こういうのは……」
あ、と楓花はまぶたを開ける。深く
「……さあ、行くか」
冬輝はちゃんとなにかを感じていた。そのことがわかって、楓花はほんの少し
残党に向かって「
(──どうして、争いは起こるんだろう)
いま目にしたものも
いつまでたっても答えは出ないまま、重い気分を引きずって、楓花は軒車に乗り込んだ。
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