第二章 花咲く夢幻の子守唄_1





 新月を二日後にひかえた翌晩。むかえに来た奨文に連れられて、楓花は昨夜と同じようにけんしやに乗り込んだ。すると奨文は常に険しいけんをほぐして、かすかに笑んだ。

「昨夜とはうって変わり、陛下はあなたのとうちやくを楽しみにしているご様子だ」

 そう言う奨文こそ、嬉しそうである。

 茗聖の生まれ変わりを信じていないのに、奨文はうそをついてまで、楓花の淹れた茶を熙龍帝に飲ませようとしていた。褒められたことではないが、奨文のその必死さには、冬輝の思いと同等の重みがある気がした。そして楓花は、ちがいなく奨文に期待されている。だからこそ、態度がこんなにも違うのだろう。

(でも、いやな人ってわけじゃないわ。それほど陛下のことを思ってるってことだもの)

 楓花がそんなことを考えていると、奨文はほくほくと浮かれたようなこわで続けた。

叔父おじうえを連敗させているあなただ。陛下がどんな茶を淹れたとしても、きっと当てるだろう。その後に、茶を淹れてくれるのだろう?」

「あっ……いいえ。今夜はお茶を淹れません」

 楓花の返答に、奨文はみを打ち消してこんわくした。

「なに?」

「時間が残されていないことは、冬輝さんからお聞きしました。あせる気持ちはわたしも同じです。だからこそ適切な茶葉を選びたいので、今夜は陛下に質問だけさせていただくつもりです」

「……質問?」

 楓花はうなずいて微笑ほほえんだ。

「はい。一つだけ」





 養宝殿へ通された楓花は、えつけんの間に入ってすぐ、おどろいて立ちすくんでしまった。

 仮面を着けた熙龍帝がちようを後ろにして座り、楓花を待っていたからである。

 その手前には、花々のりゆうれいしようたくがすでに配されており、あまけるりゆうが刻まれたかまが、の上で湯気を立てている。ちやばんの上には、中は純白、外は細かな文様が折り重なっているしゆいろの茶杯が一個。そして、茶杯とそろいのきゆうも一個。一茶類を淹れるつもりらしい。

 様子を見るためか、ざされたとびらを背にして冬輝が立った。楓花は奨文にうながされて、座卓の前に座す。その場でひれそうとすると、

「いい。やめろ」

 熙龍帝にそう言われて、楓花はすぐに居ずまいを正した。真正面にいる熙龍帝を視界に入れたとたんに、どくどくとどうが脈打ちはじめた。

 仮面に隠された表情の見えない顔──そのひとみはやはりしんに染まっている。しかし、ゆいいつあらわになっている唇の口角は、昨夜とは違い少し上がり気味に見えた。

「茶師、楓花。まずは、この提案をめてやろう」

 突然名前を呼ばれて、楓花は飛び上がりそうになりながら返事をした。

「はいっ、ありがとうございます」

「だが、せっかくの闘茶だ。勝敗の行方ゆくえが必要だろう。だから、今度は俺から提案する。あなたが茶名を当てたならば、あなたのれた茶を飲んでやる。だが、もしもあなたが当てられなければ、すぐに茶房へ帰っていただく。今後いっさい、ここへは一歩も入れさせない。わかったな」

「わかりました。でも、わたしが茶名を当てたとしても、今夜は陛下にお茶を淹れません」

 けげんそうに、熙龍帝は片方の目をきつく細めた。

「……どういうことだ」

「陛下におたずねしたいことがあるからです。だから今夜はお茶を淹れず、陛下に一つだけ質問をさせていただきたいんです」

「質問?」

「はい。茶葉を選ぶために、どうしても知りたいことなんです」

 熙龍帝は射るようなまなしで、楓花をとらえた。

「……いいだろう。なにを問われても答えてやる。当てられるとはとうてい思えないがな」

 そう言うとしやくを持ち、まずは茶杯を温めるために湯を注ぐ。

「急須にはすでに、俺の選んだ茶葉が入っている。では、はじめよう」

 茶杯の湯を茶盤に捨てて、急須に湯を注ぎ入れる。ふたを閉めて急須を持ち、茶杯に注いだ。とたんに、こけむした山間でたき火をしているような香りがかすかにただよった。

 熙龍帝は注ぎ終わった茶杯を、すっと楓花に差し出した。

 大陸茶はせいちやの手順の違いによって、青茶に分類されるウーロンちや、緑茶、ちやはくちやこうちやこくちやの六茶類に分けられている。楓花は茶杯を見下ろした。どことなくとろみがある茶のすいしよくは、しやくどう色だ。茶杯を両手に持ち、今度はゆっくりと香りを嗅ぐ。これはやはり、たいせきはつこうさせた黒茶に分類される茶らしい……が?

(おかしいな。うんりゆうしゆう原産のうんちやみたいなんだけど、このけむたい香りがひっかかる)

 熙龍帝をうわづかいにすると、勝ちほこったかのように口のはしを上げている。ますますあやしい。

「いただきます」

 楓花は茶杯を口に運んだ。瞬間、独特なしぶみと苦さ、舌にからみ付くような甘さが、口の中いっぱいに広がった。

(あっ、一茶類じゃないわ。ほかにもなにか茶葉が混ざってる。しかも、適当に!)

 それぞれの茶葉のうまが、まったく引き出されていない。飲めなくはないが、おいしくはない。茶葉のあいしようがよくないのだ。

 茶名を当てさせないためとはいえ、大切な茶葉をこんなふうに、さくに配合してはいけないのだと、熙龍帝はきっと知らないのだろう。もしも配合したかったのなら、それだけでもほかの茶師にたのんでもらいたかった。そうすればいまのような茶には、ならなかったはず。

みような顔をしてどうした。わからないのか」

 まゆを寄せる楓花に向かって、熙龍帝はさも楽しげな語調で言った。

 知らないのだ。だから、これをしてはいけないのだと、伝えなければいけない。

 だがその前に──まずは当てる!

 誰もが顔をしかめそうな味の茶を、楓花はゆっくりと味わった。

(一茶類はやっぱり普洱雲茶だわ。これが強いのかな)

 茶を口にふくみ、楓花は静かに目を閉じた。舌に残る普洱雲茶の味の奥に、さらにじゆうこうのうこうな、いぶされたような苦みを感じとる。ああ……なるほど、これは難しい。

 もう一度飲み、暗がりにひそむ旨味の名残なごりさぐっていく。燻された渋みに、かすかなそうかいさを思わせる味が、のどを過ぎていく。また飲む。り散らす二茶類の奥に、さらりとした上品な甘さがかくれていた。続けて飲む。うん……混ぜられためいがらは、どうやら三種類らしい。

 時間をかけて、舌に残る味を何度もじっくりとたしかめていく。それとともに、おくしているぼうだいな数の産地と茶名が、とつぷうのように楓花の頭の中をよぎって──。

 ──がつする。

 まぶたを開けた楓花は、息をついた。そうして、両手の中のちやはいを見下ろす。かわいそうに、こんなふうに飲んでもらいたかったわけではないはずなのに。

 楓花は茶杯を口に寄せてすべてを飲み干し、それを座卓に置いた。

「茶杯を空にしたな。わからなかったのか」

 楓花は口元に笑みを残す熙龍帝を見つめた。

「とても難しかったです。でも、わかりました」

 熙龍帝の口元から笑みが消えた。

「……わかった、だと?」

「はい。でも答える前に、無礼を承知で申し上げたいことがあります」

 熙龍帝が押しだまる。きんちようが走り、楓花はさらに背筋を正した。平民の茶師がこうていにもの申すのだ。おそれていては伝えられない。勇気をしぼるために、楓花は足の上でこぶしにぎった。

「いろんな人たちが心を込めて育てて、作っている茶葉は、茶師にとって大切なものです。いま、陛下が淹れてくださったお茶には、その茶葉の旨味が感じられませんでした」

 げきこうされるのはかくのうえで、楓花は言葉をつむいだ。

「無作為に配合されると、茶葉の旨味は引き出されません。わたしに当てさせないためであることは、わかっています。だけどもしもそうであれば、配合だけでもほかの茶師に頼んでいただきたかったと思います。闘茶は、おいしいお茶を飲んで楽しむ遊びです。いつかまた、このようなことがあったときは、ぜひそうしてください。お願いいたします」

 無言の熙龍帝をまっすぐに見つめながら、楓花は意を決して告げた。

「では、答えます。一つ、雲流州原産の普洱雲茶。次に、弦州原産のげんせんしゆう。そして、獅国原産のはくウーロン。以上です。ごそうさまでした」

 熙龍帝は息をのみ、どうもくした。

「……なぜ、わかった」

「十年学びました。いまも学んでいるところです。そのおかげです」

 翠明はやさしかったが、同時に厳しい師でもあった。楓花は十年という歳月をかけて、自分の持っている才能を、ぎりぎりまでけんしてきたのだ。そのおかげで、今日がある。

 熙龍帝は、食い入るように楓花を見つめながら深くたんそくし、りようそでに手を入れた。

「……すべて、明察だ」

 そう言って口をつぐんだ熙龍帝は、まるで楓花の内面のすべてを探ろうとしているかのように、ちらりとも目をそらさない。そうしてしばらくしてから、重たげに口を開いた。

「無知であった俺へのてき、ありがたく聞いておく」

 楓花はひどくおどろかされた。おこるどころか、自分のことを無知と言い放ったからだ。信じられない思いで熙龍帝を見返していると、ふいにかすかにんだ。

「あれを当てるとはな。あなたの勝ちだ。それに、久しぶりに心がき立った。最後にはしかられたがな」

「えっ! い、いえ……あの、申し訳ありません。どうしてもお伝えしなければと思って」

「謝るな。あなたのおかげで、一つ利口になった」

 どうにもうわさちがう気がする。たしかに仮面を着けてはいるけれど、けっして変わり者などではない。むしろ知的だ。そう、冬輝の言ったとおりに。

 印象が変わっていく。本当のこの方は──いったいどんな人なのだろう。

「約束だ。答えてやる。俺への問いとはなんだ」

 険しい眼差しを見つめ返しながら、小さく深呼吸をした楓花は、静かに訊ねた。

「大切にされている、思い出の場所はありますか」

 瞳を細めた熙龍帝は、きゅっと右の口角を引くと、ちよう気味なこわを放つ。

「ずいぶんくだらない質問だな。知ってどうする」

「陛下におれする茶葉を選ぶために、どうしても必要なんです」

「なぜだ」

「その場の風景やかおりを、いつぱいのお茶に込めたいからです」

「おかしな茶師だな。そのようなこと、できるわけがない」

「やってみなければ──わかりません!」

 その言葉は、自分に向けたものでもあった。できるかどうかはわからないが、やるしかないのだ。食い下がる楓花のしんけんな様子に、熙龍帝は目を見張った。するとおもむろに目をせて、うれいをめた眼差しを遠くさせながら、しゆんじゆんしたあとでぽつりと声にした。

「……八歳から、二年間だけ暮らしたきゆう──はくえん

 直後、奨文と冬輝がはっとしたかのように、絶句したのが伝わってきた。

 熙龍帝は楓花に視線を移して見すえた。足の上にのせた両手を強く握った楓花は、大きく息を吸ってから、はっきりと告げた。

「──では、明晩。わたしの淹れるお茶で、陛下をそこへ連れて行ってさしあげます」

 熙龍帝が、目を見開く。みんかげが消えないひとみに楓花を映したまま、どうだにしない。

 楓花は拝礼してから、ゆっくりと立ち上がって熙龍帝に背を向けた。冬輝があわてた様子でとびらを開ける。ろうに出た楓花の後ろに奨文が立つと、冬輝は扉を閉めながら言った。

「茶名を全部当てたきみにもびっくりだが、陛下の思い出の場が白和園とは……驚いたな」

「その場所をご存知なんですね?」

 楓花の問いかけに、冬輝はなぜかかなしげなおもちでうなずいた。

「ああ……。けど、あんなこと言って、どうするつもりなんだ? 楓花」

「たしかに……これは難題だ」

 けんしやで質問の内容を聞いていた奨文は、あごに手をえて思案しはじめた。

「その場を実際に見て茶葉を決めたいとあなたは言ったが、白和園はすでにこの世にない」

「──ない! そんな、どういうことですか!?」

 奨文と冬輝が、意味ありげに顔を見合わせる。嘆息して答えたのは、冬輝だった。

「半年前に燃えたんだ……まあ、いろいろあってな」

 半年前。それは先帝がほうぎよして、熙龍帝がそくした時期と重なる。冬輝が言葉をにごすのは、複雑な事情があって言いたくないからだろう。

 平民にとって、その頭上に君臨するきゆうてい内の動乱は、隠されることが常である。それでも、どこからかなにかがもれて噂にはなる。けれど楓花の耳に入っていたことといえば、せいぜいが新しく即位した熙龍帝についてのことぐらいだった。

 なにがあったのか気にはなるものの、いまはそれよりも優先しなくてはいけないことがある。たとえ離宮そのものがこの世にはなくても、景色、風のかんしよく、香り。周囲を目で見て体感し、まずは茶葉を選ぶことが先決だ。

「そこは、ここから遠いのでしょうか?」

「紅を出て南東の都、えつにある。馬であれば明朝には着くだろう……が」

 奨文はぎょっとし、楓花を見下ろした。

「まさか、行くつもりか?」

 かなわなければ、想像力にたよるしかないだろうと思っていた。しかし行けるきよならば、はじめからそのつもりだったのだ。

「はい。行きます!」






 馬を貸してくださいとたのんだ楓花に、慌てふためいた冬輝と奨文は「一人では行かせられない」と声をあららげた。結果、冬輝ほか二名の武官をともなうおおごとになってしまった。

とうぞくのこととか頭になくて、ぼうなことを言って本当にごめんなさい、すみません!」

 ぼうに帰らずに宮廷を出発した楓花は、軒車にられながら小さくなって頭を下げた。ハハッと冬輝は明るく笑った。

「いーから、気にすんなって。たった一杯の茶を淹れるために、ここまでする茶師なんていないじゃないか。俺も奨文も、むしろありがたく思ってるんだ。だから、きみのすることならなんでも協力してやるよ。陛下のためでもあるからな」

 その語調には、裏も表もないひびきがある。心の底からそう思ってくれているのだ。目つきはしゆんびんけもののようにするどいが、心根はどこまでも優しい。翠明があねはだだとすれば、冬輝は兄貴肌という感じだろう。いつしよにいてくれるだけで、なんだか心強い。きっと熙龍帝もそうなのだろうと思った楓花は、気安さもあってうっかり口にしてしまった。

「冬輝さんがそばにいてくれるから、陛下は心強いですね」

 目を伏せた冬輝の笑みが、とたんにどこかさびしさをただよわせたものに変わった。

「ああ……まあ、陛下には俺と奨文しかいないからな」

(──え?)

 口をつぐんだ冬輝は、うでを組むとまぶたを閉じた。

(どういうこと……?)

 気になる楓花をしりに、冬輝は無言をつらぬく。無理に起こしてたずねるわけにもいかず、楓花はしかたなく視線を外へ移した。

 紅の城門を出て南東へ、軒車はひた走る。新月を間近にした空に月はなく、星々が水面みなものようにやみにきらめく。後ろに見えていたじようへきかげは、見る間に視界から遠ざかっていった。

 暗闇のかいどうはうら寂しく、もちろん人影などどこにもない。たとえ馬に乗れるとしても、こんな道を一人で行けるわけがなかったのだ。あらためて思い知らされた楓花は、ぎよしやの武官と、横を走るの武官それぞれに声をかけた。

「こんな深夜に一緒に来てくださって、ありがとうございます」

 り返った馭者の武官は、もくそうな青年だった。わかっていると言うようにうなずき、すぐに前を向く。騎馬の武官ははつらつとしたふうぼうがらな青年で、幼さの残る笑顔を楓花に向けながら言った。

「いいんですよ。禁軍部隊長のご命令とあれば、いつなんどきでもお供します!」

 熙龍帝の護衛にはじまり、きゆう殿でん内や都の警護をつかさどる禁軍の部隊長だと教えられて、目を丸めた楓花はすぐに冬輝を見た。

「えっ! 冬輝さんって、部隊長さんだったんですかっ!?」

よくじん、照れくさいからやめてくれ。隊長つったって、いまじゃ名ばかりみたいなもんだ」

 じようだんとは思えない、めずらしくぎやく的な声色に、楓花はかんを覚えた。だが、翼仁と呼ばれた馬上の武官は気にしていないようだ。軒車の横を走りながら、ほこらしげに言う。

「またまたー、けんそんなんてやめてください。楓花さん、けんで隊長にかなう人はいないんですよ」

 強いらしい。やさしい武官だとしか思っていなかった楓花は、重ねて心底驚いた。けれど、それを否定する冬輝のささやきを、楓花だけは聞きのがさなかった。

 一人だけいた──と言った、声を。





 静まり返った深夜の平原に、馬のひづめの音だけが心地ここちよく響く。いつの間にかうとうとしていた楓花は、夢うつつをさまよいながらも、その音が増えてこだましているような気がしてまぶたを開けた──直後。きっぱりとした語調で、馭者の武官が言った。

「──隊長、東に盗賊です」

「盗賊!?」

 声を上げた楓花は、ぎゅっと身体からだをこわばらせた。

「心配しなくていい」

 そう言った冬輝は、こしさやに左手を添えて外をにらみすえる。街道の右側、間近にせまさんろくの森から、馬をる無数の影がこちらに向かって来ている!

「僕が始末します!」

 づつを背負った翼仁がさけび、馬のたづなを引くと軒車の後方へまわり込んだ。

「月がない。見えるか」

「なにをおっしゃる。目はもう慣れていますよ、お任せを!」

 弓の使い手らしい翼仁は、馬にまたがったまま矢筒から矢をいて、さつそうと盗賊に向かって行く。心臓が口から飛び出しそうになる思いで、楓花はその後ろ姿を見つめた。

 ヒュン、と矢の飛ぶ音が風に乗る。ドスン、と地面に重い音がたつ。翼仁はこだまするせいとともに迫り来る影を、次から次へとたおしていく。ついに、あと一人。だがこの残党はもうれつな速さで馬を駆らせており、翼仁の矢から逃れていた。

「なんてすばしこいヤツだ!」

 翼仁が声を荒らげたとたんに、騎馬の残党が前方に立ちはだかり、道をふさいだ。軒車の馬がいなないて足を止めた。翼仁はすぐさま矢を放った。その矢が、残党のひだりかたをかすめる。重心をくずした残党の身体がかたむいたしゆんかん、馬に振り落とされて地面に落ちた。身軽になった馬が走り去る。倒れた残党は剣を手にすると起き上がり、こちらに向かって駆けて来た。

「──クソッ、矢がなくなりました! すみません、隊長!!」

 翼仁が叫んだ。

「いい、あとは任せろ!」

 ふるえ上がる楓花の頭は真っ白だった。なにも考えられず、身動きも取れない。振り返った冬輝は、そんな楓花を安心させるためか、無理に作ったようなみをかべた。

「たいしたことない。すぐに終わる」

 そう言って軒車を降りると、目前に迫る残党に向けて剣を抜いた──せつ

 ──スンッ!

 冬輝の剣があざやかに、水平に光った。楓花はとっさにまぶたをきつく閉じた。胸のどうの激しさのせいで、うまく息をすることができない。

 ──ドスッ。

「さすが隊長──お見事!」

 翼仁の声で、倒れたのは残党だとわかり、楓花はむねで下ろす。けれど助かったという思いのほかに、複雑な感情が楓花の胸にき上がり、目になみだがにじんでくる。

 目を開けることができないまま、うつむき続けている楓花に、馭者の武官がたんたんと言った。

「盗賊は罪人です。のがせば次のだれかが同じ目にあいます」

 残党を殺さなければ、こちらがやられていたのだ。よくわかっている。わかっているが、十年前に見た光景とどうしても重なる。だから苦しいし、息もできないほどつらくなる。

「これも僕らの仕事です」

 馭者の武官に言われて、楓花はしっかりとうなずいてこたえた。ときに生きるものの命をうばわなければならない、武官とはなんて大変な仕事だろうとも思う。でも……。

(……みんな、いつかそのことに慣れて、なにも感じないようになるのかな。冬輝さんがもしもそうだとしたら、なんだか……いやだな)

「──おい。あいつだけでもとむらってやろう」

 とつぜんの冬輝の声に、楓花ははっとして顔を上げた。

「きみはそこで待ってろ」

「あっ! いえ、わたしも……!」

 とっさにけんしやから降りた楓花は、地面に横たわるざんりんかくを目にしてちゆうちよし、足を止めた。近づけない。目に焼き付いてはなれなくなりそうだから。

 情けない思いで、離れた場所で見守っていると、冬輝は息絶えている男の身なりを正してやり、両手を胸の上で重ね合わせた。

「悪いな。あんたもいろいろあってこんなことやってたんだろうが、こっちも死ぬわけにいかなくてな。生まれ変わったらちゃんと生きろよ」

 うれいを帯びた声色を放ち、冬輝は両手を合わせて目を閉じた。楓花もその場で目をつぶり、冬輝の言葉と同じことを心の中で何度も伝える。やがて、冬輝がつぶやいた。

「あー……やっぱりいやなもんだな、こういうのは……」

 あ、と楓花はまぶたを開ける。深くたんそくした冬輝と目が合うと、くしゃりとかみにぎりながら、弱々しい笑みを浮かべた。

「……さあ、行くか」

 冬輝はちゃんとなにかを感じていた。そのことがわかって、楓花はほんの少しあんした。だが、苦い思いは深く残る。

 残党に向かって「げて」と叫べばよかったのだろうか。剣を手にした冬輝を押しとどめるべきだったのだろうか。いや、ちがう。そんなことではない。どちらも間違っている気がした。

(──どうして、争いは起こるんだろう)

 いま目にしたものもいくさだ。小さな戦だ。誰もが平等に豊かになれば、とうぞくは減っていき、いずれ消えるのだろうか。そんな世界は、果たしてかなうのか。

 いつまでたっても答えは出ないまま、重い気分を引きずって、楓花は軒車に乗り込んだ。


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