第一章 高級茶葉が招く天命_2
奨文がふたたびあらわれたのは、
楓花は
前を歩く奨文は、向かう先について一言も話さないまま、やがて大きな通りへ出る。そこに
これが天命か
(……まずは落ち着こう。この機会に浮かれたりしないで、きちんと仕事をしなくちゃ)
そう自分に言い聞かせたとき、無言を
「これから見聞きすることは、けっして他言しないように」
「はい。もちろんです」
「あなたのことはすでにその方に伝えてある。それから、あなたに謝らねばならないことが二つある。一つは、あなたに正しいことを伝えなかったこと。それは、ほかに客がいたからだと理解してもらいたい。もう一つは、これからあなたのお会いする方が、あなたを手放しで
その言葉に、楓花の
「……あの! もしかして、わたしがお茶を淹れる方というのは──」
「──主上陛下だ」
(やっぱり──熙龍帝だったんだわ!)
「どうしてわたしなんですか!?」
「
奨文は
楓花が奨文に案内されたのは、庭園に囲まれてひっそりとたたずむ小宮殿、
殿へ続く階段を上りながら、奨文は言った。
「私が話している間、一言も言葉を発さないように」
「わかりました」
奨文が殿内へ入って行く。楓花も後に続いた。
「陛下は薬も漢方茶もいやというほど口にされている。そのどれも効果はなく、〝いずれ
奨文の言葉には、熙龍帝の気難しさが
浮かれるどころか、実際にここまで来てしまうと、
茶師として認められたばかりの、十六歳の自分のはずではなかったからだ。
いつものようにできるだろうか。手が
落ち着くために帯に手を
(……ううん、
それは、茶で願いを
(引き受けたんだから、最後までやりとげる。それに、これは
──そう。茗聖様に近づく、最初の一歩になる!
衛兵が両開き扉を開ける。左右に配された宮灯がほのかに照らす
「ようこそ、流星茶房の楓花」
「あっ……鄭様」
なぜか
「俺も奨文も、名で呼んでくれていいよ」
冬輝のくったくのない
「ついさっきから、陛下の頭痛がひどくなってる。そのせいで、
奨文は顔をしかめる。せっかく消えた
「いや、時間がない。扉を開けろ」
(時間がないって、どうして?)
楓花が理由を訊ねるすきもなく、目前の両開き扉が開け放たれる。うねる流雲を
均等に配された小ぶりの宮灯が、室内を
──この国の皇帝陛下が──熙龍帝が、あそこにいる!
一歩も歩けないほど緊張する楓花の背後で、無情にも扉が閉まった。奨文にうながされながら、なんとか几帳のそばへ向かった楓花は、そこで
「先ほど伝えた茶師をお連れしました。流星茶房の茶師、楓花と申す者です」
「……休めと言った命令を聞かずに、連れて来たのはその者か。まさに茶番だな、奨文。俺にはそこでひれ伏す茶師が、とりたてて
「奨文。その娘が、茗聖の生まれ変わりかもしれぬと言うのは、本当か」
はっとした楓花は、目を見張って顔を上げた。
「はい。その可能性はあると思われ──」
「──い、いえ! 違います!」
言葉を発してはならないはずが、思わず口をついて飛び出していた。
奨文がきつい
「答えが違うな。真実はどちらだ? 茶師楓花、答えろ」
口を閉ざした奨文は、
「そのように言っていただくのは、茶師として光栄です。でもわたしには、そんなふうに思えるちゃんとした自信がありません。自信がないのに、茗聖様の生まれ変わりかもしれないだなんて、言えません」
「……では、違うのだな?」
「はい。わたしは、茗聖様を目標にしている茶師です」
楓花が迷いなく答えると、几帳の向こうからクスクスと、
「……目標か。ならば、あなたのような茶師は
「いえ──陛下! せめて
奨文が声にしたときだった。すっ、と几帳の
(──えっ!)
楓花は
(──仮面!?)
まばたきも忘れて、楓花は仮面の熙龍帝を見上げた。
そう見えるのは、室内を照らす宮灯のせいだろうか──いや、違う。
──
身動きが取れずにいる楓花の前で、苦しげに瞳を細めた熙龍帝は、頭痛を
「その娘を、いますぐに追い出せ」
背中を向けた熙龍帝に、奨文は食い下がった。
「いえ。この者がなんと言おうと、私も私の
「
たしなめる口調で、熙龍帝が
「その娘の淹れた茶を俺に飲ませるために、信じてもいない
押し
「〝ただの茶師〟の淹れた茶で、俺が眠ることはない。それならばとうの昔に、眠っているはずだからな。期待が裏切られる
(待って……待って! せっかくのこの機会を
──まだ、茶師としての仕事を、なにもしていない!
「お、お待ちください!」
「なんだ」
「わたしは、茗聖様に少しでも近づきたいと思っています。一度引き受けた仕事は、最後までやりとげるのがわたしの
瞠目した奨文が、息をのんで楓花を見つめていた。ゆっくりと向きなおった熙龍帝は、楓花の前に立ちはだかると、真意を
その視線から、楓花は目をそらさなかった。
「ならば、まずは俺を喜ばせてみろ」
(──えっ?)
意図がわからず
「眠れないのに加えて、長いこと心が浮き立っていない」
楓花は、はっとした。
「
仮面に隠れているために、確かな表情はわからない。けれどその
熙龍帝は、楓花を見つめたまま言った。
「明晩、もしもそれができたなら、一度だけあなたの淹れた茶を飲んでやる」
そう言い残すと背中を向けて、熙龍帝は
「……あなたには
「ずいぶん早く終わったな。それで、どうなったんだ?」
冬輝が落ち着かない様子で
「きみ、すごいな! つっても……どうするつもりなんだ?」
実のところ、楓花にもわかっていない。熙龍帝を眠らせるための茶を淹れる前に、喜ばせなければならなくなったからだ。でも──。
胸の痛みがまだおさまらなくて、楓花はうつむいた。
楓花の暮らしは、
心が浮き立つことのない、喜びのない運命が。
(変わり者であろうが姿がどうであろうが、そんなこと関係ないわ。眠れなくて苦しんでるんだもの。そんな人を、放ってなんておけない!)
「陛下に喜んでいただけそうなことは、明日までに考えます。とにかく機会はいただけました。必ず……やりとげます!」
楓花が言うと、奨文はそれまでこわばらせていた表情を、かすかに和らげた。
「こちらこそ、よろしく
「なにはともあれ、びっくりしただろう、陛下に」
「はい……」
仮面で
(でも……
だが、眠れない
「冬輝さん、陛下はどれくらい、眠っていらっしゃらないんですか」
「たぶん……十日以上は起きているはずだな」
「そんなに!?」
楓花は驚きのあまり息をのんだ。
「奨文が時間がないと言っていたのは、次の新月までに眠れなければ、
「そんな! じゃあ、次の新月っていつですか!?」
焦りながら楓花が訊ねると、冬輝は息をついてうつむいた。
「三日後だ。もっともすぐってわけじゃないんだろうが、それを基準にしてそうなるだろうと、侍医は予想をしているらしい。
(そうだったの! その機会を
だが、安心はできない。目の前に難題が待ち受けているからだ。
なにをすれば、熙龍帝は喜ぶのか。楓花が考えを
「喜ばせろ……か。陛下はたぶん、
「わたしにしかできないこと……ですか?」
楓花は冬輝を見つめた。目が合った冬輝は、ニッと口角を上げた。
「陛下は知的な方だ。頭脳戦とまではいかなくても、なんつーのかな……遊びめいて
その言葉に驚いた楓花は、つい
「もしかして冬輝さんは陛下と、子どもの頃からのお知り合いなんですか?」
冬輝は目を細めると、
「……ああ。陛下である前にあの方は俺にとって、ガキの頃から
そう言う冬輝こそ、優しい人だと楓花は思った。茶房では奨文をさりげなくかばい、さっきだって、この人の笑顔にほっとさせられた。どことなく翠明に気性が似ている気がして、楓花はいっきに打ち解けた。
「
「ハハハッ! それがきみの仕返しか!
ひとしきり笑った後で、くしゃりと
「本音を言っちまうと、大陸茶で陛下が眠るわけがないって思ってたんだよな。けど、きみが
かすかな笑みを
「俺は茶に
「茶房を褒められると、自分が褒められたみたいで
そう言ったのと同時に、賀孟とのやりとりが
「……って、あっ! あるわ! わたしにしかできなくて、きっと陛下に喜んでいただけそうなこと!」
「思いついたのか。そいつはなんだ?」
「闘茶です! それを、わたし一人がやります」
「闘茶?……って、飲んだ茶名を当てるやつか?」
「はい。
「まあ、あるだろうな」
「じゃあ、どの茶葉でも構わないので、わたしに淹れていただきたいんです。できれば、陛下ご自身に」
「……それを、きみが当てるっていうのか?」
「はい! その茶名を当てますと、陛下にそうお伝えください」
ニヤッと笑った冬輝は、大きくうなずいた。
「いいぞ、陛下がお好きな感じだ。きっと喜ぶ!」
軒車を降りた楓花は、「陛下に必ず伝える」と笑顔で言った冬輝を見送ってから、茶房へ
「新月まで三日。
温かな
しかし、熙龍帝は別である。
薬も漢方茶も効かないとなれば、その神経の高ぶりは楓花の想像をはるかに
(陛下の
楓花は売り台の
「珠茶……」
香りや味で
一人じゃないと、思えるから。
「……あ!」
そのとき、楓花は気づいた。熙龍帝にも大切な思い出があるはずだ。忘れがたいときが、場所が、記憶の中に刻まれているはず。
もしもそれを知ることができたら、その記憶を茶葉で蘇らせることができたら──。
「……できるかな」
ううん、そうじゃない、と楓花はすぐに
──陛下に眠っていただくために、なんとしてでも、やりぬいてみせる!
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