第一章 高級茶葉が招く天命_2





 奨文がふたたびあらわれたのは、ゆうやみせまりはじめたときである。

 楓花はちやきんと茶さじを入れた巾着を持ち、外へ出て店のまりをした。

 前を歩く奨文は、向かう先について一言も話さないまま、やがて大きな通りへ出る。そこにめられていたのは、二頭立ての立派なけんしやである。さらにたいけんしているぎよしやは、冬輝と同じよそおいの武官だった。ということは、この軒車は宮廷人のためのもの。行き先は、間違いなくきゆう殿でんだ。

 これが天命かいなか、楓花にわかるはずもない。けれど生まれてはじめて、宮殿に足をみ入れることがかなうのだ。高ぶる思いとは裏腹に、緊張のせいでじわりと額に冷やあせく。ちゆうちよする間もあたえられず、楓花は奨文と馭者にうながされて軒車に乗り込んだ。

(……まずは落ち着こう。この機会に浮かれたりしないで、きちんと仕事をしなくちゃ)

 そう自分に言い聞かせたとき、無言をつらぬいていた奨文が口火をきった。

「これから見聞きすることは、けっして他言しないように」

「はい。もちろんです」

「あなたのことはすでにその方に伝えてある。それから、あなたに謝らねばならないことが二つある。一つは、あなたに正しいことを伝えなかったこと。それは、ほかに客がいたからだと理解してもらいたい。もう一つは、これからあなたのお会いする方が、あなたを手放しでかんげいしていないということだ」

 その言葉に、楓花のどうは激しくなる。いてもたってもいられなくなって、楓花はとうとうたずねてしまった。

「……あの! もしかして、わたしがお茶を淹れる方というのは──」

「──主上陛下だ」

(やっぱり──熙龍帝だったんだわ!)

「どうしてわたしなんですか!?」

叔父おじうえが茶師をめることなどかいだ。その叔父上があなたを気に入って褒めていた。それにたしかに、あなたの淹れた茶には、ほかのだれにもかなわぬなにかがあった。……だからだ」

 奨文はりよ深げな様子でうでを組むと、そう言ってから口をざした。





 楓花が奨文に案内されたのは、庭園に囲まれてひっそりとたたずむ小宮殿、ようほう殿でんである。しゆに染まったかべりゆうしようほどこされた柱、それが支えるそうしよくがわらの屋根の優美さは、げんそう的で美しい。けれど楓花には、その光景を楽しむゆうなどまるでなかった。

 殿へ続く階段を上りながら、奨文は言った。

「私が話している間、一言も言葉を発さないように」

「わかりました」

 奨文が殿内へ入って行く。楓花も後に続いた。

「陛下は薬も漢方茶もいやというほど口にされている。そのどれも効果はなく、〝いずれたおれれば眠るはめになる〟と決めてしまわれている。だからあなたに対しても、まるで期待をしていない。だが私はなんとしてでも、あなたの淹れた茶を陛下に飲んでいただきたい。そのために、強く説得したうえで会っていただくりようしようを得たことを、かくしてもらいたい」

 奨文の言葉には、熙龍帝の気難しさがされている。なにを言われても動じるなと注意されていることに、楓花はすぐに気づいた。

 浮かれるどころか、実際にここまで来てしまうと、おそろしさが頭をもたげてくる。宮廷をおとずれる日を夢に見てはいたが、それはもっとずっと先のこと。堂々と胸を張ってここを訪れる自分は、賀孟ほどのねんれいになっているだろうと想像していた。その人生計画が、大きく外れた。

 茶師として認められたばかりの、十六歳の自分のはずではなかったからだ。

 いつものようにできるだろうか。手がふるえてそうをしたらどうしよう。歩くたびに全身に震えが走るのを、楓花は感じていた。

 落ち着くために帯に手をえて、楓花は小さく深呼吸をした。

(……ううん、だいじよう。翠明さんが、一人前の茶師として認めてくれたんだもの)

 それは、茶で願いをかなえて幸せにする、流星茶房の名を背負う意味もふくまれていた。

(引き受けたんだから、最後までやりとげる。それに、これはちがいなく──)

 ──そう。茗聖様に近づく、最初の一歩になる!

 衛兵が両開き扉を開ける。左右に配された宮灯がほのかに照らすろうを歩くと、その先にも扉があり、また二人の衛兵が立っていた。近づいて行くと、右に立っているのが衛兵ではなく、冬輝であることを楓花はみとめた。

「ようこそ、流星茶房の楓花」

「あっ……鄭様」

 なぜかき出した冬輝は、「〝鄭様〟はやめてくれ」と照れくさそうに苦笑する。

「俺も奨文も、名で呼んでくれていいよ」

 冬輝のくったくのないみに、楓花のきんちようは少しほぐれた。だがその笑みは、奨文を視界に入れるとすぐに消えてしまった。

「ついさっきから、陛下の頭痛がひどくなってる。そのせいで、げんがすこぶるよろしくないぞ。出直したらどうだ?」

 奨文は顔をしかめる。せっかく消えたけんしわが、ふたたび深々と刻まれた。

「いや、時間がない。扉を開けろ」

(時間がないって、どうして?)

 楓花が理由を訊ねるすきもなく、目前の両開き扉が開け放たれる。うねる流雲をう龍の意匠が、左右に分かれたその先に、あざやかな金糸にいろどられた純白のちようしようへきとなって、真正面の奥にちんしていた。

 均等に配された小ぶりの宮灯が、室内をはくいろに染め上げる。ゆかすみずみに配されたそれらは、几帳の向こうにおわす人物のりんかくを、かげのように浮き上がらせていた。

 ──この国の皇帝陛下が──熙龍帝が、あそこにいる!

 一歩も歩けないほど緊張する楓花の背後で、無情にも扉が閉まった。奨文にうながされながら、なんとか几帳のそばへ向かった楓花は、そこでりようひざをつきひれした。

「先ほど伝えた茶師をお連れしました。流星茶房の茶師、楓花と申す者です」

 おそれ多すぎて、楓花は額を床に押し付けた。すると、几帳の奥から静かなこわが放たれた。

「……休めと言った命令を聞かずに、連れて来たのはその者か。まさに茶番だな、奨文。俺にはそこでひれ伏す茶師が、とりたててひいでたもののない、ただのむすめに見えるんだが」

 ちようしよう交じりの語調には、おさえたいらちがあきらかに含まれていた。ちくりと胸に痛みが走り、楓花はくやしい気持ちにおそわれる。だからといって一国のこうていを相手に、文句を言い放てるわけもない。いまは傷ついたその思いを、強く押し込めるしかないのだ。

「奨文。その娘が、茗聖の生まれ変わりかもしれぬと言うのは、本当か」

 はっとした楓花は、目を見張って顔を上げた。となりにいる奨文が、几帳に向かって口を開く。

「はい。その可能性はあると思われ──」

「──い、いえ! 違います!」

 言葉を発してはならないはずが、思わず口をついて飛び出していた。

 奨文がきついまなしで楓花を横目にした。楓花のれた茶を飲んでもらうために、奨文は熙龍帝にそう言って説得したのだとさとったものの、ときすでにおそい。

「答えが違うな。真実はどちらだ? 茶師楓花、答えろ」

 口を閉ざした奨文は、まゆを寄せるとぐっと息をのむ。楓花は背筋を正して、まっすぐに几帳を見つめた。

「そのように言っていただくのは、茶師として光栄です。でもわたしには、そんなふうに思えるちゃんとした自信がありません。自信がないのに、茗聖様の生まれ変わりかもしれないだなんて、言えません」

「……では、違うのだな?」

「はい。わたしは、茗聖様を目標にしている茶師です」

 楓花が迷いなく答えると、几帳の向こうからクスクスと、かわいた笑みがもれてきた。

「……目標か。ならば、あなたのような茶師はいて捨てるほどいるだろう。というわけだ、奨文。茶なら自分で淹れられる。帰ってもらえ。たがいの時間のだ」

「いえ──陛下! せめていつぱいだけでも」

 奨文が声にしたときだった。すっ、と几帳のはざから指先がびた。あっと思う間もなく、すらりとした姿態の輪郭が、いろつややかな絹のほうとなって、楓花の目前に現れた。

(──えっ!)

 楓花はどうもくし、しゆん身体からだをこわばらせた。几帳を背後にして立ちはだかった人物が、その顔を、くちびるだけを残して鼻から額までを──黒い仮面でおおかくしていたからだ。

(──仮面!?)

 まばたきも忘れて、楓花は仮面の熙龍帝を見上げた。はだきとおるように白い。しつこくの仮面に空いた二つの穴から、こちらを見下ろすひとみは、血のようなしんに染まってこうこうとしていた。それは、たけくるう寸前の龍のまなこを連想させた。

 そう見えるのは、室内を照らす宮灯のせいだろうか──いや、違う。

 ──ねむれないからだ。

 身動きが取れずにいる楓花の前で、苦しげに瞳を細めた熙龍帝は、頭痛をやわらげようとするかのように額に片手を添えた。こしを上げた奨文が、熙龍帝の身体を支えるために手を差し伸ばす。しかし、熙龍帝はそれをあっさりとはらいのけ、冷たい声音を放った。

「その娘を、いますぐに追い出せ」

 背中を向けた熙龍帝に、奨文は食い下がった。

「いえ。この者がなんと言おうと、私も私の叔父おじも、茗聖の生まれ変わりである可能性に期待をかけております。なぜならばこの者の淹れる茶は──」

れ言はやめろ、奨文」

 たしなめる口調で、熙龍帝がり返った。

「その娘の淹れた茶を俺に飲ませるために、信じてもいないうそをついたのだろ。あなたの思いはありがたいし、ばつするつもりはない。だが、覚えておけ」

 押しだまった奨文は、言い当てられた気まずさをふつしよくするかのように、眼光を強くしてこぶしにぎった。そんな奨文に、熙龍帝はとどめをす。

「〝ただの茶師〟の淹れた茶で、俺が眠ることはない。それならばとうの昔に、眠っているはずだからな。期待が裏切られるらくたんに、いまの俺はえられない。連れて行け──ざわりだ」

 き捨てるように告げると、熙龍帝は几帳へ手を伸ばした。楓花はあせった。

(待って……待って! せっかくのこの機会をのがせない! わたしはまだ──)

 ──まだ、茶師としての仕事を、なにもしていない!

「お、お待ちください!」

 ちゆうごしになった楓花が呼び止めると、奨文がきようがくの表情をかべた。かたしに振り返った熙龍帝は、楓花をにらむように見下ろした。

「なんだ」

 するどい瞳は、よく見れば切れ長で美しかった。その眼差しにかれて、うまく言葉が出てこない。しかし、このままでは帰れない。楓花は意を決して、思いのたけをたたみかけた。

「わたしは、茗聖様に少しでも近づきたいと思っています。一度引き受けた仕事は、最後までやりとげるのがわたしのぼうの信念です。どうかわたしに、機会をください。必ず──陛下の願いをかなえます!」

 瞠目した奨文が、息をのんで楓花を見つめていた。ゆっくりと向きなおった熙龍帝は、楓花の前に立ちはだかると、真意をさぐるかのような眼差しを向けてきた。

 その視線から、楓花は目をそらさなかった。ちんもくが続き、肌を刺すような緊張が走った瞬間、熙龍帝は整った唇を開き、言った。

「ならば、まずは俺を喜ばせてみろ」

(──えっ?)

 意図がわからずめんらう楓花に、熙龍帝は続けた。

「眠れないのに加えて、長いこと心が浮き立っていない」

 楓花は、はっとした。

おのれがなにを喜ぶのか、俺自身が忘れている」

 仮面に隠れているために、確かな表情はわからない。けれどそのこわには、逃れようのない苦しみのひびきがあり、楓花の胸はぎゅっと強くめ付けられた。

 熙龍帝は、楓花を見つめたまま言った。

「明晩、もしもそれができたなら、一度だけあなたの淹れた茶を飲んでやる」

 そう言い残すと背中を向けて、熙龍帝はちようの奥へと姿を隠した。






「……あなたにはおどろかされた。私があきらめかけたところで、あのような言葉を告げるとは」

 ざされたとびらの前にたたずんだ奨文は、心底かんたんした様子で嘆息した。

「ずいぶん早く終わったな。それで、どうなったんだ?」

 冬輝が落ち着かない様子でたずねてくる。ことのてんまつを奨文が話すと、冬輝はいつきようした。

「きみ、すごいな! つっても……どうするつもりなんだ?」

 実のところ、楓花にもわかっていない。熙龍帝を眠らせるための茶を淹れる前に、喜ばせなければならなくなったからだ。でも──。

 胸の痛みがまだおさまらなくて、楓花はうつむいた。

 楓花の暮らしは、にぎやかな楽しさに満ちていた。それをもたらしてくれたのは、翠明である。十年前のあの出会いがなければ、楓花にも苦しくつらい運命が待っていたかもしれないのだ。

 心が浮き立つことのない、喜びのない運命が。

(変わり者であろうが姿がどうであろうが、そんなこと関係ないわ。眠れなくて苦しんでるんだもの。そんな人を、放ってなんておけない!)

「陛下に喜んでいただけそうなことは、明日までに考えます。とにかく機会はいただけました。必ず……やりとげます!」

 楓花が言うと、奨文はそれまでこわばらせていた表情を、かすかに和らげた。

「こちらこそ、よろしくたのむ。とにかく、今夜は帰りなさい。明日また、私がむかえに行こう。冬輝、茶房へ送ってやれ」

 殿でんを出るまで、奨文は楓花を見送っていた。ふと楓花が振り返ると、奨文はまだそこにいて、切実なまなしで楓花を見つめていたのだった。





 けんしやに乗り込んですぐに、となりに座る冬輝が口を開いた。

「なにはともあれ、びっくりしただろう、陛下に」

「はい……」

 仮面でおおわねばならないなにかが、熙龍帝の顔にはやはりあるようだ。

(でも……ひとみは切れ長で美しかったな)

 だが、眠れないもんをたぎらせていて、いまにもくずおれてしまいそうに見えた。

「冬輝さん、陛下はどれくらい、眠っていらっしゃらないんですか」

「たぶん……十日以上は起きているはずだな」

「そんなに!?」

 楓花は驚きのあまり息をのんだ。うでを組んだ冬輝は、眼差しを遠くして楓花に語った。そくしてから眠りが少しずつ短くなり、それとともにしようとげのあるものに変化した。やがてはまったく眠らなくなったのだと話す。

「奨文が時間がないと言っていたのは、次の新月までに眠れなければ、たおれるどころかお心がこわれるだろうと、に忠告されているからだ」

「そんな! じゃあ、次の新月っていつですか!?」

 焦りながら楓花が訊ねると、冬輝は息をついてうつむいた。

「三日後だ。もっともすぐってわけじゃないんだろうが、それを基準にしてそうなるだろうと、侍医は予想をしているらしい。ちかごろは日によって体調がころころ変わるから、奨文はかなり焦ってる。いろいろと手を打ったものの、どれも効かなくてな。それで、奨文は賀孟殿どのめていたきみをたよったんだ」

(そうだったの! その機会をつぶさなくて、本当によかった……!)

 だが、安心はできない。目の前に難題が待ち受けているからだ。

 なにをすれば、熙龍帝は喜ぶのか。楓花が考えをめぐらせていると、ふいに冬輝が言った。

「喜ばせろ……か。陛下はたぶん、こつけいなことを求めていない。きみにしかできないことを見てみたいんだろうな」

「わたしにしかできないこと……ですか?」

 楓花は冬輝を見つめた。目が合った冬輝は、ニッと口角を上げた。

「陛下は知的な方だ。頭脳戦とまではいかなくても、なんつーのかな……遊びめいてきそうものがお好きなはずだ。昔からそうだったからな」

 その言葉に驚いた楓花は、ついいてしまった。

「もしかして冬輝さんは陛下と、子どもの頃からのお知り合いなんですか?」

 冬輝は目を細めると、みを消してうつむいた。

「……ああ。陛下である前にあの方は俺にとって、ガキの頃からいつしよにいる弟みたいなものだ。きっときみに失礼なことを言ったと思うが、本当の陛下は他人をちゃんと思いやれるやさしい人間だ。だからこそ、いまの地位にねむれなくなるほど苦しんでる。けど、俺じゃどうすることもできない。でも……だからこそ、なんとか助けてやりたい」

 そう言う冬輝こそ、優しい人だと楓花は思った。茶房では奨文をさりげなくかばい、さっきだって、この人の笑顔にほっとさせられた。どことなく翠明に気性が似ている気がして、楓花はいっきに打ち解けた。

だいじようです。さっき陛下に傷つくことを言われたので、意地でも眠っていただきます。それがわたしの仕返しなんです!」

 くやしい思いはお茶で返す! この、自分のりゆうにはなにがあろうと反しない! 楓花の決意にぽかんとした冬輝は、次の瞬間破顔すると、声を上げて笑い出した。

「ハハハッ! それがきみの仕返しか! おもしろい茶師だな、気に入った!」

 ひとしきり笑った後で、くしゃりとかみをつかんだ冬輝は、小さくうつむいた。

「本音を言っちまうと、大陸茶で陛下が眠るわけがないって思ってたんだよな。けど、きみがれてくれた茶を飲んで、考えが変わった。もしかしたらきみなら、陛下を助けてくれるかもしれない……ってな」

 かすかな笑みをかべたままで、冬輝は続けた。

「俺は茶にくわしいわけじゃないが、きみの淹れた茶は生まれてはじめて飲んだうまさだったなあ。すがすがしくてちょっと甘くて、まるでてんによくちびるの味……って、それは俺のもうそうだしどうでもいいな。とにかく気持ちが軽くなってな、胸がこう……喜びで満たされた感じがしたんだよな。それに、ぼうふんも気に入った。あれはたしかに、賀孟殿の言うとおりかくれ家ってやつだな。お気に入りだから、あんまり教えたくないってやつ?」

「茶房を褒められると、自分が褒められたみたいでうれしいです。またいつでもいらしてください」

 そう言ったのと同時に、賀孟とのやりとりがのうに浮かんで、楓花はクスッと笑みをもらす。翠明が帰って来たら、ふたたびとうちやで競うはめになるのだろう……。

「……って、あっ! あるわ! わたしにしかできなくて、きっと陛下に喜んでいただけそうなこと!」

「思いついたのか。そいつはなんだ?」

「闘茶です! それを、わたし一人がやります」

「闘茶?……って、飲んだ茶名を当てるやつか?」

「はい。きゆう殿でんには、天湖龍井茶のほかにも茶葉がありますよね?」

「まあ、あるだろうな」

「じゃあ、どの茶葉でも構わないので、わたしに淹れていただきたいんです。できれば、陛下ご自身に」

「……それを、きみが当てるっていうのか?」

 あつにとられて冬輝が訊ねると、楓花は笑みを見せて答えた。

「はい! その茶名を当てますと、陛下にそうお伝えください」

 ニヤッと笑った冬輝は、大きくうなずいた。

「いいぞ、陛下がお好きな感じだ。きっと喜ぶ!」





 軒車を降りた楓花は、「陛下に必ず伝える」と笑顔で言った冬輝を見送ってから、茶房へもどった。店内にろうそくをともし、ちやづつや茶葉をながめながら考えを巡らせはじめる。

「新月まで三日。ゆうちようなことはしていられないわ」

 そく、淹れたその茶で眠っていただかなければ、間に合わない。飲んだしゆんかん、五感にうつたえかけながらも、瞬時にそれらを静めるものでなければならない。だが、直接的に眠りをさそう茶葉は、大陸茶に存在していなかった。

 温かなちやはいざわりやかおり立つ湯気、のどに伝わるあんの味に心をほぐすからこそ、人々はゆるやかな眠りへと身をゆだねるのだ。

 しかし、熙龍帝は別である。

 薬も漢方茶も効かないとなれば、その神経の高ぶりは楓花の想像をはるかにえていた。

(陛下のとがりきった心を安らげてくれる茶葉は……どれだろう)

 楓花は売り台のとつを持ち上げ、仕分けられた茶葉を茶さじですくっては香りをいでいく。時間を忘れてしまうほど同じことをり返し、やがてその一枚一枚が、ぎゅっと小さくかたく縮んでいる茶葉をすくった。

「珠茶……」

 こうばしい茶葉の香りが、楓花を優しくはげましてくれる。

 香りや味でおくよみがえることがある。かなしみに覆われた心をかろやかに救ってくれたその味は、翠明とともに見上げた流れ星の思い出と常に重なった。それはいつも寄りって、楓花のそばにいてくれる。だから珠茶を飲むたびに、楓花は心からほっとするのだ。

 一人じゃないと、思えるから。

「……あ!」

 そのとき、楓花は気づいた。熙龍帝にも大切な思い出があるはずだ。忘れがたいときが、場所が、記憶の中に刻まれているはず。

 もしもそれを知ることができたら、その記憶を茶葉で蘇らせることができたら──。

「……できるかな」

 ううん、そうじゃない、と楓花はすぐにしつし、弱気な思いを打ち消した。

 ──陛下に眠っていただくために、なんとしてでも、やりぬいてみせる!





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