第二章 その男、態度でかい_1
そんなこんなで、花酔楼での
夜、私は庭に
なぜそんなことをしているのかというと、それは絵本を読むためだった。
数日前、余暉が
絵本といっても絵と文字が書かれた紙を
(これで文字が覚えられる!)
単語を覚えるのに、これほど便利なものがあるだろうか。
この世界の識字率はそれほど高くない。それでも、
余暉のお得意様である妓女が、お客さんからもらったものを捨てようとしていたので
私は心から余暉にお礼を言った。
返事の代わりに、彼は優しく私の頭をぽんぽんと叩いた。
それは
そうして
ところが、
それは明かりだ。
昼間は
明かりを
そこで私は仕方なく、お客さんを接待している妓女の部屋から
これじゃあ
それでも、
(やっぱりここの文字は、漢字によく似てる)
ひらがながないので文章は読めないし、日本では見たことがないような文字も少なくない。しかし中国語だと言われれば、そうかもと思う程度には漢字に似ているのだ。
かつて世界史の教師が、中国語は英語と同じで主語の後に動詞が来ると言っていた。それを応用して読めば、初めて見る絵本でもいくらかは理解できる。文字も画数の少ない簡単な字が多く、私はその紙面を追うのが楽しくてしょうがなかった。
その男と出会ったのは、いつものように闇にまぎれて絵本を読んでいた時のことだった。
「そこで何をしている!」
必死に文字を追っているところに声を
声を掛けてきたのは、薄明かりでも分かる
いつの間にそこまで来ていたのか、彼は私のいる
「ご、ごめんなさい!」
覗きを
いくら中を覗き見していないと言ったところで、この状況では信じてもらえるとは思えなかったからだ。
「外で
(どういうこと……? 覗きだと思って怒ってるわけじゃないの?)
「お、おれは、こここ、ここの下働き!」
口が回らず、
「そんな出まかせが通ると思うか」
しかし相手は
目線で人が殺せるなら、私は
泣きたくなって、私は見ていた絵本を男に差し出した。
「
もっと
青年が腰に付けた
とりあえず前にのめり込む勢いで頭を下げていたら、差し出していた絵本を
うつむいたまま歯を食いしばり、相手の反応を待つ。
「……お前、異国の生まれか?」
私のつたない言葉から、そう推測したのだろう。青年の言葉が、少しだけ
「わ、分からない。気づいたらここ、いた……」
異国といえばそうなのだろう。しかしこの榮国を
(そんな説明したって、分かってもらえるはずないし……)
なんでこんな目にという、今まで何度考えたか分からない気持ちが
本当だったら今頃、忙しいながらも
「頭をあげろ」
命令に従い恐る恐る顔を上げると、男の顔が
仕立てのいい
今まで見た官吏の中でも、一番だらしない格好だ。
それなのに、不思議と彼の周囲にはピンと張った
余暉とは真逆の、
「まだ子供か」
その言葉が独り言なのか問いかけなのか判断がつかず、とにかく私は
「文字を勉強しているのか? なぜだ?」
思ってもいなかったことを聞かれ、困惑する。
少なくとも、日本人である私にとってそれは当然の考えだった。だから恐る恐る口を開く。
「文字……わかれば、知る……できる。この国のこと」
非力な私にとって、知識は身を守る武器だ。実際、現実世界で覚えたマッサージや
(生意気だって、また
恐る恐る男の顔色を
(え? なんで?)
そう思いつつ、尋ねることはできなかった。
「そうか、いい心がけだな」
そう言って男は絵本を返すと、そのまま妓女の部屋へと去って行ってしまった。
残された私はまるで
それ以来、その青年官吏とは
夜、私が中庭で絵本を読んでいると、
正直
「これも読め」
そう言って男が差し出してきたのは、私が読んでいた絵本など目じゃない程、きちんとした本だった。
絵がなく、文字の少ない文章が並んでいる。どうやら詩集のようだ。
なので単語一つ一つに
「これ、あ……あ? なんて読む? 難しい」
どういうつもりだろうかと男の顔を見上げれば、そこには今までと印象の違う、
「どれだ? どの文字が読めない?」
男が覗き込んでくるので、私は
すると男は、文字どころか詩の内容やその時代背景まで、
(どうしてこんなに良くしてくれるんだろう?)
そう思いつつも、私はいつの間にか男の話に引き込まれていった。
「これは俺の好きな詩だ。だから本の最初にくるよう作らせた。残りは簡単な詩ばかりだから、お前一人でもなんとか読めるだろ。分からないことがあったら、次来た時に聞くといい」
そう言って、男は
一人残されて、親指の腹でそっと紙面を
それは現代の日本の物とは違う、厚くてざらざらする紙だった。
(でも確か、本って貴重な物なんだよね? こんなに軽々しく
返そうと思い
その日、私は芙蓉の
マッサージが気に入られたのか、私は芙蓉に呼び出されて彼女の部屋にいることが多い。
妓女の
花酔楼トップの彼女が使うだけあって、その化粧用具や化粧品は全て質のいいものだった。
化粧筆とお
「アンタが女だったら、これの価値も分かるだろうけどねぇ」
昼間の光の中で、芙蓉がしどけなく言う。
化粧を
白粉に、高価な紅花の
彼女の言葉に、女だと
「
私は前から、不思議に思っていたことを
芙蓉は
「ははッ! アンタもわかってきたじゃないか」
しかし、芙蓉は
「あのね、夜ってのは暗くて女の顔なんて見えたもんじゃないだろ? だから妓女は化粧の濃さを
思いもよらない答えに、私は驚いてしまう。
お客さんが芙蓉の顔を見ていないはずがない。いつだって
(
その美しい見た目に反して、芙蓉はさっぱりとした男前な性格だ。
しかしそんな彼女が、私は好きだった。花酔楼の中でも、芙蓉を
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。芙蓉が少し意地悪な顔をして私をからかってきた。
「ふふ。アンタはそうやって、笑ってた方がいいよ。かわいい顔してるんだからサ」
絶世の美女にそう言われると、お世辞と分かっていても照れてしまう。
「してない……俺、地味」
姉と比べて何度も地味だと言われてきたし、自分でもその事実は受け入れ済みだ。
地味でいいのだ。地味でも、
「ったく、もっと自信を持ちな! そんなんじゃいつまでたっても
(だって、本当にお嫁さんもらうわけにもいかないし……)
どう答えようかと迷っていると、不意に芙蓉が黙り込んだ。
「姐さん? どこか痛い?」
彼女は
「いいや。アンタみたいな弟がいたら、楽しかっただろうなって思ってね」
「姐さん……」
芙蓉は、時折こんな風に悲しげな顔をする。
その理由を、聞いたりなんてできないけれど。
「ああ、ごめんね。
「ううん。俺、
突然、芙蓉は
豊満な胸を押し付けられ、
「
「うん?」
「佳佳ってのがね、アタシの本当の名前なんだ。もう
「佳佳?」
「アンタだけでも、たまに呼んでくれるかい? アタシの母さんが、付けてくれた名前なんだよ」
芙蓉の声は、今にも消えそうなほどか細いものだった。
「うん……」
「小鈴。アンタは本当にいい子だ。いい嫁さんもらって、幸せになりな。そうして子供が生まれたら、絶対に手放しちゃいけないよ。分かるだろ? 花酔楼だけじゃない、この街には親に売られた
それは初めて聞く、芙蓉の弱音だった。
芙蓉だけじゃない。他の姐さんたちだって、
だからこそ、人の痛みがわかる優しい人たちだ。私はそんな、花酔楼の人たちが好きだった。
(日本に帰れないのは
私は改めて、心の中で余暉に感謝した。
「さあて、そろそろ支度をしなきゃね。お客さんが来ちまうよ」
照れているのか、芙蓉はそっぽを向いてしまった。
私はくすりと笑い、持ってきていた
その時ふと、庭で出会った青年のことを思い出した。
彼も、
確か彼は、芙蓉のお客さんだったはずだ。
だって芙蓉の部屋の明かりを拝借している時に、私を
「そういえば、今日も来る? あの……
名前も知らないと思いつつ尋ねれば、急に芙蓉が険しい顔になった。
芙蓉の
私の知る限りでは、あの男が最年少のはずだ。
まさか、聞いてはいけない相手だったのだろうか?
「なんだい。アンタが客を気にするなんて
「
思いもよらない
(孌童って要はお
お客さんのことを尋ねただけで、まさかそんな
「
そう言って、芙蓉は楽しそうに笑った。
どうやら、からかわれたらしい。
そこには先ほどまでの
なんとなく話を
夜の
「それで、いい加減教えてはもらえないか?」
「そうはお言いになってもねぇ。アタシにはなんのことやら」
女の
「
「そんなこと言われても、花酔楼にそんな者はいませんって。なにかの
そう言いつつ、芙蓉は男に酒を
しかし男は口を付けもせず、
「それにしては、ここ最近の花酔楼の女たちの評判はたいしたものだ。その
「はん。二回りも小さくなったら消えてなくなっちまいますよ。楽しい酒も飲めないなんて、
そう言って、芙蓉の方が先に
ほうっと息を
「これはお前のためでもある。花酔楼の話が陛下の耳に入れば、その者は
「仲間を売って金を受け取れって?
芙蓉は怒りに
皇太后の
「口を
「死ぬのが
芙蓉はそう言い放つとさっさと見習いの少女を呼び、お
黒曜と呼ばれた男は
彼は名家である
少なくとも芙蓉はそう聞いていたし、実際
しかし芙蓉は、この若くして将来有望の官吏があまり好きではなかった。
花酔楼の妓女たちの
官吏には珍しく野性みのある色男だ。彼のような男が
しかし今まで芙蓉は、黒曜という名前を聞いたことがなかった。
そして黒曜は花酔楼に来るたび、芙蓉の
その美の
確かに小鈴のもたらす
しかし
皇太后は確かに、気に入った者には気前よく
しかしその一方で、彼女のために後宮に入って、無事に
先ほど芙蓉が言った
「それにしてもあの男……」
すでに黒曜が去った後、明かりを落として一人になった芙蓉は
「てっきり皇太后に取り入ろうとしているのかと思ったのに、なんでアタシを
一体何を考えているのか。
芙蓉は難しい顔で、窓の外を見つめた。
そんな彼女の小さな呟きは、
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