第一章 目を覚ましたら、突然の中華_2





 数日後、私はなぜか花酔楼ナンバーワンのように呼び出されていた。

 となりには、心配して付きってくれた余暉もいつしよだ。

 芙蓉はかんぺきなスタイルに唇の厚いっぽい美女だ。歌が得意で、声まで色っぽい。

 彼女はしどけなくそべりながら、きんちようする私をみするように見ていた。

(なんでこんなことに……)

 ふるえる手で、芙蓉ごまんの化粧筆を手に取る。うるしでん細工のちようが描かれた、それだけでひと財産になりそうな立派な品だ。

「姐さん。何も子供がしたことじゃないですか」

「あらぁ、アタシはこの子に化粧けわいの才能があるのか、確かめたいだけだよ」

 取り成すように余暉が言うが、芙蓉は一度言い始めたら聞かない人だ。

「さあ、早くおし」

 芙蓉のはくりよくに押され、私は筆の先に紅を取った。

 なぜこんなことをする羽目になったのか?

 それは、先日少女の頰に花びらを描いたせいだ。

 なぐさめるために軽い気持ちでやったことだったが、その少女に鏡を貸した芙蓉にとっては、そうではなかったらしい。

 今日になってとつぜん呼び出されたと思ったら、アタシの顔にも美しい花を描いてみろと言うのだ。

(芙蓉姐さんが気に入らなかったら、どうしよう)

 芙蓉はお養母かあさんですら強く言えないような、花酔楼の中では絶対の存在だ。

 彼女のごげんそこねれば、私は今後どんなあつかいを受けるか分からない。

 最悪、花酔楼を追い出されてしまうかもしれなかった。

 わざわざついてきてくれた余暉にも、申し訳なく思う。

(とにかく姐さんの機嫌を損なわないように、上手うまくやらなきゃ)

 アシスタントになる前だったとはいえ、私だって化粧に関しては素人しろうとではないのだ。

 そう自分を勇気づけ、作業を始めようとした。

 しかし筆が芙蓉の頰にれる寸前、思わず手が止まる。

「なぁに? どうしたんだい?」

 あでやかな芙蓉の顔には、たおやかでありながらもどこか人を鹿にするようなみがのっていた。

 しかしどんな顔をされようとも、そのまま作業を続ける気にはなれなかった。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

 固まった私を、余暉が心配そうにのぞき込む。

 私は首をり、真っぐに芙蓉の目を見た。

「姐さん。はだきたない!」

「はあ!? アンタ何言ってんだい!?」

 芙蓉が大声を出してる。どうやらことづかいを間違ったらしい。この国の言葉は、本当に難しい。

 私は彼女の怒鳴り声を背中に、急いで部屋を出た。

 そして必要なものを用意して、部屋に戻る。

 すると余暉が、今にもつかみかかってきそうな芙蓉をなだめてくれていた。

「まあまあ、姐さん落ち着いて。小鈴にも何か考えがあるんですよ」

 申し訳ないと思いつつ、一度では足りなかったので何往復もした。

 おかげで初めはおこっていた芙蓉も、最後にはあきれた顔をしていた。余暉はずっと、心配そうな顔だ。

「なんだい? 上手くできないからってアタシにお供え物でも持ってきたのかい?」

 やっとすべての用意を終えた私は、芙蓉の前にひざをついて言った。

「姐さん、まず顔、あらう」

「はぁ!?」

 芙蓉はだんゆうな様子などうそのように、とんきような声を上げた。

「その、しろい……はだ、よくない。水、あらう」

 そう言って差し出したのは、水の入ったたらいだった。

 間近で見た芙蓉の肌はひどくれていた。これではどんならしい化粧をしても、台無しになってしまうだろう。

「よくないってねぇ……これはさいしよう様がおくってくだすった、最高級のえんぱくだよ?」

 鉛白と聞いて、私はおどろきに飛び上がりそうになった。

 妓女たちが使っている白粉おしろいが、まさか鉛白だなんて思いもしなかったのだ。

 専門学校で化粧の歴史を勉強した時に、白粉に用いた鉛白によってたくさんの中毒者が出たと習った。

 鉛白というのは名前の通りなまりふくんだ白い顔料のことだ。鉛は大量にせつしゆするとなまりちゆうどくを引き起こす。鉛中毒は脳や神経に異常をきたす病気で、最悪の場合死に至るのだ。

「ごめん!」

 言うやいなや、思い切って芙蓉の口に指をっ込んだ。

「あにするんらい!!!」

 突然口を開かれて、芙蓉は目が飛び出さんばかりに驚いている。

(よかった……まだ変色はしてないみたい)

 鉛中毒のしようじようの一つに、ぐきの変色というのがある。芙蓉の歯茎は、まだ健康そうなピンク色だった。

「歯……肉? 見た。はだれる原因、分かる」

 そう言うと、今にも怒鳴りつけてやろうかと身構えていた芙蓉も、仕方ないという顔になった。

「そういうことなら……まったくっ、言ってからやっておくれよ!」

 決まり悪げにさけぶ芙蓉に、私はこくこくと頷いた。

「原因、わかた。あらって……きれい、する!」

 一刻も早く鉛白を落としてほしくて、芙蓉のかたをがっしり摑む。

 あつにとられる芙蓉に、ぜつみようなタイミングで余暉のフォローが入った。

「とにかく、言うとおりにしてやってくださいよ。そしたらコイツも満足しますんで」

 姐さんはしぶしぶ、たらいの水に手をばした。

(余暉についてきてもらって、正解だった)

 彼はこの辺りのじよにとってあこがれの的なので、姐さんも強くは言えないらしい。

 おかげで、芙蓉もなおに顔を洗い始めた。

 それにしても、この白粉はどうしたものだろうか。いきなり私が危険だから使うなと言ったって、だれも信じないにちがいない。

 芙蓉が顔を洗う水音がひびく中で、私は白粉の代わりになる物がないか、必死で頭をめぐらせていた。

 そして彼女が十分白粉を流したのを見届けてから、かわいた布をわたす。

「ったく、アタシにこんなことまでさせるなんて……それにしてもこの水、なんだかちくちくいやな感じがしないねぇ。どこの水だい」

「あめ」

「はぁ? 雨水だってのかい」

みず、顔、よくない」

 花酔楼では生活用水として井戸水を使っているが、地中を流れる井戸水は洗顔には向かない。

 雨水はなんすいなので、洗顔に適しているのだ。もちろん、大気せんなど欠片かけらもなさそうなこの世界だからできることだが。

 これが例えば土にみて地中のミネラルを含み、こうすいになると今度は逆に肌を荒らしてしまう。

 なので私も洗顔をする時は、井戸水ではなくきよだいかめまった雨水を使っていた。

 つう洗顔には井戸水を使うので、花酔楼でわざわざそんなことをしているのは私ぐらいしかいない。

「そのほうが、きれい、なる。ちくちく、しない」

 芙蓉はしばらく目を見開いてぼうぜんとしていたが、何かをあきらめたように顔をぬぐった。

 洗顔を終えてスッピンになった芙蓉の肌は、思った以上に荒れていた。

 そくろうのためか、くまいている。

 本当はきちんと休むのが一番の対処法だが、花酔楼で一番の売れっ子にはそれも無理だろう。

「そこ、る」

 そう言って私が指差したのは、部屋の奥にあるしんだいだった。

 寝台とはいっても、それは現代のようなスプリングの効いたものではない。見事なちようこくの入った木組みの上に、いくにも布のかれたやたらかたそうなしろものだ。

「あははは! やけに色気のないさそい文句だねぇ」

 スッピンの芙蓉がごうかいに笑う。

 その笑顔に私はほっとした。

 芙蓉が寝台の上に横になったのを見計らって、荷物を持って寝台の近くに移動する。

 じんったのは、芙蓉の頭の上辺り。

 私からは、芙蓉の顔がちょうど逆に見えた。

「目、とじる」

 言うと、芙蓉は大人しく従う。

 私の相手をすることに、つかれ始めているのかもしれない。

 用意した材料を、ばちでだまができないように混ぜ合わせる。

「なンだい? なんだかいいにおいだね」

 これがいい匂いだということは、芙蓉は相当なお酒好きだと思う。

「これ……酒、しぼった……あまり?」

しゆそうのことか?」

さけかす』という単語が分からなかったので、知っている単語をつなぎ合わせてみた。するとすぐ側で、余暉が補足してくれる。

 この世界で、酒粕は酒糟というらしい。

 彼はよく会話の練習に付き合ってくれているので、私の言いたいことがなんとなく分かるみたいだ。

 肌が荒れた芙蓉のために、私が用意したのは酒糟だった。しようこうしゆではなく日本酒のようにき通った酒のしぼかすだ。

ちゆうぼうから借りてきちゃったけど、あとでお養母かあさんには謝ろう)

「みず、まぜて……しぼる」

 混ぜていたものを布に空け、きんちやくのようにしてしぼった。本当は一晩おいておいた方がいいのだが、今は時間がないので仕方ない。

 材料は、酒糟と雨水と油を少々。油は見た目だけでは何の油かまでは分からないが、やけにどろっとしているのでひまし油カスターオイルかもしれない。

(ひまし油なら、シミやソバカスにも効くよね)

 それらを混ぜ合わせたものを、芙蓉の顔の上にのせてゆっくりと延ばしていく。白くぽってりとしたそれは、私の手でゆるゆると広がった。

「冷たいわね」

「しゃべらない」

 私が言うと、なぜか芙蓉は素直に口を閉じた。絶対何か言うと思っていたのに。

(疲れちゃったのかな?)

 部屋は静まり返っていた。

 遠くで少女たちの練習する楽の音が、かすかに聞こえる。

 酒糟パックが顔に行き渡ると、今度は芙蓉のリンパをげきしつつ、ろうはい物を流した。

 フェイスマッサージは私のとくわざの一つだ。

 三十分ほどで手を止め、芙蓉の顔をのぞきこんだ。

「あとは、少し待つ」

「……すぅ」

 よく見ると、芙蓉は安らかないきを立てていた。

 どうしようかと視線で余暉をうかがえば、彼はおどろいたような顔で私を見ていた。

(あれ、もしかしてやり過ぎた? よかれと思ってやったけど、確かに子供がやるようなことじゃないよね……余暉は私のこと男の子だと思ってるんだし)

 むくむくとこうかいいてきたが、やってしまった後ではどうしようもない。

 私は芙蓉を起こさないように静かに片付けを始めた。まずはたらいで手をゆすぎ、持ってきた道具や材料を片付ける。

 それらをまとめて持ち上げようとしたら、結構な量になった。見かねた余暉が、横から荷物をうばっていく。

「これは俺が片付けておくから、小鈴はねえさんを見てな」

 そう言って、彼はやさしく笑って去って行った。

「ありがとう……」

 その背中に、小さくお礼をつぶやく。

 あとはパックが乾くのを待って、絞った布で拭う。何度か絞ってくのをり返すうちに、本来の白くもちもちとしたはだが現れた。パックの効果は十分にあったようだ。

 仕上げに乾いた布で水気を取り、今度は残った酒糟の絞りじるを布にふくませてぽんぽんとたたいた。

 酒糟パックの絞り汁は、しよう水としても有効なのだ。

(こんないきなりじゃなければ、ちゃんと前日から準備できたのに)

 パックと化粧水の出来には不満が残るが、気持ちよさそうにねむる芙蓉を見ていると、やってよかったと思える。

 すっぴんで無防備に眠るその顔は、なんだかみように幼かった。

 彼女を起こしてしまわないよう、その体の上にそっととんをかける。

 本来の要望にはこたえられなかったが、仕方ない。

 私は近くを通りかかった見習いの少女に後を任せ、芙蓉の部屋を後にした。






 さて、あれからさらにひと月。

(またしても、なんでこんなことに……)

 立ちくす私の前には、スッピンでも美しいじよたちが列を成していた。

 その数、十人近く。

 おそらく花酔楼のほとんどすべての妓女が、ここに顔を出している。

「ちょいと! 小鈴の才能に気付いたのはアタシなんだからね! さっさとそこをおどきよ!」

 すぐ側で、芙蓉が金切り声をあげる。

 なんでも、あの日洗顔と化粧水をほどこした芙蓉は、はだつやが大変良くなりお客さんに大好評だったのだそうだ。

 リンパの老廃物を流したおかげか、芙蓉自身も顔の疲れが取れたと大満足だった。

 それがいつの間にかうわさとして広まり、今ではこの有様だ。

 私の手元でじゆつを受けている妓女は、気持ちよさそうなためいきをつく。

「はあ、気持ちいいこと。これで五歳は若返るってんだから、せいしんのう様だってびっくりだよ」

 聖母神皇というのは、今の政治をぎゆうっているこうていのお義母さんのことだ。本当は皇太后と呼ぶのだそうだが、自ら聖母神皇なんてややこしい名前で呼ばせているらしい。えらい人の考えることはよく分からない。

 私だって本名は鈴音だが、今は小鈴で十分だと思っている。

 そんなことを考えつつ、もういいかと手を止めた。

「ひと、いっぱい。かわいたら……洗って。それつける」

 そう言って指差したのは、おわんいっぱいに作った酒糟の絞り汁だ。

 人数が多いので、マッサージ後のアフターケアはそれぞれに任せている。完全セルフだ。

 妓女はしぶしぶ立ち上がり、あらかじめ用意しておいたに座った。そこにはすでに顔をパックで白くした妓女が、数人横並びになっている。

 芙蓉にマッサージした時から改良を重ねて、パックも絞り汁の化粧水もそこそこの品質になってきた。

 私が作った物を喜んでもらえるのは、うれしい。

 もっと改良を重ねて、もっと喜んでもらいたい。

 でも、ただの下働きの私がこんなことをしていられるのには、理由がある。

 本来の仕事からはなれてもおこられない理由。

 それはすぐそばでじようげんこしかけていた。

「ほんと、小鈴は拾い物だったね。あんたのおかげでうちのむすめたちは大評判さ!」

 一番はしの椅子に座っていたろうは、そう言ってがははとごうかいに笑った。それにつられて、かわいたパックがぽろぽろと落ちる。

 それは、朝一番に施術を受けにきたお養母かあさんだった。

 マッサージを彼女も気に入ってくれたおかげで、ほかの仕事はめんじよだ。

 おかげで日の出前から起き出したり、重いみずを往復して何回も運ばなくてよくなった。

(フェイスマッサージの勉強しておいてよかった)

 好きな仕事ができるというじようきように、私はささやかな幸せを感じていた。





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