第一章 目を覚ましたら、突然の中華_1





 左右に延びる高いかべを、呆気にとられて見上げる。

 座り込んでいるのは砂ぼこりう土の上だ。

 気が付けば、私は全く見覚えのない場所にいた。

(なんで? さっきまで自分の部屋にいたよね?)

 実家を出て、最近引っしたばかりの単身用のアパート。

 美容専門学校を卒業して、私は運よくメイクアップアーティストのアシスタントが内定していた。それを祝って、友人の杉田と飲んだ帰りだった。

 はしゃぎ過ぎて、電車は終電になっていた。それでもちがいなく自分のアパートに辿たどり着き、ベッドにたおれ込んだはずなのに。

 しかしさわがしさに目を開けてみると、待っていたのはこの非現実的な光景だった。

 時折、すぐ側を牛に引かれた荷車や馬が通り過ぎる。

(ひかれる!)

 ぼうぜんとしているひまもなく、あわてて立ち上がり道のはしなんした。

 手にはなぜか、最近買ったばかりのメイクボックス。

 中身も入っているのか、ずっしりと重い。

(なんでこんなものが?)

 とにかく落ち着こうと、まずはよごれた服のほこりはらった。服は昨日着ていたパーカーとスキニージーンズのままだ。

 さらに自分のほおをビンタしてみる。できるだけようしやなしに。

 しかし一回たたこうが二回叩こうが、ちっとも目が覚めない。

 ただ頰がじんじんと痛むだけだ。

(いったぁ……夢なのになんで痛いの?)

 自分を痛めつける私を、通り過ぎる人々がしんそうに見ていた。

 私は恥ずかしくなってビンタをやめ、そんな人たちを観察した。

 彼らの服装も、見慣れないものだ。

 男性も女性も、見たことのない着物のような服を着ている。を上からひもしばったような、簡単な作りの服だ。

(民族衣装っぽいけど、一体どこの? もっと情報がほしい)

 辺りを見回すと、壁の一部が門になって開いているのが目についた。

 駆け寄ると、その先にあったのはへいに囲まれた小さな町だ。

 かわら屋根の家が、四角い壁の中をめ尽くしている。

 高いビルなど一つもないその風景に、思わず息をんだ。

 黒い瓦屋根と、それを支える赤い柱。そして屋根から垂れ下がる赤いちようちんや結びかざりは、がきで見た中国の古い街並みに似ていた。

 瓦の波を辿っていくと、視線はすぐに向こう側の壁へと行きつく。さっきも見た砂色のれんべい。町自体が壁で囲まれているということは、あの壁の更に向こうには何があるのだろう?

 半ば無意識で、門から延びる細い道を進んだ。

 さっきの広い道とはちがい、こちらは徒歩でしか通れないようなせまい道だ。

 気づけば、視界が少し黄色く染まっていた。目がおかしくなったのかと思ったけれど、どうやらそれは違うらしい。ちくちくするので、何度も目をこする。すれ違う人の中にも、私と同じように目をこする人がいた。

(あ、これってもしかして……こう?)

 春先になると、天気予報が伝える単語がかんでくる。

 ちゆうふうの街並みと、そして黄色い砂。目の前の夢は、どうやら中国が舞台みたいだ。

(私って、実は中国に旅行に行きたいとか思ってたのかな? だからこんな夢を見てる……とか?)

 大分落ち着いてきたので、現状をぶんせきしつつ首をかしげる。

 町は静かだった。

 すれ違う人もそれほど多くない。

 だれかにここがどこなのかたずねたかったが、明らかに異国風の人に話しかけるのには勇気が必要だった。

 そんな時だ。道の向こうから、数人の男性が連れ立って歩いてきた。

 その中に一人、長いかみを一つにわえたやさしげな女性がいる。

 不思議なことに、彼女は男性たちと同じベルトでめた服を着ていた。

 男装のれいじん、とでも言えばいいのか。

(うわあ、れいな人)

 れて、思わず立ち止まる。

 集団の中の一人がそれに気づいて、私に話しかけてきた。

「──────?」

(え? 何? なんて言ってるの?)

 言葉が聞き取れない。やっぱりここは日本ではないのだ。

 その言葉はなんとなく、中国語のひびきに似ていた。

(やっぱりここは中国なの? 夢なら言葉ぐらい分かってもいいのに)

 私が知っている中国語なんて、ニーハオとか、オーアイニーぐらいだ。

 ニーハオはこんにちはだからまだいいとして、ー《し》ア《て》イ《い》ニ《ま》ー《す》なんて出会いがしらで言われたら、相手だってびっくりするだろう。

「───?」

「──! ───!!」

 言葉が全く理解できない。こたえられなくて、私は申し訳ない気持ちになった。

 ゆいいつの救いは、彼らの表情がやわらかいことだ。おこっているような様子はない。まるでじようだんを言うように、陽気な顔つきをしている。

 しかし私があまりにもだまり込んでいるので、彼らもじよじよげんな表情を浮かべはじめた。

 どうしようかと困っていると、思わぬところから救いの手が差し伸べられる。

「───!」

 さきほどの優しげな女性が、前に出てきて私をかばうように手を伸ばした。

 彼女がしい顔で何か言うと、それだけで男たちはぴたりと口を閉じた。

(この女の人、えらい人なのかな?)

 彼女は少し考えるりをした後、まどう私に手を伸ばした。

 言葉も通じずほうに暮れていた私は、とつにその手をにぎり返していた。







 連れてこられたのは、立ち並ぶ家の内でも特に大きな建物だ。ほかの家々と違って、明らかにたくさんの人間が集まるための建物に見えた。

 間近で見ると、屋根の瓦すらも日本のものとは違っている。とうかんかくに丸い飾りのようなものがついていて、建物によってその飾りの模様も異なっていた。

 門をくぐると、中にあったのは中庭だ。そこには池があり、小さなお堂が向かい合わせに立っていた。

(綺麗な庭……もしかして、休ませるために連れてきてくれた、とか?)

 そう思って女性の様子をうかがえば、彼女は難しい顔をしていた。

 そういえば、いつの間にか連れ立っていた男たちも姿を消している。

 そしてそのおかげで、気付いたことがあった。

(あれ、もしかしてこの人、結構大きい?)

 周囲を囲んでいた男たちがいなくなって初めて、私は彼女が自分よりもずいぶん大きいことに気が付いた。

(いくら私が平均より低いっていったって、この人女にしては高すぎない? まるでモデルみたい)

 そう思いながら見つめていたら、ぽんぽんと頭を優しく叩かれた。

 まるで、心配ないよとでも言うみたいに。

 白くて指の長い、器用そうな手だ。少し節の目立つ、働き者の手だった。

 彼女は私を連れて、更に庭の奥へと進んだ。

 するとそれほど歩かないうちに、建物のげんかんのような場所に辿たどり着く。

 中をのぞきこめば、そこにはやはり中華風の調度品が並んでいた。そしててんじようから、漢字がいっぱい書かれた木の札がぶら下がっている。

(ということは、この世界の文字は漢字なのか)

 私が知っているのとはみように違うそれを目で追っていたら、急に手を強くひかれた。

 視線をもどすと、いつの間に現れたのだろう。そこには険しい顔をしたろうが立っていた。

(誰だろう? この人のおばあちゃんかな?)

 訳も分からずにいると、美女はだいじようだと言うように私のかたに手を回した。

 優しげな顔に似合わない、引き締まった筋肉質なうで

 胸の中に、もやもやとした不安が浮かぶ。

 老婆はまるでみでもするかのように、私をじっとりと見つめた。

 そしてすぐに結論が出たのか、首を横にる。老婆は重いためいきをつき、背中を向けて奥に歩き出してしまった。

 となりの女性が、それを呼び止め頭を下げる。

 なんとなく私のことで謝っているような気がしたので、私もいつしよになって頭を下げた。

 そして顔を上げると、その老婆はゾクッとするようないやみを浮かべていた。






ゆか水面みなものように、まどわくぎよくだと思ってみがきな」

 どこまでも続くろうを必死になって磨いていると、やってきたのは例の老婆だった。

 今では、彼女の言葉も少しは分かる。

 といっても、まだまだしやべるのは苦手なのだけれど。

「はい。お養母かあさん」

 で働く人間は全員、彼女をお養母さんと呼ぶ決まりだった。

 返事には興味がないようで、お養母さんはいそがしそうに去っていった。

 ───あの日から、約一年。なんと、私はまだちゆうな夢の中にいる。

 一年もめない夢なんてあるのだろうか?

 もしかしたら夢なんかじゃなくて、本当に見知らぬ世界に迷い込んでしまったのかもしれない。

 安全で清潔な日本に帰りたいけれど、帰る方法も分からない。手がかりすらないのだ。

 専門学校を卒業して十九歳だった私は、もう二十歳はたちになった。そしてもうすぐ二十一。

 けれどもここで暮らす人たちは、みんな私を十三歳の男の子だと思っている。

 なぜか。

 それには色々と事情がある。

 あの日やさしげな女性に連れて行かれたのは、なんと女性が春を売るろうだった。

 その名もすいろうしようかいされた老婆は、じよたちを管理する妓楼のあるじだったのだ。

 正直、それを知った時には自分も妓女になるのかと目の前が真っ暗になった。

 しかし───。

しようりん!」

 呼ばれて振り向くと、そこにはがいた。

 彼こそ、私をこの妓楼へ連れてきた張本人。あの美人さんだ。

 言葉が通じないのでかんちがいしていたが、あの美人さんはなんと男性だった。

 余暉はこの花酔楼に髪をいにやってくる、かみゆいだ。

 この世界の女性はみんなおどろくほど髪が長くて、かざる時にはそれを複雑に編み上げなければならない。

 だから妓楼が沢山あるこの辺りには、彼のような髪結師が沢山いるのだ。

 あの日彼と一緒にいた男連中も、髪結師だったと後で聞かされた。

 とにかく彼は、ショートカットの私をまさか女とは思わず、老婆には男として紹介した。

 かみがただけで男だと判断されたのは悲しいけど、よかったこともある。

 おかげで、妓女にならずに済んだということだ。

 多少心苦しくはあったが、私は余暉の勘違いをえてていせいしなかった。

 その代わりに下働きとして、ハードな毎日を送っている。

 小鈴というのも、余暉のつけてくれたあだ名だ。

 一年前の私は、言葉が通じず自分の名前すらも伝えることができなかった。だから砂の上に木の枝で『鈴音』と書き、彼に名前を伝えた。

 次の日から、余暉は私のことを小鈴と呼ぶようになった。

『小』というのは日本語にすると『ちゃん』みたいなもので、この世界では親しい相手の名前を呼ぶ時に付けるらしい。

「これ、食べてみな」

 そう言って余暉が差しだしたのは、干した果実だった。

 食べたことはないが、屋台で売っているのを見たことがある。

 受け取っていいのか戸惑っていると、余暉は優しく私の頭を二度たたいた。

「子供がえんりよするな。前に市で見かけた時、食べたそうにしていただろう?」

 それはものめずらしくて見ていただけで、実は甘い物はそれほど得意ではないのだけれど。

(でも、せつかく買ってきてくれたんだし……)

 おずおずと、小さな赤い実を口に入れた。

 そのひかえ目な甘みは、甘い物が苦手な私がいくらでも食べられてしまいそうなほど美味おいしかった。

「おいしい……ありがとう余暉」

 もぐもぐと食べる私を、余暉がやわらかい笑顔で見守っている。

 その顔があまりにも幸せそうだから、いつもずかしくなってしまうのだ。

 余暉は不思議な人だ。

 優しいけれど、いつもどこかに悲しみを背負っている。

 家族とのえんうすいせいかもしれない。以前、そんなことを言っていたのを思い出す。

 だから、私の世話をするのが楽しいのだと───。

 気をつかって言ってくれた一言でも、私はその言葉にとても救われた。

 身寄りのいないこの世界で、余暉はまるで兄のように私に優しくしてくれた。

「じゃあな、仕事がんばれよ」

 そう言って、彼は仕事をしに花酔楼の中へと入って行った。

 その背中を見送って、そうを再開する。



 花酔楼での仕事は楽なものではない。

 朝はのぼる前に起き出し、水をんでお湯をかす。

 そして妓女たちのためにあさを準備して、それを片付けると今度は大量のせんたくものが待っている。

 妓楼の洗濯物はとにかく量が多く、しかもせんさいで破れやすい高価な着物がほとんどだ。

 なので十分に時間をかけて、しんちように洗わなければならない。

 大きなたらいで着物を洗っていると、スイッチ一つで済む全自動せんたくこいしくてたまらなかった。

 それでも毎日食べる物があって、雨風をしのげるどこがある。

 もしあの日余暉に拾われていなければ、私はのたれ死んでいたかもしれない。

 そう思うと、今はこの場所でいつしようけんめいやろうと思うのだ。

 一年間花酔楼に暮らして、この世界のことも少しずつわかってきた。

 この花酔楼があるのは、えいという国の首都、りゆうげん

 この国にはこうていという人がいて、その人が国を治めている。皇帝が暮らす城は花酔楼からほど近い場所にあって、へいの向こうにはそのいろの屋根がのぞいていた。

 花酔楼は格式高い妓楼で、お養母さんは皇帝のえんせきにはべったこともあるのだそうだ。

 今はしらでしわくしゃなお養母さんも、若いころは名の知れた妓女だったらしい。

 特にまいらしく、しゆえんには引く手あまただったとか。

 少しだけ、その頃のお養母さんが見てみたいと思う。






 妓女たちが休息をとる昼下がり。

 お養母さんは新しい妓女を仕込むために、売られてきた女の子たちに歌や楽器を教える。

 その教え方はようしやがなく、いつも中庭のしげみでは、だれかしら小さな女の子が泣いていた。

 少年だとちがわれているおかげでその苦行からのがれている私は、彼女たちを見るたびに居た堪れない気持ちになった。

 家を恋しがって泣く、まだ小さな子供。

 私には彼女たちの気持ちが、痛いほどよくわかった。

 私だって、あのなつかしい家に帰りたい。両親に会いたい。

 花酔楼の人間はみな、かくれて泣く彼女たちを当たり前のように受け入れている。ここにいる人間にとって、それは何度もり返された光景に過ぎないのだろう。

 私はついにまんできなくなって、泣いていた少女に声をけた。

「ねえ」

「……なあに、小鈴」

 小さな手でほおぬぐった少女の目には、しっとりとなみだまくが張っていた。

「お、おれが……きれい、してやるから……泣くな」

 まだこちらの言葉に慣れていないので、カタコトなのは許してほしい。

 私のぶっきらぼうな物言いに、少女はぱちくりと目を丸くした。

 おびえさせてしまっただろうかと心配になったが、彼女はぱっと花がいたように笑った。

「なにそれ。変なしゃべりかたぁ~」

 少女の甘い舌たらずな言葉に、私はほっとあんためいきをついた。

 彼女にちょっと待っていてと言い、急いで自分の寝床へ向かう。そしてそこに隠しておいたメイクボックスの中から、新品のしよう筆と一色だけのパレットを取り出した。

 発色のあざやかなピンクのライニングカラー。

 それを服のたもとに入れ、少女のもともどった。

 少女は私が戻ってくると、今度は照れくさそうな顔をした。

「小鈴、あせっちゃって変なの」

 そう言う彼女の顔を、戻るちゆうらした布でそっと拭う。目につくよごれをはらい、ついでに涙で熱くなったじりを冷やすためだ。

「これ、のせてろ」

 心地ここちいいのか、彼女は私の言う通りに上を向いた。

 そのすきに、化粧筆にピンクを取り、ミルク色の彼女の頰にのせる。

「くすぐったいよぅ」

 少女はもじもじと足をすり合わせた。

 笑いを我慢しているようなその様子からは、先ほどまでのそうな空気は感じられない。

 私はそれだけでうれしくなった。

 ライニングカラーはたいメイク用の着色料だ。

 まゆや目元、くちびるや頰など顔のどこにでも使えて、持ちがいい。

 またの名をカラードーランとも言う。芸能人がよく顔にっているあれだ。

 小さな頰に、一輪の花と二枚の花弁。

 そして風をイメージして一本の曲線を描く。

 学生時代からこういうのは割と得意で、たのまれてフェイクタトゥーを描くことも多かった。

 フェスなんかで、うでや顔に入れて楽しむあれだ。

「もう、いいよ」

 全体のバランスを見て、よしとうなずく。

 ピンク色の花はういういしくて少女によく似合っていた。

 化粧筆とパレットをしっかりとい込み、彼女の目元かられた布を外す。

「何したの? 小鈴」

ねえさん、かがみ……見る」

「分かった! 姐さんのところに行って、鏡を見せてもらえばいいのね?」

 少女ははしゃぎながら、転がるように建物の中に入って行った。

(喜んでくれるといいな……)

 そんな彼女を見送って、私は自分の本来の仕事に戻った。




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