第一章 目を覚ましたら、突然の中華_1
左右に延びる高い
座り込んでいるのは砂ぼこり
気が付けば、私は全く見覚えのない場所にいた。
(なんで? さっきまで自分の部屋にいたよね?)
実家を出て、最近引っ
美容専門学校を卒業して、私は運よくメイクアップアーティストのアシスタントが内定していた。それを祝って、友人の杉田と飲んだ帰りだった。
はしゃぎ過ぎて、電車は終電になっていた。それでも
しかし
時折、すぐ側を牛に引かれた荷車や馬が通り過ぎる。
(ひかれる!)
手にはなぜか、最近買ったばかりのメイクボックス。
中身も入っているのか、ずっしりと重い。
(なんでこんなものが?)
とにかく落ち着こうと、まずは
しかし一回
ただ頰がじんじんと痛むだけだ。
(いったぁ……夢なのになんで痛いの?)
自分を痛めつける私を、通り過ぎる人々が
私は恥ずかしくなってビンタをやめ、そんな人たちを観察した。
彼らの服装も、見慣れないものだ。
男性も女性も、見たことのない着物のような服を着ている。
(民族衣装っぽいけど、一体どこの? もっと情報がほしい)
辺りを見回すと、壁の一部が門になって開いているのが目についた。
駆け寄ると、その先にあったのは
高いビルなど一つもないその風景に、思わず息を
黒い瓦屋根と、それを支える赤い柱。そして屋根から垂れ下がる赤い
瓦の波を辿っていくと、視線はすぐに向こう側の壁へと行きつく。さっきも見た砂色の
半ば無意識で、門から延びる細い道を進んだ。
さっきの広い道とは
気づけば、視界が少し黄色く染まっていた。目がおかしくなったのかと思ったけれど、どうやらそれは違うらしい。ちくちくするので、何度も目をこする。すれ違う人の中にも、私と同じように目をこする人がいた。
(あ、これってもしかして……
春先になると、天気予報が伝える単語が
(私って、実は中国に旅行に行きたいとか思ってたのかな? だからこんな夢を見てる……とか?)
大分落ち着いてきたので、現状を
町は静かだった。
すれ違う人もそれほど多くない。
そんな時だ。道の向こうから、数人の男性が連れ立って歩いてきた。
その中に一人、長い
不思議なことに、彼女は男性たちと同じベルトで
男装の
(うわあ、
集団の中の一人がそれに気づいて、私に話しかけてきた。
「──────?」
(え? 何? なんて言ってるの?)
言葉が聞き取れない。やっぱりここは日本ではないのだ。
その言葉はなんとなく、中国語の
(やっぱりここは中国なの? 夢なら言葉ぐらい分かってもいいのに)
私が知っている中国語なんて、ニーハオとか、オーアイニーぐらいだ。
ニーハオはこんにちはだからまだいいとして、
「───?」
「──! ───!!」
言葉が全く理解できない。
しかし私があまりにも
どうしようかと困っていると、思わぬところから救いの手が差し伸べられる。
「───!」
彼女が
(この女の人、
彼女は少し考える
言葉も通じず
連れてこられたのは、立ち並ぶ家の内でも特に大きな建物だ。
間近で見ると、屋根の瓦すらも日本のものとは違っている。
門をくぐると、中にあったのは中庭だ。そこには池があり、小さなお堂が向かい合わせに立っていた。
(綺麗な庭……もしかして、休ませるために連れてきてくれた、とか?)
そう思って女性の様子を
そういえば、いつの間にか連れ立っていた男たちも姿を消している。
そしてそのおかげで、気付いたことがあった。
(あれ、もしかしてこの人、結構大きい?)
周囲を囲んでいた男たちがいなくなって初めて、私は彼女が自分よりも
(いくら私が平均より低いっていったって、この人女にしては高すぎない? まるでモデルみたい)
そう思いながら見つめていたら、ぽんぽんと頭を優しく叩かれた。
まるで、心配ないよとでも言うみたいに。
白くて指の長い、器用そうな手だ。少し節の目立つ、働き者の手だった。
彼女は私を連れて、更に庭の奥へと進んだ。
するとそれほど歩かないうちに、建物の
中を
(ということは、この世界の文字は漢字なのか)
私が知っているのとは
視線を
(誰だろう? この人のおばあちゃんかな?)
訳も分からずにいると、美女は
優しげな顔に似合わない、引き締まった筋肉質な
胸の中に、もやもやとした不安が浮かぶ。
老婆はまるで
そしてすぐに結論が出たのか、首を横に
なんとなく私のことで謝っているような気がしたので、私も
そして顔を上げると、その老婆はゾクッとするような
「
どこまでも続く
今では、彼女の言葉も少しは分かる。
といっても、まだまだ
「はい。お
ここで働く人間は全員、彼女をお養母さんと呼ぶ決まりだった。
返事には興味がないようで、お養母さんは
───あの日から、約一年。なんと、私はまだ
一年も
もしかしたら夢なんかじゃなくて、本当に見知らぬ世界に迷い込んでしまったのかもしれない。
安全で清潔な日本に帰りたいけれど、帰る方法も分からない。手がかりすらないのだ。
専門学校を卒業して十九歳だった私は、もう
けれどもここで暮らす人たちは、
なぜか。
それには色々と事情がある。
あの日
その名も
正直、それを知った時には自分も妓女になるのかと目の前が真っ暗になった。
しかし───。
「
呼ばれて振り向くと、そこには
彼こそ、私をこの妓楼へ連れてきた張本人。あの美人さんだ。
言葉が通じないので
余暉はこの花酔楼に髪を
この世界の女性はみんな
だから妓楼が沢山あるこの辺りには、彼のような髪結師が沢山いるのだ。
あの日彼と一緒にいた男連中も、髪結師だったと後で聞かされた。
とにかく彼は、ショートカットの私をまさか女とは思わず、老婆には男として紹介した。
おかげで、妓女にならずに済んだということだ。
多少心苦しくはあったが、私は余暉の勘違いを
その代わりに下働きとして、ハードな毎日を送っている。
小鈴というのも、余暉のつけてくれたあだ名だ。
一年前の私は、言葉が通じず自分の名前すらも伝えることができなかった。だから砂の上に木の枝で『鈴音』と書き、彼に名前を伝えた。
次の日から、余暉は私のことを小鈴と呼ぶようになった。
『小』というのは日本語にすると『ちゃん』みたいなもので、この世界では親しい相手の名前を呼ぶ時に付けるらしい。
「これ、食べてみな」
そう言って余暉が差しだしたのは、干した果実だった。
食べたことはないが、屋台で売っているのを見たことがある。
受け取っていいのか戸惑っていると、余暉は優しく私の頭を二度
「子供が
それは
(でも、
おずおずと、小さな赤い実を口に入れた。
その
「おいしい……ありがとう余暉」
もぐもぐと食べる私を、余暉が
その顔があまりにも幸せそうだから、いつも
余暉は不思議な人だ。
優しいけれど、いつもどこかに悲しみを背負っている。
家族との
だから、私の世話をするのが楽しいのだと───。
気を
身寄りのいないこの世界で、余暉はまるで兄のように私に優しくしてくれた。
「じゃあな、仕事がんばれよ」
そう言って、彼は仕事をしに花酔楼の中へと入って行った。
その背中を見送って、
花酔楼での仕事は楽なものではない。
朝は
そして妓女たちのために
妓楼の洗濯物はとにかく量が多く、しかも
なので十分に時間をかけて、
大きなたらいで着物を洗っていると、スイッチ一つで済む全自動
それでも毎日食べる物があって、雨風を
もしあの日余暉に拾われていなければ、私はのたれ死んでいたかもしれない。
そう思うと、今はこの場所で
一年間花酔楼に暮らして、この世界のことも少しずつわかってきた。
この花酔楼があるのは、
この国には
花酔楼は格式高い妓楼で、お養母さんは皇帝の
今は
特に
少しだけ、その頃のお養母さんが見てみたいと思う。
妓女たちが休息をとる昼下がり。
お養母さんは新しい妓女を仕込むために、売られてきた女の子たちに歌や楽器を教える。
その教え方は
少年だと
家を恋しがって泣く、まだ小さな子供。
私には彼女たちの気持ちが、痛いほどよくわかった。
私だって、あの
花酔楼の人間はみな、
私はついに
「ねえ」
「……なあに、小鈴」
小さな手で
「お、おれが……きれい、してやるから……泣くな」
まだこちらの言葉に慣れていないので、カタコトなのは許してほしい。
私のぶっきらぼうな物言いに、少女はぱちくりと目を丸くした。
「なにそれ。変なしゃべりかたぁ~」
少女の甘い舌たらずな言葉に、私はほっと
彼女にちょっと待っていてと言い、急いで自分の寝床へ向かう。そしてそこに隠しておいたメイクボックスの中から、新品の
発色の
それを服の
少女は私が戻ってくると、今度は照れくさそうな顔をした。
「小鈴、
そう言う彼女の顔を、戻る
「これ、のせてろ」
その
「くすぐったいよぅ」
少女はもじもじと足をすり合わせた。
笑いを我慢しているようなその様子からは、先ほどまでの
私はそれだけで
ライニングカラーは
またの名をカラードーランとも言う。芸能人がよく顔に
小さな頰に、一輪の花と二枚の花弁。
そして風をイメージして一本の曲線を描く。
学生時代からこういうのは割と得意で、
フェスなんかで、
「もう、いいよ」
全体のバランスを見て、よしと
ピンク色の花は
化粧筆とパレットをしっかりと
「何したの? 小鈴」
「
「分かった! 姐さんのところに行って、鏡を見せてもらえばいいのね?」
少女ははしゃぎながら、転がるように建物の中に入って行った。
(喜んでくれるといいな……)
そんな彼女を見送って、私は自分の本来の仕事に戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます