07. 笑顔

     03:02 p.m.


 体の調子は良好で、吉明は問題なく午後の授業を受け終えた。


「体育の時に倒れたって聞いたが、もう大丈夫そうか?」

「はい。もう平気です」


 担任の男性教師に問われて吉明は答える。そこへ。


「心配しないで先生。私がしっかり家まで送るから!」


 言いながら岩崎は笑って背中を叩く。普段通りの姿に戻ったように見えた。


「岩崎なら安心だ。橋本、お大事にな」


 労りの言葉を残して、担任は教室を後にした。


「じゃ、帰ろっか」


 岩崎は言うやいなや、吉明の手を引いて歩き出す。

 吉明は驚き、教室に残っていたクラスメイトたちも怪訝な顔を露わにする。

 思わず小声で尋ねていた。


「周りからどう見られるのか、分かってるのか?」


 対して岩崎は、一度立ち止まり、声を抑えず返答をする。

 この場にいる全員にアピールするように。確認を取るように。


「私は信じてる。この教室には、クラスメイトに酷いことをする人なんていないよ。でしょ?」


 それだけ言って、岩崎は再び歩き出した。

 吉明は腕を引かれて教室を出る。

 放たれた言葉がどれだけの効果を生むだろうか。何人のクラスメイトが影響を受けるのだろうか。それは明日にならなければ分からない。


 けれど。

 吉明は、岩崎に秘める優しい気遣いを信じることにした。



     03:15 p.m.


 何も変わりはしない帰り道。

 しかし、明確な違いがあることを並んで歩く二人は知っている。校門を過ぎてから五分以上は会話をしていない。明らかに互いを意識していた。

 そこで吉明はふと理解する。教室を出るまでは普段通りの姿に戻ったように見えたが、それは間違いだったのかもしれない。空元気は続かなかったのか、覗く横顔はしおらしく不安そうなものだった。

 意を決して、吉明は口を開く。


「保健室で言ってたこと、覚えてる?」

「…………覚えてるよ」

「なら、どうして俺なんかを?」


 岩崎の優しさを信じると決めた。けれど変わったことはそれだけである。

 他人を信じることと、自分を信じることは、似て非なるものだ。

 これまでを後ろ向きに生きてきた。それを簡単に変えられるなら今の吉明は存在していない。自分に自信を持てないからこそ、その疑問は生まれている。

 けれど。


「……その理由を、言わせたいの?」

「知りたいんだ。どうしても」


 信頼できる岩崎の理由を知ることができたなら、引っ込み思案では得られないものを見つけられるかもしれない。

 吉明は目を合わせ続ける。

 気持ちが伝わったのか、それとも観念したのか、岩崎は溜め息を吐いた。

 表情が切り替わる。まるで昔を懐かしむように彼女は話し出す。


「出会ってすぐの頃はね、馬鹿な奴だなって思ってた。言いたいことがあれば言えばいいのに、黙り込んじゃう弱っちい奴だって。やられっぱなしなのに、橋本君は何もしなかったよね」


 事実、虐めっ子を相手に対抗できなかった吉明は頷いた。


「だけど、逃げたりもしなかった。同じようにやり返そうともしなかった。誰かに助けを求めなくても、独りで全部受け止めてた」


 澄んだ瞳が優しげに理解を示す。


「――戦ってたんだよね。ずっと」


 吉明は完全に声を失っていた。

 涙腺が緩んでいることに自分では気づけない。

 岩崎がそれを柔らかく拭い取った。彼女の口の端に笑みが浮かぶ。


「馬鹿な奴だなって思って。不器用な人だなって感じて。なぜだか放っておけなくて。助けたくなって。気づいたら、好きになってた。……私の理由なんて、そんなものだよ」


 吉明は、心が溢れそうになる。

 どこから手を付ければ良いのか分からず、手近なところを指摘した。


「気づいたら好きって……いいのかよ、それで?」

「おかしいかな。でもこんなものじゃない? いつの間にか友達になってる、みたいな感じでさ」

「そういうものなのか?」

「私が好きだって思うから。この気持ちは、好きでいいの」


 岩崎は断言する。

 それはきっと、心からの想いだった。

 その姿が眩しくて息を忘れていた。吉明が記憶している彼女はいつだって自分の気持ちに素直な女の子だった。

 誰もが自分を中心に行動している。好きか嫌いかで分けることはその最たる行為である。身勝手な理由で、確かな根拠もなく、物事を判断する。

 それゆえに、偽りのない純粋な想いは心を強く揺り動かすのだ。

 揺れる感情はどこへと向かうのか。

 遠くなるのか。近くなるのか。

 踏み込むべきなのか。踏み込んで――良いのだろうか。

 その迷いが顔に出てしまった。


「あ、すぐ答えが欲しいとかじゃなくて。急がないから、少しだけでも考えてくれると嬉しい……かな」


 控えめな笑顔が空気を変えようとする。吉明は慌てて岩崎を止めた。


「待って、それだけは駄目だ。貰ってばかりじゃ――遥佳に何も返せなくなる」


 下の名前を呼ばれた岩崎は、驚いて、確認するように吉明を見つめた。

 咄嗟のことだった。だからこそ、飾りのない本心が飛び出したのだろう。それだけは揺るがないものだった。偽れない願いだった。

 言葉が本物であれば、迷う必要はない。

 吉明の覚悟が決まる。自分のことのように心配をしてくれる女の子のために。

 口にした内容に責任を持つために、言葉を撤回することなく反応を待つ。

 その一方で、岩崎は納得がいかないような顔をしていた。


「いきなり名前を呼び捨てなんて、生意気じゃない? ――吉明君」

「そっか……。じゃあ今まで通り苗字で呼」

「名前で呼びなさい」

「分かりました遥佳さん」

「よろしいっ」


 名前を呼ばれて、岩崎は笑った。

 その表情を見れたことが嬉しくて、吉明も笑った。

 心から笑うことができた。

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