06. 一歩

     11:54 a.m.


 五分にも満たない濃密な時間が過ぎ去った。

 吉明の胸中には、まだ整理の及ばない感情が溢れている。

 綯交ないまぜになった気持ちの正体は、どのような名が付くものなのか。


「ぼーっとしてないで、話はちゃんと聞いて欲しいなあ」

「……あ、すいません」

「で、触った部分で痛むところはあった? 今の反応じゃなさそうだけど」

「はい。大丈夫です」


 意識を取り戻した吉明のために、先生は触診を行っていた。


「倒れた時、床に頭を打ちつけたかもって体育の先生が心配してたわ。だけど問題ないみたい。二の腕がクッションの代わりになったのかも……。頬の腫れは一日二日で消えると思う。けど念のために昼休みの間は安静にしててね」


 改めてベッドで横になる。

 診察結果を受けても、吉明はどこか上の空だった。

 事務的な対応を終えた保健の先生は、ここぞとばかりに口を開く。


「わたしが給食を貰いに行っている間に、楽しいことが起こってたみたいだね」


 吉明は噎せた。反応は顕著だった。


「どこから聞いてたんですか」

「詳しく説明して欲しい?」 

「……遠慮しときます」


 先程の状況を懇切丁寧に並べられては、今の吉明には逃げ場がない。

 どの道、逃げるわけにはいかないのだが。

 それは近くで聞いていた先生も思っているようだった。


「わたしが給食を受け取りに行く時、廊下であの子と擦れ違ったんだけどね。廊下は走っちゃ駄目よって注意したの。でも無視されちゃった。その理由は君だったんだね」


 確かに保健室に入ってきた岩崎の息は上がっていた。

 どうして急いだのか、そのわけも、今の吉明は理解できている。


「大人が出しゃばる場面じゃないかもしれないけど、ちゃんと答えてあげないと駄目だよ」


 おそらくは、先生としてではなく、一人の女性としての意見。

 吉明も心の奥では同じ気持ちだった。


「じゃあわたしはお昼頂いてるから、何かあったら気軽に呼んでね」


 少し離れた机で先生は給食を食べ始める。

 吉明は天井を見上げながら、心の整理をしていた。

 けれど、すぐには方針を決められない。

 そのためには確認しなければいけないことがあった。



     12:03 p.m.


 保健室のドアを控えめに叩く音がした。

 自分の机で給食を食べていた先生が呼びかけると、彼女はゆっくり入ってくる。


「給食、持ってきた」


 岩崎だった。

 数分前とは打って変わってしおらしい表情を浮かべていた。

 先生が応対する。


「わざわざありがとう。そこのテーブルに置いてもらえる?」


 給食のトレイを指された場所に運ぶと、岩崎は先生の方を向いた。

 吉明とは目を合わせようとしない。


「体の調子は大丈夫なんですか?」

「今のところ問題はないわ。昼休みが終わったら午後の授業に出てもらって、それで異常がないなら安心ってところかしら」

「なら、いいんですけど」


 岩崎の様子はぎこちないものだった。言葉数は少なく覇気がない。普段の姿とは違うものだ。先程行われたやり取りを引きずっているのだろう。

 だとしても、彼女は食事を届けるためにここへ来た。今顔を合わせれば気不味いはずの相手のことを気遣って。

 その優しさを、吉明は信じたい。


「じゃ、私は教室で食べるから」


 平静であれば押しの強い岩崎が、逃げるように呟いた。

 その頼りのない背中が廊下へ消えてしまう前に。


「今日、一緒に帰ろう」


 その提案を口にする。

 吉明と岩崎は、一緒に登下校をすることこそ多かったが、事前に約束をして取り決めたことは一度もなかった。

 だからこそ吉明は、自分の意思で、それを言葉に変える。

 一歩を踏み出す。少しでも進むために。

 岩崎は振り返らない。ただ、返ってくる声が聞こえた。


「絶対だよ?」

「うん」

「絶対だからね」

「勿論」

「破ったら絶交する」

「大丈夫。今日だけは一緒がいいんだ」

「――――」


 何かを噛み締めるような沈黙があった。

 程なくして、岩崎は言う。


「約束だから」

「ああ、約束する」


 だから、吉明も言った。

 短いやり取りを経て、岩崎は保健室を出ていく。

 決して破ることのできない約束ができた。


「頑張ったじゃん」


 茶化すようなの声が室内から届く。

 すっかり先生の存在を忘れていた吉明は、今一度ベッドの上で縮こまった。

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