08. 指針

     After Route


 岩崎と寄り添って過ごした日々の経験は、掛け替えのない財産となっている。

 互いの名前を呼び合うようになった次の日に、吉明は彼女との関係性を改めて言葉に置き変えた。想いはすでに確かなものと知っていた。その時から、二人の交際は正式にスタートしたのだ。

 そこに至るまでに三年以上の関わりがある。吉明と岩崎はそれなりに相手のことを分かっているつもりだった。それでも付き合う中で新たに発見したことは多い。見え隠れする相手の気持ちや浮き彫りになる自分の側面、誤解や喧嘩を交えながら、二人の交際は四年を越えた。

 中学校を卒業するまでの間、周囲からの風当たりが改善されることはなかった。だが、大きく悪化することもなかった。岩崎との交際はクラスメイトとの関係に大きな影響を与えるだろう、と吉明は覚悟していたが、その心配は徒労に終わったのだ。


 ――私は信じてる。この教室には、クラスメイトに酷いことをする人なんていないよ。でしょ?


 岩崎の言葉は一定以上の効果を示したのである。

 救われた吉明の感謝と想いは覆らないものになっていた。

 高校二年生となり進路を意識するようになった頃、二人は同じ大学を目指すことに決める。

 一年生の時、岩崎はクラスメイトに誘われ陸上部へと入部していた。決して悪くなかった運動能力は練習によって鍛えられ、真価を発揮するに至り、県大会の短距離走の部門にて入賞まで果たしている。その功績の代償として勉強を疎かにしてきた彼女は積極的に吉明を頼ることになった。

 長い時間支えられてきた吉明はようやく実のある恩返しができたのである。岩崎は元々呑み込みが早く、高い集中力も兼ね備えていた。スイッチさえ入れば真剣に取り組むことができる。一般公募推薦入試を受け、彼女は合格した。吉明もまた、指定校推薦入試を受け、合格していた。同じ大学へ通うことは決まったも同然だった。

 あるいはその先、続いていく未来を、二人は歩いていけるような気がしていた。


 岩崎の父親が事故死するまでは。


 辛くないわけがなかった。苦しくないわけがなかった。

 それでも、岩崎が弱音を吐いたのは一度だけだった。事実を受け止めたその日、夜中泣き通して、翌日泣き腫らした顔を合わせるなり吉明に抱き着いた、その時だけだった。

 葬儀から一週間もしないうちに、岩崎は吉明に告げた。

 何度も謝りながら、身を切るような声で。


 家族のために働きに出ると言う。

 自らの足だけで、立てるようになりたいと言う。

 だから、同じ大学へ行くことは、できない、と言う。


 岩崎の気持ちは岩崎だけのものである。どういう心境の果てにその結論へ辿り着いたのか、誰に推し量ることができるだろう。

 どうすることが最善であるのか、吉明の中に答えはなかった。だからこそ、素直に浮かんだ気持ちを優先することにした。

 そうして。

 二人は別れることになった。

 誰もいない隣を意識する。ふとした瞬間に思い出が甦る。忘れることができないのは、本当に忘れてしまいたいわけではないからであると悟る。

 だとして、吉明は選んだ道が間違いだとも思っていなかった。

 否定できるはずがない。

 真っ直ぐ大切なもののために生きる。

 その在り方こそが、岩崎らしい生き方なのだから。

 この在り方にこそ、心を救われ、惹かれたのだから。

 吉明はそれを知っている。



     22:19 p.m.


 荷物整理の作業は、いつの間にか思い出を振り返る時間に変わっていた。

 吉明は大学への入学を期に一人暮らしを始めようとしている。その初日である今日、新居となるアパートへの引越しは夕方に完了した。今頃はダンボールに詰め込んだ物品の仕分けを終わらせているはずだった。

 しかしそれが脱線してしまった。小さな家具の配置に悩み、見当たらない物があることに焦り、探す途中で手にした品を見て昔を懐かしんでいる。

 気が散っていたことを、吉明はようやく自覚した。

 時計はすでに二十二時を回っている。両腕を上に伸ばすと、柔らかな微睡みが意識を鈍らせていく感覚があった。風呂を浴びる時間を勘定に含めれば頃合だろう。そう思い吉明は作業を翌日に持ち越すことにした。

 立ち上がろうとする――その前に、テーブルに広げられた一冊のそれに目を向ける。


 大切に。心の中深くに仕舞うように。

 吉明は中学校の卒業記念アルバムを閉じた。



 人間個人の世界はどうしようもなく閉じている。

 自身が持つ価値観や固定概念に支配されている。

 容易に他者を理解することはできず、違いを受け入れるには時間が必要になってしまう。

 昔の吉明が岩崎に対してそうであったように。

 けれど、彼女は信じている。

 心の底から願い、誰かのために生きることはできるのだと。

 そう信じ行うことで、初めてそれは誰かにとっての光になる。


 あるいは、そういった我が儘な純粋さこそを、優しさと呼ぶのかもしれない。

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