ゆめ、まこと
美冷 秋雨
さくら
或る、満月の夜。
縁側にあぐらをかいて座っていると、隣に座り私の肩に頭をのせていた女が、物静かな声で「もう
「私、もうすぐ死ぬのよ」
女は黒い艶のある髪を左肩の前に束ね、弱々しく、されどはっきりとした様子で云った。ぷっくりとした薄紅色の小さい唇や、頬から滲み出る彼女の温かみからは、死の気配は全く感じなかった。だが今まで連れ添ってこのような冗談を、この女は云った事が無かった。戸惑いを隠しきれず「本当にもう死んでしまうのか」と聞く。
「えぇ、死ぬの私。多分、そういう運命なのかしらね」
長い
女は顔を見上げ、えぇとても。と目を細める。その姿を見ると胸と目頭のあたりが熱くなる。必死に涙を堪える私の姿を見て女は云った。
「私が死んだら家の庭に埋めて下さい。ちょうどあそこに。桜の苗を植えたの」指をさした。
桜の木?
「えぇ、あなた、私がいなくなったらとても寂しがるでしょう? だって、今でさえこんなに頬を濡らしているもの」
頭が回らず、彼女の云っている意味が分からなかった。だがそれを聞くことは出来なかった。もう、彼女のいなくなった後のことなど考えたくはなかった。私は俯いた。
「あと幾数日で桜の芽が出ます。あれは私の故郷で私の生まれた時、祖父母から貰いました。私の故郷には、人の魂は物に宿るという云い伝えがあります。大丈夫、私はどこにも行きませんよ」
涙が止まらなかった。これ以上泣き顔を見せたくない。何も云えず私は歩いた。
女を縁側に座らせ、私は土を掘った。その朝には桜の苗は既に顔を覗かせていた。根と苗を傷つけぬよう丁寧に鍬を落とす。池には日が浮かび、沈み切らなかった大量の光を顔に浴びた。湿った土の匂いと汗の匂いとが鼻腔を刺激する。暫くして頃合いの穴が掘れた。私は女を光の届かぬ虚空へ落した。あれから頭が回らない。恐ろしいものを覆い隠すように土をかけた。涙を落としながら。
それからどれだけ時が経っただろうか。目が覚めて桜の花を見るとき以外、ずっと薄暗く生暖かい曇天の中を歩いている気がした。いつも夢に出るあの満月の夜には雨が降っていた。....しかし、ようよう桜花が散り終わる頃、その日の朝は違っていた。目覚めるとすぐ目に入る桜の木が何処にも無く、霧が晴れた様に思考がはっきりとした。頭の中の泥が落ちるにつれ、今までのことは夢なのだと考えるようになった。夢の中で桜の木が立っていた場所には私の愛する女が立っていた。私を待つように。そうだ、今日は久しぶりに二人で遠出する日じゃないか。遅れたことを詫び、手を繋ぎ歩き出した。―それは、とても穏やかな日だった。
ゆめ、まこと 美冷 秋雨 @akishigure
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