間奏
駅前で軽く昼餉にしてから、約束の時刻までまだ時間があったので、彼女に会いに行くことにした。地下に入った瞬間、暗闇に目が眩むが、それでも足を止めずに階段を降りられるようになっていた。それは、彼女が真っ暗闇の中で、手の感覚だけで三つ編みを編むのと同じだった。半階ほど降りたところで、漸く携帯電話のライトをつける。彼女を直接照らさずとも、反射の光で浮かぶ彼女の肌が好きだった。彼女は強い光を嫌ったが、それぐらいの灯りなら妥協してくれた。
「あら、いらっしゃい」
足音を聞きつけたのだろう、俺が何か言う前に彼女がそう声を発し、空気を揺らした。彼女は三つ編みを編んでいた。彼女の紡ぐ縄は、充分に太くなりつつあった。しかし、彼女はまだ編むことをやめなかった。中途半端に急いて切れてしまったら、また初めから編むのに十数年かかる。彼女は以前そう話してくれた。自分の体重を支えられるだけの信頼を確信できないと、死ねないと。俺は、死ぬのが怖くて延ばしているだけじゃないのかと茶化した。彼女は怒りも笑いもせず、言った。
「怖くはないけれど、悲しくはあるわね」
「君はどうなんだ」
俺は挨拶もそこそこに、そう言った。牢の格子に手を掛けて、彼女のいる辺りを見つめた。
「生まれた喜びと死ぬ悲しみ、どちらが大きいと思う」
「そうね」
彼女はまるで、今はじめて考えた、というように髪を掻き上げ、手を止めた。彼女の膝に掛かる縄は、彼女の生の結晶だった。
「それが分からないから死んでみたい、というのもひとつあるわ」
私は死を知らないの——と、彼女は寂し気に笑った。
「あなたは、死を知っている?」
「幼いころに、祖父が死んだ」
それ以外は、虫を殺した、食い物を殺した、植物を枯らした、あとは。
「母がもうじき死ぬ」
そんなものだ。
「そう。悲しい?」
どうだろう。
「祖父の記憶は、あまり、ない。だから、悲しくはなかったけれど、生前の喜びも知らないな。母は、まだ分からないというのが正直なところだ。生きているから」
「そう」
彼女はまた手を動かし始めた。その彼女に、俺は何の気なしに訊いた。
「死にたい?」
「死にたいわ」
「そう」
沈黙が続いた。俺は携帯の時刻を見た。そろそろ出てもいい頃だ。待ち合わせの前に、買い物でもしようと思ったら。
「ピアノ線でも買ってきてあげようか」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「どうして」
「どうしてって……」
「だって、今まで一度も」
彼女は狼狽していた。それは余りにも珍しく、俺は彼女から目を離せなかった。
「今まで一度も、手伝ってくれたことなんてなかったじゃない」
「そうだね」
「どうして」
彼女は答えを求めていた。
生まれた喜びと死ぬ悲しみ。生きる意味。死なない理由。何も言わなかった俺が唐突に、彼女の自殺を応援し始めた心。
でも、ごめん。特に理由なんてない。
「君が俺の買ってきたピアノ線で死んだらさ、その縄、俺に使わせてよ」
「使うって」
「俺は、それで死ぬから」
「どうして」
「え、駄目?」
「あなた、死にたいの」
「死にたいっていうか」
俺は考える素振りをする。
「君が死んだら俺も死んで、世界の均衡が保たれるんじゃないかと思って」
彼女は、ちょっと分からないというように首を傾げた。
「別に、君に死んでほしいわけじゃないんだ」
俺は彼女から目を逸らして、そう言った。彼女と目を合わしたままこれを話すのは恥ずかしかった。
「でも、君、死ぬんだろう」
「死ぬわ」
「俺が止めても?」
「死ぬでしょうね」
「十数年間、俺は君の自殺を見てきた。そして、何もしなかった。手伝いもしなかった。それは、人が死ぬっていうのはどういうことか分かっていなかったから。君が死ぬっていうのがどういうことか分かっていなかったから。君が死ぬのはもっとずっと先のことだと思っていたから。君が死ぬのを早めたくはなかったから。でも、君は死ぬんだろう」
「死ぬわ。申し訳ないけど」
「申し訳ないなんて思わなくていい。君が死ぬのに俺は何も加担できなかった。君の人生に、俺はいない」
だから、こんなのは狡いって分かっているけど。
「君が俺のいない間に、死んでしまうなんて嫌だ。俺の目の前で死んでほしい。そのとき、俺も一緒に死んじゃ駄目かな」
彼女は、笑った。
声を上げて笑った。
泣き声を上げて笑った。
「今更ね」
笑いを収めて、言う。
「いいわ。この縄も、首吊りには少し不安だけれど、それでも絞めることならできると思うの。ピアノ線、あなたが買ってくるまで待っていてあげる」
俺は微笑んだ。
「ありがとう」
「好きよ」
彼女がそう言った。
俺は思わず彼女にライトを向けた。
彼女は恥ずかしそうに顔を覆ったが、指の隙間から目だけ覗かせて、俺らは視線でキスをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます