時の流れを足して絶対値

 温いシャワーを浴び、届け物を持って家を出る。家を出る直前に、他人と食事をするに充分であろう金額を財布に補充する。相手は社会人だ、それなりの店に連れていかれるかもしれない。同い年としては俺もそれなりの付き合いをすべきであろう。見栄を張りたいという本音を差し置いたとしても。

 さっき乗った電車を逆走し、さっき歩いた街を歩く。景観都市。緑。平和。そこに聳える一本の直線的なビル——俺はこっちの方が好きだったりする。ひと昔前は、こんなビルが街中を覆い、さながら針山のようだったそうだ。俺は写真でしか見たことがない、灰色都市。ビル風。ゲリラ豪雨。空気の澱み、日照権。それらの社会問題が、センチメンタリズムを誘う。戦争がロマンスの題材になるように、FPSが娯楽になるように。

 その頃のトウキョウを、一度でいいから歩いてみたかった。

 父のオフィスはそのビルの最上階にある。いちばん空に近い場所、父はそこから毎日空を眺めている。たまに空へ出張もする。だからこそ、この針だけここに刺さっていることが未だに許されている。グランドフロアの受付を、顔パスで通れるようになってから久しい。会釈をして、会釈をされて、エレベーターに乗り、上へ。一番右端のエレベーターが、直送なのでそれを選ぶ。長いエレベーターは高速で俺を運ぶが、重力加速度が限りなく少なくなるように設計されている。辿り着くのは三十三階。一階に比べて狭い床面積に、少人数が集い、そして全てを動かす、脳味噌に当たる部分。俺はここに勤める父に誇りを持っている。

 いるのは見知った人たちばかりだった。いつもいる、父の同僚であり、そして世界のトップ。机の島を縫って父に近付くと、父は顔を上げ、顔を綻ばせた。

「ありがとう。いつも悪いね」

「悪いねって言うなら忘れないように気を付けなよ」

 そう言う俺に父は豪快に笑って、そうだ、と思い出したように言った。

「今からちょっとだけ宇宙に行くんだが、どうだ、一緒に来ないか」

 流石に焦った。

「民間人が、そんなに軽々しく一緒にって……行っていいところじゃないでしょう。安全とか、経費とか」

「経費は国が出す。これも経験だ。お前もいずれここに来るなら」

 父は、いつか俺が父と働くことを勧めていた。

「いい経験になる。ここに来ないとしても、だとしたら余計、一生できないかもしれない体験をしておくことができる」

「七光り、ってやつじゃないのか、それ」

「使えるものは使いなさい。七光りでもなんでも。そういうものだよ。私だって祖父ちゃんのお蔭でここで働いているようなものだし、だったらお前は就職先を見つけなさいという話になる。違うかい?」

 それを言われたらぐうの音も出ない。俺は父に同行することを了解した。父は続けた。

「お前が今生まれて生きているのも、言うならば私と母さんの七光りなんだよ」

 それは違うんじゃないだろうか。

 親の権威を利用して、楽に生きる。楽に地位と権利を獲得し、人望を世襲し、しかしそれらは全て生きるための話、生まれてからの話なのではないだろうか。

「生まれた喜びと死ぬ悲しみ、どっちが大きいと思う」

 その問いは、口を突いて出ていた。父は大して疑問も熟考も挟まず答えた。

「お前が生まれたとき嬉しかった。しかし、生まれたときの喜びに、二十五年間お前と創り上げた喜びを足してマイナスを掛けたのが死ぬ悲しみなら、絶対値は死ぬ瞬間の方が大きいだろうね」

 宇宙から見た地球は美しかった。漆黒に切り離された青い球体に、母も父も友人も地下牢の彼女も含まれているというのは神秘的だった。しかし、そこに自分も含まれていると思うと嘔気が喉を襲った。折角綺麗な世界の偏差値を下げているのが俺のような人間だ。しかしそれで丁度良いのかもしれない。俺のような人間ばかりだったらきっと地球は真っ黒だ。彼女のような人間ばかりだったらきっと地球は真っ白だ。何も見えやしない。地下で育った彼女は、それでも俺が携帯電話の画面を点けると俺の目をはっきりと見た。色という概念と、光という概念と、外界についてのいくつかの知識を持っていた。真っ黒な牢では、彼女の肌がぼんやりと浮かび上がって幻想的だった。真っ白な世界では、彼女もそうでないものも区別がつかないだろう。俺のような人間がいて、それでこの世界は成り立っている。

 父が仕事をしている間、俺はただ地球を見つめていた。飽きなかった。妙な既視感があった。地球を外から見たのは初めてだった。もちろん映像や写真では見たことがあったが、この目で見るのは初めてだった。しかし何となく既視感があった。父が、そろそろ帰るよと俺に声を掛けるまで、どれくらいの時間が経ったのか把握していない。しかし俺がその既視感の正体に気付いたのは、父に返事をするために窓から目を離す直前だった。地球の美しさは、彼女の美しさと同質なものだった。それと同じ美しさを、俺は彼女以外見たことが無かった。美しいか醜いかではなく、色とか質感とか好みとかでなく、美しさのベクトルが同じだった。だからたぶん、彼女は地球なのだろうと思った。

 帰路の中で、父は美しかったろうと言った。俺は頷いた。父は、この職に就けば何度でも見られると言った。それには少し惹かれた。

「でも、父さんはそんなに地球を見ていなかったね」

 地球を見ていたら仕事が手につかないのではないかと思った。

「まあ、慣れてしまったね」

 父は地球に近付きながら、笑った。このまま地面に衝突して死んでもいいのではないかと俺はぼんやりと考えながら、しかし飛行船がしっかりとビルの最上部に接触するのを俺は窓から見ていた。体への負荷は小さかった。これならばエレベーターの振動を減らすぐらい造作ないと感心した。そして、彼女の美しさには、十数年未だに慣れないけれど、慣れてしまうのは面白くないから、俺はここでは働けないと思った。

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