生まれてから死ぬまでの間
湿気の籠った地下から出ると、外はすっかり日が昇っていて、俺は眉間に皺を寄せた。結局一睡もしなかった。今日は人に会う約束があった筈だ。高校のときの友人が、珍しく帰省するので会おうというのだ。
しかしそれは午後の予定。それまで何をするか。家に帰ってシャワーでも浴びた方がいいだろう、とそこで俺は漸く足を動かした。駅。駅へ行かなければならない。駅はどっちだったっけ。頭が働かない。あの暗く酸素の薄い、生きた感覚の薄い地下牢へ行くと、いつもこの感覚に脅かされる。ひょっとしたら彼女は幽霊で、俺の生気を吸い取って現世に留まっているのかもしれなかった。だとしたら別に俺はそれで構わないと思った。結局俺も、似たようなものだった。しかし彼女はものを食べるし、唇が温かい。彼女が幽霊ではないことを俺は知っている。
地下から上がって、緑溢れる長閑な地上を渡り、そしてまた地下に降りる。面倒だ。いっそ地下で繋げてくれればいいのに。いや、そうしたら彼女が多くの人間に見つかってしまう。そもそも俺が彼女を見つけたきっかけが、地下鉄への入り口を間違えたからだった。七歳、初めて独りで電車に乗って、父の職場に忘れ物を届けた帰り、黄昏時、彼女はやはり糸を紡いでいた。今と同じ、生まれたままの姿で、床から天井まで空間を仕切る鉄格子の向こうで、糸を編んでいた。正確な歳は分からないが、俺より少し年下で、今と同じ黒髪をしていた。俺が携帯電話で点けた灯りを、眩しいから消して頂戴と大人びた口調で牽制し、しかし晒された素肌を恥ずかしがることもなく、隠すこともなく、延々と糸を編んでいた。
それから俺は、父の職場を訪れる度に彼女の牢に寄った。父の職場に用事が無くても、暇だったり、夜眠れなかったりすればここに来た。彼女がものを食べているのか、ものを排泄しているのか、寝ているのか、運動はしているのか、疲れたり病気になったりはしないのか、俺の他に誰かと会うことはあるのか、そういうことはついぞ訊いたことがなかった。彼女はいつもそこにいて、いらっしゃいと微笑み、そして手を動かし続けた。俺が大きくなるとともに、彼女も成長はした。俺が二十歳になった次の年の、俺が初めて彼女と出会った日には、成人記念に誕生日ケーキを贈った。彼女は目を細めて手を合わせ、鉄格子の際まで寄って、口にクリームをつけながらそれをさも美味しそうに頬張った。彼女がものを食べるのを見るのはそれが初めてだった。君もものを食べるんだなと言うと、彼女は黙ったまま寂し気に笑ったので、俺はそれ以上訊かなかった。彼女をそんなに近くで見るのも初めてだった。彼女は牢の奥の壁に凭れていることが多かったから。鉄格子の間隔は大人になった俺の腕を通す余裕がある程度には広く、俺はそれをすり抜けて彼女の頬に触れた。彼女に触れられることもそのとき初めて知った。彼女は少し驚いたような顔をしたが、脇にケーキを静かに置くと、格子に体を寄せた。俺は彼女の髪を撫で、それから両手で彼女の顔をこちらに寄せ、唇にキスをした。彼女に触れたのは、今までの中ではそれが最初で最後だった。
地下鉄に乗って家の最寄り駅まで行く。自宅は、そこから歩いて五分だった。大仰な門を開け、家に入ると、女中がぱたぱたと出てきて母が心配していたと告げた。申し訳ないとは思うが、成人した息子の毎度の夜歩きでそんなに心を乱さないで欲しいとも思う。恐らく母はそこまで深刻に捉えていない。心配はすれど、それは日中の外出と同じ程度の心配だ。不必要に大騒ぎするのはこの女中。取り敢えず母の自室に向かい、声を掛け、無事を知らせる。寝たきりの母は、それでも今日は顔色良く、ベッドから半身を起こしていた。
母は、父に届け物をしてほしいと、テーブルの上の小包を指した。いつもの浅葱色の風呂敷、成程これが無ければ父は無重力空間で苦労するだろう。しかし無くても何とかなってしまうのと、毎日手入れしなければいけないが故に、父はこれをよく家に忘れる。初めて地下牢を見つけた日も、俺はこれを父に届けた。それから父の職場に行く用事は、殆どがこれだった。大学を出てからは、暇になった俺にはこれを届けるしか仕事が無かった。俺はそれを承諾し、シャワーを浴びたら出掛けると告げ、ついでに夕飯は友人と食べる旨も伝えた。風呂敷を持って部屋を出た。
部屋を出る直前、母に訊いた。
「生まれた喜びと死ぬ悲しみ、どっちが大きいと思う」
死を目前にした母は唐突な問いに首を傾げ、そして言った。
「大切なのは、生まれてから死ぬまでの間じゃないの?」
俺は母に礼を言い、今度こそ部屋を後にした。
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