十二 復讐

 白バラが満開になった或る日、真夜中のことである。

 安浦権蔵は寝苦しさに目を覚ました。

 2DKのマンションの一室、部屋の隅には新聞が積み上がり、コンビニの袋が布団の側に転がっている。

 安浦が会社を辞めた時、妻は呆れ愛想をつかし、子供を連れて実家に帰った。安浦は侘しい一人暮らしの毎日である。

 安浦の油っぽい体臭に満ちた部屋、その暗闇の中に首のない体が宙に浮かび安浦を見下ろしていた。服装から五条郁子だとわかる。


「ヒィーーー」


 安浦は布団から逃げ出そうとした。しかし、体が動かない。


「た、助けてくれ。俺が悪かった。頼む。なんでもする。間がさしたんだ。あんたがあんまりきれいで!」


 五条郁子の半透明に透けた体がゆっくり降りて来る。


「いやだ、やめてくれ。俺が悪かった。まさか、あんたが初めてだったなんて、知らなかったんだ。てっきり原田と出来てると」


 安浦はわずかに動く手を振り回し携帯を掴んだ。


「く、来るなー! 来たら、おまえの写真を、い、一斉にメールで送るぞ! いいのか、おまえの裸の写真だぞ」


 郁子の体がぴたりと止った。安浦はやったと思った。これがある限り、幽霊なぞ怖くないと思った。安浦が恐怖に引きつった顔をにやつかせる。


「さあ、どうだ。あんたの裸写真、五条社長に売りつけるつもりだったけど、命には替えられないからな。……あんたが死んで原田の出世はなくなった。知ってるか? 原田の奴、今、仕事干されてるんだぜ。いい気味だ。はははは」


 郁子の腕が持ち上がり、携帯を指差した。安浦の笑い声が止った。電光が走る。携帯が吹き飛んだ。


「け、携帯が! 携帯が、俺の携帯……。た、助けてくれ」


 郁子の体は安浦の体の上でくるりと逆さまになった。


「た、たすけて!」


 声が響いた。


(私を暴力で奪った! 結婚式の直前だったのに! 体にキスマークまでつけて! 真一さんに言えない秘密を抱えさせた! あの後、真一さんを道の向うに見つけて、私は夢中で飛び出していた。あんたのせいよ、あの事故も! 私の幸せも命も奪って! 許せない! 許せない!)


 郁子の怒りの凄まじさに、安浦は恐れをなした。


「た、頼む! 殺さないでくれ! 許してくれぇえええ!」

(ホホホ、殺すですって! いいえ、殺さないわ。安心して)


 安浦の顔に安堵と懐疑の色が交互に浮かぶ。


(そのかわり、もっと苦しませてあげる)


 逆さまの首のない体が安浦の顔の上で静止した。


「いやだ、やめろ!」


 首の切り口から血が滴り落ちる。安浦は血の雫を避けようと頭を左右に振った。体は動かないが頭はかろうじて動いた。冷たい滴りが頬に落ちる。郁子の腕が切り口に入り体の中から何かを取り出した。肉の塊である。血と胃液のえた匂いが辺りに広がる。


(この塊は確か、食道癌だったわ。中年の男の人から取り出したの。これをあなたに差し上げるわ)


 郁子の腕が安浦の口を掴み恐ろしい力でこじ開けた。肉塊を押し込む。


「げぇえ、げほっげほっ。と、とってくれぇ!」


 安浦は吐き出そうとした。


(ふふふ、むりやり何かを突っ込まれる気持ち、わかって頂けたかしら? 次はこれよ。これは、お婆さまの体を蝕んでいた癌。差し上げるわ)


 郁子の腕が安浦の布団を剥ぎ取り、パジャマをはだけた。安浦のしなびた体が現れる。郁子の腕が安浦の胸のあたりに肉塊を置く。ゆっくりと押し込まれる肉塊。


「ひいぃ、やめてくれーー!」


 しかし、郁子はやめない。さらにもう一つ、肉塊を腹に押し込む。


「や、やめろー! やめてくれー!」


 安浦は泣き叫んだ。腕が次々と癌の塊を押し込んでいく、肺に、脳に、肝臓に。

 とうとう、安浦は気を失った。






 安浦権蔵が全身を癌に侵され、モルヒネも効かない激しい痛みの中、苦しみもがいて死んだのは、それからまもなくの事だった。

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