十 娯楽

 会社の帰り、郁子は満員電車に乗るのを嫌がった。朝は眠っていたのだろう、人の体の中に自身が入ってしまっても何の反応も示さなかった。

 今、真一の前に太ったサラリーマンが立っている。郁子の首はその太ったサラリーマンの背中から中へ入ってしまっている。


(いや! 真一さん、私、この方の体に入るのは嫌ですわ、気持ち悪い)


 しかし満員電車である。真一自身、その男に体を押し付けられて身動きが取れない。やがて、次の駅に着き、太ったサラリーマンは降りた。

 次にOLが真一の前に立った。OLの身長は真一の肩のあたりだ。郁子の首が、OLの頭に入った。 

 真一は目を閉じて、郁子の首とOLの首が絡まり合う非現実的な絵を視界から追い出した。

 郁子は興奮しているのか、急におしゃべりになった。


(あら、この方の頭の中って……。え? 意外に明るいのですわね。ああ、サラリーマンの方は背広をきていらしたから、真っ暗でしたのね。体の中も場所によっては真っ暗だけど、でも……、まあ! 人体ってこんな感じでしたのね。私、もっと見たいですわ。ねえ、真一さん、少ししゃがんでいただけない?)


 郁子が何を言おうと、真一は無視した。満員電車の中である。万が一、痴漢に間違われでもしたら、厄介だ。真一は目を閉じて耐えた。




 その後も郁子は人の体をもっと見たいと真一にせがんだ。


(光があたっていれば、見えますのよ、人体を内側から。私、知りませんでしたわ、私達の体がこんなふうになっているなんて)


 最初は人の体に入るのは嫌だと言っていた郁子だったが、人の内側を見るのが面白いと気づくと内側を見たがった。暗いから見えないと言っていた郁子に真一が冗談で「目から光線を出したらいかがですか」というと、郁子は真剣に悩み、光を出せないか試した。


(真一さん、明りを消して下さいな。光が出たらわかるように……)


 アパートに戻った真一に郁子が言う。


(まあ、真一さん、ご覧になって、私、目から光線が出せますのよ)


 真っ暗なアパートの中、郁子の目から二条の光線が出ていた。




 以来、満員電車は郁子の娯楽の場になった。目から光線を出し、人の内蔵を見物する郁子。


(まあ、この方の肺って、なんて汚いのでしょう。嫌ですわ。真っ黒ですのよ。煙草をお吸いになるとこうなりますのね。父にも絶対やめて貰わなければ)


 五十代くらいのサラリーマンが前に立っていた。真一にもサラリーマンの上着に染み付いた煙草の匂いがわかった。


(まあ、この方、あれは食道癌じゃないかしら、祖母が癌になった時、先生から癌の映像を見せてもらった事がありますの。似ていますわ。ね、真一さん、この方に教えてさしあげて!)


 これは難題だった。迷っているうちに男は電車を降りて行ってしまった。


「無理ですよ。知らない人になんて言うんです」


 そういいながらも、真一は駅のスタンドに置いてあった人間ドックのパンフレットを数枚、常に持ち歩くようにした。サラリーマンであれば、同じ電車に乗る可能性が高い。

 数日後、真一の予想通り食道癌を持った男は電車に乗って来た。真一は満員電車の中では男に近づけなかったので、男が電車を降りてから追いかけた。


「あの、失礼ですが、最近、食べ物が飲み込みにくかったりしませんか?」


 真一に呼び止められて振り返った男は怪訝そうな顔した。


「君、だれ?」

「いえ、あの……、僕、最近、父を食道癌で亡くしまして、それ以来、父に似た体格の人には、人間ドックを勧めて回っているんです」


 真一はパンフレットを差し出した。


「あんた、なんかの宗教?」

「いえ、違います。ただ、父に似ていたので、それで、心配になって……」


 真一はパンフレットを男に押し付けた。男は全身から不信感を発散させている。


「突然話しかけて、その、驚かせてすいませんでした。ぜひ、精密検査受けて下さい」


 真一は男の返事を待たずに、急いで立ち去った。


(あの方、病院に行くかしら?」

「さあ、どうでしょう」

(もし、あの方の癌が見つかったら、私、人様のお役に立てましたのね)


 郁子は嬉しそうな声をあげた。


――郁子はお嬢様育ちだ。大学を卒業してすぐに家庭に入った。人の役に立った事がないんだ。仕事をした事がないから、達成感も知らない。


 真一はおかしかった。リエへの愛を押し殺して、社長の椅子の為に結婚しようと思った郁子。三ヶ月程のつ付き合いの中で、郁子の性格を把握していたつもりだったが、死んでから人の役に立つ喜びを覚える人だとは思わなかった。

 しかし、その後、満員電車で男と一緒になったが、男の中に以前より大きくなった癌を見つけた郁子は落ち込んだ。そして、何を思ったか、その男の癌を食ったのだ。

 満員電車の中、郁子は唇を真っ赤に染めて、血みどろの肉塊をくわえて男の背中の中から出て来た。

 真一は悲鳴を飲み込んだ。先日、人間ドックのパンフレットを無理やり渡して怪しい人間と思われた男に、自分の存在をこれ以上印象づけるわけにはいかない。郁子のおぞましい姿は真一にしか見えていないのだ。

 電車から降りた真一は人混みの中、癌をくちゃくちゃずずずと啜る郁子を吐き気と共に見ていた。真一は携帯をかけるふりをしながら郁子に言った。


「そんなことして大丈夫なんですか?」

(大丈夫ですわ。私が取り除いたのは癌だけですもの)


 郁子は舌を出来るだけ延ばして、口の周りの血を舐めとった。真一はそれがすべて幻で実体がないとわかっていても、あまりのおぞましさに吐き気がした。


「いや、そうじゃなくて、あなたの食べた物はどこに行くんです?」

(さあ? ……きっと体の方にいくのだと思いますわ)

「体? 体って、あなたの体はどこにあるんです?」


 郁子は黙った。そして、死顔に戻った。目をとじ、口を閉じ、死んだ時の青白い顔に。

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