八 開花
真一は郁子の首と暮らした。幻なのだと思って無視すれば気にならなくなった。胸元が見えない不自由さにも慣れた。
しかし、それは昼間の話で、夜は違った。横になると胸の上に乗っている首が否応無く見えてしまう。真一は医者に貰った薬を飲んで眠った。
(田舎に帰った方が良かったかな? 都会で一人でいるから郁子さんの首が見えてしまうのかもしれない)
ふと良い香りがする。真一は振り返った。バラだ。窓辺に置いたバラが一輪咲いている。五条夫人から貰った郁子の形見の白バラだった。
(このバラは四季咲きなの。バラは普通五月に咲くけど、これは秋にも咲くのよ。長く私を楽しませてくれるの)
自己中心的な郁子らしい言いようだった。
真一は頭を振って郁子の思い出を追い出した。バラに水をやって、ジョウロ代わりのコップをしまう。テレビを見ているうちに眠りに落ちた。
真一は郁子の声で目が覚めた。胸に生えた郁子の首。死んだ時のままだった郁子の首。
それが……。
目が開いていた。だが、眼球がない。真一を見下ろす虚ろな眼窩。
にーっと笑いながら郁子が言った。
(真一さん、あなたは私の物よ。これからはずっと一緒ですわ。ホホホ)
原田真一は長い悲鳴を上げて気絶した。
真一は、はっとして目を覚ました。
「うわ、わ、わああ」
悲鳴を上げ必死に逃げようとした。誰かが押さえつけてくる。
「原田さん、落ち着いて下さい」
隣に住む大学生、伊藤耕作だった。
「伊藤君、郁子さんが! 郁子さんの首が!」
「首なんてありませんよ。原田さん、落ち着いて下さい!」
真一は伊藤に強く揺すられて我に返った。おそるおそる胸元を見る。郁子の目は閉じられ死顔に戻っている。
「ここは?」
真一は辺りを見回した。伊藤の向うに見知らぬ天井が見える。消毒薬の匂いがした。病院のベッドに寝かされているようだ。
「原田さん、こっちを見て」
白衣を着た医者らしい男が、真一にペンライトをあてた。瞳孔の反応を見ているようだ。真一は眩しくて目をしばたいた。
「原田さん、あなたは部屋で気絶していたのですよ。こちらの伊藤さんがあなたの異変に気づいて救急車を呼びました。今、総合病院の病棟にいます。私は外科の山崎といいます。わかりますか?」
真一は郁子の首を見ないようにして、医者を見上げうなづいた。伊藤に礼を言う。伊藤がほっとしたように笑った。
「伊藤さんのお話では、最近、婚約者の方を事故で亡くされたとか」
「ええ、事故で、トラックにはねられたんです。僕の目の前で」
真一は急に涙が込み上げて来た。胸がつまる。目を閉じ、腕で覆った。真一の様子に伊藤が「じゃあ、僕はこれで」と言って帰って行った。
「今夜はこのまま、入院して下さい。一晩様子を見ましょう」
医者の勧めに従って真一は病院で一晩を過した。
翌朝、真一は気力を取り戻していた。郁子の首は相変わらず生えていたが、目は閉じられていたし、元の死顔に戻っていた。目の無い顔よりずっと怖くなかった。
回診に来た医者は真一の様子に、退院を許可した。
「原田さん、まだ婚約者の首は見えますか?」
「……ええ」
「私がこんな事をいうと医者のくせにと笑われるんですが、私は時々黒い影が見えるんですよ、いわゆる視える人、らしいんです」
原田の驚いた顔に医者が苦笑した。
「私はあなたの胸のあたりに黒い影が視えるんです」
「え! では先生は見えるんですか? 郁子さんの首が!」
「いえ、はっきりとした形は見えないんです。ぼんやりと黒い影が見えるだけなんですよ。それが何かわかりません」
真一は声をひそめた。
「郁子さんの首が僕の胸に生えているんです。今は元の死顔に戻っていますけど、昨日、首がしゃべったんです。目を開いて、でも、眼球がないんです。ぽっかり空いてて……。僕は、僕は恐ろしくて。それで気絶したんだと思います。一体、僕はどうなるんでしょう? この首はずっと生えたままなんでしょうか?」
医者は真一の問いには答えず、机の中から名刺を取り出した。
「医者なんかしてますとね、理屈では割り切れない、不思議な出来事にぶつかったりしましてね。こちらの神社、私の知り合いがやってるんですが、一度相談されてはいかがでしょう?」
医者から受け取った名刺には、神社の名前と神主の連絡先が書いてあった。
原田真一は山崎医師に礼を言ってアパートに戻った。
真一は玄関に入るなり、強いバラの香りに気が付いた。窓辺の鉢植えに二つ目の花が咲いている。
(水をやった方がいいかな?)
真一はジョウロ代わりのコップに水を汲んだ。鉢植えのバラの根元にそそぐ。幾つか蕾みがほころびかけている。真一はバラの側に座り込んだ。
(郁子さんが生きていれば、明日は結婚式だった。郁子さんはこの花で俺のコサージュを……)
棺の中にウェディングドレスを着て横たわっていた郁子の様子がありありと浮かぶ。
「郁子さん……」
真一の目から涙が滴った。郁子の死顔の上に落ちる。郁子の顔からみるみる死がぬぐわれて行く。ロウで出来たような青白い死顔から華やかで生気あふれる顔へ変わった。
(真一さん)
郁子の首がしゃべった。
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