七 執着

 五条郁子の葬儀からアパートに戻った真一は疲れ切っていた。

 腕についた指の痕に最初は驚き恐怖で一杯になった真一だったが、気絶している間に誰かが強くつかんだのだろうと、決して郁子が棺桶の中から腕を伸ばしてつかんだのではないと、自分に言い聞かせた。

 真一はベッドに潜り込み泥のように眠った。


 夢を見た。

 明るく屈託なく笑う郁子の夢だった。夢の中で真一は郁子と一緒に渚を走っている。


(ああ、ここは……。葉山だ。別荘があるからと招かれたんだ)


 郁子の白いビキニが葉山の青い海に映える。むき出しの肩に黒子ほくろが二つ並んでいる。

 この夏、真一は郁子を愛そうと努力していた。郁子を愛するのは楽だった。ただ、それが、男女の愛なのか、美しい物をただ好きになっただけなのか、真一にはわからなかった。

 渚を走る郁子が海へジャバジャバと入っていった。真一も海に飛び込んだ。すぐに郁子に追いつけるだろうと思ったが追いつけない。これ以上は危険だと思って、郁子に呼びかけた。


「郁子さん! そっちに行くと深いですよ。戻って下さい」


 真一が呼びかけても、郁子は振り返らない。何度も呼びかけてやっと郁子が振り向いた。大きく手を振る郁子。真一に向って泳ぎ始めた。真一は泳ぎついた郁子の手を取った。郁子が大きく笑いながら真一の手を引っ張る。あっと思うまもなく真一は水の中に引きずり込まれていた。水中で楽しそうに真一を見上げる郁子。真一は苦しくて水面に出ようともがくが郁子が離さない。苦しい。

 はっとして真一は目を覚ました。大きく息をする。ゆっくり吐き出した。片腕を目の上にあてる。郁子の楽しそうな笑い声がもう一度響いた。腕を外して暗闇を眺めた。すると……。



 目の前に……。

 胸の上に!

 郁子の首が乗っていた。


「うわああああ」


 真一は飛び起き、胸をはらった。

 しかし、首は落ちない。払っても払っても手は郁子の首を通り抜けてしまう。首は真一の胸からはえていた。


「ゆ、夢だ、これは夢だ。わあーーーーっ」


 真一は気を失った。




 目覚ましの鳴る音で真一は目を覚ました。十月の朝六時。部屋の中は薄明るい。薄明かりの中に郁子の首が胸の上に見える。


「うわあ!」


 もう一度、真一は首を払った。しかし、昨夜と同じく手は郁子の首を通りぬけるだけである。


(夢だ、夢だ! 早く覚めろ!)


 ピンポーン!

 玄関のチャイムだ。真一はぎょっとした。


(これは現実? 現実なのか?)


「原田さん、大丈夫ですか?」


 隣に住む大学生、伊藤耕作の声だ。

 一昨日、真一は喪服姿で伊藤と出会っていた。郁子が病院で死亡が確認された後、真一は一旦アパートに戻った。喪服に着替え通夜の席に行こうと部屋を出た所で伊藤に会ったのだ。伊藤が「原田さんお葬式ですか?」と声をかけて来た。いつもなら、会社の取引先に不幸があってと話すのだが、何も言えなかった。「え? お身内? ですか?」と聞かれ、やっと「婚約者が事故で……」としわがれた声で返した。伊藤が何と言ったか覚えていない。

 伊藤は恐らく心配して来てくれたのだろう。真一はわらにすがる思いで、玄関を開けた。


「伊藤君、助けてくれ、胸に、胸に首がついてるんだ。とってくれ、頼む!」

「え? 首?」

「ああ、そうだ。郁子さんの、僕の婚約者だった郁子さんの首がついているんだ! ほら、ここに」


 伊藤が気の毒そうな顔した。


「原田さん、しっかりして下さい。あなたの胸には何もついていませんよ。落ち着いて下さい」

 真一は胸を見た。はっきりと郁子の首が見える。


「ここにあるじゃないか! 郁子さんの首が! 僕の胸から直角に生えてるじゃないか!」


 伊藤が困った顔をして頭をかく。


「君には、君には見えないのか? これが?!」

「何も生えていませんよ、原田さん。きっと婚約者を亡くされたショックで見えているだけですよ」


 伊藤が原田の胸のあたりを右手で払うようにさっさっと振って見せた。


「ね、何もないでしょう」


 しかし、真一は見た!

 伊藤の手が郁子の頭を通り抜けるのを。


(見えないんだ。伊藤君には見えないんだ)


 真一は冷水を浴びたように気が静まった。


(このままではいけない。気が狂っていると思われてしまう)


「すまない、伊藤君。朝から騒がせて申し訳なかった」

「いいんですよ。原田さん、夕べ眠れなかったんでしょう? 夜中に大声を上げていましたよ」


 真一は伊藤に礼やら言い訳を言ってドアを閉めた。そのまま玄関に座り込む。伊藤が立ち去るのを待った。

 伊藤が行ってしまったのを確認してから、真一は立ち上がった。震える手で郁子の首に手を突っ込み、パジャマのボタンを外す。パジャマを脱いでも、郁子の首は生えていた。

 郁子の首。目を閉じ、棺桶に入っていた時のままの青白い顔。


(これは俺の妄想なんだろうか? 郁子さんの首が見えるのは俺だけなんて……)


 真一は洗面所の鏡の前に立った。鏡に郁子の頭頂部が写っている。郁子の長い髪がだらりとたれさがり、真一の体を隠していた。郁子の首は三次元映像のようになんでも通り抜けた。風呂場の扉に郁子の頭がささったのを真一はシュールな絵画を見ているみたいだと思った。


(俺は郁子さんを結局愛せなかった。いや、好きではあった。だが、リエを愛したようには愛せなかった。きっとその罪悪感が俺に郁子さんの幻を見せるのだろう)


 真一は、理屈をつけて今の状況を理解した。そして、郁子の首を無視した。

 いつものように、シャワーを浴び、朝食を食べようとして真一は困った。郁子の首が邪魔になって、胸の前あたりが見えないのだ。トーストが郁子の首で見えない。仕方がないので真一は体をひねって首をよけた。しかし、その拍子に郁子の髪がコーヒーに浸かった。真一は顔をしかめた。髪が浸かったコーヒーなど飲めるわけがなかった。コーヒーを捨てようとして、真一ははたと思いあたった。


(ああ、そうか、幻だから郁子さんの髪が本当に浸かったわけじゃないんだ)


 その証拠にコーヒーの表面は揺らいでいない。しかし、やはり気持ちが悪くてコーヒーは捨てた。


(どうしよう、どうしたらいいんだろう。こんな首が胸から生えてるなんて、誰に相談したらいいんだろう。やっぱり、精神的ショックだろうか?)


 真一は精神科の医者を訪ねようと思った。上司から来週一杯は出社しなくていいと言われている。ネットで近くの医者を探してでかけた。

 真一を見た医者は「婚約者を事故で亡くしたショックでしょう。軽い鎮静剤をだしておきますね。一週間してもまだ見えるようだったらまた来て下さい」とありふれた診断を下した。

 真一は医者に行った帰り、急に空腹を覚えた。時計を見ると一時を回っている。ラーメンの匂いに誘われてラーメン屋に入った。カウンターに座り、ミソラーメンを注文したが、カウンターの上に郁子の首がのってしまった。


(どうしよう? どうしたらいいんだ?)


 ラーメン屋の主人が何事もないように真一の前にミソラーメンを置く。郁子の顔のど真ん中にラーメンがおかれ、顔の中にラーメンの鉢が消えた。真一はしまったと思ったが、遅かった。真一は胡椒を取るふりをして体をひねった。ラーメンの位置を確認する。麺の上に乗っているチャーシューやシナチクの位置も覚えた。体を元に戻しラーメンのあるあたりに向って胡椒をふった。郁子の顔に胡椒がふりかかり消えて行く。真一は郁子の頭に箸を突っ込んだ。感触をたよりに、麺を箸で挟みすくい上げた。郁子の顔の中からラーメンが出て来た。眉間のあたりから麺がのびている。真一が麺を食べようと身を乗り出すと、郁子の頭はカウンターに沈み見えなくなった。真一はほっとして、ラーメンをすすった。

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