六 疑惑

 郁子が指定された場所に行くと、見知らぬ男が待っていた。


「五条さん、五条郁子さんでしょ」

「え? あの、あなたは?」


 郁子は怪訝そうな顔をした。


「僕は安浦といいます。あんたの父親の会社、五条商事に務めてたんですよ。ですからね、まあ、いろいろとね、会社の内部事情を知ってるんです。もうすぐ、原田真一君と結婚するんでしょう? どう、原田君の事、もっと知りたくない?」


 馴れ馴れしい物言いに郁子は眉をひそめたが、父の会社関係の相手を無下に出来なかった。体をなめまわすように見る男の目付きに郁子は不快感をつのらせたが、婚約者である真一の話は聞きたかった。


「あの、どんなお話ですの?」

「原田君には恋人がいたんですよ」


 郁子はほっとした。その話ならすでに真一から聞いている。


「じゃあ、あなたが真一さんを脅した方?」

「え! 原田君はあなたに僕の話をしたんですか?」

「ええ、そうよ。他の人から私の耳に入ったら、余計私が傷つくだろうって! 私達、なんでも話し合いますの。残念でしたわね。私、真一さんと待ち合わせていますの。もうすぐ、真一さんが来ますわ。真一さんとは顔を合わせない方が宜しいんじゃありません?」


 郁子は言外に立ち去れという意味を込めて言ったが、相手はせせら笑った。


「原田君は来ませんよ。あんたを呼び出したのは僕だ」

「なんですって! だっったら、私、帰らせて頂きますわ」


 郁子は立ち上がろうとした。


「ちょっと待ちなさい。原田君は恋人の事を何と言ったんです? どうせ、昔の恋人だ、今愛しているのはあなただけだとか言ったんでしょう? 違いますか?」


 郁子は黙った。安浦の言う通りだった。郁子はすっと血の気が引いたように思った。安浦は懐に手をいれると、一枚の写真を取り出した。郁子の前にその写真を置く。


「その写真の中央の女性が原田君の相手の女性です。仁古田リエと言いましてね。会社の広報に載っていたのをやっと探したんですよ。携帯の写真は原田君に全部削除されちゃったから」


 郁子は写真を手にとった。平凡な顔立ちの女だった。


――こんな、こんな女! ただのおばさんじゃない!


 郁子の心がきしんだ。


「彼女は人事課の女性でした。三十過ぎの行き遅れた女です。この春、あなたが原田君を見初めた頃にやめてるんですよ。恐らく、原田君の出世を考えて身をひいたんじゃないかな。原田君の方から別れたんじゃないでしょう。原田君は誠実な男だ。社長令嬢のあなたから言い寄られたからといって、深い関係の恋人を捨てられるような男じゃない。その証拠に、僕、見たんですよ」


 安浦は郁子の反応を楽しむように間をおいた。


「あなた、『ツェット』っていう音楽ユニット、知ってますか? あれのライブ会場の近くで原田君が仁古田君を抱きしめるのをね」


「嘘! うそよ! 真一さんは私に別れたっていったわ。それに、そのライブなら私、誘われたわ。別れた女に会うつもりなら誘ったりしない筈よ」

「あなた、『ツェット』をお好きですか?」

「……、いいえ……」

「でしょ。あなたが断る事を見越してたんですよ。原田君の狙いは社長の椅子。あなたじゃない」


 郁子の手がわなわなと震えた。


「……、何故、なぜそんな事、私に言うの」

「僕は原田君のおかげで、会社に居られなくなった。幸福な原田君に一矢報いたかったんですよ」


 郁子はきっとなって安浦を睨みつけた。


「真一さんが誰を愛していてもいいわ。私と暮すようになったら、他の女なんて思い出させたりしない! 忘れさせてみせるわ。そうよ、私達は結婚するんですもの。私は真一さんの妻になるんですもの。妻になった女が勝ちよ! 真一さんは私の物よ!」


 安浦は薄ら笑いを浮かべた。


「恋愛っていうのはね、男と女の戦いなんですよ。惚れた方が負け! あなたの負けですよ。どう考えたってあなたの方が原田君を愛している。あなたが原田君を愛するようには、原田君はあなたを愛しはしないでしょう。あなたの負けですよ」


 安浦は高く笑いながら、ロビーを出て行った。

 郁子の耳に安浦の笑い声がいつまでも響いた。その笑い声は、いつしか真一と女の笑い声に変わっていた。

 郁子の心の中で何かが崩れた。


――わかっていたわ。真一さんが私を愛していないって……。あの男の言う通りなのだろう。真一さんの心の中にはすでに愛するひとがいて、私は決してその女には適わないのだろう。

 それでも、それでも、愛しているわ、真一さん……。あなたは私の物よ……。




 以来、郁子は変わった。郁子の心に出来た黒い穴は郁子を内側から蝕んだ。郁子は、時々、ふいに真一に会いに行くようになった。会社の近くで何時間も真一を待つようになった。真一のアパートに行きたがった。


「僕の部屋は散らかってますよ」


「ううん、そうじゃなくて、その……、私、真一さんと朝まで一緒にいたいんです」


 郁子が真一の腕を強く掴み、どこか必死の思いで真一を見つめる。

 真一は郁子の申し出に一瞬引いたが、すぐに気を取り直した。


「郁子さん、結婚まで後一週間ですよ。僕はあなたとの結婚を楽しみにしているんですよ。ほら、楽しみは先に伸ばした方がいいっていうでしょ」


 郁子は恥ずかしそうに俯いた。真一は郁子の気持ちを考えた。二人は車の中にいた。レストランで食事をした後、これから郁子を自宅まで送ろうと車に乗せた所だった。レストランの駐車場には誰もいない。真一は腕の伸ばして、郁子を抱き寄せ口付けをした。そっと、郁子の唇をついばむ。

 が、真一の愛撫に郁子はむしゃぶりついた。真一はぎょっとして郁子から身を離そうとしたが、郁子が離さない。どこか狂気じみた郁子の口付けに真一は翻弄された。真一の理性が吹き飛び、思わず郁子の唇に獣性をもって応えていた。真一は郁子の胸に顔を埋めようとしてはっとした。

 郁子の襟元から立ち上る香り。香水と郁子の体臭が入り交じったどこか人工的な郁子の香り。(リエと違う)と思った瞬間、理性が戻った。

 ふぅっと身を引く真一。


「郁子さんて、意外に大胆なんだ」


 真一の言葉に、郁子もまた、理性を取り戻したのか、恥じらいながらワンピースのボタンを止めている。郁子の様子を目の端に見ながら真一は車を出した。

 五条邸の前で別れ際、郁子が真一の手を強く握る。


「愛してますわ、真一さん……。今までも、これからも、ずっとずっと」


 どこか切羽詰まったように言う。

 真一は郁子の情熱にどこか異常さをかんじたが、さらりとかわした。


「僕もですよ。今日のあなたは本当に素敵だった」


 真一は郁子の手に軽い口付けをした。


「さ、お父上が心配されていますよ」


 仕方なさそうに車を降りる郁子に、「また明日」と声をかけて真一は車を発進させた。バックミラーに立ち尽くす郁子の姿が見えたが、やがてそれも夜の闇に消えていった。



 翌日、五条郁子は原田真一の目の前で、トラックに跳ねられて死んだ。


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