五 脅迫
「原田さん、原田さんでしょ?」
「あの?」
「あ、失礼、僕は総務の安浦です」
真一は、郁子の残していった人事データを思い出した。
(安浦権蔵、元営業マン、仕事の詰めが甘く凡ミスを繰り返し総務部社史編纂室に異動)
「ああ、どうも……」
「あの、ちょっといい?」
真一は何事かと思ったが、年上の安浦を立てて一緒に喫茶店に入った。
「君、社長令嬢の五条郁子さんと結婚するんだって?」
真一の結婚は上司に報告済みである。真一は曖昧に返事をした。
「いいねえ、ゆくゆくは社長かあ。僕みたいな、ダメダメサラリーマンには夢だなあ」
安浦はくどくどと真一の幸運をうらやましそうに上げつらった。
「そこでね、頼みがあるんだよ。僕は総務の仕事に辟易しててね、君が出世したら、ぜひ、営業に戻してもらえないかと思ってね」
真一はあきれた。まだ、結婚もしてない自分に何を言い出すのだろうと思った。
「それは人事に言ったらどうです?」
「……、君さ、仁古田リエと付き合ってただろ」
真一は話の展開についていけなかった。何故、リエと付き合っていたのをこの男が知っているのか?
「……」
「僕、見たんだよね。ついでに写真に取ったの」
安浦は真一に携帯の写真を見せた。真一とリエが仲睦まじそうにホテルから出て来る写真だった。
「それで?」
「察しが悪いな。この写真を婚約者の五条郁子さんが見たらどう思うかなって思ってね」
真一はくだらないと思った。何ヶ月も前に別れた恋人の写真が何の脅威になるだろう。
「リエとは、随分前に別れたんですよ。そんな昔の写真、見せられたって……」
「ふーん、そうか別れたのか、残念だな。僕はまた今でも付き合っているのかと思った。だってね……」
安浦はさらに写真を見せた。
それは、先日、偶然リエと出会った時の写真だった。
真一とリエはダンス&ボーカルユニット「ツェット」のファンだった。リエと別れた後、一人で「ツェット」のライブを観に行く気になれず、しばらく遠ざかっていた真一だった。しかし、結婚が決まり感情の整理がついた真一は、久しぶりに「ツェット」のライブへ行こうと思った。婚約者の郁子を誘うと、郁子は乱暴な音楽は嫌だと言って真一の誘いを断った。
「真一さん、それより東京フィルのコンサートに行きましょうよ。今回の演目は、私の好きなラフマニノフですのよ」
真一は曖昧に笑い、郁子の誘いを適当にかわした。
(こんな時、リエだったら一緒に盛り上がれるのにな……。)
自分で選んだ道とはいえ、真一は一抹の淋しさを覚えた。一人でライブを聞いた後、会場から出て来る雑踏の中に、偶然リエを見つけ、真一は我を忘れた。つい、人前で抱き締めてしまった。リエの連れから、「何するんだ!」と怒鳴られ慌てて離した。
リエが真っ青な顔をして真一を見上げていた。微かに顔を横にふる。
「君は誰だ。仁古田さんとどういう関係だ! 仁古田さん、知っている男か?」
真一は慌てて言った。
「あ、すいません。僕、先日、姉を亡くしまして……。その……、死んだ姉にそっくりだったものですから……。あの、姉も『ツェット』が好きで、一緒に行く約束をしていたんです。つい、その、間違えて抱き締めてしまって……。すいません。本当にすいませんでした」
真一は咄嗟に嘘をついた。頭を下げ、下を向いて二人と目をあわさないようにした。
「そういう事情なら仕方ないが、気をつけろ! 仁古田さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫」
頭を下げた真一はわずかに視線を上げた。男とリエの足元が見える。真一の目にリエの
男がリエを引っ張って行く。足音が遠ざかって行った。
真一が顔を上げると、はるか先にリエと男の後ろ姿が見えた。が、すぐに群衆にまぎれわからなくなった。
安浦が見せたのはその時の写真だった。リエを抱き締めている真一が写っている。
「昔の恋人に会ってつい我を忘れたんですよ。それが?」
安浦は真一の反応につまらなそうな顔をした。
「じゃあ、これを社長令嬢に見せてもいいわけ?」
その時、真一の携帯がなった。いらだつ安浦の前で真一は携帯を取り出す。
「ちょっと、失礼」
真一は携帯をもって喫茶店の外に出たが、すぐに戻った。
「すぐに社に戻らないといけないんですよ。用件を言ってもらえますか?」
「だからね、この写真を五条郁子さんに見せていいのって聞いてるの? 結婚前から波風立てたくないでしょう? 君の返事一つでこの写真消してもいいんだけどな」
真一はくだらないと思った。それで人を脅したつもりかと思った。
「僕が出世したらあなたを営業に戻すと約束をしたらいいんですか?」
安浦の下卑た顔が相好を崩した。真一が折れたと誤解したらしい。
「お、やっとわかってきたね。ただ、戻すんじゃないよ。そうだな、待遇は課長でいいからさ。いきなり部長だと変に思われるだろうし……。ついでに、今月、小遣いが足りないんだ。いくらか融通してくれる?」
「いくら欲しいんです?」
「三万、駄目なら二万でもいいからさ」
真一はポケットから財布を取り出すふりをした。
「それで、写真は消してもらえるんですね」
「そりゃあ、すぐに消すよ、営業課長の辞令がおりたらね。それまでは、そうだな、月に二万か三万、僕に払ってくれればいいだけだからさ」
真一は懐から携帯を取り出した。さっと操作する。録音された安浦の声が流れ出した。
「何だ? これは?」
「あなたが僕を脅迫した証拠ですよ。もし、これ以上、そのつまらない写真で僕を脅すならこれを警察に持って行きます。明らかな脅迫行為ですからね。でも、総務で大人しくしているんだったら、これを使う事はないでしょう」
安浦が真っ青になった。
「すまん、つい、出来心なんだ。な、頼む。警察はやめてくれ。俺には妻子がいるんだ」
真一はあきれた。リエの人事データに仕事の詰めが甘いとあったが、その通りだと真一は思った。真一は、携帯を内ポケットにしまい、安浦の携帯をさっと取り上げた。
「な、何するんだ」
「写真を消すんですよ」
安浦は慌てた。
「やめろ、返せ!」
真一は、安浦の腕を振り払った。振り払らわれた安浦の手がコーヒーカップにあたる。ガチャンとコーヒーカップが倒れ、テーブルにコーヒーがぶちまけられた。安浦のズボンにもコーヒーがかかる。
「ああ、くそ!」
「お客様! 大丈夫ですか?」
ウェイトレスが飛んできてテーブルや安浦の衣服を拭いて行く。その間に真一は安浦の写真をチェックした。
「へぇー、随分ひどい写真もとってるんだ」
そこには、総務や人事で見かけた女子社員の、人には見せられない類の写真が映っていた。真一は写真を全部削除した。
「あんた、こんな事していると、僕が訴えなくても、その内誰かに刺されるよ」
真一は携帯を安浦に投げて返した。携帯に飛びつく安浦。
「くそー、覚えてろよ」
真っ青な顔をした安浦があわてて喫茶店を出ていく。真一は勘定をすませゆっくりと店を出た。
真一は警察に訴えなかったが、人事部長には報告した。人事部長からどんな写真かと聞かれて、別れた恋人との写真だと答えた。さらに、ひどい写真を取られていた女子社員の名前をあげた。人事部長はため息をついて、安浦には退職を勧告しようと言った。
退職を勧告された安浦は仕方なく辞表を出し、わずかな退職金を受け取って、会社を去った。
が、真一を逆恨みした安浦は、社長の家に行き、出て来た郁子をつけ回した。郁子の行動パターンを把握した安浦は真一の名前を使って五条郁子をホテルのロビーに呼び出した。
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