四 野望

「別れるって何故?」


 真一はリエに詰め寄った。

 その日、リエに呼び出された真一はいつもの待ち合わせ場所でリエとあった。リエが旅行鞄を持っているのを不思議に思った真一だったが深く考えなかった。リエが別れると言った時、やっと旅行鞄の意味がわかった。


「田舎に帰るのか?」


「ええ、田舎に帰って見合いするわ。母がうるさいの。それとも結婚してくれる?」


 真一は怯んだ。結婚なんて、まだ、先の話だと思っていた。


「私の事は忘れて、社長令嬢と宜しくやりなさいよ」

「どうしてここで、郁子さんが出て来るんだよ、何考えてるんだよ」

「私ね、子供が欲しいの。私にはもう、時間が無いのよ。年だもの。あなたが結婚してくれないなら、元気な子供を産める内に誰かと結婚したいの。田舎の母に連絡したら、いつでも帰っておいでって。見合い相手なら、たくさん見つけてくれるっていうの」

「じゃあ、俺の気持ちはどうなるんだよ」


 リエが真一をまっすぐに見た。


「真一、男はね、色恋より仕事よ。いい、真一。出世するのよ。あなたには出来るわ。私が集めた人事データ。メールに添付して送っておいたわ。出世して、真一。あなた、いつも言ってたじゃない。でっかい仕事がしたいって。出世したらでっかい仕事ができるわよ。ね、約束して、必ず社長になるって」

「なれるわけないじゃないか、何馬鹿な事言ってるんだよ」


 リエが顔をよせ囁くように言う。


「郁子さんと結婚すれば、なれるわよ」


 真一はぎょっとして、リエをまじまじと見た。リエが満足そうな笑みを浮かべる。


「ふふ、じゃあ、私、行くわね。列車に乗り遅れたら困るから」


 真一は去って行くリエを引き留めようとした。が、出来なかった。結婚の二文字が、真一を押しとどめた。ここで引き留めれば確実に結婚しなければならない。真一は、まだ、結婚したくなかった。リエと別れたくないと思いながら一歩も動けなかった。去って行くリエの後ろ姿を呆然と見送るしかなかった。


「リエ……」


 まるで、真一の声が聞こえたようにガラス扉の向うでリエが振り返った。唇がさよならと動く。それが最後だった。



 真一にとってリエは長く付き合った相手だった。結婚を考えた事もあった。もう少し、もう少し後でと思っている内に、リエは去って行ってしまった。真一に取ってリエが生涯ただ一人の愛する相手なのだと真一が悟った時には遅かった。


 真一は仕事に没頭した。


(男は仕事よ)


 リエの言葉が真一の頭の中でリフレインする。


(リエ、君の言う通り、仕事人間になってやる。そうとも、仕事の鬼になってやる。いつか君にもう一度会って、俺のやった仕事をレポートにして叩き付けてやるからな! 覚えてろよ! おまえの捨てた男がどんなに有能でいい男だったか絶対後悔させてやるからな!)


 自分を捨てた女を見返したい、その一念で真一は仕事に没頭した。五条郁子から呼び出されても真一は仕事を口実に断った。真一は休日を返上して客の接待に駆け回った。

 そんな状態が1ヶ月ほど続いた或る日、ふと、真一はリエが送ってきた人事資料を見た。リエを思い出したくなくて放っておいたデータ。しかし、改めて読んでみると、そこにリエの真心が隠されているのがわかった。

 真一はリエの気持ちを正確に理解すると、五条郁子に電話をした。郁子から携帯の電話番号を教えられても、一度もかけなかった番号だった。

 そして、真一は五条郁子をデートに誘った。





 真一は五条郁子と三ヶ月ほどデートした後、郁子の家に行き、社長であり郁子の父である五条喜一郎に郁子との結婚を許してほしいと頼んだ。父親が許可すると、真一は一緒にいた郁子に改めて結婚の申し込みをした。郁子は涙を流して喜び承諾の返事をしていた。

 喜一郎は二人の様子を見て言った。


「原田君、郁子から君の話を聞くにつけ、ぜひ、君と郁子が夫婦になってくれたらと思っていた。そこで、もう一つ、頼みがある。君、うちの婿養子にならんかね? 我が家には跡継ぎの男の子がいない。君の仕事ぶりは営業部長の霧島君から聞いている。どうだね? 婿になって五条家に入らんか?」


 真一は断るつもりはなかったが、一応、両親に相談したいと言ってその場を辞した。

 真一の両親は驚いたが、真一が末っ子で、家業の農家は長男が継いでいたので、真一が婿養子に行くのを反対しなかったが、婿養子は肩身が狭いんじゃないかと心配した。


「大丈夫だよ、父さん。俺、仕事で成果を上げて、きっと会社に認められるからさ」


 こうして、真一は結婚と同時に五条家の婿養子に入ると決まった。 

 結婚の準備は速やかに進められた。結婚式の日取りは十月の大安吉日が選ばれた。




 結婚を一ヶ月程先に控えた或る日。

 真一は昼食の帰り、よれよれの背広を着た顔色の悪い男に呼び止められた。

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