三 原田真一とその恋人

 社長室に呼ばれた真一は何事かと思ったが、社長室に郁子がいるのを見て更に驚いた。デスクの向うに座っていた社長が立ち上がり、真一に近づいて来る。


「君かね、うちの娘を怒鳴ったのは?」


 真一は固まった。頭の中に「左遷」という文字が浮かぶ。


「君を咎めようと言うのではない。これが謝りたいと言ってね」


 郁子が真一に深々と頭を下げた。


「昨日はごめんなさい。お仕事の邪魔をするつもりはなかったの。ちゃんと謝りたくて、お父様にあなたを呼んでもらったの。本当にごめんなさい。何も考えてなくて」


 真一は素直に謝る郁子に面食らった。昨日、言い返して来た郁子と同一人物とは思えない。


「いえ、こちらこそ、急いでいたとはいえ、その、失礼しました」


 真一も軽く頭を下げた。


「あの、お詫びにこれを」


 郁子が包みを取り出した。


「私が作ったお弁当です。お口にあえば良いのですけど……」


 真一は美人の郁子から手作りの弁当を渡されてどぎまぎしたが悪い気はしなかった。曖昧な笑顔を浮かべて礼を言い、包みを受け取った。


 以来、郁子から誘われると真一は出向くようになった。サラリーマンである真一に、社長令嬢である郁子を無下には出来なかった。最初こそ、知らずに怒鳴りつけたが、社長の娘であると知ってしまった以上、感情のどこかに枷がはまった。真一は郁子に対し、礼儀正しく接した。



 真一には秘密の恋人がいた。五つ年上の仁古田リエである。五条商事の人事課に務めている。

 ベッドの中で、真一の腕の中で、リエは言った。

「ね、どうするつもり? 郁子社長令嬢?」

「えー、どうって、それ、おまえ、焼き餅ち?」

「別にそんなんじゃないけど、お嬢様、真一を気に入ったみたいじゃない?」

「お嬢様の気まぐれだろ。俺はリエと別れるつもりはないよ」

「それでいいの?」

「ああ、俺はリエが一番好きなんだ」


 リエは真一に抱きすくめられながら(じゃあどうしてプロポーズしてくれないの?)と何度も自問自答した問いをもう一度心の中でつぶやいていた。


 翌日、リエは人事課のファイルを見ながら考えていた。


――真一は腕のいい営業マンよ。このまま問題なく仕事をしていけば、やがて部長になれる筈よ。だけど、それ以上は無理だわ。経営陣は五条一族に押さえられているもの。サラリーマンになったからには、目指すのは社長の椅子の筈。彼なら出来る。きっといい経営者になる。今のままでは無理だけど、もし、真一が郁子お嬢様と結婚したら?

 社長は郁子お嬢様に婿を取って会社を継がせようと思っているに違いない。真一が五条社長の娘婿になったら社長の椅子は約束されたような物。私は真一に社長になって貰いたい。真一に思いっきり仕事をさせたい。


 リエは、身を引こうと思った。

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