悠然な鳥3
*
龍はここが夢の世界だとすぐに気がついた。今立っている場所が先ほどとは違うのだ。先ほどまで国境付近の渓谷にいたことを、龍ははっきりと覚えている。そこで『マンティコア』と戦っていたのだから。そして、そこで悠鳥という
――それにしても、ここはどこだ?
先ほどまで悠鳥に手当をしてもらっていたのに、一瞬で別の場所に移動することは不可能だろう。移動魔法というものが存在しているのだが、それを知らない龍は今いる場所を見てそう考えたのだ。移動魔法を使用すれば、一瞬で移動することはできる。しかし、あの場所に使用できる者はいなかった。
それに移動魔法を使用できたとしても、一瞬で渓谷から何もない白い空間に来ることはできない。何もない白い空間というのは存在していないのだから。龍がいる今の空間には、他に誰もいない。龍は怪我の失血により意識を保っていられなかったのだ。だからここには誰もいないのだと思い至り周りを見渡す。やはり誰もいない。この空間に、龍1人だけが立っている。
――あれ? 前に……ここに来たことがある気がする。
はっきりとは覚えてはいない。気がするだけで本当に来たのかはわからない。それがもし、記憶を失う前の事だったら尚更だ。こちらに来てからは、両親が事故死したことと年齢しか覚えていないのだ。テレビや漫画なども僅かに覚えてはいるのだが、はっきり覚えているのは両親と年齢くらいだ。だが、もしも本当にここへ来たのだとしたら記憶の奥深くに、そこ時のことが残っているのだろう。
「思ったより元気そうでよかった」
突然聞こえた声。それは最近聞いた声だった。たとえ最近聞いた声であっても、誰もいないはずの空間で聞こえた声に驚き、龍の肩は跳ねてしまった。何故なら、周りを見渡した時に誰もいなかったのだから。龍が背後から聞こえた声に振り返ると、そこには1人の老人が立っていた。髪と長い顎鬚は綺麗な白い色をしている。だが、龍には黒い服を着ている老人に見覚えはなかった。しかし、老人は龍を知っているようだった。口元に笑みを浮かべる老人に、龍は口を開いた。
「……あの時、渓谷で話しかけてきたのはあんただな」
「よくわかったな。見た目にしては若い声だろう」
老人が言うように、声だけを聞いていると40代程度の人間と思ってしまうような声をしている。だが、目の前に立つ老人は70代にしか見えない。渓谷で姿を見せずに話しかけてきた老人に、仙人や神のような存在だと言われれば信じてしまう可能性がある。龍はこの老人が何者なのか知らないのだから、そう思っても不思議ではない。あの時、どこから話しかけていたのか。そして、何故今この空間にいるのか。龍1人しかいなかった空間に、どうやって現れたのか。聞きたいことは、龍には沢山あった。
「あんたは何者なんだ?」
「私は、君だよ」
「……何を言ってるんだ? 未来の俺とでも言うのか?」
胸に右手を当てて微笑みながら言う老人に龍は首を傾げた。そして眉間に皺を寄せて言うと、老人は豪快に笑った。どうやら違ったらしく、暫く笑いが止まらなかった。少々笑いすぎではないかと思うほどだ。老人は笑いすぎて、涙が出るほどだった。ひとしきり笑うと、老人は涙を拭い龍の目を見て答えた。
「私は未来の君ではないよ。言い方が悪かったね。私は『黒龍』だったんだ。……君に『黒龍』の体を与えた者さ」
「俺に……『黒龍』の体を?」
首を傾げる龍に老人は説明をする。何故、龍が人間から『黒龍』になったのかを知らないのだから。エリスが言っていたように、龍の体はこちらの世界への移動に耐えられず、消滅してしまい新しい体『黒龍』を得た。何故『黒龍』なのかはわからなかったが、ずっとそうなのだと龍は思っていた。
だが、老人の話しから本当は違うのだということを知る。老人は真剣な眼差しをして、真っ直ぐ龍の目を見て話しはじめた。それは、龍が召喚されたあの日のことだ。
当時の老人はまだ『黒龍』だった。そして、人間だった龍を見ていた。まさかトラックに撥ねられるとは思っていなかった老人は、現れた魔法陣により召喚される龍を見届けようとしていた。しかし、見届けたのは彼の死だった。老人にとって、トラックはおかしな形をした鉄の箱にしか見えなかった。
それもそのはずだろう。トラックは、エリス達の住む世界に存在していないのだから。見たことのないものを理解することはできないし、それにより死が訪れるとは思いもしない。
地面に叩きつけられた龍に、周りにいた者達の悲鳴が響く。1人の青年が肩にかけていた鞄を放り投げて龍へと駆け寄り声をかけるが、返事をすることはない。召喚される間際に命を落とした龍。老人はエリスが龍を求めていると知り、自分の体を明け渡すことにした。別に龍ではなくてもよかったのだ。召喚されるのは、龍に声をかける彼でもよかったのだ。だが、エリスは彼を選んだ。いや、エリスではなく『あの世界が』といえるだろう。
『黒龍』として長く生きていた老人は、間もなく自分の寿命がくることに気がつき、世代交代をしなければいけなかった。自分が新たに『黒龍』として転生するか、別の存在に『黒龍』となってもらうかのどちらか。『黒龍』になりたいと呼びかけてくる者はいたが、呼びかけに答えることはなかった。何故なら、その人物が邪な心を持っていたためだ。邪な心を持つ者に次の『黒龍』は任せられるはずもない。『黒龍』はある程度の邪な心には耐えることができる。だが、そんな人物に今後を任せることができなかった。『ドラゴン』になるということは、とても重いものなのだ。『ドラゴン』が邪な心を持っていてはいけない。邪な心にのまれてはいけないのだ。
エリス達の住むヴェルリオ王国では『黒龍』の対となる『白龍』を神とし、神聖な存在としていた。だが、ヴェルリオ王国では黒は不吉だ。そのため、『黒龍』には邪悪な力があると考えたのだろう。『黒龍』は『白龍』と同じで、神聖な存在であり神の一種でもあるのだ。だから、『黒龍』に邪悪な力は存在していない。だが、人間と共に暮らしていたこともないため、人間達はそれを知らないのだ。そう考えると、邪な心を持った者を『黒龍』にするなんてことができなかった。それに、邪な心を持つ者を『黒龍』にしてしまったらよからぬことに力を使うだろうことはわかっていた。
黒というだけで人間に姿を見せると不吉だと騒がれる。それならばと、人前に出なければいけない場合は『黒龍』の力をわけ与えて全て『白龍』にやってもらっていた。それの所為でもあるのだろう。人間を怖がらせてしまってでも、『黒龍』が人間の前に姿を現せばよかったのかもしれない。だが、それで何かがあったら『黒龍』の所為になるのだろう。
実際、『白龍』が姿を現したことにより大雨が降り、川が氾濫したことがあった。それは、ただの自然現象となった。その時に『白龍』が姿を現したからだろう。誰も『白龍』の所為にはしなかった。だから、自然現象と判断したのだ。だが、もしも『白龍』ではなく『黒龍』が姿を現していたら。問答無用で『黒龍』の所為になっていただろう。それくらい、白と黒というだけで対応が変わってしまうのだ。
どのような生き物も、生きていれば年をとる。それは『ドラゴン』も同じ。『黒龍』は寿命が来てしまう前に転生か、他者に『黒龍』になってもらわなければいけなかった。しかし、『黒龍』となるにふさわしい者は見つからない。『白龍』よりも早く寿命がきてしまう『黒龍』は、転生を選ぼうと考えた。それは、今までと同じ。
そう考えていた時に偶然見たのは、エリスが他世界から人間を召喚しようとしている姿だった。どのような人間を呼ぶのか気になってしまった『黒龍』は、その人間のいる世界へと飛んだ。強い力を持つ存在であっても、他世界には1分程度しかいられない。時空を超えて違う世界へ渡るには強大な力を使うのだ。それが『黒龍』であっても変わらない。長時間他世界にいることができるのは、全ての『麒麟』を束ねている『麒麟』と存在しているのかもわからないと言われている『応龍』くらいだろう。
はじめて訪れた他世界で、人間達に見られないように時空の狭間から様子を窺う。それはいつも暮らしている世界で、地上の人間に見られないようにと考えていつもいる場所でもあった。そこから見た、エリスに今呼ばれようとしていた人間は、おかしな形をした鉄の箱に撥ねられてしまったのだ。『黒龍』にはその瞬間、時間が止まって見えた。
――これでは、あの子が可哀想ではないか。
『黒龍』はよく時空の狭間からエリスを見ていた。エリスは知らないが、小さい頃から『黒龍』は彼女を知っていたのだ。何故エリスを見ていたのかは、『黒龍』にもわからなかった。ただ気になったから見ていたとも言える。鉄の箱に撥ねられ、宙を浮いた人間の体から魂が抜けていくのを『黒龍』は見た。それは、魔法陣が現れてすぐの出来事だ。召喚されたようとした者は、魂だけでは召喚されることはないのだ。体がないと召喚されず失敗に終わってしまう。このままでは、エリスの召喚は失敗してしまう。何を考えての召喚かは知らない。しかし、『黒龍』はエリスを悲しませたくはなかった。
――彼なら大丈夫だろう。
何故そう思ったのか『黒龍』にはわからなかった。地面に叩きつけられ、抜け殻となった人間に駆け寄り声をかける青年。そのそばで止まる鉄の箱。それから下りてくる男性と、近くにいた別の男性がもしかすると走って逃げてしまうと考えたのか、鉄の箱から下りた男性の腕を掴んだ。そして、少し離れた場所にいる女性は何やら小さな箱を耳に当てて話をしている。
登校途中の女子生徒は足を止めて、口を両手で覆っている。学校からは数人の教師が駆けつけ、寄り添い声をかける青年は涙を流しながら自分の手が血に汚れようとも人間を起こそうと揺すっている。誰の目から見ても助からないとわかるほどの惨状。青年だってわかっているのだろう。駆けつけた1人の教師は何も言わずに、青年の肩に手を置いた。すると、青年は揺すっていた手を止めて、ただ倒れている人間を見つめるだけだった。
それらを見届け、『黒龍』は一度強く目を閉じると、素早い動きで魔法陣へと向かった。途中、体から離れてしまった魂を忘れずに腕に抱えて魔法陣へと突っ込んだ。横目で倒れている人間と、そばから離れない青年を魔法陣の中に入るまで見続けた。
魔法陣の中へ入ると、エリスの元へ向かう前に『黒龍』の体へとつれて来た魂を心臓に押し込んで入れる。『黒龍』の心臓へと魂を押し当てると、それはゆっくりと抵抗なく体の中へ入り消えてしまった。それは、肉体を持たない魂のみとなった存在への転生行為。『黒龍』の体を、魂の存在へと明け渡すのだ。
年老いていた『黒龍』の体を魂の存在へと渡すと、『黒龍』の体は徐々に若くなっていく。魂の存在に合った年齢へと変化しているのだ。
――本当は『白龍』に言ってからと思っていたが……、そんな時間はないな。まあ、対なのだから『黒龍』が変わったことはわかるだろう。
そう思い『黒龍』は目を閉じる。
――新たに『黒龍』となった彼が自分の力を必要とする時がくるかもしれない。その時のために若い『黒龍』の中で暫く様子を見ていよう。そのあとに自分が『黒龍』以外に転生するのか、転生せずに新しく生まれるのかを決めるのも遅くはないだろう。
転生するといっても、その時に転生対象がいなければ生まれ代わりしか選択肢はないだろうが。
若い『黒龍』に気づかれずに、魂だけの存在となった老人は一度意識のない若い『黒龍』の夢の中に入り込んだ。同じ『黒龍』の中にいるため、夢の中に潜り込むのは簡単だった。何もない白い空間に倒れる1人の人間。それが先ほどの鉄の箱に撥ねられた人間だ。何処を見ているのかわからない人間の前にしゃがむと、頭を撫でて言った。
「それじゃあ、あとは頼んだ」
微笑んでそう言ったが、聞いていたかはわからない。何を見ているのかもわからない目を見て言うと、一度視線を向けてきたが、それに老人の姿は映っていなかった。老人が白い空間から抜け出すと、声が聞こえた。それは、エリスの声だ。老人が夢の中に潜り込んでいる間に、無事に『黒龍』が召喚されたようだった。目を覚まさない『黒龍』を起こそうと、エリスは声をかけているようだ。
老人は『黒龍』に気づかれることなく、渓谷で人型になれず強く願うまで黙って様子を見ていたのだ。少しずつ成長していく彼の様子を少し楽しみながら、『黒龍』の中から見ていた。渓谷の戦いで老人は龍を攻撃する者を見ていた。以前の『黒龍』である老人にに何度も声をかけていた、邪な心を持つ者を。だが、それを言うことはなかった。今の老人が言ったところでどうすることもできない。それなら、あの攻撃が誰からだったのかを考えることも訓練だと考えたのだ。
それが、龍だけではなくエリス達のためにもなると考えたようだ。言ってしまえば、誰がどうして攻撃したのかはすぐにわかる。しかし、それでは意味がないのだ。簡単に言ってしまえば、自分で考える力が伸びずにこの世界でまともに戦ったことのない龍は、国境戦争以上の過酷な目に遭うことになるかもしれない。
それだけは避けなければいけない。戦力が欲しいと言っていたエリスだが、戦力にならない龍が戦うのは難しい。相手を突き止めると同時に、龍には戦えるようになってもらわなければいけなかったのだ。たとえ、戦えるようになっても過酷な目に遭うかもしれないが。それでも、戦えないのと戦えるでは大きく変わる。
「俺の体は召喚の時の移動に耐えられなかったんじゃなくて、死んだからこっちに来れなかったのか」
「そういうことだ」
老人の話を聞いて、龍は静かな声で言った。余計なことをしたかもしれないと老人は考えたようだが、龍の顔を見て安堵の息を吐く。そこには嬉しそうに微笑む龍がいたのだ。
「あんたのお陰で俺はこっちに来れて、エリスを守れた。ありがとう」
もしも、龍がこの世界にいなかったらエリスはあそこで死んでいたかもしれない。龍がいなかったら同じような道をたどり、国境へ行ったのかはわからないが、それでもエリスを助けることができたのだ。頭を下げて言うと、老人は龍の頭の上に右手を置いて軽く叩く。勝手にしたことを怒られると思っていたようだが、お礼を言われるとは思わなかったのだ。
「君は若い。『黒龍』の体は丈夫で、もっと強くなる。今の君は、徐々に強くなっていくんだ。あの子を守りたいと、助けたいという気持ちを忘れなければ大丈夫だ」
そう言うと老人の体は足からゆっくりと消えていく。その光景に、龍は僅かに驚き目を見開いた。何故、消えていっているのかわからなかったのだ。
「そろそろ、私は眠るとしよう。……そういえば、『白龍』はまだ転生をしていない。だが、あの子も寿命が近い。もし、あの子に会うことがあれば……転生をしたら、あの子のことを頼めるかい?」
「ああ、任せとけ」
その言葉を聞いて微笑むと、老人は完全に消えてしまった。周りを見渡してもどこにも姿はない。転生したのか、それとも違うのかは龍にはわからなかった。眠ると言っていたので、もしかするとまだどこかにいるのかもしれない。しかし龍は自分の中に前代である『黒龍』の老人がいたことすらわからなかったのだから、老人がどうしたのかはわかるはずもなかった。
龍は左手で髪をかきあげようとして、手を止める。視界に入ったのは、『マンティコア』につけられた中指と薬指の間から手首にかけて縦に伸びる傷跡だった。手の甲と手のひらに残った傷跡によく生きていたなと苦笑する。問題なく動き、触れても痛くないのは夢だからなのか。それとも、現実でも痛みが無く動くのだろうか。それは、起きてから確認しないとわからないことだ。
――起きたら確認しないとな。
背中に受けた攻撃の跡もどうなったのかを確かめたかったが、それは起きて確認するのも難しいかもしれないと思ったようだ。背中なんか、自分で見ることは不可能に近いからだ。左手を強く握り目を閉じる。龍が意識を失ってからどのくらいの時間がたっているのかわからないため不安だったようだが、そろそろ目を覚ますことができると思った龍は体から力を抜いた。
――あの老人に会ったからなのか、今なら目を覚ますことができるだろう。
そして、目を閉じた龍の視界が白い空間からゆっくりと黒くなっていった。誰かの龍に呼びかけるような声も聞こえることはなかった。
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