第四章 情報屋と情報

情報屋と情報1






 音がするのではないかと思うほど勢いよく、龍は目を開いた。だが視界は薄暗い。そして、少々息苦しい。不思議に思いながら龍は両手を柔らかい何かについて体を起こす。そこは見知らぬ部屋だった。部屋には誰もおらず、ベッドに寝かされていたと気がついた龍はゆっくりとベッドに座り両足を床につけた。部屋はカーテンが閉めてあるため、薄暗い。意識を失っている間に連れてこられたのはわかるのだが、ここがどこなのか龍は知らなかった。

 龍は斜め後ろに向かって伸びる長い二本の角と、背中の翼で仰向けにして寝かせることができずに俯せで寝かされていたのだろう。だから、息苦しかったのだ。こちらに来て一度も人型で眠ったことはなかったのだが、俯せで眠るのは少々苦しいようだ。寝ている時は気にならなかったが、起きてから息苦しいことに龍は気がついたのだ。今後も人型で寝ることになるのかもしれないが、角が伸びている方向と翼で横になることも仰向けになることもできない。だからといって、座っては眠りたくないだろう。それならば、消すことができるのかはわからないが角と翼を消すことができるようになるしかない。消すことができれば、仰向けでも横向きでも寝ることができるようになるだろう。そうすれば、息苦しい思いも座って眠るようなこともしなくてすむ。

 小さく息を吐いた龍は、ベットに座ったまま部屋を見渡す。部屋には座っているダブルベッドの他に机と椅子、何も入っていない本棚が一つあった。同じベッドがあと二つほど入るだろう少し広い部屋。ここにいても今は何もすることがない。それに、ここがどこなのかも確かめる必要がある。

 そう思うと龍は、ベッドの脇に置かれているスリッパを履いた。龍のロングブーツや服はどこにも見当たらない。靴を履きたいと思ってもここにはないのだから、置かれているスリッパを履いて移動しても構わないだろう。今着ているのも誰のかわからない甚兵衛羽織だ。しかし、サイズが丁度よく翼が出る部分もあり、窮屈さが全くない。わざわざ作ったのか、それとも誰かが持っていた物なのか。そうだとすれば、翼を出すために切ったということになるだろう。誰の物かはわからないが、魔物用の甚兵衛羽織ではないというのは着ている龍にはわかっていたようだ。ベッドに手をついてゆっくりと立ち上がる。

 どのくらい眠っていたのかわからないため、龍は部屋の中をゆっくりと歩く。ふらつくこともなく問題なく歩くことができる。そのことから、何週間も眠っていたということではないようだ。扉の前に立つと小さく息を吐き、ドアノブをゆっくりと、なるべく音を立てないように回す。扉を開き顔を出すと、そこは廊下だった。部屋は一番端にあるようで左は壁だった。右側には四つの扉があった。向かい側にも五つの扉が見え、どうやら他にも部屋があり誰かが使っているようだった。

 龍のいた部屋は2階だったようで、廊下から下を覗くことができた。そこはリビングになっているようで、2階からリビングが少しだけ見える。僅かにキッチンも見える。そして、リビングのソファーに誰かが座っているのが見えた。それは、見覚えのある人物だった。

 部屋の扉を静かに閉めて、廊下を突き当りまで歩く。左に曲がるとすぐに階段がある。そこからゆっくりとリビングへと下りる。ゆっくり下りたのは、スリッパを履いているため滑るから。リビングの壁に沿うようにして階段があり、階段を下りてすぐ近くに扉があった。そこは別の部屋になっているようだ。何がある部屋なのかはわからない。そして、少し歩くと左側にキッチンがあった。今は誰も使用していないが、普段から使われている形跡がある。階段から龍が下りてきたことに気がついたソファーに座っていた人物が顔を上げたので、龍は声をかける。

「おはよう」

「おはようって……2日も寝てたのよ。心配させないでよ」

 目を覚ましたことに安心したのかソファーに座っていた人物――エリスは小さく息を吐いた。エリスの膝にはユキが頭を乗せて眠っていた。本を読んでいたのか、ユキとは反対側に一冊の本が置かれている。何て書いてあるかは、まだ文字を教えてもらっていない龍にはわからない。

「他のみんなは?」

 姿が見えない黒麒達はどこにいるのかを龍が聞くと、エリスは上を見た。それは上の部屋にいるということなのだろう。他にいくつかの部屋があったので、その部屋のどこかにいるのだ。誰がどの部屋にいるかまではわからないが。

「……ここはどこなんだ?」

「ヴェルオウルにある私の自宅よ」

「自宅って、家なんかあったのか」

 ゆっくりと窓まで歩き、龍は外の景色を見る。窓から外を見ると、距離はあるが左側に僅かに城も見ることができた。図書館にいた時よりも、城が近くに見えている。道行く人々を暫く眺めてから、龍は窓を離れてエリスの向かいのソファーに座る。すると、座ったのとほぼ同時にエリスの後ろにあるリビングの扉が開かれた。

 そこにいたのは悠鳥だった。悠鳥は階段から下りてこなかった。扉から入ってきたということは、どこかへ出かけていたのだ。いったいどこへ行っていたのか。

「起きられるまでに回復したのじゃな」

「あの時は助かった。ありがとう」

 龍は左手を上げて傷を治してもらったことに礼を言う。悠鳥は問題なく龍の左手が動いているのを見て、安心したようだ。握っても触れても痛みはない。ただ、怪我の跡は消えていない。別に消えていようが、残っていようが龍にとっては構わないことだ。痛みが無ければ、それでいいのだから。背中の傷の手当てをして、跡は残っていないと言う悠鳥に龍はもう一度お礼を言う。

「そういえば、其方もエリスの使い魔のようじゃな」

「ってことはあんたも?」

 悠鳥は右耳を見せた。龍と同じように星形のピアスがついている。どうやら以前、黒麒が言っていたもう1人の使い魔が彼女のようだ。龍は漸く、最後の1人に会えたということになる。

「妾は悠鳥。『不死鳥』じゃ」

「俺は龍」

 ソファーに座る龍の横に立ち左手を差し出す悠鳥に、龍も右手を差し出し握手を交わした。翼である手でしっかりと龍の手を握る。彼女は半人半鳥ではなく、『不死鳥』と言った。

 ――半人半鳥の姿をしているけど、白美と同じように化けることができるのかもしれない。化けて半人半鳥の姿になってるのかもな。

 龍はそう思ったようだが、悠鳥はただ化けるのが下手なだけである。昔であれば、半人半鳥も多くいたため今の姿でも目立つことはなかった。だが、半人半鳥がいなくなってしまった今ではとても目立つ姿となっている。

 握手を交わし終わると、悠鳥は龍の左側へと座る。

「エリスに話は聞いた。ほとんど記憶が無いらしいの。異世界から来たのなら記憶がなくても構わないかもしれぬが……少し可哀想ではあるの」

「少しでも覚えていることがあるから、俺はそれだけで充分だ」

 悲しそうな顔をして言う悠鳥に、龍はあえて明るく答える。友人はいたかもしれないが、血の繋がりがある両親がいないのなら心配する人も、自分が死んだことを強く悲しむ人もいないとは言わないが少ないだろうと思ったのだ。好きな人はいたかもしれないが、自分はもう死んだ人間だと知っている龍は記憶が戻らなくてもいいと考えていた。戻っても元の自分の体がないのだから、たとえ元の世界に戻れるとしてもどうすることもできない。

「今は昔の記憶がないが、これからを記憶に刻んでいくんじゃな」

「いいことも悪いこともこれからいっぱいあるだろうし、この間の戦いだって気になることが多かったからな」

「そういうことも記憶の一つになるものね。……それで、何が気になったの?」

 ソファーに置いていた本をテーブルに置いて、テーブルに置いていたコーヒーカップを手に取り尋ねるエリスに龍は一度頷いた。本当は黒麒と白美がいる時に話したかったが、2人に話せば伝わるだろうと思った龍は、2日前の戦いを思い出しながら話し出した。

「まず、戦いのきっかけになった火炎弾だ。あれは渓谷の上から降ってきていた。あの火炎弾、はじめは複数人が銃とかで飛ばしているものだと思っていたが、誰かの魔法の火炎弾だった。しかも、威力が強くて数も多かった、それに――」

「『マンティコア』と戦っているのに攻撃された……」

「『マンティコア』の強さなら、手を貸す必要はないわよね……。あの火炎弾は、『誰』の攻撃だったのかしら?」

 『マンティコア』と戦っている時に悠鳥はいなかったのだが、火炎弾を受けていたことを知っていた。龍には見えないが、火炎弾だろうものが当たった背中を治療した時に見たのだ。だから龍は気にすることはなかった。傷跡から悠鳥は火炎弾だろうとわかったのだろう。

「『マンティコア』を召喚した者の攻撃の可能性があるの。あれほどの使い魔がおったんじゃ。使える魔法も上級レベルの可能性が高い。手助けをする理由はわからぬがの」

「それに、戦う時に誰かが『仕掛けてきた』って言ってたわ。聞こえた方向から、国境付近にいた人の声だったわ」

 国境付近にいたのならわかるはずだ。火炎弾が相手の方向からではなく、渓谷の上から飛んできたことを。敵は前方にいたのだ。しかし、火炎弾は横から飛んできた。それなのに、誰かのその言葉によって戦うことになってしまった。全員が、火炎弾が飛んできた方向を見ていたわけではない。戦うきっかけを与えられれば、全員が攻撃されたと思い武器を手にするだろう。言葉の主は、戦わせることを狙っていたのかもしれない。それならば、渓谷の上にいた人物と声の主は仲間ということになる。

 たとえ途中で戦いをやめたとしても、戦争を起こすきっかけになった可能性が高い。あの火炎弾はそれを狙っての攻撃だったのだろう。声の主の言葉によって、多くの者が相手から攻撃してきたと思っているだろう。もしかすると、あの時国境付近に集まっていた誰かがそれを理由にこれから戦争を起こそうとするかもしれない。

「声の主は戦争を起こそうと考えている裏切り者なのかしら?」

「もし裏切り者なら、2人いるってことになるな」

「2人とは限らないがの」

「まあな。……それと、何故悠鳥は『無駄な戦い』と言ったんだ?」

「覚えておったか」

 あの時、『この無駄な戦いを止めて来ようかの』と言った悠鳥の言葉を龍は覚えていた。何故なら、その言葉が気になっていたからだ。言った時は何も言わなかったが、今なら教えてくれるのではないかと思ったのだ。

「無駄な戦いじゃろ。どう考えても、クロイズ王国からの攻撃じゃないのだからの……それに、あいつが戦争を仕掛けようなんて考えるはずもないのじゃから」

「え?」

「……」

 まるで見ていたかのように言う悠鳥。最後は小さく呟かれたので、隣に座っている龍には聞こえなかった。だが、エリスは何を言ったのかわかったのか黙っている。首を傾げる龍に向かって悠鳥は微笑むと、一枚の紙を取り出した。二つ折りのそれをテーブルに置いてエリスの前へと滑らせた。エリスは目の前で止まった紙を手に取らずに、視線だけで何なのかを悠鳥に尋ねる。

「国王からの依頼が書かれた手紙じゃ」

「アルトじゃなくて、悠鳥が持って来るなんて珍しいわね」

 郵便配達員であるアルトがいつもは持ってくる手紙。国王からの手紙は、エリスの元へアルトしか持ってきたことはなかった。それなのに、今日は悠鳥が持ってきた。アルトが持ってこないということは、何かがあったのか。

「先ほど空を飛んでいた時、偶然近くを通ったら声をかけられたのじゃ」

 どうやら帰りに声をかけられたようだ。国王から声をかけられれば嫌でも行かなければ何が起こるかわからない。何が起こるかわからないとは言っても、国王のことだから断ったとしても大目に見るだろうと悠鳥は思っていた。悠鳥が声をかけられた場所は国王の自室。部屋の中には、これから手紙を受け取り配達をする予定であったアルトもいた。悠鳥が通らなければ封筒に入れられ、蝋封をしてアルトの手に渡り配達することになっただろう。

 悠鳥はわざわざ呼ばれたアルトに申し訳なく思ったのだが、手紙は他にもあったようでアルトはそれを受け取り配達へと向かったのだ。国王は書き終わった手紙を封筒に入れることもなく、二つ折りにして悠鳥に渡した。読まれると考えなかったのか、それとも読まれてもいいものだったのかはわからない。

 手紙を手に取り内容を読むエリスに、龍は何が書かれているのか気になって仕方がなかった。魔物嫌いの国王が悠鳥に渡すほど重要な内容なのかもしれない。たとえ悠鳥を特別視しているといっても、この国では魔物の括りであることには変わらないのだ。アルトに渡すほうが国王は安心するのではないかと思うが、国王の考えが龍にわかるはずもない。

 エリスは無言のまま読んでいた手紙を、折り畳むことなく開いたままテーブルに置く。手紙を覗き見る龍だったが、やはりなんと書いてあるのか読むことができずに思わず右手で顔を覆い天を仰いだ。文字は綺麗に並んでいるため、龍には落書きにもミミズが這ったようにも見えない。何か、意味があるものだとしか思えないものだった。はじめて見た人でも文章だと言われなくても、意味のある文章だとわかるほど綺麗に並んでいるのだ。まるで定規を使いながら書いたのではないかと疑ってしまうほどだ。

「そういえば、龍は文字が読めないんだったわね」

「そうなのか?」

 自分でも忘れていたことを言われ、龍は天を仰いだまま固まってしまう。文字が読めないため、龍は黒麒にでも教えてもらおうと考えていた。すると、テーブルの上に何かが置かれる。龍の前に置かれたそれは本だった。子供向けなのか、可愛らしい動物が描かれている。

「どうしたの、それ」

「国王から頂いたのじゃ。龍に渡してくれと頼まれての。何でこれを渡すのかと思えば、文字が読めぬのなら頷ける」

 テーブルに置かれた本は二冊あった。一冊は表紙に動物が描かれている、新品のノートだった。もう一冊は大きな文字が書かれている本。最初のページは表になっており、その次のページから物語が始まっている。どうやら、子供向けの絵本のようだ。

「その表は文字表よ。その表を見ながら読み方や書き方の練習すれば、そのうち次のページの物語を読めるようになるわ」

「読み方は黒麒にでも教えてもらうとよい」

 ――この表はまるで、あいうえお表だな。

 龍は思ってから小さく首を傾げる。自分で思った言葉だったが、あいうえお表が何かわからなかったのだ。記憶にはないが、もしかしたら昔に見たことがあるのかもしれない。だから、それが浮かんだのかもしれなかった。

「このノートに書き写して、文字の練習をしろってことか……」

「国王は優しいのじゃな」

「……そうね」

 話すことができないと思っていた国王に、呼び止められた悠鳥が持ってきた手紙と二冊の本。何故龍が文字を読めないことを知っているのか疑問に思ったが、魔物嫌いの国王のことだから側近に調べさせたのかもしれない。自分が知らない魔物が安全なのか、危険なのかを知っておきたかったのだろう。以前街で感じた刺すような視線は龍の事を調べていた側近のものだった可能性もある。

 国王が話さないのは大勢の前だと上がってしまうためなのか、それとも知らない人の前では話たくないのか。もしそれが理由だとしたら、国王としていいのか疑問に思ってしまう。それとも、話さないのは別の理由があるのだろうか。考えても龍にはわかるはずもない。

「それで、手紙の内容は?」

「昨日、今回の戦いのことを報告したのだけれど、龍が言っていたことと同じような内容を話したの。火炎弾と『仕掛けてきた』と言った声。それに『マンティコア』のことも。そうしたら、『マンティコア』を召喚できるほどの力を持っている数人の名前が浮上したみたい。もしかするとその中に戦争を起こそうとしている裏切り者がいる可能性があるから、その人達の情報収集をしてほしいらしいわ」

 何故エリスに頼むのか。エリスの他にも情報収集を頼まれた人はいるのか。気になるが尋ねはしない。言わないということは書かれてはいないのだろうから。

「それは俺も一緒に行っていいのか?」

「いいえ、貴方は黒麒の看病をお願い。そばにいるだけで構わないから。平気そうだったら文字を教えてもらって」

「看病? 怪我は酷いのか」

 姿が見えない黒麒の看病を頼まれ、怪我が酷いのかと龍は心配になった。あの戦いで血を流して倒れていた黒麒が思い出される。倒れたまま動かなかった黒麒の怪我は龍より酷かったのか。しかし、悠鳥は龍より酷くないとは言っていた。それは嘘だったのだろうか。

「怪我は大丈夫じゃ。ただ、あれは血を見ると倒れて熱を出してしまうんじゃ。少量なら大丈夫なんじゃがの」

 はじめて聞くことに驚いてしまう。それは黒麒が、血は駄目ということなのだろうか。女性よりも、男性のほうが血を見ると倒れることがあるとは聞くが、黒麒もそうなのだろうかと疑問に思う龍に悠鳥は続ける。

「黒麒はお主と同じくらい丈夫ではある。それに、人型ではなく『黒麒麟』の姿で攻撃を受けたんじゃ。血は出ていたが、傷が浅いというのは本当じゃ」

 傷は浅いと言われて龍は安堵の息を吐く。血を見ると倒れ、熱まで出してしまうとは少々を変わっているとは思っていたのだが、人それぞれなのだ。黒麒が戦うことができないのは、それも関係しているのかもしれない。戦っている最中に、血を見て倒れられても困るのだから。

 龍がそう思った時、階段から誰かが下りてくる音がした。黒麒が下りてきたのかと思っていたようだが違った。下りてきたのは白美だった。白美の様子からすると、今起きたというわけではなさそうだ。

「おはよう。あれ、龍くんがいる」

「おはよう。元気そうでよかったよ」

「あたしはあまり怪我してなかったからね。黒くんの様子を見てきたけど、熱は下がったみたいだよ」

「そう。よかった」

 余程心配していたのだろう。嬉しそうに答えたエリスは、安心したように息を吐いた。この様子だと、もしかしたら高熱が出ていたのかもしれない。エリスは龍を見て、2日間眠っていたと言っていた。もしかすると、黒麒も2日間眠っていたのかもしれない。

「ねえねえねえねえ、龍くんはもう顔洗った?」

「いや、まだ……」

「なら、こっちだよ」

 座っている龍の右腕を掴み、引っ張る白美に龍は何も言わずに大人しくついて行く。リビングの扉を開けると正面が廊下になっており、その先は玄関になっていた。途中にある左の扉はトイレ。右の扉は脱衣所。脱衣所に入ると洗面所でもあるそこには、いくつか歯ブラシやタオルが並んでいた。

「この黒い歯ブラシとコップが龍くんの新しい歯ブラシセットだよ。タオルは好きなのを使ってね。で、この扉の先がお風呂」

 開いたそこはお風呂場だった。ギリギリ2人で入っても狭くはないだろう広さをしている。湯船も足を伸ばせるほどの長さはある。こちらに来てシャワーすら浴びていなかった龍は、お風呂に入れるという喜びを感じていた。

 説明をしていた白美は歯磨きを始めていたので、龍も邪魔にならないように歯を磨き顔を洗う。先ほどよりすっきりした龍は、白美と共にリビングへと戻る。

 リビングに戻ると悠鳥は紅茶を飲み、エリスは出かける準備をしていた。エリスの膝に頭を乗せて眠っていたユキも起きており、リビングに戻ってきた2人を床に座って黙って見ている。

「白美、出かけるわよ」

「2人だけで?」

「ユキも一緒よ。悠鳥は用事があるみたいだし、黒麒のことは龍に任せたから大丈夫よ」

 白美は一緒に行くことを嫌がってはいないが、お腹が空いているのかお腹の鳴る音がする。それを聞いてエリスは微笑んだ。

「どうしても手伝ってほしいのよ。朝食は外でとりましょう」

 その言葉に白美は嬉しそうな顔をした。手伝ってほしいと言われたのが余程嬉しかったようだ。もしかすると、外食ができることに喜んだという可能性も捨てることはできないが。

 龍の朝食はテーブルに白米と焼き魚、味噌汁が準備されていた。湯気が立つそれらに、龍はどちらが用意したのかと首を傾げる。普段食事などを用意するのは黒麒だった。しかし、黒麒はその場にいない。それならば、準備したのはエリスか悠鳥のどちらかしかない。もしかすると、2人で準備したかもしれないが。それを尋ねても答えてくれないことはわかっているので、龍は何も言わなかった。

 龍がソファーに座ると、エリス達はリビングから出て行った。手を振る白美に龍は手を振り返し、扉が閉まると朝食をとるために両手を合わせた。

「あなたの命を、私の命に代えさせていただきます」

「……なんじゃ、それは?」

 食べる前に何故そんなことを言うのかと言うような顔で尋ねてくる悠鳥に、考えることもなく龍は口を開く。

「だって生き物の命を奪って食べるんだから、こいつらの代わりに生かさせてもらいますって挨拶するだろ? ……ってあれ、何で俺こんなこと知ってるんだ?」

 口に出た言葉だったが、考えれば不思議だったのだろう。龍は首を傾げた。そんな挨拶をした記憶なんか一度もないのだから。先ほどの挨拶だけではない。あいうえお表の時も同じだ。龍は知らないことなのに、まるで知っていることのように口から出てくるのだ。首を傾げて黙ってしまった龍に、悠鳥は少し考えてから口を開いた。

「少しは記憶が戻ってきておるのかもしれないの」

「え?」

「妾は長く生きておるが、そのような挨拶は聞いたことがない。ならば、其方の世界の挨拶なのじゃろう」

 記憶が戻ってきている。喜ばしいことなのだろう。だが、龍は素直には喜べなかった。何故か僅かに思い出したくないという気持ちがあるのだ。何故、思い出したくないのかはわからない。それがわかるのは、もしかするとそれこそ記憶が戻った時なのかもしれない。

 だが、思い出したいという気持ちは本当なのだ。以前の記憶がなくても構わないが、思い出せれば龍がいた世界のことがわかるのだ。きっとこの世界とは全く異なる世界。

「戻ってきているなら……それはそれで、いいことなんだろうな」

 本当にそう思っているのかと、問いかけたくなる顔をしながら、龍は漸く朝食に手をつけた。もしも思い出したら、エリス達に龍がいた世界の話をすることができるのだ。こちらにない物もあるだろうし、逆に龍のいた世界にない物もあるだろう。きっと、白美なら楽しみながら聞いてくれるだろう。

 思い出したことにより、運命的なものを感じる出会いがすでにあったと知るのはまだ先の話。それが、龍にとってはよくない出会いであったとしても、相手にとってはそう思わなかったのかもしれない。あの時と同じような目に遭わせれば、欲しいと思っていた物が手に入るかもしれないのだから。その人物は今度は失敗しないと、考えているかもしれない。












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