悠然な鳥2





 火炎弾。それは術者の頭上、もしくは手元から火炎弾を飛ばす術だ。使用者によって火炎弾の数や威力も変わってくる。

 龍は前日に教えられたそれが、まさか役立つとはクロイズ王国との国境付近に立つ今は思ってもいない。役に立ったと思うのはもう少し先のことだからだ。

 相手から見えないように大きな岩陰に隠れている龍達は、国境の向こうを見た。こちらからは見えないが、同じように隠れて様子を伺っているだろうことは気配でわかっていた。相手側も同じような地形なのだろう。隠れることのできる岩場は存在しているようだ。

 こちらの近くには一つの街があるのだが、相手側はどうなのだろうか。近くといっても、ここで戦闘がはじまったとしても巻き込む心配はない距離ではある。もしかすると相手も同じなのかもしれない。だから、攻め込む準備をそこでしていたのかもしれない。

 今の龍ですらわかるほど、多くの気配がしていた。他の者がわからないはずがない気配の多さに、龍は周りを見渡した。気がついていない者はいないだろうと思ったのだ。

 近くをスカジが通りすぎる。手には先日召集された人達の名簿。この場にいる人達の名前にチェックを入れる作業をするスカジだったが、これ以上は誰も来ないと思ったのか作業を止めて周りを見渡した。

「それでは皆様、私はこれにて城へと戻らせていただきます。くれぐれも、こちらからは手を出さぬようお願いします」

 そう言ってこの場を去っていくスカジだったが、その言葉を聞いている者はあまりいないだろう。スカジの周りにいない者はその言葉が聞こえているようには見えなかった。それにこちらから手を出さないようにとは言っていたが、手を出すような人物でもいるのだろうか。いないが、念のために注意しただけなのか。龍にはわかるはずもない。

 偵察を得意とする者達には、スカジの言葉は聞こえていないだろう。彼らは国境に近い場所で様子を伺っているのだから。何も言わず、攻撃をしない様子から相手も様子を伺っているのだろうとわかる。もしかすると、彼らには相手の姿が見えているかもしれない。攻撃をする場合は相手が攻撃を仕掛けてきた時だけ。それ以外の場合は様子を伺うだけだ。

「俺が人型になれたら、もっと近づけるのに……」

 何故か今朝から龍は人型になることができなかった。何度やっても変わらない姿に、人型になることを諦めて離れた場所から様子を伺うことにしたのだ。エリスは今日龍が人型になれないのは、心意的問題ではないかと思っていた。自分でも気がつかないうちに、戦争になったらどうしようと思ってしまい、人型になることができないのではないか。もしも戦争になったら、人を殺さないといけないかもしれないのだ。だから、人型になれない。そう思ったようだ。

 だから離れた場所から様子を伺っているのだが、相手の様子を全く伺うことはできなかった。あまりにも離れすぎているのだ。龍はとても大きいので離れた場所からでなければ相手に見られてしまう。そのために離れたのだが、それが仇となってしまったようだ。気配で探ろうにも、詳しくはわからないのだ。周りにも人が多くいる。敵だけの気配を探るなんてことは、今の龍には不可能だった。

「……仕方ないわ。私と黒麒で様子を見てくる。白美と龍はここにいて。もしも、何かが起こったら来てくれれば大丈夫よ」

 そう言って2人で偵察をしている彼らへと近づいて行った。残された白美は戦うことができない黒麒と歩いて行くエリスを心配そうに見ていた。白美もついて行ってもよかったのだが、龍を1人にすることはできない。仲間同士だとしても、安心することはできないのだ。召喚士であっても、自分の使い魔以外には興味が無かったり、手柄を取られる心配もあるため危害を加えることもあるのだ。そうさせないために、龍の近くに白美がいるのである。龍は仲間に攻撃をされたら、何をしていいのかわからないで抵抗もせずに攻撃を受けてしまうだろう。白美の場合は、相手から攻撃したのだからと躊躇うことなく攻撃することができる。

 龍は黙って、エリスと黒麒を見つめていた。偵察をしている彼らの邪魔をしないように渓谷に寄りかかり国境の先を見ている2人。白美と龍には2人が何を見ているかわからないが、黙っている様子から相手が見えていないか、動きがないか様子を伺っているのだろう。もしも、2人から相手が見えているのなら相手からも見えていることになる。だから、見えていない可能性のほうが高いだろう。

 ヴェルリオ王国からクロイズ王国へと向かうには、この渓谷を通らなくてはいけない。もしもこの場所で戦うことになったら、崖崩れが起こる可能性も低くはない。その場合エリスと黒麒は巻き込まれるだろう。そうならないことを願う龍だったが、2人と離れて5分ほどがたった時渓谷の上で何かが光ったように見えた。

 いったい何が光ったのか。龍は首を伸ばしてその場所を見続けたが、木々が見えるだけで他には何も見えない。気の所為かと思った龍は、国境へと視線を逸らした。視線を逸らす前から何も変わった様子はないようだった。ほっと一息吐く。

 その時だった。

 視界に何かが見えた。先ほど何かが光ったように見えた場所からだ。龍が確認するとそれは、無数の火炎弾だった。他にも気がついた人がいたようで、気がついた者達が騒ぎだす。しかし、気がついていない人もいるようでその場に止まっている者が多い。何故騒いでいるのかという顔をしている。

 国境近くに落ちていく火炎弾に、龍と白美が同時に走り出した。近くにはエリスと黒麒がいるのだ。もしかすると2人に当たるかもしれない。それだけではなく、衝撃で崖崩れが起こらないとも言えない。龍と白美が同時に走り出したといっても白美のほうが速い。今の彼女に龍を気にしている暇はないようで、振り向くこともなく2人がいた場所へ向かって行く。獣型の白美は走ることに特化しているが、龍は違う。歩幅が広く、歩くのは速いが『黒龍』は飛ぶことに特化しているのだ。しかし、今の龍では翼が小さく飛ぶことができないのだ。しかも、走る速度も遅い。どうすれば飛ぶことができるのか、今の龍にはわからない。何故翼も小さいのか、わからないのだ。『黒龍』は飛ぶことに特化しているはずなのにだ。

 飛んでくる火炎弾を避けながら近づこうとするが、砂埃が酷く前が見えずに白美は立ち止まってしまう。しかし、龍は首を伸ばして少しでもエリス達が見えるようにと目を凝らしながら前へと進む。体が大きく、首の長い龍には伸ばせば先が見えた。しかし、砂埃が舞い上がり龍でも前が見えなくなってしまう。そんな時、龍の耳に声が聞こえてきた。

「クロイズ王国が仕掛けてきたわよ!」

 誰かが叫んだ。先に仕掛けてきたのなら、攻撃してもいいだろうと剣を手にした男達が雄叫びあげながら向かって行く。だが、相手方向からも同じように雄叫びが聞こえ、剣の合わさる音が響いた。しかし、龍は相手からも同じように「ヴェルリオ王国が攻撃を仕掛けてきた」と言う声が聞こえたような気がしていた。もしも、その言葉が本当ならおかしいことになる。こちら側にいた者の中に攻撃をした者はいなかった。それどころか、攻撃は渓谷の上からされたのだ。声を発した者は何を思って、クロイズ王国が攻めてきたと思ったのか。渓谷の上からの攻撃では、本当にクロイズ王国からの攻撃なのかは判断できないのではないかと龍は思ったようだ。

 姿が見えないエリスと黒麒が心配で白美は止めていた足を動かそうとしたが、砂埃の舞う地面に影が映ったことを確認して動くことを止めた。上空を見上げると、そこには怪我もなく無事な2人の姿があった。その姿を確認した白美は、安堵の息を零した。

 それは龍も同じだった。白美から少し離れた場所で獣型となった空を駆けるように飛ぶ黒麒と、その背に乗るエリスを確認したのだ。大きな『黒麒麟』の姿となった黒麒が、上空を何度か旋回する。しかし、砂埃が舞い上がり地面にいる人達の様子が伺えないようだ。時々風が吹いて砂埃が晴れるのだが、また舞い上がるのだ。それは下で戦っている者達の影響でもある。乾燥した地面の上を走ることによって、砂が舞い上がっているのだ。

 いつの間にか火炎弾は止んでいたが、今度は炎の矢が飛んでくる。黒麒を狙う矢も多く、それを避けてエリスは上空から下で戦う仲間達に防御力を上げるバリアをかける。怪我をしている者には回復魔法をかけていく。大怪我でなければ、ある程度の傷は塞がってしまう。たとえ、大怪我であっても全ては塞がらなくても出血を少しだけ抑えることがエリスにはできるのだ。

 新たに増える怪我人に、エリスはもう一度回復魔法をかけようと呪文を唱えようとした。しかし、それはできなかった。何故なら、突然どこからともなく大きな獣が現れたからだ。気配もなく近づいてきたそれに、エリスも黒麒も気がつかなかったのだ。

 その獣は右手を大きく振り、黒麒を吹き飛ばした。大きく振った右手の勢いのまま、崖に叩きつけられた黒麒は獣の爪で傷つき、崖に叩きつけられた衝撃で意識を失って落下していく。

 背中に乗っていたエリスは、吹き飛ばされた衝撃により黒麒から落下していた。そのお陰で崖に叩きつけられることはなかった。しかし、落下していることに代わりはない。エリスには飛ぶ力が無いので、落下をおさえることはできないのだ。

 エリスが落下する光景が、龍にはスローモーションに見えていた。懸命に走るが、エリスが地面に叩きつけられるほうが速いのは明らかだった。地面に叩きつけられる前にエリスを助けようと走っている白美ですら、間に合わないだろうことは一目瞭然。黒麒のことも助けなければいけない。しかし黒麒は、地面に叩きつけられて死ぬようなことはないだろうと考えて2人ともエリスへ向かっているのだ。

 人間であるエリスが地面に叩きつけられてしまえば死んでしまう。もしも、黒麒が地面に叩きつけられて助からなくても、エリスが助かれば本人も本望だろう。黒麒だって、落下してきているのがエリスと白美や龍であっても、エリスを助けるほうを選ぶだろうから。

 助けるために走っていた白美だったが、エリスへ攻撃しようとする獣に気がつき、足を止めて攻撃を仕掛ける。少しでもエリスに攻撃が当たらないようにするためだ。ここで白美が止めなくては、地面に叩きつけられるより先に、獣の攻撃により死んでしまうかもしれない。

「『マンティコア』!!」

 叫ぶ白美の体の周りを幾つもの氷の礫が浮遊している。それを叫びと同時に獣――『マンティコア』へと放つ。『マンティコア』は大きな翼を羽ばたかせて氷の礫を避けるが、エリスへの攻撃を阻止することはできた。しかし、白美は追撃を止めない。

 そんな白美を龍は気にしている暇はなかった。走る龍にはエリスだけではなく、全てがスローモーションに見えている。もちろん自分の速度も遅いし、視界に入っている白美の攻撃ですらゆっくりだ。しかし、龍の目にはエリスしか映っていない。

 ――これだったら人型のほうが速く走れる。どうして人型になれない! 二本の足で大地を踏み、エリスの元へ飛びたいのに、何故この翼で飛べない!! どうしてこの翼は小さいんだ!

 エリスが地面へ叩きつけられるまで10秒もないだろう。体が重い黒麒は先に地面へと叩きつけられ、血が流れだしている。落下しているエリスも同じようになってしまう。いや、もっと大変なことになるだろう。

 ――エリスを助ける力が欲しい!!

『願え』

 突然、龍の耳に聞いたことのない声が聞こえてきた。周りには誰もいない。それなのに近くから声がしたのだ。男の声であったが、今の視界にはエリス以外誰も映らないし、周りに龍に語りかけるような存在の気配はしていない。全員が戦闘に集中しているのだから。

『願え。さすれば、あの子を助けることができるだろう』

 男の声に疑っている時間はないので、龍は強く願った。そうすれば、エリスを助けることができるかもしれないのだ。試さない手はない。もしかすると、その声は悪魔のような存在の声なのかもしれないと龍は僅かに思ったようだ。願ってしまえば、悪魔と契約をしたことになり、龍の命は無くなってしまうのかもしれない。しかし、エリスを助けることができるのならそれでもいいと思ったようだ。

 ――エリスを助けたい! この姿じゃ間に合わないんだ! 速く走れて、エリスを抱きとめる手を! 今は地上より安全な空へ飛べる、大きな翼が欲しい!!

 男は何も言わなかったが、小さく笑ったようだった。そして、龍の願いを叶えたかのように踏み出した足は二本になっていた。足元を見なくても龍には感覚でわかっていた。前足も、地面にはついていない。

 強く地面を踏み、数歩歩いて右足で地面を蹴り、翼を羽ばたかせた。龍には見ることはできないが、どうやら翼も飛ぶのに支障がないほど大きくなっているようだ。いつもより大きく力強い羽ばたきで、地面に叩きつけられそうになっていたエリスへと向かう。地面すれすれを飛び、翼を羽ばたかせると砂が舞い上がる。戦う者達の間を通り、両手を前に差し出すことによってエリスをぎりぎりで抱き留めることができた。

 そのままの速度で戦いに巻き込まれないようにと空へ向かって飛び、漸く安心できる上空で止まることができた。地上を見下ろすと、そこには多くの戦う人々。倒れる者や、怪我をしたまま戦う者。それは相手側にも言えることだった。

「龍、助けてくれてありがとう」

 震える声で両手を背中に回して抱きついてくるエリスを落とさないように、龍は抱きしめたままの手に力を入れた。空は安全と言っても、地上よりはという話だ。上空からは炎の矢が降ってくることもある。それだけではない、雷の弾が向かってくることもある。炎の矢が当たらないからなのか、次々と雷の弾を飛ばしてくる相手はいった誰なのか。いったいどこから飛んでくるのかは、今龍に確かめることはできない。

 何故なら、白美と戦っていたはずの『マンティコア』が向かってきているからだ。両手が塞がっている龍に戦う方法はない。エリスも落下の恐怖が抜けていないため、龍に抱きついたままだ。どうやらエリスは、『マンティコア』が向かって来ていることには気がついていないようだ。

 火炎弾が飛んできた渓谷を背にして高く飛んでいたが、『マンティコア』の攻撃を避けるために翼を大きく広げた。だが、羽ばたくことができなかった。後方からの衝撃と背中に広がる熱さ。そして、目の前に迫る『マンティコア』の大きな右手。避ける時間はない。

 ――とにかく今は、エリスを守らないと!

 両手でエリスを落とさないようにと抱きしめていた龍は、左手を離して右手でエリスを強く抱き寄せた。右翼で包むようにエリスを隠し、左手を前に突き出した。少しでもエリスに攻撃が当たらないようにと、瞬時にしたことだ。左手を前に突き出して攻撃をしようと思ったわけでもない。攻撃なんかできないし、攻撃方法もまだわかっていなかったのだから。そして、左翼を大きく羽ばたかせ、後方へと移動する。今度は羽ばたくことができた。少々背中が痛むが、気にしている暇も龍にはなかった。エリスを守れるのなら、痛みは気にならないのだ。

 だが、『マンティコア』の意識は突き出された左手に狙いを定めたようだ。『マンティコア』が右手を大きく振ると龍の左手から血飛沫が飛び、『マンティコア』の攻撃の衝撃で龍の体はそのまま地面へと落下していく。左翼で羽ばたいて後方へ下がったおかげか、左腕が切断されることはなかった。『マンティコア』の攻撃も爪が左手に当たった程度ですんだのだが、体格差から衝撃はとてつもなかったのだ。地面へと落下していく龍へと向かって、また火炎弾が飛んでくる。その火炎弾は先ほどと同じ渓谷の上から飛んできているように落下する龍には見えた。先ほど背中に当たったものも龍には確認することはできなかったが、火炎弾だったのかもしれない。龍は両翼を広げて羽ばたくと、火炎弾を避けて地面へ叩きつけられずに降り立つことができた。地面へ足をつけると、火炎弾の攻撃が止む。だが安心はできないため、エリスは右手で抱きしめたままだ。

 ――渓谷の上からの攻撃。あれは……火炎弾だ。

 龍は一度渓谷の上を睨みつけてから、向かってくる『マンティコア』へ視線を向けて同じように睨みつけた。左手から血が流れているが、痛みを感じていないようだった。龍は『マンティコア』の攻撃が当たる瞬間に避けようと考えて足に力を入れた。いつでも避けることができるように、『マンティコア』からは目を逸らさない。

 だが、龍は『マンティコア』の攻撃を避けることはなかった。突然、目の前で『マンティコア』が叫び声を上げると消えてしまったのだ。消えたことに驚く龍と、同じように腕の中でその光景を見たエリス。『マンティコア』の叫びを聞いたエリスは、一つの答えに行きつくことができたようだ。

「今のは……誰かが『マンティコア』を倒したんだわ」

「倒したって、誰が!?」

 わからないと言うように、エリスは首を横に振る。ただ、使い魔や召喚した魔物が戻る時は魔法陣の中へ消える。魔法陣がないのに消えたのは誰かに倒された以外考えられない。小さく呟くエリスに、龍は『マンティコア』がいた場所へと視線を向けた。

 ――消える。それって、死ぬってことなのか?

 黙っている龍に、何が言いたいのか理解したのだろう。エリスは龍を見上げると、それに気がついた龍もエリスを見た。目が合うと、エリスは一度頷いた。それは、魔法陣の中にではなく、その場で消えるということは死亡を表しているということだ。誰かに攻撃をされた『マンティコア』。その攻撃は見えなかったが、一撃が当たったただけなのか、それとも何度も瞬時に攻撃されたのか。龍には考えてもわかるはずはなかった。見えなかったのだから、仕方がない。

 もう一度『マンティコア』がいた場所に視線を向けると、そこには上空から新たな影が差していた。逆光により、それは形しかわからない。エリスと龍は同時に気がつき、また敵が来たのだろうかと警戒をした。今2人のいるこの場所は、戦場になっているのだ。離れた場所で戦っている人や倒れている人もいる。エリス達の元に、別の敵が来ないとは言いきれないのだ。

 倒れている黒麒のそばには不安そうな顔をした白美が駆け寄り、黒麒に必死に話しかけている。白美に戦い方を教えてもらったとはいえ、龍は魔法が使えるわけではない。攻撃を避けることしかできず、攻撃方法は今のところないのだ。もしも敵であれば、龍が対応しなくてはいけない。龍が影を睨みつけていると、それはゆっくりと降りてきて目の前に降り立った。逆光で形しかわからなかった存在が、はっきりと見えた。

「……悠鳥ゆちょう

 降りてきたのは半人半鳥ハーピーの女性だった。両腕が翼になっており、両足は鳥のような足をしている。炎のように赤い腰まで伸びた髪に翼。そして着ている和服も赤く所々に白い模様がある。

 龍は知らない人だったが、エリスは女性――悠鳥を知っているようだった。そして、『マンティコア』を倒したのはこの悠鳥という女性なのだろう。この場にいなかった彼女が現れて『マンティコア』が倒されたのだから。見えない攻撃をした悠鳥。

 ――悠鳥はいったい何者なんだ?

 龍がそう考えていると、悠鳥は龍を見て口を開いた。

其方そなた、怪我をしておるな」

「え? あ、ああ。これはさっき、『マンティコア』に……って、うわぁ……これは、凄いな」

 言われて龍が左手を確認すると、中指と薬指の間から手首にかけて縦に線が入っている。血は止まる様子がない。先ほどの『マンティコア』の攻撃により、爪で切られたのだろうとしか考えられないが、手から僅かに向こうの景色が見えていた。痛みを感じていなかったので、そこまで酷いとは思ってもいなかったようだ。どうやら、神経が麻痺しているようだ。

 ――どうりで血が止まらない。これじゃあ、出血死するな。

 どうにかして血を止めようと左手を右手で強く掴み考えていると、突然左手を優しく掴まれた。その手は悠鳥の左手だった。

「取り敢えず傷を塞ごう」

 そう言って悠鳥は右手を龍の左手の上に翳した。すると、左手を手首まで炎が包み込んだ。驚いて何も言えない龍の目の前で傷が塞がっていく。僅かに痛むようになっただけで、新しい血も流れてくることはなかった。悠鳥の炎は不思議と熱くもなければ、冷たいとも感じることはなかった。

「大丈夫そうじゃの」

 悠鳥のだろう白いハンカチで血が拭われ、傷口を確認して小さくに息を吐いて呟いた。傷跡は残っているが、血が流れていないことに安心する龍の頭を軽く撫でると、次は黒麒の元へ向かう。その後ろ姿を、龍は黙って見つめた。

 いつの間にかエリスも黒麒のそばにおり、胸元に手を翳していた。その手元は光っている。龍のいる場所から確認することはできないが、悠鳥と同じように傷口を塞いでいるのだろう。黒麒の胸元の傷は、『マンティコア』の攻撃で負ったものだろう。『マンティコア』の攻撃を受けて、崖に叩きつけられたのだからそれしか考えられなかった。

 黒麒のそばに片膝をつき頭に触れる悠鳥の右手に、先ほどと同じように炎が現れた。それは黒麒の頭部を包み込んだ。龍からは見えないが、落下したことにより負った怪我の治療だろう。

 誰もが黒麒を無言で治療する。暫くして悠鳥の炎が消えると、そばにいた白美が目に涙を溜めながら礼を言う。

悠姉ゆうねえ、ありがとう。黒くん、死んじゃうかと思った」

「大丈夫じゃ。あそこに座っておる彼よりはましじゃからの」

 龍よりはまし。その言葉が聞こえ、龍は安心したようだ。黒麒の怪我は思っていたよりも酷くはないようだ。しかし、悠鳥の言葉によると龍の怪我は酷いようだ。どの程度酷いのかはわからないが、黒麒よりは酷いのだ。龍は自分ではどの程度酷いのかわかっていなかった。今は、痛みもないのだから。それに、左手以外を確認することはできないのだ。

「さて、それでは妾はとりあえず、この無駄な戦いを止めて来ようかの」

「……お願い」

 傷口が塞がったことを確認して、回復魔法を止めてエリスは悠鳥に向かって言った。悠鳥の言葉に気になるものがあったようだが、エリスは何も言わなかった。頷くと悠鳥は腕――翼を羽ばたかせて上空へと飛んだ。向かう先には未だに戦っている者達がいる。『マンティコア』がいたことにすら、彼らは気がついていないのだろう。それだけ、戦いに集中しているのだ。

「其方ら、いい加減止めぬか。お互いこれ以上被害を大きくしてどうするというのじゃ。今止めれば助かる命も多いじゃろう」

 上空から周りを見回すと、今手当をすれば助かりそうな人が多く倒れている。言葉を聞いても止めない場合は実力行使も辞さないと意味を込めて、悠鳥は手のひらから炎を出す。味方も敵も攻撃の手を止めて悠鳥を見上げ、黙っている。静かな悠鳥の声よりも、『マンティコア』の声のほうが大きかったというのに、気がつかなかった彼らは止めてくれる誰かの声を待っていたのかもしれない。

 そのお陰というわけではないだろうが、お互いが同時に攻撃を止める。そして、武器を仕舞うと倒れている者達の元へと駆け寄って行く。中には、剣を収めてその場に座り込んでしまう者もいた。その行動を見て、もう戦わないだろうと判断をして悠鳥も炎を消す。回復魔法が使える者は、怪我人に回復魔法を使用している。その姿を確認して悠鳥は、近づいてくる人物に気がついて一度地面へと下りた。

「助かったよ、悠鳥殿」

「別に其方らを助けたかったわけじゃない。命を無駄にはしたくないだけじゃ。妾とは違って其方らは命の代えがないのじゃからな」

「それでも助かったのは本当だ。悠鳥殿のおかげで多くの命が助かるだろう」

 一度頭を下げて倒れている人の手当へ向かう男の背中を見つめて、悠鳥は小さく息を吐いた。彼が、ヴェルリオ王国の者ではなく、クロイズ王国の者だとは誰も気がつかないだろう。全員が怪我人の元に駆け寄っているため、悠鳥を見ている者もいなかったからなおのことだ。もしもヴェルリオ王国側で見ている者がいれば、悠鳥が攻撃されるかもしれないと思い、近づけさせないようにしたかもしれない。

 ――この戦いはお互いの国にとって意味がないと思ったから止めただけじゃ。其方らのことはどうでもいい。……妾は、あの子らが無事であればいいのじゃ。

 口には出さずに、男の背中を見ながら悠鳥はそう思っていた。そして踵を返すと、羽ばたいてエリス達の元へ戻って行く。先ほどまでは意識があったはずの龍が横向きになり意識を失っており、黒麒が目を覚ましていた。悠鳥は黒麒の横へゆっくりと下りる。黒麒は起き上がることはできないようだったが、悠鳥を見ると口を開いた。

「悠鳥さん、お帰りなさい」

「ただいま」

 それだけ言葉を交わすと、離れている龍へと歩いて近づいた。先ほどより、少々龍の顔色が悪い。どうやら、傷を塞いだといっても塞ぐ前に流した血の量により意識を失ってしまったようだ。だが、息もしているし新しく出血もしていないので心配はないだろう。

「この男は、新しい使い魔のようじゃな。しかも『黒龍』……」

 何かを考える悠鳥は右手を顎に当てたが、聞こえてきた音に考えることを止めて顔を上げた。怪我の手当てをしていた他の人達も、治療の手を止めることなく音がする方向を見ていた。そこには、国王率いる自警団や多くの馬車がこちらへ向かって来ている姿が見えた。

「どうやら伝わったようじゃの」

「どういうこと?」

 口元に笑みを浮かべた悠鳥に、近づいてきた白美が尋ねた。見上げる白美の頭を撫でながら、悠鳥は答えた。

「嫌な予感がしての。偶然、配達帰りのアルトを見かけて、国王に伝えてもらったのじゃ。今すぐここへ来ないと多くの人間が死ぬことをの」

 悠鳥の嫌な予感はよく当たる。予知能力を持っているわけではないが、気をつけろと言われた日は1日中気を張っていないといけないほどである。その言葉を無視すると怪我をする可能性が高いのだ。

 そのため、たとえ魔物嫌いの国王であっても、悠鳥の話はよく聞いてくれるのだ。それに、国王は悠鳥を魔物とは思って見ていないようだ。

 今はもう滅んだとされる半人半鳥。人よりの鳥人は悠鳥以外存在しないため、魔物というよりも半人半鳥として見ているのだ。だが、悠鳥は人に化けることが苦手なために中途半端な姿になっているだけなのだ。悠鳥は魔物というよりも、神に近い存在。さらに、化けていることから半人半鳥でもないのだ。しかし、人間や動物以外を魔物としてしまっている国王にとっては、半人半鳥も魔物であることには変わらない。そのため、何故国王が魔物と思っている悠鳥を半人半鳥だからという理由で特別視しているのかは国王自身以外誰もわからない。国王は神に近い存在だと知っているため、悠鳥を特別視しているのかもしれない。

 向かって来ていた馬車が止まると、医師達が下りてきて素早く怪我人の元へと向かって行く。手には医療鞄が握られており、大怪我をしている人を優先に手当てしていく。酷い人は馬車に乗せて病院へと向かう。その際、治療魔法をかけている者も一緒に馬車に乗る。

 何も言わずに身振りで指示をしている国王を感心して見ていた悠鳥だったが、横向きに倒れている龍の背中にも火傷の跡があることに気がついた。着ていた服は燃えており、露出している肌は痛々しい。

 先ほどの治療と同じように炎で火傷を治していく。炎を消すと、火傷の跡を確認する。火傷の跡は左手とは違い、綺麗に残らず消すことができたようだ。火傷の跡が消えたことに悠鳥は小さく息を吐いた。

 ――この攻撃は、あの『マンティコア』のものではないの。

 龍が渓谷の上から攻撃されていたのを悠鳥は見ていなかった。だから、もしかすると戦っていた誰かの攻撃が当たったのではないかと考えたのだ。戦っていたのだから、他からの攻撃の可能性は充分にある。だが、他から離れていた龍達をわざわざ攻撃する人がいるのだろうか。倒れている人達を見ても、龍達が離れた場所にいたことは一目瞭然だ。それなら、龍は誰に攻撃をされたのか。

 それに『マンティコア』はただの使い魔ではない。他の者が手を加えなくても、人間や低級の魔物を倒すことは簡単にできる魔物だ。それは、使い魔になろうと変わらない。その強さから『マンティコア』に相手をしてもらうだけで充分なのだ。それなのに別の者も加わり、龍を攻撃していた。それは必要ないはずなのに、何故なのか。

 ――これはもしかしたら、この子に関係している戦いなのかの?

 悠鳥は黒は不吉という言葉を思い出していたが、龍が来たことによって起こった戦いではないと首を横に振る。不吉が関係しているのなら、白美が来た時にすでに戦いが起こっている。しかしそんな戦いは一度も起こっていなかった。龍が来るまで一度も戦いは起こっていなかったのだ。

 不吉が関係しているのではなく、龍を狙う誰かがいて、そして龍を狙う為に戦いを起こしたのか。龍にダメージを与えて弱らせるため、殺すために。それとも、龍というよりも『黒龍』に関係しているのか。『黒龍』の力が欲しい何者かが、『マンティコア』と協力して確実に攻撃を急所に当てるためにしたのかもしれない。だから、『マンティコア』だけでいいのに攻撃をした。悠鳥はそう考えた。

 だがここで1人考えていても仕方がないと、悠鳥はもう一度首を横に振った。今はそんなことよりも、怪我をしている龍達を気に掛けるほうが先だ。『マンティコア』も倒し、戦いも止まった。国王がここにいるというのは少し心配ではあったが、国王を守る者達がそばにいるのだから心配はいらないだろうと思った悠鳥は、エリス達へと目を向けた。

 人型になった黒麒が担架で馬車に乗せられ、エリスと白美が馬車に運ばれる黒麒のそばについているのを見て、悠鳥は龍を抱き上げて同じ馬車に乗るために歩き出した。嫌な顔はされるかもしれないが、龍はエリスの使い魔だ。悠鳥もいるのだから、乗せてくれるだろう。

 悠鳥が抱き上げても龍は目を覚ますことはなかった。悠鳥の足は鳥足のため歩きにくかったが、運ぶ振動でも龍は決して目を開かなかった。

 黒麒が乗せられた馬車は国王専用の馬車ではあったが、彼は先頭で1頭の馬に乗って来たので馬車に乗るつもりはないようだ。国王は一度馬車に乗り黒麒の様子を見て、そして悠鳥が抱き上げてつれて来た龍にも視線を向けて何も言わずに小さく頷いてから馬車を下りると扉を閉めてまだ倒れている怪我人の元へと向かった。まだクロイズ王国の人間がいるのに、警戒している様子は国王にはまったくなかった。

 エリス達が座っている向かいのイスに悠鳥が龍を横たえて、空いているイスの隙間に座ると、それを見ていた馭者が全員が座っていることを小窓から確認してゆっくりと馬車を走らせた。急いではいるようだが、振動があまり伝わってこないのは、流石国王専用馬車だと言えるだろう。エリスは自分が座るイスに横になっている黒麒と向かいにいる意識のない龍を気にしながらも、窓から外を見た。国王が指示をしている様子は見えたが、そこには国王専属召喚士であるスカジの姿はなかった。

 国王を心配そうに見つめるエリスだったが、何かを言うことはなく姿が見えなくなるまで窓の外を見つめていた。その間、スカジが姿を見せることはなかった。












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