使い魔2





 龍が尻尾で崩してしまった本を黒麒が積み直す。積み直すのに邪魔になってしまうので、龍はゆっくりと場所を移動した。ゆっくりであれば、体を思うように動かすことができたのだ。崩れた本を積み直している間、エリスは龍にここがどこなのかという説明をすることにした。異世界に来たばかりの龍は何も知らないため、少しでも今いる場所について教える必要があったのだ。

 今はヴェルリオ歴270年5月上旬であり、ここはヴェルリオ王国都市ヴェルオウルの図書館であるということ。図書館といっても利用できるのは国王に認められた少数の人間だけ。最近では利用する人はエリスしかいないため、私物のようになっている。そのため、他の人が来た時のためにわかりやすく本を元の場所に戻す必要もないのだ。以前はエリス以外にも利用する人間はいた。だが、最近はその人物も訪れることがあまりない。だから、本は積まれたままになっているのだ。

 そのため龍を召喚したのも、先ほどまでいたテーブルとイスを片づけた場所だ。召喚されてからずっと座っていた龍は立ち上がって気がついたが、座っていた場所には見覚えのある星が描かれた魔法陣があった。それは、異世界に来る前に見た魔法陣だった。龍は、魔法陣が描かれた紙の上に座っていたのだ。エリスが使う魔法陣には星が描かれているようで、召喚魔法を使うことが多いため星にしているのだという。

 星が数多く存在しているのと同じで、召喚される生き物も多く存在している。それが魔法陣が星である理由だった。同じ魔法陣を使用する人はいない。1人1人が異なる魔法陣を使う。魔法陣は、はじめて使う前に頭の中でイメージする。そして、使った時に現れた魔法陣が今後その人が魔法を使う時に現れる魔法陣となるのだ。

 そして召喚魔法で呼ばれた存在は、呼んだ人を主人とし使い魔になることが多い。もしくは、お互いが求める、一致する条件によっては使い魔にならずに、名前を呼ばれた時に魔法陣がなくても召喚されることがある。それはもしも条件が一致すれば、使い魔にならずとも主人と使い魔のような関係になるということだ。使い魔は主人の言うことを聞く。たとえ、それがどんなことであろうとも。

 その話を聞いて龍は考えたが、エリスが主人なら心配することはないと受け入れた。中には数分だけ使い魔にする魔法陣もあるが、それを使うことはない。何故なら、それは一度だけ使い魔にして無理矢理従わせるものだから。どうせなら、ずっと使い魔として今後も仲良くしたいというのがエリスの考えだったからだ。

「また人間を呼ぶのか?」

 その問いかけにエリスは首を横に振った。本当は戦力になる人間を召喚したかった。戦力になる人間の条件は不明ではあったが、龍が呼ばれたのだ。戦力になる人間が必要だと思ったが、『黒龍』の姿でも充分戦力になると思ったからエリスは首を横に振ったのだ。それに、エリスは他の人ではなく龍でいいと思ったのだ。戦えるのかもわからないのに、目を覚ました龍を見て、他の人は召喚する必要はないと思ったのだ。

 実際、龍は人間だった頃より力があることは理解していた。近くにあったイスに触れただけで壊してしまうほどの力。まだ力を制御できていないとしても、尻尾や翼をぶつけて物を壊してしまう力はあるのだ。図書館の隅には、龍が移動する時に壊してしまったイスが置いてある。

 図書館は大きい体で歩いても、頭をぶつけることがないほど天井が高い。だが、通路は広いといっても龍にとっては狭かった。歩けばイスやテーブルにぶつかり、積み上げられた本を崩してしまう。今の自分では片づけることもできないため、そのたびに申し訳なく思ってしまうのだ。

 そのため歩き回ることを諦めて、黒麒が本を積み直したのを確認し、先ほどまで魔法陣が描かれていた紙が置かれていた場所へ戻る。そこにはすでに魔法陣はなかった。一度使用した魔法陣は新しく描かなければ使用することができないのだ。そのため置かれていた紙はすでに処分したようで、何もないそこへ龍は大人しく座る。そこは先ほど移動して座っていた場所よりも広く、尻尾を振ったりしなければぶつかる物も近くにはない。黒麒が物を遠ざけたようだった。

 紙が無くなっていることに気がついた龍に、時間を節約するために魔法陣は紙に描いて持ち歩いているとエリスは言った。今すぐ使いたいと思っても、魔法陣はその場で描けば1分以上はかかってしまう。そのために数枚は持ち歩いているのだと続けた。

 だが、本来は紙に書いた魔法陣よりもその場で描いた魔法陣のほうが効果も強い。ただ、エリスが魔法陣を描いたり消したりするのが面倒臭いということもあり、魔法陣を描いた紙を持ち歩いているのだ。持ち歩いている魔法陣は召喚する時にしか使えない。もしもその紙を落としてしまっても、悪用されることはない。何故なら、その魔法陣を使えるのはエリスだけなのだから。1人1人使う魔法陣は異なる。同じ魔法陣は存在せず、自分の魔法陣以外はどんな人物であろうと使用することはできないのだ。

「ねぇねぇねぇねぇ、龍くんはあたし達みたいに人型にはなれないの?」

「……あたし達? あたし達って……黒麒と誰?」

「勿論、あたしだよ!」

 明るい声に龍は白美を見つめたまま固まった。どう見ても白美は人間の子供にしか見えない。それなのに、白美の今の姿は人型だという。ならば白美はいったいどんな生き物なのか。どこからどう見ても人間にしか見えない白美を見て、人間じゃない何かだと言われても考えつかなかった。龍でなくても、白美は人間だと誰が見ても思うだろう。

 黒麒のように額に一本の角が生えていればわかりやすいのだが、白美には人間との違いがなかった。角など、人間と異なるものはどこにも見当たらない。ただの人間の可愛らしい子供だ。

「エリス、白美も使い魔なのか?」

「ええ。白美は白い『九尾の狐』。この子は召喚したわけじゃなくて、ウルル山脈で勝手について来たから使い魔にしたの」

「狐は化けることが得意だから、人間との違いなんかわかんないでしょでしょ」

 楽しそうに言う白美に龍は頷いた。じっくり見ても人間としか思えない姿に、龍は思わず褒めたくなったようだ。これだけ上手く化けれるのは才能なのか、それとも練習の賜物なのか。狐だからなのか。

「人型か……どうやってなるんだ?」

「頭に人型を思い浮かべるだけでなれるよ」

 簡単そうに言う白美の言う通りに頭に思い浮かべてみるが姿は変わらない。何度か試してみるが結果は同じだった。それは化けることが得意な狐と、そうではないものの違いなのかもしれない。

「変わらないぞ」

「変わるよ。きっと龍くんは想像力が足りないんだよ」

 純粋な眼差しをして言う白美に何も言えない。人型になれない理由がわからない龍は、白美の言葉が正しいとしか思えなかった。人間から突然『黒龍』になった龍が、人型になる方法を知っているはずがないのだ。だから、すぐに人型になれなくても仕方がないことなのだが、龍はそれを知らないのだ。

「龍にはまだ無理よ」

「どうして?」

「人間から『黒龍』になったばかりで、5日も眠っていたのよ。黒麒や白美は元々が獣型で、生まれた時は子供の個体だったから成長するにつれて人型になれるようになれたけど、龍は生まれた瞬間から大人に近い個体なの。想像力だけじゃ、どうにもならないわ」

 読んでいた本から顔を上げることなく言われ、龍は考え込んだ。5日も眠っていたことには驚いたが、想像力でもどうしようもないと知り溜息が零れた。もし記憶があり人間だった頃の自分の姿を覚えていたら苦労はしなかったのかもしれないと考えたが、それは関係ないだろうと小さく頭を横に振り龍はもう一度溜息を零した。

「人型になれないのなら、訓練をしたらどう?」

「それはいい考えですね、ユキさん。龍さんどうです、私達が人型の訓練をして――って龍さん、いかがなさいましたか?」

 固まる龍に気がついた黒麒が声をかけると、龍はユキを見つめたまま黙っていた。目を見開いて、黙ってユキを見つめている龍は暫くしても何も言わなかった。そんな龍をちらりと見たエリスはページを捲りながら言った。

「ユキはただのユキヒョウよ」

 エリスの言葉に龍はゆっくりと息を吐いた。無意識に力が入っていたようで、何度かゆっくりと吸って吐いてと繰り返して力を抜いた。だが、龍にとってユキはただのユキヒョウには思えなかった。何故なら、ただの動物は人の言葉を話さないからだ。ただのユキヒョウということは、ユキは人の言葉を話してはいないのだろう。ならば、ユキの言葉を理解できるのは『黒龍』になったからだろう。

「ただのユキヒョウって言っても、エリスの魔法で人間と同じ時間生きているけれどね。本当ならもうここにはいないもの」

 落ち着いた声でゆっくりと話すユキ。ただのユキヒョウの言葉を理解できるだけでもすごいと思った龍だったが、『黒龍』となった影響で理解できるのだと結論に至った龍は他の魔物や動物もユキの言葉を理解できるのだろうと思った。ユキの言葉がわかるエリスは、本人が魔法をかけたのだからその影響でわかるようになったのだろうと解釈をした。

「それで、訓練って何するの?」

「イメージだけでも大切よ。どんな人型かイメージしておけば、突然なれるかもしれない。それに、貴方は人型にならないとこの部屋から出られないわよ」

 目を細めて龍を見るユキに、龍はこの部屋に唯一ある扉を見た。大きな扉ではあるが、『黒龍』の姿では出ることができないと一目でわかる。高さは足りているが、横幅が足りないのだ。

 外に出るためには図書館で人型にならなければいけない。窓もあるが、扉よりも小さいそれは見るまでもなく出ることはできないとわかる。頭は通るが、体は通らない。だから、何としてでもこの部屋から出るために、龍は人型になる必要があったのだ。

「訓練してくれ」

 出れないのなら訓練しかないのだ。それ以外に方法はない。図書館から出ずに、ここで一生生きていくのなら訓練しなくてもいいのだ。だが、こんなところで一生を過ごしたくもないし、龍を呼んだエリスの期待も裏切ることになる。そう思っての言葉でもあった。

「それなら黒麒がいいわ。外に出られるようになったら白美に戦闘技術を教えてもらうといいわよ。戦力になれると思えても、体がついていかないんじゃ話にならないから」

「黒麒に人型になる訓練で、白美に戦闘技術? 逆じゃなくてか?」

「私、戦闘は駄目なんです」

「あたしの訓練厳しいよ」

 見た目に反する回答に龍は黙った。黒麒が戦闘に長け、白美が戦闘は駄目だと言われてしまえば納得がいくのだ。少女の姿をしている白美に戦闘技術を教えられるのは、見た目からして少し抵抗がある。

 だが、エリスにお願いしても戦闘技術は期待できそうにないし、嫌がる黒麒に頼むのも忍びない。ユキに頼んでも、ユキヒョウである彼女には無理であろう。龍が四本足の獣であれば教えてもらうことは可能だったかもしれない。だが、四本足の『ドラゴン』の姿をしている彼に彼女が教えることは難しいだろう。それにユキは長生きというだけで、ただのユキヒョウだ。白美が教えてくれるだろうことは教えてもらえないだろう。

「黒麒、白美。迷惑じゃなければ頼めるか?」

「よろこんで引き受けますよ」

「厳しくいくからね!」

 笑顔で引き受けた2人に龍は軽く頭を下げた。2人にとっては、迷惑ではないようだ。迷惑と言われたら、自分でどうにかしなければいけなかっただろう。しかし、2人は断ることはなかっただろう。龍が人型になれることは、エリスの望みでもあるのだ。人型になれば、この部屋からも出られる。外にも出ることができるようになり、エリスと一緒に行動することができる。それはエリスが望む時に、力を貸すことができるということだ。

 別の場所で崩れていた本に気がついて、全て積み直した黒麒は龍に近づくと、龍の左前足へ右手を触れて微笑んだ。その微笑みに、龍は嫌な予感がした。

「では、さっそく訓練いたしましょうか」

「え……今?」

 そう言って黒麒は真剣な眼差しになると、龍を見上げた。口元には笑みを浮かべている。本当に今から訓練をするようだ。まさか今から訓練すると思っていなかった龍は驚いた。だが、大人しく黒麒の言葉を待った。

「まずは目を閉じて、体の力を抜いてください」

 言われた通り龍は目を閉じて体の力を抜く。暗い世界の中に、3人と1匹の気配を感じる。何をしているかはわからないが、エリスは本を読んでいるのだろうと思い、龍は自分の前にいる黒麒へ意識を集中させる。気配を感じとれるのは、龍の体が『黒龍』のものだからだろう。

「それでいいのです。他に意識を向けず、私に集中してください」

 黒麒には龍が他へ意識を向けていたと気づかれていたようだ。龍は驚いたようだが、そんな素振りは見せない。黒麒に集中して次の言葉を黙って待つ。

「では、人型を思い浮かべてください。具体的にではなく、大まかで構いませんよ」

 頭に浮かべるのは人の形。頭から足までの全体。おぼろげに見える形がゆっくりと、はっきり見えるようになる。

「浮かべましたか? それは女性ですか? 男性ですか?」

 口は開かない。回答は龍の頭の中。人の形はゆっくりと男性の体つきへと変わっていく。ミディアムロングの黒髪に切れ長の目。瞳の色は血のように赤い。

 その姿に、何故か懐かしさを覚えた。龍には人間だった頃の姿の記憶はほとんどない。懐かしさに、今思い浮かべているのは人間だった頃の自分自身なのではと考えが至ったようだ。

 だが、そこでその姿が突然消えた。

「え?」

 口から出た声。そして、息を切らす自分自身。走ったわけでもないのに息を切らす自分に龍は首を傾げた。その理由をどうやら黒麒はわかっているようだ。

「欲張ってしまいましたね」

「そうか?」

「ええ。女性か男性か、そして私は何も言っていないのに貴方はその先へ行きましたね」

 黙って頷く。呼吸を整えるために、首を伸ばし顎を床に着ける。そして力を抜いて目を閉じる。思い浮かべただけだというのに、かなり疲れているのだ。そんな龍の耳に、僅かに笑う声が聞こえた。それは、黒麒の声だ。

「休憩したら続けましょう。焦らずゆっくりとね」

 龍は頭を撫でられる感じがしていたが、気にせず先ほどの姿のことを考えた。あれはもしかすると、覚えていない人間だった頃の姿かもしれない。そして懐かしさを覚えたあの姿。

 ――あれが、人間の俺。

 切れ長の冷たい感じがした赤い目。あれが龍だとしたらどうして冷たい感じがしたのだろうかと考えながら、目を閉じたまま口を開いた。

「ミディアムロングの黒髪に切れ長の赤い目をした男の姿が浮かんだ。しかも、あの目は冷たい感じがした。……あれが人間だった俺ってことはあるのか?」

 目を開くとエリスと視線が合った。どうやら、龍の言葉に興味を持ったようだ。読んでいた本は開いたまま、テーブルに置くこともない。

 顎に手を当てて考える仕草を見せたエリスに龍は顔を上げた。何かを真剣に考えているエリスが気になったのだ。

「もし、それが人間の時の龍だったとして……もしもその姿になれたとして、貴方は元の世界に戻りたい?」

「……戻りたいかって聞かれてもな。俺はこっちに来る時に消滅してるんだ。人間じゃない俺が、元の世界に戻ったら大変なことになるだろう。それに、たとえあれが俺の姿だったとしても、戻ろうとは思わない。たぶん心配をかけるような人もいないしな。――で、あれは俺なのか?」

「その可能性はあるわ」

 それだけ答えると興味が失せたように、エリスは本へと視線を戻した。可能性はあるが、絶対にそうだとは答えなかった。それは、エリスにもわからなかったからだろう。龍はそれ以上は何も聞かなかった。その代わり、テーブルへと視線を向けた。

 エリスの前にあるテーブルには何冊か開かれたままの本がある。どのような本をエリスは読むのか気になった龍は、体を起こして本などにぶつからないようにゆっくりと動いた。

 首を伸ばしテーブルの上に置いている本が見える位置にくると、開かれたままの一冊を覗き込んだ。それは図鑑だった。左のページには『鳳凰』が描かれている。誰かの手描きだと思われるそれは色鮮やかだ。『鳳凰』についての説明が書かれているであろう文章は龍には何が書いてあるのか理解することができなかった。

 そして、その図鑑の右のページは白紙だった。文章は書いてあるが、やはり龍には読むことができない。だが、何故白紙なのかはわからなかった。最初から白紙だったとしたら、おかしいのではないか。

「これってなんて書いてあるんだ? それと、なんでこっちは白紙なんだ?」

「文字読めないの?」

「読めない」

 隠してもいいことはないと思い、龍ははっきりと答えた。文字が読めないと今後苦労するかもしれないのだ。読めないのならば、はっきりと答えて誰かに教えてもらえばいい。そう考えたのだ。

「文字も教えないと駄目ね。こっちの白紙には『黒麒麟』が描いてあったの」

 そう言ってエリスは龍の隣に来て、同じ本を覗き込んでいた黒麒を見た。黒麒は白紙のページを右手で撫でる。それは、まるで懐かしんでいるようだった。

「ここに私はいました」

「……は?」

 突然の告白に龍の口は開いたままだ。何を言っているのかと思い、黙って黒麒の言葉を待つ。ページを撫でることを止めずに黒麒は続けた。

「私は2年前までこの手描きの図鑑の一部だったのです。描かれている絵は有名な絵師が手掛けたものです。私はこの白紙の部分にいました。主が召喚の本ではなく、図鑑で私を召喚したのです。そして絵が実体化したため、このページは説明文だけとなったのです」

 図鑑から手を離し、龍に微笑む黒麒が絵だったとは思えない。先ほど見た『黒麒麟』の姿も絵には見えなかった。絵が実体化したというよりも、元々この世界に存在していたのではないかと思えた。

「私は力のないただの絵師が描いた絵だったため、実体化して使い魔となっても戦闘能力を持つことができませんでした」

 だから戦闘技術を教えることができないのだと続けた黒麒の顔は悲しそうに見えた。龍にはそんな黒麒を励ます言葉が見つからなかった。だから軽く顔を体に押しつけた。何も言わず頭を撫でる黒麒に、龍は暫くされるがままだった。

 手が離れる頃には先ほどの悲しそうな黒麒ではなく、訓練をはじめた時の微笑みを浮かべる黒麒に戻っていた。だから、龍は頭をあげた。

「では、再開しましょうか」

 黒麒のその言葉に龍は移動せずに、その場で目を閉じ先ほどと同じように人間を思い浮かべた。瞬時に同じ男の姿が浮かぶ。懐かしいと感じる男。だが、先ほどと違い何故か騎士のような黒い衣装を身に纏っている。

 その衣装には見覚えがなかった。僅かにある人間だった頃の記憶でも、着ていたことが無いものだった。何故先ほど着ていなかった衣装を身に着けているのか。今はまだそこまで思い浮かべていない。それなのに、何故その姿が浮かんだのか。

 龍が疑問に思っていると、男と目が合った。口元に笑みを浮かべる男。そして気がついた。

 ――体が動かない。

 目を閉じ思い浮かべたそこに自分自身の体があるわけではない。だが、動かないのだ。視線を逸らすことすらできない。何故かは龍にはわからなかった。

 男はゆっくりと近づいてくると、『ドラゴン』の姿である龍の右手があるだろう前で立ち止まり、龍を見上げた。男にもそこに体がないはずの龍の姿が見えているのだ。笑みを浮かべる口を開いて言葉を発した。

「久しぶりだな、俺」

 それだけを言うと男は白い光に包まれて消えた。男は先ほどのような冷たい眼差しをしてはいなかった。龍はあたりを見回したが、消えた男の姿はない。先ほどの眼差しは自分自身である龍を心配するあまりに、やって行けるのかと思い目を細めていたのかもしれない。そのため冷たく見えたのかもしれないと龍は思っていた。姿が見えなくなったことに驚いたが、ゆっくりと閉じていた目を開いた。

 目の前にいるのは黒麒。本を手にしたまま固まっているエリスの姿も確認できる。その顔は驚いているように見えた。

 そこで漸く気がついた。

「俺……人型になってる?」

 前を見ると黒麒と目が合う。黒麒は龍を見上げていなければ、龍は彼を見下ろしてもいない。だからわかったのだ。龍は人型になっていることに。

 確認するように顔の前に両手を持ち上げる。握ったり、開いたりを繰り返した。それは、人間の手だった。違和感も全くないようだ。

 ――俺の体だ。

「龍くん、すっぽんぽん!」

 楽しそうな白美の声に、龍は自分の体を見下ろして服を着ていないことに漸く気がついた。エリスを見ると、顔を少し赤らめて本を読んでいた。どうやら、見なかったことにしようとしているようだ。

 声も出せない龍の肩に手が乗る。その手は黒麒の右手だ。何も言わず、着ていたジャケットを肩にかけると手を引いて扉へと促す。

 縺れそうになる足に注意しながら龍が扉の前へ行くと、黒麒がゆっくりと押して開く。涼しい顔をしているので大きいだけで重くはないと思える扉だったが、廊下へ出て閉まった扉の音に、大きさに見合った重さであると気づく。顔色一つ変えず重い扉を開いていた黒麒に、何も言わずに龍は驚いた。もしかすると、それが人間とそうでない者の違いなのかもしれない。人間には軽い扉だが、それ以外には重く感じる扉。

「こちらです」

 手を離し前を歩く黒麒の後ろを離れないように龍はついて行く。靴も履いていない足は廊下を歩くにつれて徐々に冷えていく。

 汚れていない廊下を見下ろしながら、龍は黙って歩く。誰ともすれ違うことなく、目的の部屋へたどり着いたようで黒麒は扉を開き中へと龍を促した。

 龍は黙って中へ入ると、後ろで扉が閉まる音がした。部屋の中には多くの服が揃っていた。それらを見て、本当に異世界なのだと龍は実感したようだ。どれも漫画やテレビの中でしか見たことのない衣装ばかりだったからだ。そう思って龍は、漫画やテレビとは何かと首を僅かに傾げた。ここで黒麒に聞いてもわからないかもしれない。だから、何も言わずに部屋の中にある衣装を見た。

 燕尾服や民族衣装。魔導師、騎士など様々な衣装も揃っている。服と衣装は男性用と女性用の二つに分かれている。分かれていなかったら正直困ったものではあるが、何故図書館であるここにそんなに衣装が揃っているのだろうか。

 考えてもわからない龍は自分の好みに合う服を探すために、男性用衣装が並んでいる部屋の右側へと足を進めた。民族衣装でも構わないが、動きづらそうなため他の服を選ぶ。できれば動きやすいものがいい。

 数多くある服の中から、1着を見て足を止める。その服は、先ほど思い浮かべた男が着ていた黒い騎士服だった。まさかその衣装があるとは思ってもいなかった。

「それがいいのですか?」

 背後にいたため、姿が見えなかった黒麒が服を取ったと同時に声をかけてきた。突然かけられた声に驚いて、少し肩が上がってしまったが龍は服を見て口を開いた。

「……けど、サイズが小さい」

「それなら大丈夫ですよ。魔物用に作られた服ですので、サイズが小さくても着る時に伸びますので心配はいりませんよ」

「凄い生地だな」

「魔物の革や毛皮で魔物用に専門の人が作った服ですので、魔物には着心地のよい服になってますよ」

 龍の手から服を受け取ると、ハンガーから服を外して両手で持って龍に合わせると頷いた。サイズを気にせず、似合うと呟く黒麒に龍は気になったことを尋ねた。

「なんで背中に二つの穴があるんだ?」

「そこに翼を入れるんですよ。これは襟をボタンで固定するタイプですので、動いていてずれることはありません」

 一式揃っているのを確認し、試着室へと案内される。翼が生えている魔物専用の服なのか、何故その服もここにあるのか気にはなったが、龍は何も言わなかった。試着室とはいえない広い部屋へ通されると、持っていた服を備えつけのハンガーにかけて黒麒は出て行った。

 1人残された龍は全身鏡の前へ立つとジャケットを近くに置いてあるイスへと投げる。

 ――背中に違和感がある気はしてたけど、翼があったのか。それに、頭には二本の角か……。

 斜め後ろに向かって伸びる長い二本の角を暫く触っていたが、服以外に用意されていた下着を身につける。ズボンを穿き、ワイシャツの穴に悪戦苦闘しながら翼を入れると襟のボタンを留めて騎士コートを着る。龍は全身鏡を見るまで、自分に角と翼があることには気がつかなかった。やはり、この姿で元の世界に戻ることはできないと確信する。戻ろうとも考えていないので、龍は別に構うことはなかった。

 騎士コートの穴に翼を入れ、背中から伸びるコートの生地を手に取り首に回してボタンを留める。他にもコートの襟にスナップボタンが二つついており、襟元に隠れている部分に留める。意識して翼を動かして、しっかりと固定されていることを確認し、靴下を履くとジャケットを手に試着室を出た。

「無事に着られたようですね。とてもお似合いですよ」

 部屋を出たと同時に言われた言葉。正面にいる黒麒を見ると、右手には1足の黒いロングブーツ。前に置かれたそれを、龍は何も言わずに履いた。サイズも丁度よく、ロングブーツのベルトで固定すると数歩進み問題がないことを確認してジャケットを黒麒へと手渡しで返した。

「少し着るのに面倒な作りではあるけど、思ったよりしっくりくる」

「それはよかったです。それでは、先ほどの部屋に戻りましょうか」

 黒麒はジャケットを着て扉へと手をかけた。廊下へ出て、図書室へと戻る道すがら龍は黒麒にいくつか質問をすることにした。気になることがあったからだ。

「黒麒はどうして燕尾服なんだ? それも魔物専用なのか?」

「魔物専用ですよ。私は戦うことができませんので、主のお世話をするため執事のように燕尾服を着ているのです」

「スーツじゃなくて?」

「ええ」

 本来執事は燕尾服ではなくスーツを着ている。目立たないように行動するためだが、エリスは有名人のためスーツを着ていても目立ってしまうと黒麒は微笑み言った。

「エリスの使い魔は黒麒と白美だけなのか?」

「いいえ、もう1人います。……ユキさんではないですよ」

「わかってるよ。……で、もう1人って誰?」

 龍の前を歩いていた黒麒は振り返り人差し指を口の前に立てる。その行動に話す気がないとわかると別の質問をすることにした。龍はもう1人の使い魔がどんな人物なのか気にはなっていた。人型をしているのか、動物のような姿なのか。だが、教えてくれないのなら、いつか会うこともあるかもしれない日を待つことにしたのだ。

「白美も召喚されたのか?」

「いいえ、彼女はウルル山脈という雪山からついてきました。もう1人も召喚はされていません」

 ――そういえば勝手について来たとか言ってたな。

 黒麒の話を聞いてエリスが言っていたことを思い出す。召喚したとは言わずに、勝手について来たと言っていたのだ。召喚したのならば、召喚したと言っていただろう。

「召喚しなくても、使い魔にできるのか」

 それは質問ではなく、感想のようなものだった。言ってしまえば、歩いていて偶然出会った魔物を使い魔にできるということだろう。本当にできるのかは龍にはわからなかった。

 質問をしている間にたどり着いた図書室の扉を、またもや涼しい顔をして開く黒麒。目の前で軽く開く黒麒に、龍は首を傾げるしかなかった。

 先に部屋の中へと入った龍を、エリスと白美が見ていた。ユキは日当たりのいい場所で一度目を開けたが、すぐに目を閉じてしまった。

「いかがですか?」

「かっこいいよ!」

「似合っているわ」

 2人の言葉を聞いた龍はほっとして体の力を抜いた。似合っていないと言われたらどうしようかと思っていたようだ。その時は別の衣装をもう一度選ぶしかないのだが。できれば、似合っている服を着たい。龍は似合っていないと言われたら、服を選び直す気でいたのだ。だが、その必要もないと安心して体から力を抜いた。そのため、突然『黒龍』の姿へと変わってしまった。

 横にいた黒麒が瞬時に『黒麒麟』の姿になると、軽く跳躍をしてユキの近くへと逃げた。『黒龍』となった龍の近くにあったテーブルやイス、積まれた本は全て倒れていたり押しやられてしまっていた。

 意図せず『黒龍』となった龍は驚いてエリスを見た。目が合うと、エリスは何故『黒龍』の姿になったか説明をした。

「龍はまだ不安定なの。気を抜いたり、疲れたりすればその姿になるわ。たった1日で人型になれただけでもすごいのに、黒麒や白美みたいに人型を保って生活はまだできないわ。今は休憩してあとでまた人型になることね」

 言われて龍は少し息が切れていることに気がつく。先ほど息を切らした時よりも荒い。人型を保てないことは残念ではあったが、少しの間だけでも人型になれたのは龍にとって喜ばしいことだったようだ。

 今いる場所は誰かが入ってきたら邪魔になる。誰かが入ってくることはエリスの話からないのかもしれないが、龍はゆっくりと移動する。重く感じる体でテーブルやイス、本にぶつからないようにユキの横へ移動すると、その場で伏せをして目を閉じた。

 いつの間にか人型に戻り、本やテーブルを直している黒麒に申し訳なく思いながら突然襲ってきた睡魔に身を委ねて龍は眠りについたのだった。窓から差し込む太陽の温かさが今の龍には気持ちよく感じられた。












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