第一章 使い魔

使い魔1






 目を覚ますと、そこは見たことのない広い部屋だった。少年はこんなに広い部屋は見たことがなかった。それだけではなく、訪れたこともないはずだった。

 部屋の壁は本棚で埋め尽くされており、本も隙間なく詰め込まれている。中央には大きなテーブルがあり、そこにも何冊かの本が積まれていた。そこで誰かが調べ物でもしていたのだろうか。座っている人はいないが、開かれた本もあり誰かが読んでいたということがわかる。今いるこの部屋は、まるで図書館のような場所だった。

 周りを見渡し、誰かいないかと確認をするが人も動物もいない。見える範囲の本棚の間の通路にも、どのイスにも座っている姿はない。ならば、この部屋にいた人物はいったいどこへ行ったのか。そして、何故少年はここにいるのかと首を傾げた。記憶の最後にいた場所は、ここではないはずなのだ。そうはっきりと言える。

 そこで、少年は気がついた。自分の視線がいつもより高いことに。いつもならば、届かないであろう本棚の高さが今の視界には映っているのだ。そのことを疑問に思い、なんとかして確認しようとしたが聞こえてきた声に確認せずに終わる。

 部屋に唯一ある大きな扉がゆっくりと開く。大きさのわりに静かに開いた扉から入ってきた1人の女性。白いローブを着た女性の金色の髪が窓から差し込む太陽の光を反射した。眩しさに思わず目を細める。女性は右手にコーヒーカップを持っている。

 そして、女性のすぐ後ろに続いて男性と少女、白い獣が部屋に入ってきた。その姿を見て少年は目を見開いた。男性の額に一本の角が生えていたからだ。普通の人間に角が生えているはずはない。角が生えている人間なんか一度も見たことはない。驚く少年を気にすることなく、全員が部屋に入ったことを確認すると男性は扉を静かに閉めた。

 少年が目を覚ましていることに気がついた女性は、持っていたコーヒーカップを本が積まれているテーブルに置いた。そして、女性はゆっくりと少年に近づいた。近づいてくる女性に、少年はさらに驚いた。女性の身長が低いのだ。見下ろさなければ女性を視界に入れることができない。今までそんなことは一度もなかった。見下ろさなければ視界に入らないほど、身長の低い女性には会ったことはない。それなのに、この女性は見下ろさなくては見えないのだ。女性だけではない。男性と少女が、女性と同じ位置に来たら、見下ろさなければ視界に入らないことがわかる。

「漸く起きてくれたわね、『黒龍』」

「コクリュウ?」

 呼ばれた名前だろう言葉に、少年は首を傾げて声に出して繰り返した。何故なら、そんな名前は一度も聞いたことが無いからだ。そのために、鸚鵡返しをしてしまったのだ。だが、女性が彼に向かって言ったのだから、それは少年の名前なのだろう。もしも彼女が、彼の名前を知っていればの話だが。

 鸚鵡返しをすると、低い声が聞こえた。それが承ん年自身の声だと気がつくには少し時間がかかったようだ。自分の声を聞いて、少年は首を傾げてから漸くそれが自分の声だと気がついたのだ。

 ――自分の声はこんなに低かったか?

 自分の声に疑問に思ったようだが、それどころではない。気になることは多くあったが、今一番尋ねたいことがあったのだ。視線を女性から逸らして、疑問でもある人物を見て言う。

「あいつの角はなんだ。なんで角なんか生えてるんだ!?」

 男性に視線を向けながら女性に問うた。だが女性は疑問には思っていないようで、少年の質問に首を傾げた。別に不思議ではないだろうと言いたげな顔をしている。だが、少年にとっては疑問に思うのだ。

「なんでって、彼は『黒麒麟』。今は人型だけれど、本来は鹿に似た姿をしているのよ。だから、別に角が生えていようとも不思議ではないでしょう?」

 その言葉と同時に男性の姿が変わる。たしかに女性が言ったように鹿に似た姿であった。しかも、少年が見上げるほどの大きさだ。しかし、鹿とは違い角は額から一本伸びているだけ。姿を変えたからか、角は人型の時よりも長い。驚く少年に満足したのか、男性はすぐに人型に戻った。角の生えた男性が人間ではないと言うことが、少年にはよくわかった。何故なら、人間には角がないだけではなく、別のものに姿を変えることができないからだ。

「なんで驚くの? 貴方も同じような生き物じゃない」

 少女の言葉に少年は漸く自分の姿を確認することができた。近づいて来た少女が手に持っている鏡に映し出されている姿。その姿は、『ドラゴン』と呼ばれるものだった。『黒麒麟』も『ドラゴン』も言ってしまえば空想上の生き物だ。だから、少女は同じような生き物と言ったのだろう。鏡を見ながらどうしてそんな生き物がここにいるのかと思うが、映し出されているのは自分と同じ動きをするのだから、それが自分自身だと漸く少年は理解することができた。頭が、現実を理解することについていけてないようだ。

「これが……俺?」

 はじめて見る自分の姿。しかし、少年は『ドラゴン』の姿である自分は本当は違う姿だとわかっていた。どうして『ドラゴン』になっているのかはわからないが、少年の本当の姿が『ドラゴン』ではないことはたしかなのだ。

「違う。これは……俺じゃない。俺は――」

「人間」

「!?」

 鏡を見て自分の姿に驚いた少年の言葉に女性が言った。それは疑問形ではなく、確信だった。まるで、少年の本当の姿を知っているような言葉だったのだ。

「貴方は人間だったのでしょう?」

 驚きながらも一度小さく頷く。少年には自分が人間だったという記憶があったからだ。だが、そこで少年の動きは止まってしまった。疑問に思うことが増えてしまったのだ。たしかに少年が人間だった頃の記憶はあるのだ。あるのだが、はっきりとは思い出せないのだ。

 疑問に思うこと。それは、今少年がいるこの場所と――。

「俺は……誰だ?」

 自分自身に疑問を覚えてしまったのだ。少年は自分が誰だかわからないのだ。名前も、少年の人間だった時の姿もわからない。鏡を見て自分の姿は知っているはずなのに。覚えていることもたしかにある。だが、忘れていることのほうが多いのだ。少年はどこで生まれて、何をしていたのかすらわからない。

 次に驚いたのは女性達だった。まさか、少年が記憶喪失になっているとは思っていなかったのだ。少年の言葉に、何も言うことができずにただ驚いていた。目の前にいる存在が記憶喪失になっているとは思うはずもないし、どうしたらいいのかもわからないのだ。

 女性達の前で少年は記憶がないことに焦りだす。少年は人間として何年かは生きていた記憶があるのだ。はっきりと思い出せなくても、部分的には記憶があるのだ。だが、どうして全てを思い出すことができないのか。何故忘れてしまったのか。視線を泳がせる少年に女性は声をかけた。

「とりあえず落ちついて。私が知っていることは話すから」

 その言葉を聞いて、少年はゆっくり息を吸い込み、真っ直ぐ女性を見据える。落ちつくために数回深呼吸をする。そして、一度目を閉じてからゆっくりと目を開き女性に視線を合わせた。その目を見て頷くと女性は口を開いた。

「まずは自己紹介ね。私はエリス・リュミエール。彼は黒麒こくき。この少女は白美はくび。そして、このユキヒョウはユキ。貴方、名前は? 覚えている?」

 自己紹介で名前を呼ばれる彼らは、小さく頭を下げた。少年もそれぞれに視線を向けて、女性――エリスへと視線を戻した。そして、首を横に振ることで名前を覚えていないことを教える。それを見て一度頷くと、エリスはそのまま喋り続けた。

「ここはヴェルリオ王国の都市、ヴェルオウル。……貴方のいた世界ではないわ」

「異世界ってことか……」

 話を聞いている間に少年は少しずつ冷静になっていた。冷静にならないと大事なことを聞き逃す可能性があったからだ。普段の少年であれば異世界なんてものを信じるはずはなかった。だが、自分の姿が人間から『ドラゴン』になっているということを説明するのならば、ここが異世界だと言うことを信じざるを得ないのだ。

「貴方をこちらの世界に呼んだのは私。今後のために、どうしても戦力になる人間が必要だったの。だから、貴方を召喚した。けれど、貴方の体はこちらへの移動に耐えられなかったみたい。だから耐えられなかった体は消滅し、新しい体を得た。それがその『黒龍』の体。とても丈夫な体。どうして貴方が『黒龍』の姿を得たのかはわからないけれど……」

 記憶が無くなっているとは思わなかった。そう悲しそうに呟いたエリスの言葉に少年は何も言わなかった。何故なら、エリスが故意に少年の姿を『ドラゴン』にしたわけでも、記憶喪失にしたわけでもないからだ。代わりにエリスの左右に立つ黒麒と白美に視線を向けた。2人は何も言わなかったが、エリスと同じく悲しそうな顔をしている。2人が呼んだわけではないが、エリスの関係者でもあるからなのか、それともエリスが戦力になる人間を呼びたいということを知っていたからなのか。

 少年はエリスのことを責めることができなかった。記憶が無くなり、人間だった体も『黒龍』になってしまったが、責めることはできなかった。何故なら、こちらへ来る直前の記憶は残っていたからだ。それが、本当に正しい記憶とは限らないが。

 その記憶によると少年は――。

「そんな悲しそうな顔をしないでくれ。あんたに呼ばれたおかげで俺は今も生きている。あのままだったら、俺は死んでいた。ありがとう、助けてくれて」

 言葉にしたのは少々違った。きっとあの時、自分は死んだのだろうと少年は気がついていた。だが、あの時見た魔法陣が、エリスが彼を異世界へと呼んだことに関係しているのだろうとわかったから。もしかすると、そのお陰で今の少年がここにいるのかもしれないから。だから、お礼を言ったのだ。

 少年にお礼を言われてエリスは目を見開くと、口元に笑みを浮かべて小さく笑った。異世界に呼んで、記憶を無くし、姿も人間から『ドラゴン』になったことに対して罵倒されると思っていたのにお礼を言われたからだ。だから安心したこともあり、小さく笑ったのだ。

「でも、記憶がないのよ」

「俺にとっては両親が事故で死んでるって記憶があれば、姿が違ったとしても気にしない。だって、両親に心配をかけないですむからな」

「そう……」

 小さくそう返したエリスの声は今にも泣きだしそうに聞こえたが、少年は視線を逸らした。もし泣いていたら泣き顔を見られたくないだろうと思ったからだ。エリスは少年の両親が死んでいるとは思っていなかったのだろう。それと同時に、少年の世界に残してきた身内に心配をかけてしまうと思ったのかもしれない。エリスにとって異世界から呼んだ――召喚した人間は、その世界から突然姿を消したものだと思っているのだろう。

 神隠しというのはもしかすると、異世界に呼ばれたことによって起こる現象なのかもしれない。しかし、少年の場合は違うだろう。何故『ドラゴン』の姿となりここに存在しているのかはわからないが、自分の体はあの世界に残っているだろうと思っていたからだ。死んでしまった体を召喚することはできなかったから、別の体となった。この姿に変わった理由は何かあるのだろうが、今考えてもわからないのだから、そのことを考えることはしなかった。いつか、その理由がわかる日が来るだろうと思ったのだ。

「ねえねえねえ。名前は? 名前はどうするの?」

 沈んだ雰囲気を壊したのは、明るい白美の声だった。空気を読まない子なのか、それともわざと明るく言ったのか。先ほど会ったばかりのため、少年にはわからなかった。白美の言葉に、たしかに名前がないと今後何かがあった時など不便だと思った少年は、エリスを真っ直ぐ見つめた。自分で考えるよりも、こちらの世界に呼んだエリスに名前をつけてもらうのがいいと思ったからだ。自分で自分の名前を考えるのも、如何なものかと思ったというのもあるだろう。

「名前はあんた……エリスが決めてくれ」

「私が?」

「ああ。エリスが俺を呼んだんだ。名前は覚えていないから、なんでもいい。呼びやすい名前でも構わない。ポチとかタマでも文句は言わないぞ」

 そう言うとエリスは少々考え込んだ。誰かの名前を決めるなんて、そうそうないことだろう。エリスは1分ほど考えてから彼の目を見た。どうやら、名前が思いついたようだ。しっかりと彼の目を見つめて言った。

「それなら――龍はどう? 嫌なら言ってくれて構わないわよ」

「『黒龍』だから龍か。かっこいいから、いいんじゃないか。わかりやすいし、気に入った」

「それは、よかった。よろしくね、龍」

 安心したように微笑んだエリスに、少年――龍はなぜか照れ臭くなり顔をそむけた。もしもその名前が嫌だと言ったら、どんな名前をつけるつもりだったのだろうか。それはわからないが、『黒龍』という姿から龍という名前はわかりやすかった。それに、気に入ったというのも龍の本心だったのだ。

 照れ臭く顔をそむけた龍の大きく長い尾は嬉しそうに左右に振られ、近くに積まれていた本にぶつかり崩してしまった。崩れた本に誰も何も言わなかったが、龍は申し訳なくなった。自分ではその本を積み直すことはできないのだから。本を積み直そうと思っても、今の龍の手では物を掴むことなんて不可能なのだ。物を掴むことができない手ではない。しかし、力加減ができないのだ。力加減ができれば掴むことができたのだ。それに自分で積み直そうという考えはあったのだが、思ったように体を動かすことができないようで、すぐに別の積まれた本を尻尾や足をぶつけて崩してしまうのだ。

 大きなもので、それが丈夫であれば、力加減ができずとも前足で掴むことは可能だろう。だが、今の姿では本は小さくて掴むことは難しい。申し訳なくなり頭を下げる龍の鼻先を、エリスが何も言わずに撫でた。それは、気にしなくていいと言ってくれているようだった。崩れてしまった本を見て、黒麒が龍の頭を一度撫でて本を積み直しはじめた。












  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る