転生召喚『黒龍』記

さおり(緑楊彰浩)

黒龍編

プロローグ~黒龍編~






「雨、止まないな」

 そう言ったのは右隣で空を見上げる少年の親友だった。朝から降る雨は止むどころか、勢いを増しているようだった。このまま止むことを待っていても、止まないことは明白だろう。強くなる雨脚に少年からは溜息しか出てこない。

 この様子であれば、もしかすると明日も雨が降っているかもしれない。正直、それは誰であろうと嫌だろう。「帰ったらてるてる坊主でも作ろうかな」と呟く少年に親友は小さく笑う。明日の朝は晴れていてほしいと願ってしまうほどのことが少年にはあったのだ。

 それは、バス。雨の日のバスは混雑する。時間にもよるのだが、1人が乗ることでさえ困難になることもある。だが、理由はそれだけではない。一番の理由は傘にあるのだ。当たり前ではあるが、全員が傘を持ち歩いているのだ。中には折り畳み傘を持っている人もいるが、多くは普通の傘だ。

 朝もそうであったが、バスに乗れば濡れた傘が足に当たる。傘をネームバンドで縛っている人は多いが、中には傘を縛らない人もいる。外でネームバンドを縛っていたら雨により濡れてしまう。それならば、バスの中に入ってからでも縛ることはできる。だが、それをしない人が多いため少年は雨の日のバスが嫌なのだ。縛っていても足に当たってしまうのは仕方がない。だが、縛っていないのは多くの人に迷惑がかかる。

 ――最近はそんな人が多くて困る。

 帰りもバスに乗らなければいけないのかと小さく呟くと、また少年からは溜息が出てくる。溜息の理由がわかったのか、親友は小さく笑った。朝ズボンが濡れていたことを心配してくれていたため、バスでの出来事を説明していたのだ。漸く乾いたというのに、また濡れてしまう。少年には帰ったら怒られることが目に見えていた。

「ああ……。帰ったら怒られるな」

「雨降ってるんだから濡れるのは仕方ないだろ。それなのに怒られるのか?」

「ああ。洗濯物が増えるとかなんとか言われるな」

「お前のいる施設って、少し厳しいよな」

「まあな」

 ――厳しいのは俺にだけだけどな。なんて言ったら心配させてしまうから言わないが。

 小学生の頃に交通事故で両親を亡くしてしまったため、少年は現在施設で暮らしている。一度は親戚に引き取られて数日を過ごしたのだが、それからは施設につれて行かれてしまったのだ。しかもその親戚は、両親が残した少年のためのお金を全て持って行ってしまったのだ。

 少年にとって昔の記憶のため、その親戚がどこに住んでいるのかはわからない。施設に聞こうにも、はじめにつれて来られた施設が今住んでいる施設ではないため、施設の人間も知らないだろう。それに、そんな親戚が自分達の住んでいる場所を教えているとも思えない。たとえ教えていても嘘であるか、すでに引っ越しているだろう。

 ――まあ、もう探すつもりもないけどな。

 思いながら諦めて傘を開く。濡れるのは仕方がない。怒られるのも嫌ではあるが、仕方がない。施設の人間は少年の事情を知っているのだから、面倒事に巻き込まれたくなくて早く追い出したいのだ。それに高校を卒業したら、たとえ就職先が決まっていなくても少年は施設を出るつもりでいた。

 ――だから、問題ない。

「さて、俺は妹を迎えに行ってくる」

「どこかに行ってるのか?」

「習い事に行ってるんだ。今日は雨で薄暗いから迎えに行けって親に言われてね」

「気をつけて行けよ」

 雨の降る中を歩き、校門を出ると親友は手を振り歩いて行った。少年は親友から家は高校の近くであると聞いたことはあるが、妹の習い事がどこかは知らない。

 ――雨に濡れて風邪を引かなければいいな。

 少年にも言えることを思いながら、反対方向へと歩き出した。





 少年はバスに乗ろうと考えて歩いていたのだが、どこのバス停も人が多く待っており、やって来たバスにも人が多く乗っていたため乗りきれずにいた。長蛇の列に並び、何度もバスを見送って漸く乗ることができる時間を考えると、30分かけて歩いて帰ったほうがいいだろうと結局いつも通りに少年は徒歩で帰った。

 雨が降っていたため、施設につくまでに40分ほどたっていたが、通り過ぎるバスはどれも乗れそうにはなかった。徒歩で帰ったことは正解だろう。しかし、水たまりを避けて歩くのはよかったのだが、まさか車に水をかけられるとは少年は思ってもいなかった。これでは気をつけて歩いていた意味が無い。ズボンは完全に濡れてしまい、明日の朝までに乾くかもわからない。

 車のナンバーを見て覚えていれば訴えることもできたのだが、あいにくの大雨によりナンバーを確認しようとしても見えなかったのだ。ずぶ濡れのズボンに早く着替えたいと思いながら、少年は傘を閉じて施設の玄関へと入った。ネームバンドで縛り、傘立てに入れて靴を脱ぎスリッパを履く。靴を靴箱に仕舞うと、少年は自分の部屋へと静かに向かう。なるべく音を立てずに向かう。施設の人に見つかれば、少年は何も言わずに嫌そうな顔をされるのだ。

「あら、お帰りなさい」

 この人以外は、だが。声がしたほうを振り向くとそこには1人の若い女性がいた。彼女はこの施設では一番若い女性だ。少年のことも知っているのに、気にせずに話しかけてくれる唯一の女性だ。

「濡れているじゃない。そのままだったら風邪を引いちゃうわ。ほら、このタオルで拭きなさい」

 そう言って洗濯して乾いたタオルを渡してきた。これからそれを仕舞おうとしていたのではないのか。少年が「俺に渡して汚れてしまうと、怒られるのではないか」と言っても女性は聞かない。躊躇いながらも女性に礼を言って受け取る。僅かに濡れていた頭を拭いていると、誰かに女性が呼ばれた。少年には声からそれが誰かわかっていた。施設長だ。

 怒っているような声だが、少年が聞く時はいつもこの声だからこれが標準なのではないかと思っていた。だが、きっと違うだろう。こんな声だったら、幼い子供達が怖がってしまう。子供達は施設長が好きなのだから、この声は少年がいる時だけであり、周りに幼い子供達がいない時の声なのだろう。

「それじゃあ、俺は行きます」

「すぐにお風呂に入れてあげたいのだけれど……ごめんなさいね」

「いいえ、大丈夫です。心配いてくれてありがとうございます」

 頭を下げて部屋へと向かう。少年の背後で施設長と女性の話し声が聞こえるが、内容まではわかるはずがなかった。

 ――きっと、あの女性は怒られているのだろう。

 少年に話しかけるといつも怒られるのだ。それなのに女性は話しかける。その様子を見ると少年は、申し訳ないと思っていた。そして同時に感謝もしていた。子供達とは話すし遊ぶが、この施設の大人では唯一あの女性だけが少年に話しかけてくれるからだ。

 雨で遊びに行けない子供達がホールで遊んでいるのを見て、少年は元気だなと思い微笑んだ。遊んでいた子供達が少年に気がついて挨拶をするので、挨拶を返して奥へと向かう。みんなの部屋は2人から4人部屋だ。けれど、少年は1人部屋。その理由は、1人がなんとか寝起きできる部屋だから。それに部屋ともいえない。多くの部屋の前を通り、一番奥の扉の前で立ち止まった。そこが少年の部屋。

 扉を開けると、そこには扉の大きさとほぼ同じの長方形の部屋がある。小さな窓があり、畳まれた布団。壁には三つのハンガー。その下には透明のプラスチックケース。中には着替えが入っている。布団の横に鞄を置き、着替えを取り出すとすぐに制服を脱いで着替える。ズボンにタオルを押しつけてできるだけ水気を取り、ハンガーにかける。

 ――明日には乾いていればいい。

 少しくらい湿っていても構わないが、乾いているほうが気分的にもいいだろう。親友や、他の人達に心配もかけずにすむのだから。今日は晩御飯になるまで大人しく部屋にいたほうがいいだろうと考えて、少年は鞄から数学と国語で出された宿題をしてしまおうと教科書とノートを取り出した。

 机はないので、窓から差し込む夕日を明かりに宿題を進める。雨が降っているため、いつもより暗いが宿題ができないほど暗いわけではない。少年は部屋の明かりはなるべくつけないようにしていた。月明かりで本を読めないこともないので、明かりはあまり必要ないのだ。それに、少年が明かりをつけていると文句を言われるからという理由もある。

 晩御飯に呼ばれるまで宿題をし、それからすぐに数人の子供達と一緒にお風呂に入る。子供ははしゃぎ、遊ぶので少し時間がかかるがそれでも構わなかった。遅くなっても怒られないからだ。それでも、早めに出ないと次の子供達が入れなくなってしまう。

 お風呂から上がり、風邪を引かないように子供達をしっかりとバスタオルで拭く。子供達の着替えを手伝いながら少年も着替えて、脱衣所の扉を開くと次の子供達が交代で入ってくる。その子供達は中学生の子が入れるようだ。一緒にお風呂に入っていた子供達は、寝る前まで遊んでいるつもりなのか他の子供達が遊んでいるホールへと走って行った。

 1人残された少年は、ホールにいる職員に睨みつけられながら部屋へと向かった。夜勤の職員は3人いるが、どうやらあの若い女性はいないようだ。あの女性は朝早くに来ることが多い代わりに、夜勤にいることは少ない。晩御飯を食べ終わり、お風呂に入ってしまえばいつも少年は部屋に籠っているので夜勤にあの女性がいたとしても会うことはあまりない。

 静かに部屋に入ると、少年は制服が乾いているかを確認するために触ってみた。まだ湿ってはいるが、朝になれば乾いているだろうと思える程度だ。布団を敷き、布団を整えると明日の準備をはじめた。忘れ物をしないように、教科書とノートを鞄に入れていく。数回確認し、忘れ物が無いことがわかると鞄を閉じて壁に立てかけた。

 廊下では騒がしい子供達が追いかけっこをしているのか、足音が響いている。この施設の周りに民家はないので、騒いでいても苦情が来ることはない。それでも、9時には静かになるし、10時には就寝時間となり電気が消される。けれど少年はそれよりも先に寝る。

 テレビを見る子供もいるが、少年がそこにいれば不愉快になる人もいるのでテレビは見ないのだ。学校に行くとテレビの話をしている人が多いが、少年は話さない。話せる話題もないからだ。親友はそれを知っているから、テレビの話はしないが、近くであった事件の話は教えてくれる。解決したものも、してないものも。気をつけろという意味を含めて教えるのだ。

 少年は一つ大きな欠伸をする。外で遊べなかったからなのか、お風呂に入れた子供達が未だにホールでいつも以上にはしゃいでいる。子供達の声が少年の部屋にまで聞こえてきている。毎日お風呂に子供を入れるだけで疲れるのだが、今日はいつも以上に疲れているようだった。壁にかけている時計を確認すると、時刻は8時30分を示していた。

「……寝るか」

 宿題を終わらせて、明日の準備も終わり、忘れ物が無いことも確認した。これ以上することもない。

 ――いつもより寝るのには早いけど。

 月明かりで布団が照らされているが、気にすることはない。この部屋にはカーテンもないため、月明かりを防ぐことができないのだ。

 布団に横になり、風邪を引かないようにしっかりと掛布団を肩までかけて少年は目を閉じた。少年は風邪なんか引いても、余程のことじゃなければ病院につれて行ってもらえないのだ。それだけではなく、風邪で寝込んでいるところに小言を言いに来るのだから引いてなんかいられない。風邪とは別のものに参ってしまう。

「明日は雨が止んでいればいい」

 そう呟くと、少年は眠りへと落ちた。





 6時にいつも通り起床した少年は、制服に着替えた。どうやら制服は問題なく乾いているようだ。部屋から出ると、お風呂場の横にある洗面所へと向かう。歯を磨いて、顔を洗ってから6時30分になるとまだ起きていない子供達を起しはじめた。7時に朝食のため、それまでに準備をすませるように少年は1人1人に言う。すると、1人の子供が寝ぼけ眼で少年の制服を掴んだ。

「どうした?」

「お兄ちゃん、どこか行くの?」

 今にも泣きだしそうな顔をしながら言う子供に、少年は学校に行くことを告げた。それはほぼ毎日のことだから、この子供も理解しているはずだ。それなのに何故、そんなことを言うのだろうか。

「どこか行っちゃう夢、見たの」

 この子供の父親は、交通事故で亡くなっていた。母親は、「子供なんかいたら、結婚なんてできないじゃない」と笑いながらそう言ってこの子供を施設に置いて行ったのだ。

 もしかすると、そのことを思い出して少年がどこかへ行く夢でも見たのかもしれない。絶対にどこにも行かないとは少年は言えなかった。高校を卒業したらこの施設を出て行くつくもりでいたからだ。子供の頭を撫でて安心させると、朝食に遅れるとだけ告げた。すると、子供は大きく頷くとすぐに着替えをはじめた。朝食が食べれないのは、いくらなんでも嫌だったようだ。

 少年は他の人の邪魔にならないように部屋へと戻った。朝食の準備を手伝えばいいのだが、いい顔をされない。それならば手伝わずにいたほうが、少年にも相手にもいい。その所為で少年は朝食を食べれないこともあるが、別に構わなかったのだ。

 暫くすると扉がノックされた。扉の前に立っているであろう人にぶつけないようにゆっくりと扉を開くと、そこにはあの女性がいた。どうやら朝食の用意が終わったようで、少年を呼びに来たようだ。お礼を言って、部屋を出る。すでに子供達は朝食を食べており、少年の分はいつもの場所――隅のテーブルにあった。ただ、そこに置かれているのは少量のご飯だけで、おかずはない。

 それを見た女性は驚いていた。どうやらしっかりと少年の分は準備してくれていたようだ。だが、戻ってきたら少年のおかずはなかった。この施設での少年の生活を見ていたら何故おかずがないのかはわかる。きっと、施設の人間が他の子供達に与えたのだろう。まだお腹が空いた、これ食べたいと言う子供達はいるのだ。そんな子供達のために『余っている少年の分』をあげたのだろう。少年のことなんか気に掛けるのはこの女性くらいだから。施設の人間にとっては、少年はいない存在と同じなのだ。いない人間の用意されているおかずを、子供達にあげることに罪悪感を感じないのだ。

 文句を言いに行こうとする女性を止めて、少年は静かにご飯を食べる。謝る女性に「気にしなくていい」と言うと、女性は他の子供達に呼ばれて行ってしまった。少年ばかり気にかけていたら、あの女性が他の職員達に文句を言われてしまう。その所為でこの施設を辞めてほしくはなかったのだ。あの女性のことを好きな子供も多いのだから。

 朝食を食べ終わると食器をさげて部屋へと戻り、8時少し前に鞄を持って玄関へと向かう。すると唯一少年を気にかけてくれる女性が近づいてきた。いつもは見送りなんかできないほど忙しいというのに、今日に限って何故見送りをするのだろうか。もう少ししたら他の子供達も学校へ行くのだ。忘れ物が無いか確認したりで忙しいはずなのに。

 ――そういえば、今日はいつもより職員の数が多い気がする。

 そのため、女性は手が空いたのかもしれない。

「気をつけてね」

「はい。見送り、ありがとうございます。行ってきます」

 そう言って扉を開けて施設の外へと出た。少年は高校は施設に迷惑をかけないように、できるだけ学費の安い場所を選んだ。流石に高校に行かずに働けとは言われなかったが、できれば高い学費は払いたくないというのはわかっていたのだ。

 だから通学路には他にも高校はあったが、その中でも学費が一番安かった現在通う公立高校を受験したのだ。無事合格はできたが、もしも落ちたらどこに行くのかを少年は考えていなかった。当時はどうするつもりだったかなんて覚えていないのだ。少年にとって最近の出来事ではあるが、通っている高校しか受験するつもりがなかったのだ。

 ――はっきりと覚えてはいないけど、きっとそうだ。

 結果的に合格したのだからいいだろう。ただ、受験する前に当時の担任には「君はもっといい学校に行けると思うけど……」と言われていた。いい学校であれば、それだけ学費が高い。学費が高い高校へはいけない。だから、「この高校でいいです」と答えた記憶が僅かだが少年にはあった。担任は何かを言いたそうにしていたが、事情を知っているので何も言うことはなかった。それでよかったのだ。受けた高校を、中学で親友となった彼も受けたのだから。お互い同じ場所を受けているとは思っていなかった。

 親友は両親が共働きのため、歳の離れた妹を何かあった時に迎えに行くことができるようにと家の近くにあった高校を受験したようだった。彼は少年より頭がよかったので、推薦で名門校にでも行くのだと思っていたのだ。

 そんな彼は昨日の雨で風邪を引いてはいないだろうか。少年は大丈夫だったが、彼は妹を迎えに行ったのだ。その時に雨に濡れていないとは言えない。教室に行っていなければ、遅刻か休みだろう。親友は学校に行く時間が早い。だから、もしも親友が教室にいなければ遅刻か休みのどちらかしかないのだ。

 通いなれた道を1人黙々と歩く。昨日と同じように今日も雨が降っていれば、バスで高校へ向かっていたが、今日は昨日の雨が嘘のように晴天だ。今日も雨であればまた濡れていただろう。濡れて文句を言われることもない。

 すでに入学してひと月。見慣れた景色に変わりはない。新しく建つ家もなければ、壊される建物もない。ただ通学路にあるケーキ屋はよく学生が通うため、ケーキのサイズは小さいが安くて食べやすいと有名だ。そのため、晴れている日はよく混雑している。少年はクラスの女子が毎日のように通っている話を耳にしており、入店する姿をよく見ていた。

 少年にはわからないが、お小遣いを多く貰っているのか、それとも少ないお小遣いでも毎日通える値段なのか。一緒にそこへ行くような女子もいなければ、親友や他の友人と行こうとも思っていなかった。

 朝はこの道を多くの学生がバスに乗って学校に通うため、同じ方向へ歩く学生はいない。サラリーマンや犬の散歩をしている人とはすれ違う。しかし、他に人はいない。もう少し遅く出れば学生がいるかもしれないが、遅刻する可能性も出てくるし、誰かと一緒に行こうとも少年は思わないのだ。だから、登下校はいつも1人だ。

 ――今日は天気がいいな。

 雲一つない晴天。昨日は大雨だったため、混雑するバスに乗るのも一苦労だったのだ。今日も雨だったらまた混雑するバスに乗ることになっていたと考えるだけで溜息が零れることだろう。登下校も濡れる心配をすることもない。この天気だと、下校時間も降っていないだろうことがわかる。

 普段は混雑していないバスも雨が降れば利用者が増えるため、混雑してしまうのだ。さらには、そんなバスに乗ろうとすれば文句を言う人もいる。「次のバスに乗ればいいだろ」と言う人もいるのだが、こちらが遅刻したら責任をとれるというのだろうか。そう思うのならば言った本人が降りればいいだろうと思うのだが、口にすることはない。実際そんなことを言うのは、降りても遅刻しない距離に学校がある者だ。自分がよければ他人が遅刻しようが構わない。そんな考えしかないのだ。

 ――二度と混んでるバスには乗りたくない。そんなことを言われたくないというのもあるが、思わず殴りたくなってしまうから。そんなことをしたら警察沙汰になってしまう。

 雨の日のバスは全員が傘を持ち、濡れた傘が足に当たる。そんな不愉快極まりないバスは誰であろうと嫌だろう。文句を言う人ほど、傘をネームバンドで縛っていない。文句を言う前に、自分の周りの人の傘を見てほしいものだ。その人が傘を縛れば、もう少しつめることができるというのに。

 毎日晴れならばバスに乗って登校する必要もないし濡れることもないが、雨が降らなければ困ることも多い。作物にやる水が足りなくなったり、水不足になったり。人間には水が無いといけないのだ。人間だけではない。生き物全てに必要なのだ。だから雨が降らなければ、それだけで困ってしまう。少年のそんな悩みよりも大変なことだ。

 ――今度からは、雨の日はいつもより少し早く施設を出て学校へ行けばいい。

 そう考えて、少年は足を止めた。

 学校前のについたのだ。学校の敷地に入るには横断歩道を渡らなくてはいけない。信号機の色は青。歩行者用信号機は赤。彼以外の歩行者はいない。少年が学校の屋外用電波時計を確認すると、長針は6を指していた。残り10分でチャイムが鳴る。遅刻する心配はないが、多くの生徒は登校してしまったのか姿が見えない。別に少年の登校が遅いわけではないのだが、これがバス通学と徒歩通学の違いなのかもしれない。

 歩行者用信号機が青に変わるまで待つ間、車が1台も通ることはなかった。元々車通りは少ない道だ。登下校時間に、生徒専用バスが学校前のバス停に停まるがそれも3台程度だ。それ以外の車は近所の住人や教師、宅配業者などくらいしか通らない。だから、定期的に信号が変わっても車が通らないことに驚きはしない。

 1分ほど待って歩行者用信号が赤から青に変わり、左右を確認して車がいないことを確かめると少年は横断歩道を渡りはじめた。もう少しで横断歩道を渡りきる時、少年の足が止まった。そんな場所で足を止める必要なんかなかったのに。何故か止まってしまったのだ。しかし、少年には何故足が止まったのかわかっていた。

 それは、視界に入ったものを見て足が動かなくなってしまったから。この時、気がつかずに足を動かして渡っていればよかったのかもしれない。そうすれば、何事もなく道路を渡りきれていただろう。

 ゆっくりと、視界に映ったものへと顔を向ける。そこには少年に向かってくる1台のトラック。渡ろうとした時には見えなかったのだから、かなりのスピードが出ているのだろう。

 ――朝早くから宅配とはご苦労なことだ。

 少年はそんなことを何故か思ってしまった。そんなことを思うくらいならば早く足を動かし、横断歩道を渡ればよかったのだ。そして少年は、速度を落とすことのないトラックに既視感を覚えていた。

 ――この感じ、どこかで……。

 頭をよぎる正面から迫るトラック。それは、今迫ってくるトラックとは違う色をしている。だが、少年は頭によぎる光景に覚えがなかった。覚えはないが、この光景が頭をよぎるということは経験したことがあるのだろう。いったい、どこで経験したのか。少年は頭の中のトラックの運転手と目が合った気がしたが、現実のトラックへと意識を戻した。現実世界の運転手とは目が合っていない。

 目の前に迫るトラックの運転手が手にするものを見て、意外にも冷静な頭で少年はこのあとどうなるのか理解した。そして、このトラックが今から宅配をするために走っているわけではないということも理解していた。

 ――ああ……俺は、死ぬのか。

 少年が見たものは、運転手が手に持つ缶ビールだった。飲酒運転をしながらこれから宅配なんて考えられないだろう。個人所有のトラックなのか、それとも夜通し走っていたために飲みたくて買ってしまったのか。たとえそうだとしても、飲酒運転は犯罪だ。

 そして、間もなくトラックとぶつかるという直前、突然少年の目の前に現れた星が描かれた魔法陣。これは何なのかと考えても、そんなことは少年に理解できるはずもなかった。魔法陣が現れようと、少年の運命は変わらないのだ。

 衝撃。

 ――痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。

 ゆっくりと空を舞う体。周りの人から見ればゆっくりではないのだろうが、少年にはスローモーションに感じていた。何度『痛い』と思ったかもわからないほど、視界に入る景色はゆっくりだったのだ。両親の顔が浮かび、これが走馬灯なのだろうと少年は理解した。両親と楽しく、家で過ごしていた日々。最後に思い出したのは車に乗っている両親。そして少年は後部座席で大人しく座っていた。

「――て」

 突然少年に声が聞こえた。聞いたことがない女性の声だ。しかし、何を言っているのか少年にはわからなかった。理解する気なんかなかったのだ。何故なら、少年は自分が今から死ぬということを理解していたからだ。

 機能しなくなってきた耳に悲鳴が届く。誰の悲鳴かなんてわかるはずもなかったが、少年には親友の声が聞こえたような気がしていた。けれど、もう何も見えない目では確認することもできなかった。

 ――確認できなくてよかった。

 少年は死に際に見る親友の驚きと悲しみの混ざった顔を見たくはなかった。

 そして少年は目を閉じて微笑んだ。天国や地獄の存在を信じてはいなかったが、両親に会えると思ったのだ。こんな形で両親に会うことになるのは申し訳ないと思いながら、久しぶりに両親に会えると思うと少年は嬉しく感じていた。

 ――貴方達の息子は、死んでしまったがこんなに大きくなったのだと直接言うことができる。

「起きて」

 先ほどと同じ女性の声が聞こえた。今度はしっかりと声が聞こえたが、少年が目を開けることはなかった。開けても、この声の主がいないということがわかっているからだ。薄れゆく意識の中、何度も声が聞こえていたが、少年は気にすることはなかった。このあと少年の体は地面に叩きつけられるのだろう。しかし、そんな痛みを感じることはないのだ。何故なら、もう意識は闇の中なのだから。

 短い人生。辛くなかったわけではない。一緒に暮らしていけるはずだった両親と死別し、親戚に追い出されるように施設に預けられ、その施設でも盥回しにされて揚句のはてにはいない存在のように扱われたのだから。このあと少年の体はどうなるのか。施設の人間はどんな反応をするのかと、少年は少し気になったが知らない方がいいのだろうと考えることをやめた。きっと涙を流してくれるのは親友と、施設のあの優しい女性くらいなのだから。もしかすると、朝話したあの子供も涙を流してくれるかもしれない。

 あの子供はもしかすると、これを予知していたのだろうか。そうだとしたら、あの子供は夢見の力でもあるのだろうかと何故か少年は冷静に思ってしまった。

 ――次に目を開けるのだとしたら、目の前にいるのは両親だろうか。そうだとしたら、何から話そうか。とりあえず死んでしまったことを謝ろう。そして、両親が亡くなってからあった、楽しかったことを話そう。親友ができたことも話そう。きっと、両親は親友ができたことに喜んでくれるだろうから。

 少年はそう思いながら、人生の幕を閉じた。












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