窓
@h12121116
第1話
真奈
見慣れた天上に視線を向けてどのくらい経っただろうか?
カーテンの隙間をすり抜けた控え目な外界の白さが。
窓枠がなんらかの取引で侵入を許したであろう、部屋に伝わり満ちた大気の重さが。
未だ冷たいシーツの上でトドと化した真奈に外界の雨を伝える。
ーー雨は嫌いだ。
理由もなく孤独や頭痛を連れてくる。
このまま止めどなく降り続いて、次に外を見下ろした時、見慣れた地面を濁った水が埋め尽くしていたとしたら。
他との関わりを遮断された時、私は何を、誰を求めるのだろうか。
何に孤独を感じるのだろうか。
気だるさの残る身体を引きずりながら私を型どったコットンの繭を離れる。
生憎、私がトドと化したところでその継続を許す飼育員はいない。
珈琲の為にセットした水が温度を得る間、電車で3時間程の距離に住む母を思った。
真奈の記憶の中で彼女は何時如何なる時も、どこまでも母親だった。
真奈が思春期に入り、やがて当たり前の様に反抗期に入った頃。
彼女の絶対的な正しさは真奈に威圧を感じさせた。
支配的にすら感じるそれから逃れる術もなく、当時の真奈は口数を減らした。
それも、彼女の前に限定して。
当然その気配は母にも伝わり、伝染したかの様に彼女の神経を尖らせた。
結果として2年弱もの間、同じ屋根の下身を寄せ合う母娘は冷戦状態で日々を過ごす事になったのだった。
それもいつしかハッキリとした切欠があった訳でもなく母との間を隔てた壁は氷の様に溶けていった。
今思うと当時の私が感じた母の威圧は、鉄壁なまでの母性を肌で感じた故のものだった様に思う。
人は完全なるモノに恐れや敵意を持つのだろう。
そして何より、完璧が求めるものは完璧である様に感じてしまう。
母の純粋な期待に応えられない事自体を受け入れがたかったのかもしれない。
もっとも、娘が思春期を抜け大人になった今、彼女が私に見せる顔は長年の接客仕事の時間を除けば人見知りで、よく喋りよく笑う。
お節介で抜けたところも多々ある、ごく普通の…なんだか忙しない可愛らしい1人の女性であった。
こんなに放っておけない女性を私は他に知らない。
そんな彼女が思春期の私に正しさや強さ…そんな単語では言い表せない程の徹底を強いてしまっていたであろう事を思うと、自分の反抗期に戻って母の隣で彼女のあれこれをフォローしてやりたい様な気持ちに駆られる。
決してあの頃の自分が間違っていたとも思わない。
当時の自分が出来うる最良を考え、実行してきた自負もある。
微妙な精神状態の大人子どもが、大人に圧を掛け続けられる様は同情さえも生み出す。
しかしそれでも、私は愛されていたんだなぁと感じるのもまた事実であった。
誰かに寄り掛かりたいのとは微妙に違う。
ただ、頼って良い場所が明確にそこにあるだけでそれは十分過ぎる役割を担い、同時に果たしてもいる。
災害時バラバラに点在していた家族にとっての予め決められていた集合避難場所であるかの様な、
周到に準備しておいた安定所。
普段は存在すらも思い出さない約束事。
日常、記憶から弾き出されている事こそが自己の安定状態を示してもいる。
論理的思考に沿った安定の方法とも言えるものだ。
或いは、頑なにすがるファンタジーがそこには存在するのかもしれない。
人は無意識に安定を求め、それを忘れる。
それでも、ある男の紡いだ文字の羅列が私を安堵させたであろう事実は、
当時からつい最近までに関わった知人、友人のそれが決して耳障りの良い言葉や音でなかった事を浮き彫りにした。
受け取れずに終わった約束。
決して上手いとは言えない、神経質そうな文字を今でも覚えている。
内容なんて何でも良かった。
ただ、約束の手紙が欲しかった。
それで全てに納得しようと決めていた。
結局、それは叶わなかった。
思い立って部屋の小さな枠から外を見下ろす。
午後の長雨は音もなく荒れたアスファルトに突き刺さり、
駐車場の薄れた白線に溶けて滲み出していた。
しっかりと折り畳まれた厚紙の繊維を裂く様に開き、大きめのマグカップへ掛ける。
カップにセットした頼りないフィルター紙が水気を含んだ粉を受け止め、雨が地面へ染みる様に陶器を温めながら流れ落ちた。
熱湯を注いだばかりのそれは、口をつけるには熱すぎた。
ぼんやりとカップから上がる湯気を眺めるうちに、ただ何となく学生時代に通学で毎日乗車したバスを思い出した。
雨の日のそれは、鬱蒼とした同乗者の表情のせいか、
はたまた濡れた傘の匂いのせいか、決まって頭痛を運んできた。
独りが寂しくないのと、
独りでいたいのは違う。
つまり、独りでいたいと同時に、
独りを寂しく感じる事はなんら歪な感情の共演ではない。
それでも他人は真奈と対峙する時、矛盾を見出だすらしかった。
もちろん、これらの内容は説明やタイミング、語る相手を間違えれば我儘と精神不安定の分水嶺を計られ、
フォルダ分けされてしまう類のものである事を真奈は十分に理解していた。
いつの間にか構築された他人との溝から生まれた殻。
恐らく、誰もが抱えているであろうそれは、最早慣れ親しんで居心地が良く、また時として真奈に迷いを運ぶ。
迷いーー。
彼との記憶は何故か雨の中にある事が多かった。
朝から雨が降っていた休日や、風の強い雨上がりの午後。
今日の雨も、この手の中の珈琲が冷めきる頃には止むのだろうか。
今思うと彼に見たものは母だった。
絶対的な尊敬の念を抱きながらも、同時にただただ守りたいと思った。
守られたいと思った。
それが出来ると感じた。
結果、それは叶わなかった。
彼は今、どこで何をしているのだろう。
窓 @h12121116
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