第12話

 まどろむ程度の浅い眠りを経て、僕は朝を迎えた。

 ただ、だからと言って何かが変わるわけではない。いつも通り朝食を食べて、家を出て駅へと歩き、電車に揺られて学校に向かう。

 教室の扉を開けて浦部がいたとしても、特に何かを話すわけでもなく自分の席に座って当てもなく時間を潰す。浦部の方も特別僕を気にする様子も無く、お互いがお互いをいないかのように振る舞う、いつも通りの光景。

 学校が終わると、僕は寄り道もせず電車で帰宅の路に着く。浦部はいない。僕一人だ。

 いったん自宅に戻ると、僕は改めて予定を確認した。決められた時間通り、別々の道を使って僕らは山に入り、この前浦部と一緒に夜景を眺めたあの場所で待ち合わせる。僕は指紋を残さないよう軍手を、髪の毛を落とさないようにバンダナを付け、浦部を「殺害」したあと死体を放置して山を下る。……本番ではちゃんと穴を掘って死体を埋める計画らしいが、今回は簡略化するとのこと。まあ今回は半分山デートのようなものだろうし、穴掘りで無為に時間を潰してしまうのも馬鹿らしいということなのだろう。

 時計を見ると、もう出発時刻は迫っていた。僕は軍手とバンダナ代わりのタオルを鞄に詰め込み家を出る。浦部もおそらく今くらいの時間に家を出て、僕と同時刻に山入りするはずだ。

 不審に思われてはいけない。辺りをキョロキョロと覗ったり、落ち着きなくソワソワして周りに怪しまれるのは絶対に避けねばならないことだ。虫も殺さぬような涼しい顔をして、僕が今日誰を殺すわけでもないという事を周囲に信じ込ませなくてはならない。

 そうやって本当に浦部を殺すつもりになって行動していると、平静を装わなければならない意志とは裏腹に僕の心はどんどん熱量を増していった。今日、本当に浦部を殺すんだ――そう思うだけでハァハァと息が荒くなるのが自分自身でもわかる。

 ただ山に向かって歩を進めるだけで、僕の心は不思議な高揚感に包まれていた。

 僕と浦部は山へはそれぞれ別の道を使って入る。僕の侵入ルートはこの前浦部に連れられて行った、隣町への道路から道を外れて森へ踏み入るルートだ。この道を歩いて隣町に行こうという物好きは少なく、車の往来を見るだけで僕は容易にこっそりと道を外れ「他人に見られず山へ侵入」を果たすことができた。

 記憶を頼りに木々の間を進み目的地を目指す。一応浦部にもう一度道順の説明は受けた。この前はほとんど夜だったせいか明かりがあるだけでどこか違う場所に見えてくるが、流石に夜間の山中に比べればずっと歩きやすい。軍手やバンダナを付けながら歩いていると、ほどなく前に来た粗末なロープと柵の崖に辿り着くことができた。

 街の遠景を眺めながらしばらく待っていると、背後から土を踏みしめる足音が聞こえ、浦部が姿を現した。

「あら、早かったわね。もっと迷って遅くなるかと思ってたけど」

「ああ、ほっとしてるよ。もしかしたら一時間くらい君を待たせることになるかもしれないって思ったけど……」

 久しぶりに話した浦部は動きやすいシャツとズボンに着替えていた。僕も私服なうえ頭にはバンダナを巻いていて、お互い普段とはまるで印象が違う。浦部は僕の服装をまじまじ見て、頭のバンダナに目を止めた。

「それ、タオル?」

「そうだよ。バンダナ代わりだ」

「私、あなたが帰ってから気付いたんだけどさ……バンダナ持って来てって言ったけど、バンダナなんて持ってる人どれくらい居るのかしら……」

「そうだなあ、言われてみれば見たことないな。僕も持ってないし」

「バンダナが用意できなかったら、決行するときはあなたの髪を全部剃ってからじゃないと駄目なのかなって……」

「やめてくれよ……」

 クスクス笑った後、次に浦部は地面に視線を落とした。

「それとね、私を埋める穴だけど、これはあらかじめ掘っておいた方がいいと思うの。当日は私と一緒にいる時間をできるだけ少なくしてサッと終わらせて帰るべきだから」

「うん、そうだな。……でも掘った穴はどうするんだ? 決行日までに誰かに見つかったら怪しまれるだろう」

 実際、山には死体とは言わずとも何かを不法投棄しにくる輩は多いそうだ。

「上になにか被せて落とし穴みたいに偽装するのよ。それなら万一見つかったとしても死体を埋める穴だなんて思わないでしょ。……そうね、いっそのこと底に竹槍でも敷いておこうかしら」

「それは引っかかった奴が死体になりそうだな……」

 僕は深い落とし穴に落ちて全身に竹槍が刺さった浦部を思い浮かべた。途端に体中に熱い力がみなぎり、僕は今日の目的を思い出した。

「浦部」

 浦部の肩を掴んで後ろに押すと、彼女は尻餅をついて背中から地面に倒れる。僕はその浦部を上から押さえつけていた。

「ちょっと、もう? もう少しゆっくりしない?」

「サッと終わらせて帰るほうがいいんだろ、本番ならさ。もう我慢できないよ、いいだろ」

「しょうがないわね……」

 浦部は目を瞑って顎を上げ、僕にその白い首をさらけ出した。傷が治りきってないのか、包帯とそれを隠すリボンはまだ彼女の首にあった。

「ほら、絞めなさいよ」

 僕はほとんど無意識に、吸い込まれるように彼女の首へ手を伸ばした。体重をかけて気道を圧迫すると浦部は小さく呻ったが、すぐに動きを止めて僕に身を任せた。

 心のどこかでこんなことをやってはいけないという冷静な気持ちはあったが、目の前に首を差し出された僕は最早何も考えることができなかった。ただ無心で腕に力を込め、彼女の首を絞め続ける――。


 ピピッ カシャ


「――――!」

 突如、森の自然音に明らかにそれとは違う機械音が紛れ込んだ。僕は瞬時に浦部から身を離し、傍らに並ぶ木々を睨みつける。浦部も呆然としながら身を起こしてきた。

 異音。小さい音だったが、それはカメラのシャッター音に聞こえた。誰かがこの近くで写真を撮ったということか。

 ――何のために?

 僕はぐるりと木々が並ぶ森の景色を見渡したが、目の届く範囲に人影はなかった。

「誰!? 出てきなさいよ!」

 浦部が叫ぶ。仮に誰かがここにいるとしたら、わざわざ僕らの目から逃れるために隠れているということだ。この木々の、どこかの木陰に……。

 一つ一つ裏側を覗いて見て回ろうと足を踏み出した瞬間、森の中に甲高い笑い声が響き渡った。

「アハハ……どーこ見てんのよ。ここだよ、ここ」

 木々の一つ、他の木よりも一際太い幹の裏から笑い声を上げながら一人の女が姿を現した。


 ――水谷!?


 なぜ水谷がこんな所に――と混乱するが、そんなの理由は決まってる。尾けられたのだ。

 ニヤつきながらこちらを眺めていた水谷は、僕に目を止めると素っ頓狂な声を上げた。

「あっれ~~!? 誰かと思ったらアンタだったの?」

 知られた――僕と浦部の関係を。それも、ただ仲がいいというだけではない。僕が一番知られたくなかった、禁断の――。

「ねーゴミ! ちょっと前に気付いたんだけどさー、リボンで隠してるけど……アンタ、首に絞め痕あるよね~? 誰に付けられたんだと思ったけど……アハハ、まさかコイツだったとはね~」

 ニヤニヤとこちらを嘲るように笑う水谷。

 最悪だ。浦部のイジメ主犯格に、選りに選ってこの僕が浦部の弱みを知らせてしまうとは。

 浦部の絞め痕に気付いた水谷はさぞかし訝しんだに違いない。自分は首を絞めてはいないのに、一体誰が? 絞め痕を隠すだけなら包帯でいいのに、なぜ更にリボンを?

 浦部の性格からして包帯を隠すためにわざわざリボンを巻くというのはしっくりこない。あのリボンは本当に包帯を隠すための物なのだろうか? そうではなく、誰か男の目を気にしてのものでは? その相手と絞め痕の関係は?

 あの事件後、何とか浦部に報復できないかと考えていた水谷がその謎の出自を探ることに夢中になったとしても無理はなかろう。浦部の隠された暗い一面を暴くことができたのなら、それを元にまた彼女に対する優位性を復活させられるのだから。

「ねー、首絞めプレイって変態すぎない? いつもこんなことやってんの?」

「…………」

「クラスのみんなに教えてあげようかな~。二人が付き合ってて、しかも変な趣味持ってたって――」

「やめて。あなたが嫌いなのは私でしょ。彼まで巻き込まないで」

「やめてほしいの? じゃあもっと頼み方ってもんがあるんじゃないの?」

 水谷の顔に狡猾染みた笑いが広がった。

「土下座しなさいよ、今ここで。それと、この前のも自分でナイフを用意して自分を刺した狂言だったって先生に説明して。それなら許してあげるよ」

 浦部は歯を食いしばって水谷を睨みつけた。普通ならこんな条件を呑むはずがない――そう思うが、浦部に関しては僕に迷惑をかけまいと無理をする事も考えられる。

 僕は浦部の腕を引き、声を潜めて耳打ちした。

「……浦部、こんなのは無視しろよ。聞く必要ない」

「……えっ、でもどうしたら……」

「僕に任せろ」

 僕は水谷に向き直ると、いかにも困ったという感じの笑いを顔に張り付けた。

「いやあ……あのさ、水谷さん……さっきの事さ、秘密にしといてくれないかな? ちょっと、いろいろ困るし……」

「バラされたくない? じゃあアンタからも言ってやってよ、土下座しろって」

 会話をしながら自然と水谷と距離を詰める。

「勘弁してやってくれよ。……もっといいこと教えてやるからさ、例えば……」

 僕は声を潜め、まるで浦部に聞かれたくない話でもするかのように水谷に近付いた。一歩、二歩と近寄り、手の届く範囲まで距離が縮まると――僕は動いた。

「あっ!?」

 瞬時に水谷の右ポケットに手を突っ込んで中の物を掴む。水谷と浦部が話している間、僕は水谷をじっくり観察してカメラの位置を探した。当たりを付けたのは不自然な膨らみのあった右ポケットだ。引きずり出したそれは、やはりカメラだった。

「ちょっと! 返しなさいよ!」

 僕はカメラを持って走りだす。向かう先にはあの粗末な柵とその向こうに広がる崖があった。柵の前まで進んだ僕は手に持ったカメラを思い切り崖の下へ放り投げる――フリをして、素早く自分のズボンのポケットにカメラを隠した。

「ああーーーーーーーーー!」

 水谷は何もない崖の先を見て悲鳴を上げた。ある程度は値段の張りそうなカメラを捨てられた(と思ってる)のだから当然か。

 とりあえず、直接の証拠さえ消してしまえば後はどうとでもなる。僕と浦部の関係を言いふらすというなら、こちらも「それなら盗撮と脅迫の被害を受けたと警察に相談する」と牽制しておく。この前のナイフ事件は無かったことになっているが、警察沙汰になれば当然掘り返され受験にも影響が出てくるだろう。

「おい、水谷」

 僕が交渉のために水谷に声をかけると、彼女は僕をギロリと睨みつけて振り返った。

「ふざけんなよテメー! あのカメラ高かったんだぞ! どうしてくれんだよ!」

 怒りを顔に滲ませ口汚い口調で怒鳴り始めた水谷。交渉は難航しそうだな……などと考える僕の前で、水谷は予想外のとんでもない行動に出た。

「どいつもこいつもアタシの邪魔ばっかりしやがって……! アンタだってわかってるだろ、あの女がおかしいって、みんなから嫌われてるってさ! そうだよ、あの女がおかしいのが全部悪いんだ、私は悪くないんだよ、それなのにみんな寄ってたかって私の事ばっかり……。あああああああああ、死ね! みんな死ね! 殺してやる!」

 左ポケットに手を入れた水谷は、そこから何か細長い物を取り出した。西日を受けてキラキラ光るそれは折り畳み式のナイフだった。

 なぜナイフなんか持ってるんだと自問しかけてすぐ不思議ではないことに気付く。水谷はこの前浦部をナイフで脅すことに失敗して大変な屈辱を味わった。ならば、今度こそそれを成功させて屈辱を雪ごうと考えるのは事前に予想が付いた事だったのではないか。

 己の考えの浅さを悔やんでももう遅い。目の前にはナイフを持った水谷がいて、今まで積もりに積もった恨みをカメラを捨てた僕に向けている。反射的に身を引いた僕に、水谷はナイフを握りしめて突進してきた。

 避けられない、刺される――そう僕が覚悟した瞬間だった。

「やめてっ!」

 横から浦部が飛び掛かり、水谷を突き飛ばした。駆け寄ってくる勢いを生かした突撃は水谷を大きくよろめかせる。バランスを取って体勢を立て直そうとする水谷を浦部が更にもう一押しすると、彼女はロープの柵に足を引っ掛けて倒れ、それでもまだ勢いは死なず――。

「あっ…………」

 そのまま、水谷は崖の向こうにずるりと落ちて行った。僕らはそれを見て固まった。

「きゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!」

 耳をつんざく水谷の絶叫が聞こえ、そしてすぐにグチャリと何かが潰れるような音が聞こえた。この髙さの崖から落ちたら、水谷は一体どうなってしまうのか?

 ……考えれば分かる事だったが、脳が理解を拒否していた。

 しばらく硬直していた僕は、ゆっくり柵を跨いで崖に近寄り、恐る恐るその下を覗いた。

「うっ…………」

 水谷の頭はグチャグチャに潰れて原型を保ってなかった。周囲には放射状に飛び散った血が。一目でわかった――死んでいる。

 僕の隣で下を覗いていた浦部も言葉を失い固まっていた。浦部としてもただ僕を守りたい一心での行動であり、殺すつもりまではなかったのだろう。あまりの出来事の衝撃を受け止めきれず、ただ唇を震わせ水谷だったものを見つめたままじっと動きを止めていた。

 この状況をどうしたものか、僕らは途方に暮れていた。もはや、すぐに救急車を呼んだとしても何も意味がないことは明白だった。ならば次に何をすればいいのか――。

「……私、捕まっちゃうのかな、警察に」

「…………」

 通報。それがまともな人間の取るべき当たり前の行動なのだろう。それを分かっていながら、僕の頭はどうしたらそれを回避できるかを全力で考え始めた。

「……このまんま死体を埋めちまって、誰にも発見できなければ……いや、捜索願が出るか」

 水谷の親は娘が帰ってこなければ当然捜索願を出す。そうなれば誘拐の可能性もあるだけに大規模な捜索が行われて、この山にだって警察の手が入るだろう。

「死体は見つかっても、君がやったってバレなければ……あっ、指紋か」

 浦部は水谷を突き飛ばす際、手袋もしていない手で体を押した。つまり、水谷の体のどこかにべったりと浦部の指紋が付いているはずだ。

 そもそも指紋の事を抜きにしても、殺された水谷と浦部に確執があったのは周知の事実である。以前にいじめられていた経験があるというのは殺人の動機としては十分だ。それで浦部に疑いがかかれば次は警察の科学捜査が入る。浦部は頭に何も被っていないが、髪の毛の一本でも落ちていればもう終わりだ。

「……捕まったとしても、わざと落としたわけじゃないってわかってもらえれば……。僕を守るために押しただけであって、殺意は無かったんだから――」

「ううん」

「えっ?」

 突然の否定。動揺する僕に、浦部は静かに語りかける。

「落ちろって、思って押した。あのまんまじゃまたあなたに襲い掛かるかもしれないって思ったら落とさなきゃって……」

 僕はロープの柵と、その向こうの崖を見た。柵は崖ギリギリに設置されてるわけではなく、柵の前から崖の方に倒れたとしても精々尻餅を付くくらいだろう。落とすには相当強い力で突き飛ばさなくてはならない。

 これでは、殺す意思がなかった、たまたま落ちてしまっただけだと言っても信じては貰えないのではないだろうか――。

「………………………………」

 駄目だ。いくら考えても浦部が助かる道が思い浮かばない。浦部は捕まる。逮捕される。もうそれは絶対に逃れられない。

 どうしてこんなことになってしまったのか。僕がカメラを捨てるフリなんてしなけりゃよかったのか。水谷を怒り狂わせるようなことが無ければまた違った未来があっただろう。浦部だけの責ではない――水谷の死の一因には僕の軽率さもあったことを認めなくてはならない。

 もっと別のやり方があったのではないか――と悔やむが、もう全ては遅い。終わってしまったのだ。

「私が捕まったら……水谷を殺したって分かったら……あの人はどうなるのかな……」

 「あの人」とは誰だ、と聞き返そうとしてすぐそれが母親の事であると思い出す。

「アイツの親と友達だったのに……私が娘を殺したなんて知ったら、もうまともな関係じゃいられなくなるよね……」

 ――そうだ。水谷を殺すという事は、つまりそういうことだ。もう親同士の関係はメチャクチャになって修復不可能になる。いや、それだけではない。浦部自身も、母親とはもう……。

「ずっと……あんたなんか産まなきゃよかったって言われてきて……そんなこと言うなんて酷いって……い、いつか……見返してやろうって……」

 浦部の声に涙が混ざっているのを僕は気付いた。

「これじゃ、ほっ本当に、お母さんを、不幸にするために、う、産まれてきたみたいな……」

 浦部は涙を流していた。自分の罪を悔いて、母を想って、ただどうしようもない憤りに身を震わせ泣き続けた。

「もうやだ……私なんか、産まれてこなけりゃよかった! 羊水の中で死んでればよかったんだよ! お母さんも本気で私を嫌いになる。もう一生許してくれない。ホントに産まなきゃよかったって、一生私の事を恨み続けるの……。どうして、こんな……ううっ……」

 浦部の涙を見て――僕の心に火が灯った。

 助けたい。どうにかしてこいつを救ってやりたい。初めて心の底から愛したこの女を、絶望の淵から救い出してやりたい。

 だけど、救えない。何度も考えた。もうチェックメイト、ゲームオーバーだ。破滅は確定されていて逃れられない。

 ――違う。ここからどうするか考えるんだ。破滅が避けられない状況からどうするか、それを考えるんだ。

 浦部を救いたい――その思いで脳髄が痺れるほど思考を回転させ――

 閃いた。

 そうだ――助けられる。救えるんだ。普通なら諦めて運命を受け入れるしかないこの状況、それに抗う術を僕は持っている。

「諦めるな、浦部! まだなんとかなる」

「え…………?」

 この状況で浦部を救える奴なんかまともに考えたら一人もいない。親は頼れず、教師もクラスメイトもきっと警察への自首以外の道を示せない。世界中の誰だって今の浦部を助けることは不可能だろう。

 だが、気付いた。世界でただ一人、親でもない、教師でもない、友達でもない――この僕だからこそ、浦部を救うことができるのだと――そう気付いた。

「僕に任せろ。絶対、君を助けるからな」

 僕は浦部の手を引いて立ち上がらせる。浦部を救うため――そして浦部の望みを叶えるために。


         ***


「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」

 森の中、息を切らして浦部が走り続ける。僕はそれを執拗に追いかけ浦部を追い詰めていく。浦部は僕を撒こうと森の中を右へ左へと駆け回るが、次第に足取りが怪しくなりどんどん距離を詰められていった。

 しばらくそのまま逃走と追跡が続いたが――とうとう浦部は足をもつれさせ地面に倒れた。僕は倒れた浦部を押さえつけて跨り、完全に逃げ出せないように拘束する。

 腕を押さえこんだ上から浦部の顔を覗き込むと、浦部も潤んだ目で僕を見つめる。僕らは息が整うまでしばらくの間お互いを見つめあっていた。

「……いいかい、浦部。君はクラスメイトの水谷と共にこの森に来た。仲直りのためか喧嘩のためか、それは分からないけど……なぜか二人でこっそりこの森に入ったんだ。君たちは知り合いなんだから、君が水谷に触れて指紋が付いていても何もおかしいことはない」

「……うん」

「それで、二人は森の中で突然強盗に襲われた。水谷はカメラを奪われた上に崖から突き落されて殺される。続けて強盗は君にも襲い掛かり、君はしばらくこの森を走り回って逃げたけど、とうとう力尽きて捕まってしまう。強盗は君からも金目の物を奪おうとしたが、体を探っても何も見つからずに激昂する」

「……うん」

「怒り狂った強盗は、口封じも兼ねて――君を殺してしまう」

「……うん、うん」

「君はただ事件に巻き込まれて殺された哀れな被害者なんだ――。水谷を殺したのも正体不明の強盗であって、君は誰一人殺しちゃあいないんだ――」

 僕は浦部の首筋に巻かれたリボンをほどいてその両端を握った。後は、ただこれを左右に引っ張るだけで首が絞まる。

 リボンを見て、浦部がこれを初めて首に巻いた日を思い出す。わざとらしく首にこれを巻いて、僕をからかって楽しんでいた。

 これを買ったショッピングモールでは、そういえばプリクラも撮ったんだっけ。浦部とは一緒に服を物色したり、映画を見たり――図書館に行ったり、公園に行ったり……。

 ああ、楽しかったな。

 過去の思い出が鮮やかに蘇る。思えば、初見で僕を睨みつけてきた浦部とこんな深い仲になるなんて初めは全く想像もしていなかった。むしろ自分から距離を置きにいっていた。

 だけどそれから浦部が気になりだして、手帳を届けてから一気に仲が深まって――今では掛け替えのない大切な存在となった。絶対に別れたくないと泣いて頼むほどに――。

「浦部、これでお別れだ。今まで君と一緒に過ごせて幸せだったよ。じゃあな」

「あのっ、あのっ」

 浦部は震える声を必死に抑え、つっかえながらも口を開いた。

「あ、ありがと……ありがとぉ……」

 浦部が身を起こし、僕の背中に手を回した。もう絶対に離れないと言わんばかりにきつくきつく。

 僕も、腕に力を込めた。リボンの輪が狭まり浦部の首をきつく絞め上げた。

 浦部は全力で僕を抱きしめてくる。その力に呼応するように、僕も強く浦部を絞めた。

 リボンか腕かの違いはあれど、確かにそのとき僕らは抱き合っていた。

 浦部の腕の強さが、僕と離れたくない気持ちの表れに思えた。僕もそれに応えて力を強めた。……そうだ、浦部。これでお別れなんかじゃないぞ、これからもずっと一緒だ。

 やがて、浦部の腕からは徐々に力が失われていった。そしてずるりと背中から手が外れると、そのまま肩からだらんと力なく垂れ下がる。僕がいくら力を込めても、その手に再び力が宿ることはなかった。首もただ重力に従い斜めに倒れ、体もただリボンに支えられるだけでとっくにその均衡を失っていた。

 僕は腕から力を抜いた。リボンから手を離し、浦部を静かに横たえた。

 浦部の頬を撫でる。涙の跡が残る浦部の顔は穏やかに眠っているようにも見えた。蝋人形のようにただ佇む浦部は、やっぱりとても綺麗だった。

 僕はそのままじっと浦部を見つめ続けた。そうしていれば、浦部はいつかパチリと目を開いて起き上がってくるような気がした。

 浦部は動かなかった。僕がいつまで眺め続けても、彼女はただ目を閉じて羊水に浮かぶ胎児のように眠り続けた。

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