第11話

 浦部は、親の前から消えたいと言った。理由は様々だろうが、実際に口に出して挙げた理由が『これ以上迷惑をかけたくない』だった。

 転校早々クラスメイトとトラブルを起こしていた浦部が言うには意外な理由である。だが浦部と二人でいると、彼女の中にあるその意識の存在をたびたび感じ取れることがあった。


 初夏のある日、僕はまた浦部に連れられ彼女の家に向かっていた。やっとあの騒動も落ち着き、今日は久しぶりに浦部の家に行けるタイミングがやってきた。

 車二台分しかない狭い道を抜けると、幅が倍はありそうな大通りに出た。そこは常に車の往来が多く、僕は無意識に車道側に寄って歩き出す。結果的に浦部が車道から離れた塀側を歩くことになる。

「ねえ」

「なんだい?」

「これって、私を車から遠ざけてるの? 事故があったとき危ないから……。ふふ、優しいのね」

「いや……そういうわけじゃ……。そういえばそんなのもあったな。レディファーストだったっけ」

「ちょっと場所を替えない?」

 そう言うと、浦部は僕の肩を掴んでクルンと位置を入れ替えてしまった。

「私、こっちでいい?」

 ……なるほど、自殺願望がある浦部からしたら、自分がこちらを歩く方が理にかなってるだろう? ということか。

 しかし……。

「駄目だよ、君はこっち」

 僕は浦部の肩を掴み、再度位置を入れ替えた。

「あら、そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに」

「僕が嫌なんだよ。君に……死んでほしくない」

「本当? この前我慢できずに首絞めてきたのに?」

「そういう気持ちもあるけど……それでも、君が大切なんだよ。失いたくない」

 それを聞いて、浦部はくすぐったそうに笑った。

「やだ、やめてよ」

「やめてって言われても聞かないぞ。もし君が事故かなんかで死にかけてたら、全力で助けに行くからな」

 浦部の顔から笑いが消え、別の表情を形作った。それも「笑い」ではあったが、明るげな様子が全く消えた寂しい自嘲の笑みだった。

「あのさ……もし私が溺れてたら、あなたは飛び込んで助ける?」

「助けるけど?」

「無事に助けられるか微妙だったら、見捨てて。助けなくていいから」

「おい、何言ってるんだよ! 助けるに決まってんだろ!」

 浦部はまた笑う――自嘲気味な、あの暗い笑みだ。

「知ってる? 水難事故って、飛び込んで助けようとした人もけっこう道連れで死んでるのよ。……道連れならまだいいけど、溺れてた人は助かったのに助けようとした人だけ死んじゃった……なんて事もね」

「僕に死んでほしくないから助けるなって? ふざけるなよ、僕だって君に死んでほしくないんだ」

「やめて。私なんかを助けるために命を危険に晒すとか、そんな馬鹿げた真似はよしてよ」

「なんだよ、私なんかって……たとえ君自身でも君のことを悪く言われるのはいい気分しない。もう止めてくれないかな」

 浦部は突然黙りこくった。僕も、あえてそれ以上言葉を続けようとはしなかった。

 結果、僕ら二人は気まずい無言の行進を続けることになる。車の走行音が響き渡る中、僕らの足音はやたらと大きく聞こえた。

 曲がりくねった峠道を登り、おんぼろな浦部邸に着き、彼女の部屋に通されてもまだ沈黙は続いていた。せっかく浦部の家に来たのに、この雰囲気がずっと続くのはまずい。僕は制服を脱いで着替えを始めた浦部に語りかけた。

「なあ、あのさ……浦部はわかんないかもしれないけど、僕は物凄く君が大事なんだよ。多分、君が考えてる以上に……」

「…………」

「君がもし僕の前からいなくなったらって考えると……凄く胸が苦しい。不安で押しつぶされそうだ」

「…………」

「自分の事が嫌になることもあるけど……そんな時でも君の首を絞めてると苦しいのが全部吹き飛んで、とっても気持ちが安らぐんだ」

 それが原因でその後自己嫌悪に陥りループ状態になるのだが、それは今言わなくともいいだろう。

「今、君が僕の生き甲斐っていうか……君に会うことが今生きてて一番楽しいんだよ。そういう大切な人が窮地に立たされてたら、身を挺してでも助けるだろ。少なくとも僕はそうだ、僕自身の事より、君のことを考えて動く」

「…………」

「……なあ、君のことが好きだからこそなんだ。だから、早く機嫌を直してくれよ」

「別に怒ってるわけじゃないわ。ちょっと考えてただけ」

 着替えの終わった浦部がこちらに向き直った。着替えたといっても上も下も黒ずくめで制服とあまり印象は変わらなかったが。

「ねえ、私の話も聞いてくれる?」

「いいとも。なんだい?」

 浦部は部屋の端に敷いてあった布団に座り、背中を壁に預けた。僕もその隣に座る。

 腰を落ち着けても、浦部はしばらく虚空を見つめたまま口を開こうとはしなかった。たっぷり一分ほどだったろうか――それだけの間を置いて、浦部はようやく口を開いた。

「私ね……高校を出たら、この家を出ようと思うの」

「へえ」

 未成年の身でしたら一大決心だが、あそこまで険悪な親との関係を考えれば別段おかしな話ではない。

「それから、未成年でも貸してくれるアパート探してそこに住む。あの人には行先を告げないからね。これから自分で働いて暮らすからもう関わらないでって言えば、たぶんそれで関係は終わり。私はもう誰からも気にされなくなる」

 自由になるのか。つまり、もうこんな親のいない日を狙ってコソコソしなくとも良くなるということだ。そうなればいつでも浦部に会える。

「そのあとそのアパートも引き払ってしまえば、私が行方不明になったとしても騒ぐ人なんて誰もいない。だから、誰にも見つからないようにこっそり山に入って死体は山奥に埋めて帰れば、もう絶対にバレるわけないから」

「――浦部……?」

「ね、私のこと、殺したいんでしょう……?」

 目眩がした。目の前がグラグラ揺れ、世界が元ある形を失いグニャリと歪む。

 そんな中、ただ浦部だけが口元に怪しい笑みを湛えて僕の目をじっと見つめていた。

「――駄目だ。何を言ってるんだよ、そんなことできるわけない――」

「どうして? 私が望んでるのよ。もう我慢なんかする必要ない」

「言っただろう! 僕は君が大切なんだ。君が生き甲斐なんだよ!」

「私、小さい頃からずっと自分が何で生きてるかよくわからなかったの。親からも厄介者扱いされて、何のために生まれてきたんだろうって――。でも、ようやく自分が今生きてる理由に気付いたのよ。このために自分は生まれてきたんだなって、私自身が納得できる理由――それがあなたよ。あなたが人を殺したくてたまらないって聞いて、今までで一番殺したくなった人が私だって、そういうあなたの気持ちを知ったから――」

「できるわけない。あり得ない」

「今はそれが私の生きる理由なの。ねえ、私から生きる理由を奪わないで。……お願いよ」

「やめろ! やめてくれ!」

 思わず大声が出た。だがそれを聞いても浦部はただ表情を変えずに僕をじっと見つめる。

「冷静になって、ちょっと考えてみて。今後あなたの人生で、私以外にあなたの気持ちを本気になって考えてくれる人が現れると思う? 上辺じゃなくて、本物の気持ちよ。……現れるわけないわ、そんなの私ぐらいしかいないでしょ」

「――――っ」

 言葉に詰まった。浦部の言葉を否定したかったが、しかし彼女の言葉は確かに真理を突いていることを僕は認めざるを得なかった。

 浦部は殺さない、そう決めたとしよう。だがその場合、僕はもう今後の一生誰かを殺すことができない――という事がほぼ決まってしまう。

 僕の心の奥底に眠る秘められた願いを叶えるには――。

 殺すしかないのか。浦部を。

 僕がその現実に気付いて打ちひしがれてると、浦部がそっと僕の手を取った。

「私のお願い、聞いてくれる? もう頭はそのことばっかり。さっきからずっと……ううん、もっと前からぼんやり考えてた。私の残りの人生どう過ごそうかって。考えて、考えて、やっとわかったの。どうすればいいかじゃなくて、どうしたいかがね。あなたが一番望むことを叶える……これは私だけにしかできないし、他の誰にも渡したくない。それが私の望み」

 なぜだか涙が出てきた。浦部の言葉を、決意を聞いてるうちに、自然と視界が歪んで涙が頬を伝った。

「ごめん……浦部、できないよ。だって、好きなんだ。好き、好きなんだよ。君の事が好きで好きでたまらないんだ。学校なんか君に会いに行くために通ってんだよ。毎日君に会えるだけで幸せだし、朝に電車で会えないだけで寂しいんだ。自由になる時間はできるだけ君と一緒にいたいし、卒業した後だって離れたくない。……そうだよ、離れたくないんだ、もし君をうっかり殺してしまって僕一人になったらと思うと震えが止まらない。もう君がいないと駄目なんだよ。君無しの生活なんて考えられないし、死んでしまうなんて尚更受け入れられない。それくらい、君の事が好きなんだよ……。だから、できるわけないじゃないか……。ごめん……ごめんよ……」

 僕は泣きながら浦部を抱きしめ、思いの丈をぶちまけた。浦部は黙ってそれを聞き終えると、そっと僕を胸に抱き入れた。

「いきなりこんな事言ってごめんなさい……困らせてしまったわね。今すぐ決断してくれなくてもいいの。卒業まで三年もあるし、もっと後になってからでもいいから……。今は私の気持ちを知ってくれるだけで十分」

「その時になってもできるかどうか分からないよ……」

「無理しなくていいから」

 浦部はしばらく僕の頭を撫で続けた。僕はされるがままに任せていた。

「ねえ、本番の前にさ、練習しない?」

「練習? どういうことだ?」

「実際にこっそり見られないように山に入って、中で殺したつもりになって、またこっそり出ていくの。本番の予行練習よ。ね、やりましょう?」

「まあ、それだけなら……」

 彼女の願いを断ってしまった手前もあってか僕は頷いた。

「じゃ、明日やりましょ。本番は真夜中に決行だけど、練習は夕方でいいわね。それでもなるべく人目を避けて二人別々に山に入る。持ち物は……」

 喜々として計画を説明しだす浦部。ただのごっこ遊びでも、彼女にとっては楽しいデートの一環であるようだった。

 ごっこ遊びで満足して気が変わってくれないかな……といった淡い期待も含めつつ僕は彼女と計画を話し合う。実行まで最低でも三年は期間があることだし、その間に気持ちが風化してくれればそれが一番いい。

 僕が練習を積むということは、浦部の『願い』達成の段階を一つ進めることになってしまうが、それについてはあまり考えないようにした。


 その夜、僕はベッドに入りながらずっと浦部の事を考えていた。明日は真似事であるものの浦部を殺すことになる。

 ただの練習、本当に殺すわけじゃない――そう分かっていながら、僕はどうしてかやるつもりのない本番に思いを馳せていた。

 本当に浦部を殺すとしたら、どう殺そうか。首を絞めようか、生き埋めにしようか、崖から突き落そうか。実際に浦部を殺すところを頭に思い描くと、どの殺し方も甲乙付けがたく悩ましい。白目を剥いて窒息する浦部も、地中に埋められ成すすべなく死んでいく浦部も、突き落されて頭がぱっくりと割れた浦部も、どれもが魅力的に映って一つに絞れない。

 もう寝なければいけないのだから考えるのを止めようと思っても、僕は頭の中で浦部を殺す想像をひたすら続けた。

 その日はほとんど眠ることができなかった。


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