第10話
浦部の家での時間は、僕にとって至福だった。自分への嫌悪感が高まるたび、あの日を思い出した。僕を全肯定して包み込んでくれる浦部。僕には浦部というパートナーがいるんだと思うだけで、妙な自信と自己肯定感を得ることができた。
また浦部の家に行きたいと思った。会うだけならば外でいいが、それ以上の事をするならば親がちょくちょくいなくなる彼女の家しかなかった。
だが、それはしばらく難しいようだ。最近はあの事件の後始末で慌ただしく、なかなか自由になる日が見つからないという。昨日も水谷の両親が謝罪のためにわざわざ浦部の家を訪れたそうだ。当の浦部本人は外で僕と一緒だったが。
昨日だけでなく浦部はしばらく日中家へ帰らず、夜まで僕と一緒に時間を潰す予定だという。一度家に帰るとなかなか出してくれないようになったとか……。今日の朝も何か引き留められたのか、一緒に登校することは叶わなかった。
家にも行けない、朝も会えない……それならせめて自由になる時間はずっと浦部を味わっていよう。学校内でも会話ができずに焦らされた分、自分の中で浦部を求める気持ちが過剰に昂ぶっているのを僕は感じた。
僕は待ち合わせ場所の公園に足を踏み入れると、敷地内をぐるりと見回し浦部を探した。公園と言っても遊具は一つもなく、ただ広場とベンチがあるだけの殺風景な場所である。遊んでいる子供は一人も見当たらなかった。
浦部はすぐに見つかった。他に誰もいない公園でただ一人ベンチで日に当たっている。まだこちらに気付いてはいないようで、僕は遠くからおーいと声を掛けようと手を口に添えたが、開きかけた口が途中で止まる。
浦部はベンチに座りながら、仏頂面でただ地面を見つめていた。浦部の仏頂面はいつものことだが、今日はその顔に微妙ながら不機嫌さが混じっている事を僕は察した。
また、気付かぬうちに浦部の機嫌を損ねるようなことをやってしまったのかもしれない。僕は恐る恐る彼女に近付いた。
「……やあ、浦部」
「待ってたわよ。ほら、早くここ座って」
浦部はベンチに座ったまま自分の隣をバンバンと叩いた。僕はそこに座る。
「どうしたんだ? なんか不機嫌じゃないか?」
「そうそう、ちょっと聞いてよ、もう最悪。頭痛くなりそう」
頭を押さえて溜息をつく浦部。なんとなく雰囲気から不機嫌の原因が自分ではなさそうだと感じて僕は安堵した。
「昨日、アイツの――水谷の両親がウチに来たんだけど……謝りにね」
「ああ……昨日は一緒に何していたっけ? 公園で亀に餌をあげてたんだっかな。その時に来てたわけだ」
浦部は「親に謝られようと何の意味もない、むしろ時間を拘束されるだけ迷惑」と言って僕の元に逃げ出していた。
「一回足を運んだら満足するだろうし、今日だけ凌げばもう来ないでしょって思ってたけど……ダメみたい。面倒なことになりそう」
「何があったんだ?」
「昨日家に帰ったら、母がなんだか上機嫌だったの。聞いてもいないのに『久しぶりに学生時代の友達と再会できた』って……」
「ん……? その友達ってまさか……」
「そう、水谷の母親よ! 中学時代、同じクラスだったって……」
なんと。そんな偶然が――。
「たった一日でずいぶん打ち解けてたみたい。今度また二人で会うって。それで、私にもちゃんと一度謝っておきたいから会わせてくれって言ってるみたい……はぁ」
「めんどくさいな……」
「あの人、私と水谷のいざこざには元々興味なかったみたいだけど……相手が旧友だったって事で、もう完全に向こうの味方みたいになってる。『あんたもなんかやったんだろう?』『あんたからも謝って手打ちにしろ』とか……」
「ええ……なんだそりゃ」
まあ彼女たちの不仲は浦部にも原因の一端があるという見解は間違いではないのだが、それにしても自分の娘が首を刺されたというのにその反応はちょっと酷いのではないかと思った。
浦部のほうからナイフに当たりに行ったという「反撃」があったという事情もあるし、ここはお互い謝っておいて騒動を鎮めるのが無難だというのは理解できるが――しかし、ここで親の言うことを聞いて水谷に謝る道理はないだろう。
「浦部、親のほうから謝れ謝れ言われても聞かんでいいよ。無視しとけ。あんな奴に謝る必要ないし、君のことを何も考えてない親の言うことを聞く義理もない」
「ん……そうね、そうだと思う。でも、今回は聞こうかな。私が謝んないと、あの人すっごく困るだろうし」
「え、謝ってやるのか? 親の顔を立てて?」
「うん」
僕にとっては予想していなかった回答だった。
「なんでだよ? 嫌いなんだろ? 親のこと」
「……………………」
浦部は沈黙した。すぐに「嫌い」だと答えが返ってくると想定していた僕は困惑した。
しばらく風の音だけが聞こえる時間が続き――浦部はポツリと口を開いた。
「……わからない」
嫌いなのかどうか、わからない。僕が初めて浦部の家に押しかけた時から、散々親に対しての不満をぶちまけていた、あの浦部が――。
僕がしばし言葉を失っていると、浦部は言葉を続ける。
「小さいころね、他所の人から服を貰ったの。可愛い洋服で、私は嬉しかった。でも、その服を見たあの人は突然怒りだして……『こんなの嫌がらせに決まってるでしょ! こんな服贈ってくるなんてね、あんたの娘もどうせ水商売になるんだって当てこすりだよ!』って言って、服を全部捨てちゃったの。私はショックで一日中泣いてたんだけど……次の日、あの人が私を洋服屋に連れてって、新しい服を買ってくれたのよ。『悪かったわね』って……」
「へぇ……」
意外だった。盗み聞いていた会話の印象から浦部のことなんか何も考えずに自分の都合を押し付けるような人だと考えていたが、そんな一面もあったとは。
「優しいところもあるんだな。――いや、ごめん、何も知らずに適当なこと言っちゃいけないな。それ一回だけで判断できることじゃないのに……」
「ううん……その一度だけってわけじゃないから。最近もね、夕飯作る金がないから食べないで我慢しろって言われたんだけど、給料日になったら外食に連れてってくれたり……」
「もしかして、けっこう多いのか? そういうこと」
「無茶なお願いしてきたり、自分のイライラを私にぶつけてきた後には妙に優しくなるのよ、あの人……」
――なるほど。浦部が嫌っていたはずの母親に従う理由が、僕にも少しだけ分かった気がした。無茶なお願いを聞いた後に優しくなるのだというなら、今回だって――。
「随分前のことだけど、あの人がベロンベロンに酔っぱらって帰ってきたことがあって……酔ったら弱気になるのかな? 介抱してやったら『ごめんね』『ありがとう』って……ホント、人生で初めて聞いたわよ、あの人がそんなこと言うの。なんだか気味が悪かったから冷たくしてたら、『アンタがそんなんになったのもアタシのせいだよねえ』って、突然泣き出すの。次の日になったらあの人全部忘れてていつも通りに戻ってたけどね。……でも、あの時から、あの人をどんなに嫌ってても心の底から憎めなくなっちゃった。だから……わからない。私が本当にあの人を嫌いなのかどうか……」
僕は認識を改める必要性を感じた。浦部は母に恨みばかりで好意のようなものはまるで存在しないと思っていたが、実際には誰よりも母からの愛を待ち望んでいた。そして、母にもごく僅かながら浦部への愛情が残っている。
今更ながらに思い出すが――二人は親子だった。
「……なあ、浦部」
「なに?」
「関係の修復は無理なのか? お互いにまだ情が残ってるなら可能性が無いわけじゃ……」
「無理。無理だって。簡単に言わないでよ。そういうのが言える段階なんてとっくに過ぎてるんだから。普通の親子に戻るには――私たち、ちょっと積み重なってきたものが多すぎる」
「そうか……」
まあ、簡単な話じゃないだろう。『産まなきゃよかった』『死んだほうがいい』なんて言ってくる相手と仲直りできるかといったら、普通ならば絶対そんなことはあり得ない。浦部が無理だと言うのも仕方がないことなのだろう。
だけど――僕は母との思い出を語る浦部を見て、彼女が本心では親との和解を望んでるのではないかと感じた。おそらくもう不可能であることを察しつつ、ずっと心にその思いを秘めてるのだ。
「今はね、普通の親子みたいになりたいとか、そういうことは何も考えてない。ただ、消えたい。もうこれ以上迷惑をかけずに、できるだけ早く家を出て行って、あの人の前から消えたいの……」
僕は急に浦部を抱きしめたくなった。浦部が消えてしまわないようにか、浦部を愛おしいと思ったからか、それは僕にもわからない。
でも、僕がこうしてやらないのであれば、一体誰が浦部の心を満たせるというのだ。ただの代替物であろうと、今は僕が浦部を包み込んでやろう。そう思った。
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