第8話

 影響は、次の日からもう現れた。

 昼休み、僕は食堂で学食を食べながら浦部のことを考えていた。最近の水谷たちはいつも休み時間を利用して浦部をいたぶってる。浦部がどこで食事を取っているかは知らないが、今も浦部は食事中を襲撃され、平穏を脅かされ、そして何も気にしてないフリを続けているのではないか――。そんな想像が止まない。

 だが、もうそのことについて深く考えるのは止めにした。僕からは何もしないと決めたのだ。今まで何を言っても柳に風だった浦部が、ようやく自主的に何かをする意思を見せた。彼女が自分自身で問題を解決するのならばそれに越したことはない。

 具体的に何をするつもりなのかは気になるが、浦部は教えてくれなかった。ただ微笑んで、「そのうち分かるわよ」と。

 何か無茶をしでかすのではないかと心配ではあったが、考えても詮無きことであるし、努めて気にしないようにする。浦部の死体でも考えて気を紛らわそう。餓死してガリガリの死体となった浦部の浮き出た肋骨や枯れ枝のようになった腕を思い描いていると、いつの間にか食器の中身は空になっていた。

 食器を片付け、もう人が少なくなった食堂を後にし廊下に出ると、

「……………………」

 違和感を、肌で感じた。

 学校中がざわめいてる。いつもより明らかに廊下をうろつく生徒が多い。すれ違った男子二人の会話が耳に入ってきた。


 なあ、行ってみようぜ。

 運ばれたってよ、保健室。


 嫌な予感がした。早足で教室へ向かい、ドアを開けて中を確認する。

 浦部はいなかった。水谷も、その取り巻きたちもいなかった。

 浦部が教室にいないこと自体は別におかしな話ではない。むしろ誰かが常にいる教室に留まるのは避け、人気のない場所をわざわざ選んで過ごすはずだ。

 すぐに足を返し階段へ向かい、一段抜かしながら上へと登る。屋上は来訪者も少なく、たびたび浦部が足を運ぶのを僕は知っていた。屋上に浦部がいればいい。言葉は要らない、ただ顔を見て安心できれば。

 だが、踊り場を回って上階を見上げた僕の目に、またしても違和感が飛び込んできた。

 人垣。

 階段の前に人だかりができ、地面の何かをぐるりと囲って口々に騒ぎ立ててる異様な光景。


 うわっ、マジであるじゃん。

 なにコレ、本物?


 階段を上る。僕の頭が床より上になり、もう角度的に床を見れる状態になったと気付いた。階段に足を置いたまま群衆の足の隙間を覗くと、僕にもやっと人垣の中心が見えてきた。

「これさ……やっぱ血だよな?」

「誰の血だよこれ。誰か刺されたの?」

 学校の床――僕らが日常を送り、自分自身も通ったことがある階段前の床に、点々と血痕が残されていた。蚊を潰したにしては大きすぎる。血が止まらないほどの大怪我を負った誰かがここを走り抜けた――僕にはこの状況がそう見えた。

 殺人事件だと大げさに騒ぎ立てる見物人の外周をぐるりと回り、僕は更に階段を上がる。屋上の扉を開け放ち周囲を見渡すが、ただ無機質な鉄柵に囲まれたコンクリートがあるだけで浦部はいない。

 まだ浦部がいそうな場所に心当たりはあったが、後回しにすると決めた。階段を真っ直ぐ降りて一階へ、保健室へ直行する。運ばれたと聞いた誰かが僕とは全く無関係の人物であることを確認してからでなければ落ち着けない。

 確認はできなかった。保健室の扉の前には教師が陣取り、様子を見ようとする野次馬を追い返していた。

「さっさと教室に戻れ! 騒ぐんじゃない!」

「せんせー、誰か怪我したの?」

「気にしなくていい! ほら、戻った戻った!」

 教室に戻ることにした。見れば他の生徒も追い立てられるように教室に戻されてるし、浦部も教室に戻っているかもしれないと思った。

 教室は大騒ぎになっていた。次の時間は自習となったらしく、みんな最早勉強のことなど完全に忘れて「事件」を語り合っていた。

 その輪の中に、普段なら真っ先に参加しているであろう水谷たちの姿はなかった。……そして、浦部の姿も。

 水谷は朝学校に来て、昼前まで授業を受けていた。なぜ、今はいないのか。たまたま復帰が遅くなっただけで、そのうちクラスへ戻ってくるのだろうか。

 浦部はなぜいないのか。水谷がいないことと何か関係があるのか。ただ面倒になって早退しただけなのだろうか。

 僕が食堂にいた間、この学校で何が起きたのか――情報が欲しかった。

 クラスメイトの会話に耳をそばだてる。女子生徒が刺し殺されたらしいと言う者がいた。それは誤報らしいと訂正する者もいた。どちらが正しいのかは分からなかった。だが、僕の心はすでに一つの結論にたどり着いてた。

 浦部は、とうとうやってしまったのだ。今までの恨みを爆発させ、悲劇的な決着を選んでしまうほど、内面では追い詰められていた。

 引き金は……きっと僕だ。僕がけしかけるようなことを言ったから、それまで揺れ動いていた浦部の心は――一つに定まってしまった。そして以前から考えていた直接的な反撃による防衛を、実行に移してしまった――。

 もしそうならば、それは愚かなことだと思う。これでイジメは止むかもしれないが、浦部は鑑別所に送られ、もう僕とは二度と会えなくなるかもしれない。

 外れていてほしい予感だった。早くはっきりした説明が聞きたい。先生が戻ってくれば何か説明があるかもしれないが、悠長にそれを待っていられなかった。だが、どうすれば――。

「おいっ、女だってよ!」

「え?」

「保健室に運ばれたの、女の子だってよ! 吉田が見てたって」

 クラスメイト達の会話が耳に入り、僕は思考を中断した。見れば、手のスマホを振りかざしてる。あれで他のクラスの生徒と密かに連絡を取りあっていたのだろうか。

「女子なん? 誰?」

「顔は見えなかったらしいけど、ほら」

 彼はそう言って隣人にスマホの画面を見せた。

「髪の長い子だってよ。担架で運ばれてたって」

 僕は頭の中で水谷を思い浮かべた。彼女はショートカットだった。取り巻き達の髪も長くて精々肩までで、特別髪が長いと表現できる者はいなかった。

 浦部の姿を思い描いた。長い黒髪が肩よりも下に伸びていた。

 浦部の席を見た。席の主はいなかった。

 教室の中をぐるりと見回したが、水谷たちの姿も、そして浦部の姿も――どこにも見つけることはできなかった。


 その日――僕は一人で帰宅し、そして一人で図書館にいた。本は読まず、ただ座って窓の外の景色をひたすら眺めていた。外からは夕焼けが差し込み、図書館の中を赤く照らしていた。

 浦部の顔が見たかった。そのために、ただひたすらここで待つことを続けていた。示し合わせていたわけではなく、浦部がここに来る確証はなかった。だけど僕はここで浦部を待った。

 僕と浦部は、元々この図書館でよく不安定な待ち合わせをしていた。浦部に会いたくなった時、初めて会ったあの日に図書館に行くと言っていた浦部の言葉を頼りにここへ来れば、彼女はだいたい隅っこの日の当たらない席に座っていた。

 浦部がいない日もあった。そんな日、僕は隅っこの日の当たらない席に座った。館内は広く、行き来が面倒な隅っこの席を好んで利用するものは少なかった。だけど僕がそこで本を読んでいると、だいたい隣に座る影があった。

 ――待っていたの?

 ――うん。会いたかったから。

 浦部は毎日欠かさず来るというわけではなかった。僕も毎日行っていたわけではなかった。結局浦部に会えなかった日はあるし、浦部も僕に会えなかった日があるだろう。だけどそこは一種の待ち合わせ場所として機能していた。

 浦部が来る保証はない。だけど、もし動ける体ならば――今日は来る。そう信じて、僕は今ここで待ち続けている。

 窓の外を見やると、いつの間にか夕日は落ち、町は薄闇に包まれていた。もうかなりの時間を待った気がする。だが、浦部はまだ来ない。

 浦部が来ないということは、つまりどういうことか。来る気がないのか。他の用があったのか。それならいい。

 浦部は、来たくても来れない状態なのかもしれなかった。怪我の程度が重く入院させられていたのなら、しばらく外出などできないだろう。……いや、入院だけならまだいい。入っているのが病院でなく、墓である可能性だって――。

 それを考えるたび、体が熱くなるのを感じた。許せない。そんなことは、絶対にあってはならない。どうあっても受け入れられず、僕の手で阻止しなければならない未来だった。

 閉館時間になった。結局浦部は来なかった。追い出しアナウンスを背にして図書館を後にすると、外はもう完全に日が落ち街灯の明かりが道を照らしていた。僕以外に誰も歩いていない道を当てもなく歩き出す。木がそよぐ音がすると、涼しい夜風が僕の頬を撫でた。

 昼はもう暑いくらいの気温なのに、夜はまだ涼しい。なんとなく走り出したい気分に襲われたが、そんなことをしても何の意味もないと言い聞かせて足早に歩を進め続ける。体のどこにも怪我はないはずなのに、どこか一部が抜け落ちてしまったかのような違和感があった。この押しつぶされそうな閉塞感から抜け出すにはどうすればいいのか――。

 そんなことを考えながら歩いていると、ふと遠くからこちらに向かってくる人影に気付いた。暗がりで顔はよく見えなかったが、服装は僕の学校の制服のように見える。彼女はこちらに気付くとゆっくり僕に近づき、目の前で足を止めた。

「あら……あなた、今まで図書館で待ってたの?」

「浦部……!」

 無事だったのか。今までどうしてたのか。色々なことが脳を駆け巡ったが、それをうまく言葉にできなかった。

「もう図書館閉まっちゃった?」

「……うん、だから出てきたんだ」

「そっか、解放されてからすぐ来たんだけどね……待った?」

「ああ、ずっと待ってたよ。待ち遠しかった」

 浦部を抱きすくめるために手を伸ばしたが、ひらりと躱された。

「場所を変えない? ここじゃちょっとね」

 浦部に連れられてしばらく歩くと、やがて住宅街を抜け川辺へと差し掛かった。傍らの土手は土や草が剥き出しで、そこを下った先にだいぶ大きな川が流れている。近くには橋が架けられていて昼間は車が行き来しているはずだが、今はその姿がない。遮蔽物がなくはるか遠くまで延々と続く川沿いの道に、歩いているのはただ僕たち二人だけだった。空にちらちらと瞬く星を眺めながら歩いていると、先ほどまでの閉塞感がいつの間にか綺麗さっぱり消えているのに気付いた。

 浦部は土手を降り、橋の下の往来からは死角となってるスペースを目指して進んだ。そこに入るか入らないかといったタイミングで僕は浦部に突進し、背後から彼女を抱きしめた。

「きゃ」

 彼女は小さく叫んで僕を振り払ったが、すぐに自分からまた抱きついてきた。僕も彼女の背中に手を回して抱きしめた。力が入って浦部は軽く呻いたが、僕はそのまま抱きしめ続けた。彼女は幻などではなく、確かに僕の腕の中にいた。

 そうして浦部の体温を感じていると、やがて僕は腕の疲れを感じて手を放した。ほんの短い時間に感じていたが随分長い間浦部を拘束していたようだ。実は苦しかったのか浦部は大きく息をついていた。

 落ち着いて浦部を見つめると僕の視線は自然と首へと移った。闇夜でもわかる白い首には、昨日買ったあのリボンが巻かれていた。僕の視線に気づいたのか浦部はリボンに手をかける。

「ふふ……これ、早速役に立ったのよ。ほら」

 浦部は首のリボンに指を引っ掛けずり下ろした。すると、その下から首に巻かれた白い包帯が見えた。包帯をリボンで隠していたようだった。

「……大丈夫なのか。刺されたって聞いたけど」

「大したことないわよ。……ちゃんと加減したんだから」

「加減? どういうことだ? 自分で刺したのか?」

 浦部はニヤリと笑って説明を始めた。

「昼休みにね、屋上で時間を潰してたら……あいつらが来てさ」

 僕は水谷たちがとうとう最後まで教室に帰ってこなかったことを思い出した。

「あいつら、水の入ったバケツ持ってきて……わざわざ屋上まであんな重いの運んできたのよ?それで、私のことを殺してやるって。顔を浸けて窒息させてやるって。私にそれが脅しになるって考えてるんだから笑っちゃうわね。……それから、体を押さえられて頭をバケツの中に突っ込まされたの」

 僕も頭の中で、浦部の頭を両手で押さえつけてバケツの中に突っ込んだ。すぐにあの衝動が広がり、僕は慌てて想像を振り払った。

「けっこう長く……と言っても一分くらいだったかな、顔を浸けられてたの。まだ全然息が続くってところで顔を上げられて、『命乞いをすれば助けてやる』とか言われたんだけど、私が全然息切れしてないのを見て腹を立てたのか、『今度は殺すまでやるよ?』って……。でもそんな度胸ないって分かってた。実際、次も二分くらいで怖くなったのか引き上げてたしね。こっそり息を吸い直してから呼吸止まったフリしてたら、あいつらだんだん焦り始めて心肺マッサージ始めて……ふふっ。そこで起き上がって『殺すんじゃなかったの?』って笑ったら、あいつら顔真っ赤にしてぎゃーぎゃー騒ぎ出して、『今度は本当に殺す』ってヒートアップしだして……もったいぶったタメ作って仰々しくナイフ出してきたの」

 僕はちらりと浦部の首の包帯に目をやった。

「刺されたのか?」

「ううん。やっぱりあいつにそんな度胸なかった。勢い付けて私の首を刺しに行ったけど……結局寸止め。顎の下あたりだったかな、最初っからそこで止めるつもりだったと思う。私が反射で避けるとかなんかリアクションを期待してたみたいだから……応えてあげたの。首を前に出して、こうサクッと……このへんかな、当たりにいったの」

 そう言って浦部は首の一か所を指した。僕はその場所から血を流してる浦部を想像した。また黒い気持ちが胸に広がり、僕は再度その想像を振り払おうとした。だけど、首から血を流して横たわる浦部とその上から首にナイフを押し当てる僕は、想像の中からいつまでも消えてはくれなかった。

「あいつら、何をやってるんだって感じでぽかんとしてた。でも、私が突然走り出して『助けて! 殺される!』って叫んだら、血相変えて追ってきて……まあもうその時は校舎の中に入っていて、たくさん人が集まっていたけれどね。その人たちに首の傷を見せて適当に騒いだら、あいつら先生に連れてかれて……私は重症のフリするためずっと保健室で寝てた」

「そうだったのか……」

 僕は浦部の話を聞いてるようで、その実ほとんど聞いてはいなかった。思考は別の場所へ飛んでいた。

 首から血を流す浦部。どくどくと血を流し、痙攣を繰り返し、やがて動かなくなる浦部。頭の中から追い出そうとしても、そのイメージは強固にこびりついて消えてくれない。深呼吸をして浦部との会話に集中しようとするが、どうしても意識は細い首に向かう。

「先生からは事故だったことにしろって言われた。絶対警察沙汰にはしたくないみたい。……ふふっ、本当にあるのね、こういうこと」

「…………」

 暴れる浦部を押さえつけ、首筋にナイフを――いや、何を考えてる。そんなことできるわけがない。第一僕は今ナイフを持っていないのだから、いくらやりたくても不可能で――いや――何も刺すのに拘らず、首を絞めるだけなら今すぐにでも――。

 何か、思考がいけない方向に進もうとしてるのを感じる。早く引き返さないとまずいのではないかと考えるが、僕の思考とは裏腹に黒い衝動が止むことはなかった。

 ――落ちつけ。別に、いつものことじゃないか。突如こういう衝動が沸き起こることは間々ある。でも、それで今まで何か大変なことが起こったということも無い。ずっと自制して乗り切ってきた。今回だって、じっと耐えてればそのうち収まるだろう。

 ……そう思ったが、そんな僕の異変を感じ取ったのか浦部は僕に揺さぶりをかけてきた。

「どうしたの? 息、荒いよ? ふふ……ここの下が気になるの?」

 浦部は顎を上げ、首のリボンをトントンと叩いた。

「いいよ、ほどいて見てみても」

 浦部は僕の両手を取って首へと寄せた。僕はリボンへと手を伸ばし――そしてそのままガツリと首を掴み、地面に浦部を押し倒した。

 浦部からの抵抗は無かった。僕は土が剥き出しで雑草も生え放題な地面に浦部を押し付け、上から体重をかけてその細い首を絞めていた。

 不思議な感覚だった。ちょっと前まで、浦部が死んでしまうなどという未来は到底受け入れられないと考えていたのに、今はこうして真逆のことをしているのだから。

 ――ああ、そうだ。今、自分の気持ちがはっきり分かった。浦部が不慮の事故などで突然死んでしまう――そんな未来は絶対に許されない。そうなる前に阻止する必要がある。

 だから、誰かほかの者に殺される前に、僕自身の手で――。

 浦部の安否がわからない間、僕はずっと胸が焼け付くような焦燥感を味わっていた。今ならその理由がわかる。他の者に「先を越された」ならば、僕はこの手で浦部を殺す機会を永久に失ってしまうのだから……。

 彼女の無事を願っていたわけではない。結局、自分の大切な人が傷ついてる時でも、ずっと殺すことを考えていた――僕はそういう人間だ。

 僕は浦部の首から手を離した。満足からではない。いつの間にか、絶対にやるまいと決めていた浦部への加害へ手を染めていた自分に気付いたからだ。

 浦部は目を閉じ、そのままぐったりと地面に横たわっていた。僕はその隣に腰を下ろし、目の前の川をぼんやりと眺めた。黒々とした夜の川は住宅街の明かりを受けてキラキラと光っていた。

 その光を眺めながら考える。今の僕には浦部がいて、僕の腐った部分も受け入れてくれて……すごく幸せだ。浦部の側にいると、まるで自分がまともな人間になったかのような、そんな錯覚が得られた。

 だけど、「錯覚」などではない本当の僕はどうだろうか。親しい隣人の死を想い、そして実際にこうして手を掛ける……。冷静になって考えれば――いや、ならなくても異常だというのは分かる。

 自分が気持ち悪い。生きる価値がない。死んだほうがいいと思う。

 浦部が一緒のときは忘れることができた自分も――こうして一人になると否が応にも思い出してしまう。おぞましい衝動に囚われながら虫も殺さぬ顔をして周囲に溶け込む自分を。

 今はいい。浦部が側にいるのだから。だけど、もし浦部が自分の前からいなくなるようなことがあれば――?

 ちらりと横を見る。浦部はまだそこに倒れたままで、その体は人形のように全ての動きを止めていた。

 どこからともなく羽虫が飛んできて、浦部の頭に止まった。位置が気に入らないのか、ぶんぶんと羽音を立たせてしきりに彼女の体を飛び回る。

 僕が首から手を離してだいぶ時間が経ったが、未だ彼女は目を覚まさない。こんなに長く昏睡が続くことはあるのだろうかと疑念が湧く。

「浦部?」

 呼びかけた。

 返事は無い。

「浦部! おい浦部!」

 思わずその体を掴んで揺すった。薄闇の中でもわかるその白い顔が、振動に合わせてごろりと横に転がった。

 その顔を掬い上げる。ひやりと冷たい感触が手に伝わった。まるで、死体に触れてるようだと思った。

 僕は、すぐに浦部の生死を確認するべきだったのかもしれない。だけど僕はそのままじっと浦部の顔を眺めていた。あらゆる生気を失いただ横たわるだけの浦部は、やっぱりこの世の者とは思えないほど綺麗だった。

 綺麗な浦部を、僕は眺め続けた。さっきまで僕は浦部に死んでほしくないと考えていたはずなのに、死を纏った浦部を夢中になって眺めていた。どっちが本当の僕なのか、自分でもわからなくなっていた。

「……んっ……」

 僕の見てる前で、ゆっくりと浦部は瞼を開いた。パチパチと瞬きを繰り返し、ゆっくりと上体を起こす。

「あれ……意識飛んでた?」

「おかえり」

「私、どれくらい寝てた?」

「結構長かったかな。なかなか起きてこないから心配したよ」

 呼吸は真っ先に確かめていた。だから浦部の無事も分かっていた。それでも、今僕の目の前で浦部が生きて喋っていることが無性に嬉しかった。

 僕は腕を伸ばし、座ったままの浦部をその手に抱きすくめた。背中にまで腕を回して抱くと彼女の細さがよくわかる。

「ちょっと、あなたにそうされると、抱かれてるのか拘束されてるかわからないんだけど?」

「……ごめんよ。苦しかったろ?」

「え? やめてよ、そんな……私のほうから煽ったんだからさ、謝んなくてもいいってば」

 今後僕の人生で浦部以上に殺したくなる女は現れるだろうか? 浦部以上に美しい死に姿の者は存在するのだろうか? ……おそらく、もうそんな者は現れない。もしも浦部を殺したならば、僕はその瞬間に天上界の幸福を得られるだろう。

 だけどそんな浦部の存在が自分にとって欠かすことのできない重要なものになりつつあるのを、僕は今彼女を抱きしめながら感じていた。

 浦部を殺したい。

 だけど、浦部を失いたくない。

「……もう帰ろうか。すっかり暗くなったよ」

「ん……もう少し」

 今のところ、僕に浦部を殺す意思はない。絞めようとも突き落そうとも寸前で止める。

 でも、僕はいつか浦部を殺すかもしれない。何となくの予感だが、そう思った。

 はたして、その時の僕は喜んでいるのか、悲しんでいるのか。それはこの僕自身にも与り知れぬ、考えない方がいい未来の一つだった。

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