第4話
その後、浦部にほとんど変化はなかった。相変わらず水谷たちには嫌がらせを受けていたし、人を寄せ付けない苛烈な性格も変わった様子は見られなかった。
変化といえば、ごく僅かなものだった。
最近、僕は下校後も真っ直ぐ家へは帰らず、普段あまり訪れない場所へ足を向けるようになった。入り口から本が溢れてる返却ポストを尻目に図書館へ入ると、そこは外には当たり前のようにあった喧騒が存在しない静寂な空間となる。その中の、隅にある誰もいないテーブルに僕は座った。さりとて何か本を読むわけでもなく、ただ黙って空気を見つめるだけだった。
やがて、隣に誰かが座った。高校の制服を着た女性のようだった。彼女も本は何も読んでいなかった。ただ無表情で空気を見つめるだけだった。
「なにか読んだりしないのか?」
「別に……本が好きだからここに来てるわけじゃないし。家に居るよりマシだから」
「ずっと座ってるだけ? 退屈しないのか?」
「それが好きなの。好きなことをしてるんだから、退屈するわけないわ」
浦部は自分からなにかを喋りだすことはなかったが、話しかければ答えが返ってきた。相変わらずの無表情で何を考えているかは分からなかったが、僕に対してあの険のある態度を取ることはなくなった。
「ほかには何の趣味があるんだ? 漫画とか読んだりしないのか?」
「読んだこと無いし、興味も無い」
「漫画でなくとも、世の中にはただ座ってるのより楽しいことがたくさんあるぞ。一度くらい触れてみたらどうだ?」
図書館から浦部を連れて出て、映画館に入った。タイトルは無難なアクション物にしておいた。上映が終わると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「映画は初めて見たけど、なかなか面白かったかな」
「そりゃよかった。また今度ほかのを紹介してやるよ」
「楽しみにしてるわ」
――浦部と喫茶店で話したあの日、僕は浦部の笑顔を見てもう彼女は大丈夫なのではないかと思った。もしかしたら、彼女はもう僕の存在を必要とせず、明日からまた僕と距離を置く今まで通りの関係に戻ってしまうかもしれない――そんなことも真剣に考えた。
だが――。
――「もう?」
あの日、僕が帰宅の意を告げると、浦部は不安げな視線で僕を見つめた。それ以上何か言葉を続けるわけでもなかったが、浦部の心の声が聞こえるようだった。
行かないで。
もっと一緒にいたい。
浦部と会って間もない頃は、こんな奴と関わり合いになってはいけないなどと考えていたことを思い出す。家にまで押しかけていくなど想像もしないことだった。その初心に立ち返れば浦部が何を言おうが無視してこの場から立ち去るべきだろう。
――「もう少し、その辺を回ってみようか」
だが、今やとっくに僕の中から浦部を排斥する気持ちは消えていた。ずっと孤独だった浦部に縋られ、引かれた袖を振り払うような非情さなど僕は持ち合わせていない。
それから、僕と浦部はたびたび二人で会うようになった。浦部はやっぱり無表情で笑うことはもう無かったが、別れ際には必ず寂しげな視線で僕を引き止めた。僕がそれに抗えた例は一度も無かった。
今日だって、ほら――。
「もうこんな時間かー。僕はそろそろ帰るよ。ああそうそう、明日から何日か文化祭の準備があるから会えなくなるけど――」
「……もう、会えないの……?」
「……なに言ってるんだよ。文化祭が終わったらまたどこかに連れてってやるよ。君はまだショッピングの経験も無いんじゃないか? 知ってるか、女の子はみんな数時間もかけていろんな店を巡り歩いて買い物をするらしいぞ。別になにか目的があるわけじゃないけど、それが楽しいんだって。……まぁ、別にショッピングじゃなくてもいいけどな。何か希望があればそっちに――」
「いいわよ」
「え?」
「あなたと一緒なら、何をするのでもいい」
「……………………」
もはや、浦部と親しくなってはいけないというルールはすっかり形骸化していた。それよりも浦部の不安げな顔に気付かなかったフリをするのが、今の僕にはたいへん難しかった。
……それでも、時々浦部を殺したくなるのだけれども。
浦部と会うのは楽しかった。浦部は僕が誘えばどこにでも付いてきたし、僕が薦めるものは何でも見た。僕と二人で居るとき、当初の手の付けられない問題児という印象はまるで消えていた。
外では人が変わったように大人しい浦部だったが、学校では一切僕と喋ろうとはしなかった。まぁ男がいるなどと噂されれば余計嫌がらせが激しくなることは想像できたし、僕も学校では一切浦部と関わりを持たなかった。
文化祭の準備が始まり遅くまで学校に拘束されるようになると、元々少なかった浦部と会う時間はとうとう皆無になった。外で会えずとも学校で顔を見るくらいはできるだろうと考えていたが、浦部は文化祭期間のあいだ学校にすら来なくなった。このような団体行事に参加するのが苦手なのだろう。水谷たちは「最悪だ」「協調性がない」「輪に入る資格無し、いじめられて当然」などとボロクソに浦部を非難していた。
僕は毎日クラスメイトと材料の買出しや内装の準備を進めながら、いま浦部はどこで何をしているのだろうかと考えた。またあの図書館で、何をするでもなく座っているのだろうか。
文化祭当日になっても浦部は学校に来る事はなかった。僕は店番を終えた後、一人で焼きソバやらホットドッグを買ってぶらぶらと校内を歩き、次は浦部をどこに連れてってやろうかと考えていた。
ベンチに座って焼きソバを食べていると、とあることに気付いた。これを食べ終わってしまうと次の集合時間まで何もやることがない。今日の文化祭、僕は一体誰と一緒に回ることになるのだろうかと考えていたが、いざ始まると結局僕と行動を共にする者は誰もいなかった。浦部ほどではないにせよ、僕もクラスでは浮いているほうだった。友達らしき者は何人かいたが、その中の誰とも連れ立って遊びに出た記憶はなかった。
高校に入ってから、そういったことをしたのは浦部だけだった。浦部がいなければ自分も孤独だという事実に、僕は今になってようやく気付いた。
「ねえ」
唐突な呼びかけに、僕の心臓は跳ねた。
顔を上げると、そこに浦部がいた。僕の目の前に立って、いつも通りの無表情でこちらを見下ろしていた。
「あなた、一人なの? それとも誰か待ってる?」
「……いや、別に、誰も待ってはいないけど」
突然の事だったので、心構えが出来てなかった。まさか、浦部がこんな騒々しい場所に自分から出向いてくるとは想像もしていなかったのだ。ましてや暗黙の了解だった校内での接触禁止を破ってまで……。
「ど、どうしたんだ? 珍しいじゃないか。文化祭期間中はずっと来ないのかと……」
「……すぐに終わるかと思ってたけど、待ってみると案外長いのね。もう退屈で死にそう」
どうやら退屈に耐えかねて出てきたようだった。……でも、浦部はずっと座っていても退屈しないと言っていたような……。
脇道に逸れかけた思考を浦部の言が止める。
「ねえ、一人ならさ……このまま抜け出しちゃわない?」
「抜け出す? 文化祭を?」
「そ。外に行くの。こんな騒々しい場所、ずっといたら頭が変になりそう」
約束していたことだ。文化祭が終わったらまた二人で会うと。
僕自身も、これからの行動を決めかねていた。集合時間にはまだ大分余裕があった。
「……浦部、これがビーズアクセサリーってやつだ。これはミサンガだな。腕に付けるやつ」
「付けて、どうするの?」
「どうにもならない。ただ付けるだけだよ」
「なにそれ? よくそんなの買う人いるわね」
「……浦部、これは知ってるだろ。プリクラだ」
「知らない。見たことあるだけ。ずっと疑問だったんだけど、これ何に使うものなの?」
「写真を撮って、それをシールにするんだ」
「それで、どうするの?」
「シールなんだから、貼るんだよ。それだけだ」
「ふーん……」
「……そういえば浦部、カラオケには行ったことあるのか?」
「名前を聞いたことあるだけ」
「金を払って曲名を入れると、音楽がかかる。それで歌うんだよ」
「それだけ? 歌うだけならいつでもできるじゃない。それにお金を払うの?」
「そういうものなんだよ」
もしかしたら興味を示すかもしれない。その思いで浦部を連れてショッピングモールの店を順繰りに回っていたが、案の定浦部の反応は非常に素っ気無いものだった。まぁ浦部がこういったものに興味を示さないだろうというのは予想の範囲内ではあった。
「今日一日君と行動を共にして分かったことがあるけど……このデカい建物は君の人生にとって何の意味も持ってないようだ。もう来る必要は無いんじゃないかな」
「そうね……せっかく案内してくれて悪いけど。他のところに行きましょう。今度はどこに連れてってくれるの?」
「他のって言われても、僕が案内できる所なんてそんなにたくさんあるわけじゃないよ。…………そうだ、今度は君が僕を案内してみてくれよ」
「私が? 私が案内できる所なんて、家ぐらいしかないけど」
「じゃあ、決まりだな。そこに行こう」
断られると思った。冗談のつもりだった。
「別にいいけどさ……何にもないわよ?」
電車に乗り、僕らは学校からどんどん離れていった。もう集合時間に間に合うことは無いだろうと思ったが、もはやどうでも良いことだった。
「ほら、上がって……。あの人は今日いないから」
「お邪魔するよ」
初めて入った浦部の部屋はずいぶん殺風景な場所だった。家具らしきものが箪笥と布団しかない。嗜好品の類は一切見当たらなかった。途中でチラリと見た母親の部屋らしき場所は乱雑に散らかり放題だったが……。
「本当に何も無いとは思わなかった? 何か期待してたのかもしれないけど……」
「いや、別に構わないよ。かえって話に集中できるじゃないか」
腰を下ろして壁に背を預けると、浦部も隣に腰を下ろす。
浦部とはもう何度も会ってはいるが、いまだ知らないことのほうが多い。聞きたい事は山ほどあった。
「浦部って、僕以外に誰か人を部屋に上げたことってあるのか?」
「あなたが初めてよ」
「初めてって……今まで一度も無いのか?」
「小学でも中学でも友達なんていなかったし……よその家にも行った事ない」
「そりゃある意味凄いな」
予想の範囲内ではあった。浦部が昔からずっとあんな調子だったなら友達など一人も出来なくともおかしくはない。
「ねぇ、みんな友達を家に呼んで何してるの?」
「大したことをしてるわけじゃない。ただ菓子を食べながらゲームしたり漫画読んだり……」
「ふうん……それだけ?」
「あまり興味無さそうだな。そういうの、好きじゃないのか」
「やったことないんだし、好きか嫌いかなんて分からないわ」
「そりゃそうか」
好きか嫌いか分からないと言っているが、浦部がこの手のものを好きになることはないだろうと思った。好きならばなぜあんな人を寄せ付けない刺々しい態度を取るのか。
「なあ、君はどうしてあんなに人と関わり合いになるのを避けようとするんだ?」
「なによ……急に」
「気になっただけだよ。答えたくないんなら別にいいけどさ」
暫しの沈黙の後、浦部は口を開いた。
「……あの人が」
浦部の言う『あの人』とは母親のことだ。
「小さい頃、あの人が男を連れて帰ってきたことがあって……。家ではいつもイライラしてて私に辛く当たってばっかりだったのに、その時はやたら甘ったるい声を出して、ベタベタして……正直、気持ち悪かった」
「へえ」
「それからかな。なんだか、他人と仲良くするのに耐え難い抵抗感があるの。みんなきゃいきゃい言ってくっついてるけど……私には無理。みんなが私を嫌って避けている状況のほうが、……なんていうか、ずっとマシというか、落ち着くの」
「……なるほど」
人への嫌悪感ではなく、関係への嫌悪感。
浦部をなじる母親の声が脳裏に蘇った。あのような親に育てられればこうなってしまうのは当然なのかもしれない。
「私と他の人との関係を何とかしようとしてくれてるみたいだけど……気にしなくていいから。仲良くしたいなんて思ってないし、他人と一緒にいてもストレスが溜まるだけ」
「ストレス? それって、僕はいいのか?」
「あなたは別」
「…………」
この言葉をどういう風に受け取って返答しようか迷っていると、浦部はこちらに身を寄せ手を僕の手に重ねてきた。ひんやりと冷たい指が僕の指に絡みついてくる。
「他の人にいくら嫌われたっていい。あなたがいるから」
浦部の白い手が僕の頬に触れた。僕のすぐ目の前に浦部の顔が近付いてくる。お互いの吐息がかかるくらいの距離で、浦部は静かに僕の目を覗き込んでいた。
間近で浦部を見て、改めて浦部を美しいと感じた。背中に手を回して抱きすくめても顔を寄せて唇を奪っても、浦部は全く抵抗する意思を見せなかった。
そのままの勢いで浦部を押し倒し、服を引き剥がす。腕に引っかかる制服とシャツを強引に抜き取ると、浦部の白い肌が露わになった。
「意外と積極的なのね」
浦部が何か言っていたが、今の僕には右から左だった。全身で浦部の体を貪ること以外に何も興味を持つことができなかった。
唇で顔を啄ばむと、浦部は顔を捩って逃げた。逃げた先の顔に唇を寄せるとまた逃げる。笑い声を上げながら逃げる浦部の顔を散々口で追い掛け回したあと、今度は首筋に狙いを移して攻撃を続ける。
「やだ、くすぐったい。そんなとこ舐めないでよ」
そんなに際どい場所だっただろうか。顔を離してまじまじと首筋を観察してみる。二つの鎖骨の間から伸びた白い首。
きれいな首だった。性的な魅力など皆無なはずなのに、僕はそれに美術品のような魅力を感じて魅入っていた。
「なに? 首が好きなの?」
浦部に声を掛けられ我に返る。気付けば相当な時間をただ首を眺めるだけで過ごしていた。
「……うん。綺麗な首だね。触ってみてもいいかい?」
「どうぞ」
片手で軽く首筋を摘んで揉みしだく。弾力があって触り心地がいい。両手で浦部の首を掴むと掌一杯に浦部を感じた。
浦部は寝ていて、僕は上から覆いかぶさるようにして浦部の首に両手を掛けていた。
突如、僕の中に蠢く衝動があった。
少しだけ、両手に力を込める。指だけで首を掴み、軽く気道を圧迫する。
「なあに? やめてよ」
浦部はクスクスと笑っていた。僕の行動に何の疑問も抱いていないようであった。
まだ大丈夫……。もうちょっと……。
体を前に倒し、やや腕に体重を掛けてみる。首に両の親指がゆっくりめり込んでいった。浦部のほうに特別な反応はない。
更に体重を掛ける。呼吸が苦しくなってきたかもしれないが、この程度ならまだ大丈夫だろう。どこかで頃合を見て止めなければならないのは分かってる。だけど、もう少しだけ、もうちょっとだけ――。
「カッ……!」
浦部が嘔吐いた。思わず緩んだ僕の腕を全力で振りほどき拘束下から脱出する。部屋の隅でゲホゲホと空咳を繰り返す浦部を、僕は呆然と見ていた。
やがて咳が止まり、こちらを振り返った浦部は……怯えていた。泥をかけられる嫌がらせでも無表情を貫いていた浦部が、はっきり怯えた表情をして僕の顔色を伺っていた。
考えるよりも早く、体が逃げ出していた。
「ちょっと!」
部屋を飛び出し、狭い廊下をすり抜け、玄関を押し開け、夕暮れの山道に飛び出し、そしてそのまま走り続けた。後ろは振り向きたくなかった。とにかく浦部の視界から迅速に僕の姿を消し去りたかった。
「待ってってば!」
浦部が何か言っている気がしたが、今の僕がそれを聴くことはなかった。ただ足を止めてしまう怖さに抗い続けていただけだった。
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