第3話
次の日僕が教室に足を踏み入れたとき、浦部はすでに席に着き、頬杖をついて景色に溶け込んでいた。僕は浦部を一瞥したが、声をかけるようなこともなくそのまま自分の席に座った。
授業中、ずっと浦部の気配を体で感じていた。だが浦部に視線を向けることは一度もなかった。そのまま放課後まで、僕は浦部が存在しないかのように振る舞った。
自分の失敗は感じていた。もう浦部が自分に心を開いてくれることはない……それを思うと、彼女が同じ空間にいるだけでたまらない息苦しさを覚えた。もう彼女と再び話そうなどとは考えてなかった。ただこのまま空気のように過ごし、記憶が風化するまで時が経つのを待つのが一番いいと思った。
帰りの電車で吊り革に掴まりながら、僕は今日浦部が学校で受けた嫌がらせを思い返した。授業中、水谷は教師の目を盗みながら浦部へ消しゴムのカスを飛ばすのに夢中なようだった。休み時間は聞こえるように陰口を叩いたり、黒板消しを頭上ではたいたり……まあこの前の泥水かけに比べれば可愛いものだろう。
だが、いつまたイジメがエスカレートするかわかったものではなかった。もう一度自分があのような暴行の現場に立ち会ったら、僕はそれを止めるだろうか。彼女を傷つけることは止めろと一喝する自分を想像してみたが、今の僕にそれを言える資格は無いと思った。
窓の外を見た。電車が走るのに合わせてビルが高速で左右に動いていた。ビルの向こうの全く動かない雲をボーっと眺めていると、隣の吊り革に掴まる者がいた。何気なく視線を向けた僕はわずかにたじろいだ。それは浦部だったからだ。
彼女は何にも焦点を合わせず、ただじっと窓の外を眺めていた。その活力や生気といったものが感じ取れず作り物のように佇む浦部は、やっぱり綺麗だった。
僕は浦部の横顔をしばらく見つめ――、やがて視線を外した。また窓の外を見つめ、動かぬ雲の観察に戻った。そうして時が過ぎるのを待った。
「今日は何も話さないの?」
僕は視線を隣に向けた。浦部がこちらに首を向け、真っ直ぐ僕の瞳を見つめていた。
「昨日はあんなに喋ってたのに」
「……浦部、昨日はすまなかった。でもわかってくれ、本当はあんなこと言うつもりじゃ、」
浦部は唐突に腕を伸ばし、僕の口を押さえた。
「聞きたいのはそんな話じゃないからね」
体に慣性がかかり電車が減速を始めると、浦部は鞄を持ち直し乗車口へ向かった。そこで首をこちらに向け、僕をじっと見つめた。
電車が止まり、ドアが開いた。
***
「ちょっと、もっとそっちに詰めてちょうだい」
「え? 隣に座るのか?」
「なによ、嫌なの?」
僕は腰を浮かし、座席の奥に体を滑らせた。一人分のスペースが空くと、浦部はそこにどっかと座りこんだ。僕は思わず他のウェイトレスの様子を伺った。彼女たちは給仕に忙しく、こちらを気にしてる者はいなかった。
僕は浦部の意向で喫茶店に入り、浦部の意向で四人掛けの席に座り、それを二人だけで占領していた。二人席に移った方がいいのではと思ったが、それを口には出さなかった。
ちらりと隣の浦部を伺う。浦部はメニュー表を手に取り、相変わらずの鉄面皮でそれをじっと眺めていた。やろうと思えば目の前のフォークを取って喉に突き刺せるくらいの距離に浦部がいることを思うと、自然と胸の鼓動が高まるのを感じた。
「どうしたの? そんなに見て」
「いや、なんでもないよ。……注文は決まった?」
浦部に自分の気持ちを悟られるわけにはいかなかった。昨日のことがあった以上、更に彼女を傷つけるようなことはどうしても避けたかった。
「ところで浦部、今日は何の用だ?」
「何の用だって……なによ、何か用でもなきゃ私とは会いたくないの?」
「そんな意味で言ったんじゃない。……昨日、自分がどんなだったか思い出してみろよ。君のほうから話しかけてくるなんて思ってもいなかったぞ」
「昨日と違うって言ったら、あなたはどうなのよ。昨日の半分でも喋ったら?」
僕は言葉に詰まった。昨日僕があんなに饒舌だったのは、何とか浦部の助けになりたい一心だったからだ。だが熱意は裏目に出て、そもそも浦部は僕の助けなど必要としてないようだった。もはや僕は彼女に語るべき言葉を失い、無意味に言葉を繋ぐ人形になるほかなかった。
「…………昨日言ったことは忘れてくれ。突然押しかけて悪かったな。もう二度とやらないから安心してくれ」
「ちょっと、なによそれ」
「言葉通りの意味だよ。もう君とは関わらない。そう決めた」
突き放すように言うと、浦部は怒りを露わにして僕を睨んだ。
こうして僕と話している以上、浦部は気が変わったのかどうなのか、真面目に僕の話を聞こうと考え直したのかもしれない。だけど、もう僕のほうにこれ以上昨日の話を続ける気が残ってなかった。浦部を助けるなどといった大それたことを成し遂げる自信が、僕の中からさっぱり失われてたのだ。
「……理由はなに? 私が嫌いだから?」
「そんなんじゃない。そうだったらわざわざ家まで押し掛けたりしないよ。……ただ、自分が嫌になったんだ。君のことを助けようとして、結局傷つけてしまう間抜けな自分が」
それを聞いた浦部は何かを言おうと口を開きかけ、またすぐに噤んだ。そのまましばらく押し黙った後――浦部は再びそっと口を開いた。
「――死にたいって思ってたことは……本当」
僕はわずかに驚いた。彼女はそれをはっきり認めてしまうのを執拗に避けていたはずだ。
「ずっと悩んでたの。自分は何のために生まれて、何のために生きてるのかって。でも、いくら考えても答えは同じ。生きてる意味なんか無い。…………そう、何度も考えたわよ、死んだ方がいいんじゃないかって――」
「浦部――」
「ねえ、もっと私のこと話してもいい? あなたに聞いてもらいたいの」
「僕じゃ無理だよ。君の期待に応えられるかわからない」
「あなたがいいの。ねえ、聞くって言って」
浦部は意外にも食い下がった。もしかしたら浦部はかなりの決心を持ってこの場に臨んだのかもしれない――浦部の表情や言葉から僕は何となくそんな雰囲気を感じ取ったが、無情にもそれに気付かないフリをした。
「その役目に適任なのは、たぶん僕じゃあない。考えてみろ、他にもいるはずだ。こんな昨日初めてまともに会話したようなやつじゃなくて、もっと君のことをよく知ってて的確にアドバイスを飛ばせるやつが――」
浦部は押し黙った。沈黙の長さからとうとう浦部が説得を諦めたかと僕が考え始めたころ、浦部はポツリと口を開いた。
「前にも……話したことあるの。小学生のころ、学校の先生に」
「え? それで、どうだったんだ?」
そう聞き返しはしたが、聞く前から薄々返答には予想がついた。
「あのころ……親がどうして私を作ったか知ってしまって……自分が生きてる意味がよくわからなくなって……そのときの担任に相談しに行ったの。『悩みがあるなら何でも相談に来て』って言ってたから……」
「…………」
「正直に言ったの……。死にたい、生きてる意味が分からないって……。きっと気持ちを分かってくれると思ったから……。でも、駄目だった。『そんなこと考えちゃいけない』って……。生きることは素晴らしいから、これから生きる意味を見つけていこうって言われた。生きる理由に気付けば、死にたいなんておかしなことを考えることもなくなるって、ね」
おかしなこと。
死にたいと考えるのはおかしいことなのだろうか。確かに普通の感覚で考えるとおかしいのかもしれない。
だけど――。僕は会ったことも無い浦部の担任の無神経さに腹が立ってきた。
「おかしくはないだろ。君の境遇を考えれば死にたい気持ちになったって当然だって。あんま、そういう人の言うことをまともに取り合うんじゃないよ」
「……いいの? 死にたいって思ってても」
「いいって言うか……仕方ないだろ。悪いのは君自身じゃなくて、死にたいとしか思えない環境とか人間関係なんだから。別に死にたいって考えること自体はおかしくなんかない」
「……環境が悪い……か。そうね――自分と環境を切り離して考えるのね――」
「そうだよ、別々に考えるんだよ。環境の悪さと自分の悪さを同一視するんじゃない。第一、それで自分がおかしいんだなんて考えだしたらますます死にたくなるだろう。――浦部、この苦境から抜け出す方法は、あんがい死を受け入れてしまうことじゃないか? まともな奴なら誰だって死にたくなるって。だから死にたいって思ってる自分をもっと認めてやっても――」
そう言いかけて、僕はぎょっとして言葉を止める。浦部が目元を手で覆い、涙を流していることに気付いたからだ。
またやってしまった、と焦りが生まれる。昨日さんざん後悔したばかりだというのに、舌の根も乾かぬ内にまた「死を受け入れた方がいい」などと――。
とにかく何か言い繕おうと口を開きかけた時だった。浦部が体をこちらに寄せ――そして僕の胸の中で泣き出した。
「浦部……」
周りに涙を悟られるのを嫌ってか、浦部は僕の胸にぴたりと顔を押し付けてくる。声を押し殺し、静かに啜り泣く浦部を、僕はしばし何も言わず見つめていた。
「ごめんなさい。もう大丈夫」
「…………」
「昨日も、あなたの言葉を聞いて……なぜだか涙が出てきたの。それで、またあなたと話したいって思って……」
「いや、そんな……。大したことは言ってないよ」
「でも本当よ。今まで相談した人は、私を励ましたり、前向きなことを言ったりするんだけど……なんだかぜんぜん嬉しくなかった。死んじゃいけないって言われても、生きていることに感謝しないと駄目だって言われても、ただ体を素通りするだけ……」
「その人たちって、別に君の事を考えてそんなこと言ってるわけじゃないだろ。自分が生きてて楽しいから、楽しくない死にたい言ってる君を見てると自分が否定されたみたいで不安になって、その不快感を解消するために君を攻撃してるだけ。結局自分自身のために言ってるだけだし、そんな奴らの言うことを真に受けるんじゃない」
「あなた、結構ひどい事言うのね。もっとおとなしそうな印象だったけど」
そう言って浦部はクスクスと笑った。笑った浦部は、普段の無表情よりもずっと魅力的に見えた。少なくとも、虚ろな目で死にたいと言っていたあの陰鬱さはもうどこにも見当たらなかった。
その後も、浦部は僕に色々な話をしてきた。僕はそれに対し思ったまま答えを返した。すっかり話し込んでしまってから、そういえば僕は彼女の話し相手になるのを断るつもりだったと思い出した。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。僕自身がけっこう彼女と話すことを楽しんでることに気付いた。
あえて彼女と関係を断ち切る理由を真剣に考えてみた。特に何も思いつかなかった。
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