第2話
あの日から、僕は浦部の事ばかり考えていた。浦部を殺す想像は止めにしていたはずなのに、一度考え出すと止まらなくなった。関わり合いになってはいけないと考えていたはずなのに、もっと彼女のことが知りたいという気持ちを抑えられない。
どうしてこんなに彼女のことが気になるのか。僕だけが彼女の弱さを知っているからか。誰か彼女を救える者がいるとしたら、それは僕しかいないからだろうか。
それとも、彼女なら僕を理解してくれると考えているからか。死にたい彼女ならば、殺したい僕の気持ちを理解し、受け入れてくれるかもしれない……そう思っているのだろうか。
彼女とは関わり合いにならないほうがいい。それは分かっていつつも、自分の中に全く真逆の感情が芽生え始めたのを僕は感じていた。
僕は迷っていた。これからの行動を決めかねていた。
水谷たちを諌め、浦部を救うべきではないかと考えた。浦部を助け、それを足がかりに浦部に接近するというのは素敵な考えだと思った。だが、殺したいと考える相手に深入りするのは気が滅入った。親しい者に対して殺したいという感情が強まるほど、自分がなにか人間でない怪物にでもなっていくような気がして恐ろしかった。
このまま何もしないのが一番いい。理屈では分かってる。だけど浦部の陰のある顔を見るたびに、あの「死にたい」の声が脳裏に蘇るのだ。
見捨てるのは心苦しかった。だが、助け船を出すこともできない。……特に、堂々と浦部に分かる形では――。
やるならば……もし本当に助けるならば、影からひっそり助ける――そういう形になるだろうか。僕が助けたとはわからない――いや、それどころか自分が助けられた事にすら気付かない――それくらいの透明さがあれば、彼女に近づくことを許容してもいいかもしれない。本当にやるのならば、だが。
その時の僕は真剣にそれを実行しようとは考えてなかった。「やれたらいいな」程度……具体的な計画は何もなく、フワフワしたただの仮定話……それだけでしかなかった。
中学生の頃に立てた殺人計画を思い出した。どうすれば警察に捕まらず人を殺せるか、状況設定・死体の処理・証拠隠滅・捜査官への受け答えなど細かい部分まで頭の中で計画を立てていたことがあった。でも僕はそれを本気でやろうだなんて考えてはいなくて、計画はいまだに実行されてない。
これも、その殺人計画と同じようなものだろうと思った。
だが、浦部の声は容易に僕の頭から離れてはくれなかった。忘れようとしても、ふとした瞬間にあの悲痛な声を思い出している。登校途中など、ろくにやることも無いせいか僕の頭の中は浦部で埋め尽くされていた。一緒に校門へ入る生徒の中に浦部がいないか無意識に探している自分を自覚して、もうあの声を忘れることはできないのではないかと自問した。
そうだ。もっと浦部のことが知りたい――悩みがあるなら力になってやりたい――それは僕の本心なのだ。この気持ちをずっと放置し続けるのは難しいことなのかもしれなかった。
ではどうするのか――などと考えながら下駄箱へ向かうと、先客がいるのに気付いた。下駄箱の前に数人が固まって立っている――水谷とその取り巻きたちだった。靴を履きかえたのか、彼女たちは下駄箱を閉めて談笑しながら去って行った。
なんてことはない光景――だけど僕はそれに違和感を感じた。自分の下駄箱へ向かう途中、さりげなく彼女たちが開けていた下駄箱を見ると――。
(……やっぱり)
[浦部]。記憶の通り、そこは浦部の下駄箱だった。
水谷たちは、浦部の下駄箱を開けて何をしていたのだろうか。気にはなったが、周りに登校中の生徒の視線がある中でそれを確かめるつもりはなかった。
その場は、何も気づかない体を装って教室へ向かった。だけど一時間目の授業が始まっても中を開けてみたい衝動は消えずに残った。横目で黙々と板書を続ける浦部と、流石に授業中は大人しい水谷を交互に見た。
休み時間になった。僕はトイレにでも行くかのように席を立ち、教室を出て、そして下駄箱へ向かった。昼休みでは人が多すぎる。行くのは今しかない。とりあえず、中を見てみるだけだ。どうするかは見た後で決めよう。
遠くから生徒のざわめきが聞こえるだけの閑静な昇降口で、僕は迷わず浦部の下駄箱へ向かって蓋を開けた。中には浦部の物だろう革靴が一足――それだけで、他に何かがあるわけではない。
もっと真面目に探せば何か分かるかもしれないが、もうこれでいいか――と蓋を閉めかけたところ、靴の中に何か光る物が見えた。顔を近づけ覗いてみると、靴の奥のほうに画鋲が仕込まれているのを見つけた。
ああ、これか。やはり水谷たちが何もしていないわけはなかった。複数で立っていたのも、左右に壁を作って視線を遮る意図があったのだろう。
この画鋲をどうするか……わずかに逡巡したが、僕は手を伸ばして画鋲をつまみ、そのまま自分のポケットに入れた。そして下駄箱を閉め、何もなかったかのように教室に戻る。
席に座って一息入れつつ周りの様子をうかがってみたが、僕の行動が怪しまれている様子はなかった。水谷も他の女子達とバカ笑いをしているだけで、僕のことはまるで気にかけてはいないようだった。
放課後になったら、きっと水谷は靴を履き替え帰ろうとする浦部をワクワクしながら物陰から眺めるのだろう。だけど予想に反して何の反応も示さず平然と歩み去っていく浦部を見て激怒するかもしれないが、それが僕の仕業だとはわかりようがない。
水谷の反応を見てみたい気持ちもあったが、極力怪しまれる行動は取りたくなかった。放課後、僕は早々に学校を出て真っ直ぐ駅へ向かう。僕の家から学校はやや離れた場所にあるため、通学には電車を使っている。電車通いの生徒は割と多いらしく、いつもこの時間帯には僕と同じ学校の制服を着た学生の姿を見る。
ふと思ったが、これだけ電車通いが多いなら僕と同じ駅を使って通学している生徒も一人くらいいるのではないだろうか。もっとも僕の地元駅で同校生を見たことはないので、僕以外誰もいなくても決しておかしな話ではない。
地元駅に着いて、電車から降りる乗客を見回してみるが――やはり学生はいなかった。この駅から通ってるのは僕一人なのかもしれない。念のため、後ろの車両から降りてくる乗客も確認してみようと思い、僕はくるりと振り返った。
驚いた。
振り向いた僕の目の前に、同じ高校の制服を着た女子生徒が立っていた。白く細い首と長い黒髪の間から、不機嫌そうな二つの目が僕を睨んでいた。
「浦部……さん?」
なぜ浦部がこの駅にいるのか、理解が追い付かなかった。僕を追ってきたとでも言うのか?いやそんなまさか……。
「……なにか、用かな?」
「ポケットの中身、見せてくれる?」
「…………」
僕のポケットに特別他人の気を引くようなものは入っていない。財布だとか携帯電話だとか、せいぜいそんなものだ。いつもと変わっているものと言えば、下駄箱で抜き取ったあの画鋲くらい――。
「見せてって、どうして?」
「今日の朝ね……不自然に集まって私の下駄箱の前に立ってる人達がいたの。なんのためにそんなことをしていたのか気になって、一時間目が終わったらすぐ確認しに行ったわ」
「…………」
「それで、階段を降りて下駄箱に向かったんだけど……今度は、なぜか別の人がいた。私の下駄箱を開けて、中から何かを取ってポケットに入れていたの」
見られていたのには気が付かなかった。だがそれならもうシラを切り通す意味もない。
僕はポケットに手を入れ、中の画鋲を取り出した。手を開いて浦部の前に差し出すと、彼女はそれを乱暴にひったくった。
「余計なことをしないで」
彼女はそれだけ言うと画鋲をカバンへ突っ込み、僕の横を抜けて改札口へと歩き出した。もう話すことはないと背中が語っていた。
「……ごめんよ。勝手なことをして」
僕は浦部の背中に声を投げかけた。だけど彼女はまるでそれが聞こえていないかのように歩を進める。
「君が喜ばないことは分かってたよ。だけど、見てるだけじゃいられなくて……」
浦部は突然歩を止め振り返った。
「喜ばないって分かってたのにやったの? 嫌がらせ?」
「そんなつもりじゃない。ただ僕が嫌だったんだよ、あいつらを調子に乗らせるのが。君に嫌がらせをするとか、そんなんじゃ……」
「冗談よ」
そう言うと、彼女はまた僕に背を向け歩き出した。僕は立ち尽くし、改札口に消えていく彼女を見送った。
彼女が完全に視界から消えると、驚きも動揺もだいぶ覚めてきた。振り返った目の前に浦部がいたときは、まるで彼女が幽霊かなにかのように思えた。
僕はまた恐々と後ろを振り返った。もちろんそこに浦部はおらず、電車が走り去った後の誰もいない駅のホームが広がっているだけだった。
下に何かが落ちているのに気付いた。近づいて拾い上げたそれは僕の学校の生徒手帳によく似ていた。
開くとそこには氏名や住所と共に、浦部の顔写真があった。写真の中でも浦部は不機嫌そうな仏頂面で僕を睨んでいた。
***
手帳はすぐに返すつもりだった。浦部は明日学校で会うことになるのだから、その時に返せばいい。そう思っていた。
浦部は休みだった。朝の出欠でいないばかりか、下校時刻になってもとうとう学校にはやってこなかった。クラスメイトが次々に荷物をまとめて下校していく中、僕は主のいない浦部の席を眺めて途方に暮れた。
手帳の処遇に困った。さっさと返してしまいたかったのだが、当てが外れた。また明日登校してくるのを待つか、それともこのまま浦部の机に突っ込んでおこうかとも考えるが、僕はそのまま席を立って教室を後にした。
電車に揺られながら、僕は浦部の生徒手帳を開いた。そこには浦部の顔写真と共に住所が記載されていた。僕の家からは歩いて行ける距離だった。昨日浦部があの駅にいたことに驚いたが……なんてことはない、ただ単に浦部も最寄駅が同じだったというだけだ。
手帳を直接浦部の家へ届ける理由は全くなかった。だけど僕は口実が欲しかったのだ。浦部とまた関わる、その口実が。
スマホに表示させた地図を頼りに道を辿っていくと、なんだかあまり人気がない寂れた住宅地に入り込み、そこも通り過ぎると今度は山の斜面に曲がりくねって敷かれた峠道を進むこととなった。このあたりは僕の家の近くではあるが、行く理由が皆無に等しく今まで一度も訪れたことの無い場所だった。
峠道を登っていくと、道端にポツンと一軒の家が建っているのが見えた。一応まだここは街の範囲に引っかかっていると言えるのだろうが、街側からでは木に隠れてこんな家があるなど全く気が付かなかった。
周りに家も無く、賑わいからは隔絶された地――。そんな寂れた場所に浦部の家はあった。
家の前に立ち「浦部」の表札を確認し、呼び鈴を押す。ただ手帳を投函するだけで帰るつもりは毛頭無かった。
「……………………」
家の中から反応は無い。もう一度呼び鈴を押す。音が鳴ってない。壊れているようだった。
ノックでもしようかと扉に近付いたところ、家の中から声がするのに気付いた。
「アンタ、今日学校は?」
「……行かなかった」
浦部の声。もう一人は母親だろうか。
「アンタねぇ……学校通わせるのもタダじゃないんだけど」
「…………」
「どうせまたいじめられてるんでしょ。懲りないね~」
「ほっといてよ。私の勝手でしょ」
「家にいても一日中隅っこでうずくまってるだけだし……。なんか趣味とか無いの?」
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
「……アンタさ、なんで生きてるの?」
「……………………」
「友達もいなくて、ずっといじめられてて、楽しいことも知らなくてさ」
「…………」
「無いよね?」
「……」
「生きてる意味」
「………………」
「……産むんじゃなかったな……」
「…………」
「いないほうがマシな人間って、アンタのことだよね」
「…………」
「迷惑なだけだし」
「…………」
「もしアンタが山で遭難とかしても、救助なんか出さないからね」
「…………」
「アタシが助けないんだから、世界でアンタを助けてくれる人なんていないよ」
「…………」
「ずっと孤独なんだ。辛くって、苦しくって、誰かに助けてもらいたいって時でも、誰もアンタに手なんか差し伸べるわけが――」
トントン。トントン。
ノックすると同時に話し声が途絶え、一瞬の間のあとパタパタと玄関へ走り寄る音へと変わった。
聞いていられなかった。学校でどこにも居場所が無く孤立してる浦部は、どこかに自分を受け入れてくれる場所が必要なはずだった。だが、浦部にとっての聖域は少なくとも自宅ではないようだった。
そもそも、浦部の聖域は存在するのだろうか。放課後、何をするでもなく校舎裏で時間を潰している浦部に。
「はい、どなた?」
「クラスの者なのですが、浦部さんはいますか?」
派手な格好の母親が応対に出た。あまり僕の来訪は歓迎してないようだった。
「いるけどさぁ、今はちょっと……」
ちらりと背後を振り返る素振りを見せる。視線の先には浦部がいた。浦部も僕に気付き、顔を向けた。
目が合った。
「ああ、やっと来たの? 遅かったじゃない」
浦部は突然僕らがまるで友達同士であるかのような声を出した。そのまま母親の脇をするりと抜けて玄関先に出てくる。
「ちょっと出かけるから。委員会の打ち合わせがあるの」
「委員会? アンタそんな面倒なもんに入ってんの?」
「夕飯までには帰るから。ほら、行くよ」
浦部が僕の肩を掴んで引きずるように歩き出す。母親はまだ何か言いたげであったが引きとめようとはしなかった。
曲がりくねった下り坂を浦部と二人で下りた。辺りに人影はなく、ただ二人だけが無言で黙々と歩を進めていた。周りにあるのは足音と、ときおり木々が風に揺られてざわめく音だけだった。
「で、何の用なの」
浦部が唐突に口を開いた。
「わざわざ家まで来て……。まあ抜け出す口実が出来たから良かったけど」
「ほら、これだよ。落としてっただろ」
僕が生徒手帳を見せると、浦部は「ああ」と得心がいったかのような顔をした。
「そうね。フフ……学校でこれを私に返してる所なんか、他の人に見られたくないものね」
浦部のニヤリとした笑みを見て僕は焦った。彼女の中で、僕は自分と話している所を見られたくないがためにわざわざ家まで手帳を返しに来る嫌味な奴だと受け取られていた。
「そんなんじゃない。君と会って話したかったんだよ。こんなものただの口実だ」
浦部は訝しげな視線を僕に送った。
「君はいつも敵を作るようなことばかりしているね。それが実ってか、もう学校に君の味方はいない。まあ正直当然の結果――誰も同情してないし、わざわざ助け舟を出そうってやつもいない。今後もずっと、君を助けようとする奴なんて現れないだろうね」
「説教に来たの? あなたも私のことが嫌いなら、今すぐ帰ったらどう?」
「おい、勘違いするなよ。僕は違う。君の味方になる……今日はそれを言いに来たんだ」
浦部はやや驚いた顔をした。
「……なんで? 何が目的?」
「ただ君を助けたいだけだよ。それ以外何があるってんだ」
「いらない。放っておいて」
そう言われる事は予想していた。だが、その言葉に従ったところで彼女が幸福になることはないだろうと思った。
「放っておけるわけ、ないだろ……あんなこと聞かされて……」
浦部は突然歩を止めた。振り返ると、その顔は険を帯びてるように見えた。
「忘れてって言ったでしょ。何回も言わせないで」
「お節介なのは分かってるよ。でも、可哀想で……」
「勝手に可哀想とか決め付けないでくれる?」
「だってそうだろう? 学校ではずっといじめられてて、その上親にまであんなこと……」
浦部は僅かにたじろいだ。
「……また盗み聞き? 素敵な趣味ね」
「たまたまだよ、聞こえてきたんだ。……生まないほうが良かったとか、まあ君の事を思って言ってるんだろうけど、それにしても言いすぎ――」
「私の事を思って? なに言ってるの、全然違うから!」
浦部は突然声を荒げた。
「あの人、男との関係を保たせるために私を生んだのよ。でもそこまでしたのに男は他の女と消えて、後に残った私はただの邪魔者だって。……本人から聞いたんだからね? 私の事なんか考えてるわけない。ただ自分のイライラをぶつけてるだけ」
そこまで一息に話して、浦部は突然我に返ったのか顔を背けて言葉を止めた。そして早足で歩き出して僕を追い抜いていった。
少し遅れて僕も後を続く。
浦部は、親に望まれて生まれてこなかったと言った。そして実際母親も浦部を疎んじていて、その存在を歓迎してはいなかった。
だからなのか。浦部の希死観念。
生を望まれてないから。死ぬことで、いなくなることでやっと自分を認めてくれるから。
生きていて何も良いことはない。それでいて死ぬ理由はある。浦部がどうして今死なずに自分の目の前を歩いているのか不思議に思えてきた。明日にでもフラッと死んでしまうのも十分ありえる話ではないかと心配になってくる。
「水谷のことはまだ先生にも言ってないだろう。まずはそこからだ。それで解決すればよし、駄目だったら次は――」
「構わないでって言ってるでしょ」
「このままでいいわけない。君が言い辛いなら僕が言う」
「やめて。あなたにそんなことしてもらっても嬉しくも何ともないから」
浦部は、完全に心を閉ざしていた。僕は数居る邪魔者の一人としてしか認識されてないようだった。
「どうしてそんなに敵を作るような事ばかり言うんだ? 適当に話を合わせて適当に笑ってればいい。ただそれだけでずっと快適に過ごせる」
「そんなのどうだっていいでしょ。あなたの人生に何か関係ある?」
浦部は強情だった。何を言っても聞く耳持たずだった。僕はただ浦部の力になりたいだけだったのに、それすら彼女は受け入れてくれない。
浦部の拒絶の言葉をいくつも聞いてるうちにいつの間にか峠道は終わり、開けた町並みに出た。これから浦部はどこに行くつもりなのだろうかと考えていると、突然浦部が振り返る。
「それじゃ、私は図書館にでも行くから。さようなら」
もう付いて来ないでね。言外にそう言われているのは感じていたが、反射的に腕が伸びた。浦部の肩を掴んで引き止める。
「ちょっと待てって」
「なに? 放してよ」
「もうちょっと冷静になって考えてくれ。あとで後悔するって」
「そんなことはないから。気にしなくて大丈夫よ」
「あんなの毎日続けられたら精神持たないぞ。早くあいつらをどうにかしないと」
「どうしてそんなに拘るの? あなたに関係ないでしょ?」
「僕が嫌なんだよ。君が苦しんでるのが」
「苦しんでなんかない」
「嘘をつけ。苦しいときは素直に助けを求めればいいんだよ。僕じゃなくってもいい、誰か信頼できる人に――」
「しつこい! いい加減にして!」
彼女の不興を買っていることは感じていたが、しかしここで引き下がるわけにはいかなかった。万一彼女が明日にでも突然自殺したらと考えると焦燥が止まらなかった。
「なあ、頼むよ。あんなの見せられて知らんぷりなんてできるわけないだろ。僕に介入されるのがいやならせめて――」
言いかけて、言葉が止まる。
こちらに向き直った浦部。その顔からは、もはや苛立ちすら消えていた。何の表情もなく、空虚だった。
「……そうね。じゃあ、そこまで言うならちょっと考えてみるわ」
「浦部……?」
「『死にたい』なんて本気で考えてるわけじゃないから。本気でそんなこと考えてたらアタマおかしい。世界にはもっと不幸でも生きてる人がたくさんいるんだから、それより恵まれてるのに死にたいなんて思ってる奴がいたら――そいつは人間の屑ね」
直感した。これは、嘘だ。
話を切り上げたがってる。だから、ただ相手が望む言葉を喋って満足感を与えようとしているだけ。そして……相手を満足させる代償として、自分の心を切り売りしてる。
――死にたいなんて考えるわけない。考えてたら頭がおかしい。
――死にたいなんて考える奴は、人間の屑だ――。
体の中から、感情の奔流となって込み上げてくるものがあった。
やめろ、そんなことは言わなくていい。なんでそんな簡単に自分の心を投げ捨てられるんだ。これは理屈じゃない。理屈でいくら死にたいと考えるのがおかしいと思っても、殺したいと考える事が異常だと理解しても――感情がそこにある事実には何も変わりない。
「あんまり軽々しく死にたいなんて言うもんじゃないわね。心配かけてごめんなさい。私は大丈夫だから。ちょっと嫌なことがあってもやっぱり生きるのは楽し――」
「やめろ!」
大声が出た。
「無理してそんなこと言わなくていい。だって当たり前だろ。普通、親が望んで子ができるのに、親が望まなきゃ誰も望まないのに……生きてても邪険にされて、産まないほうがよかったなんて言われて、親がそんなんだから他人との距離の取り方も分からなくなって、味方もいなくて……それじゃ辛すぎるだろ。当然――死にたくなって当然だって」
意識ではなく、心が口を動かした。見てられなかった。浦部の自傷行為を止めたい一心だった。
「僕が君の立場だったら、今もこうして生きてるかどうかわからんぞ。どうしてまだ死なないでいるのか不思議なくらい――早く死んだ方がいいんじゃないかって――」
浦部が唐突に顔を反らし、僕は言葉を止めた。
浦部は手を目頭に当て、僕から顔を背けていた。僕は首を伸ばして彼女の顔を覗き込んだ。
「浦部……?」
彼女は唐突に僕の手を振り払い、そして全力で駆け出して行った。
浦部が僕の元を去ってゆく。それを分かっていながら、僕はその場から一歩たりとも足を動かすことができなかった。
ちらりと見えた浦部の顔には、涙が光っていた。彼女は泣いていた。
自分の言葉を思い出す。随分ひどいことを彼女に言った気がする。
――どうしてまだ死なないでいるのか――。早く死んだ方がいいんじゃないか――。
彼女を救おうと、せめて元気付けるために来たはずだった。彼女の存在意義を否定するような母の言葉にも憤りを感じたはずだった。
自分自身の口から彼女を傷つける言葉を発してしまったという事実に、僕は打ちひしがれ、固まっていた。
今の僕が彼女に駆け寄ったとて、掛ける言葉は何もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます