羊水の墓に眠れ

瑞樹楼蘭

第1話

 初めて人を殺したいと思ったのがいつなのか聞かれても、それは僕自身にもはっきりしたことは分からない。小学生の頃から、もしかしたら園児の頃から、それは僕自身の中にあった自然な感情だった。

 クラスで気になる子がいた。いつも、彼女をどう殺すか考えていた。刃物で刺そうか、首を絞めようか、屋上から突き落とそうかと考えているだけでいくらでも過ごせた。ロープがあれば自然と彼女を絞めてみたいと思ったし、火があれば自然と彼女を燃やしてみたいと思ったし、水があれば自然と彼女を沈めてみたいと思った。どんなに落ち込んでいる時でも、彼女の死体を想像するだけで不思議と心が温かい気持ちに包まれた。

 だが、苦悩が無いわけではなかった。

 遠足に行ったあの日、僕は池を覗き込みながら縁を歩いていた。あの子の頭を掴んで水面に押し付ける事を想像していると、突然体のバランスが崩れて僕自身が池に落下した。何がなんだか分からず、体の自由が利かず、水を飲んだ肺は苦しくて――。僕は、その時生まれて初めて死を意識した。全身が恐怖に包まれ、僕は生きたい一心でめちゃくちゃに手足を振り回してもがいた。

「つかまって!」

 水でぼやけた視界に、白い手が伸びてきた。僕は無我夢中で縋りついた。水中から引き上げられ、腹中の水をあらかた吐き出して一息ついて、僕はようやく自分を救い出してくれた恩人が当の「彼女」であったことに気付いた。

「ねえ、だいじょーぶ? ケガしてない?」

「う、うん、だいじょ……ゲホッ」

 空咳を繰り返してると、彼女は優しく背中をさすってくれた。心配そうに覗き込む彼女の顔を見ていると、どうして自分はこんな優しい子を殺したいと考えていたのだろうと強い罪悪感に苛まれた。

 でも、僕の人生はずっとこんなものだった。殺してみたいと考えるのは別にその子が初めてというわけではなく、もっと前から僕は嫌いでもない友達や家族を殺したい欲求に駆られて、その後決まって自分のこの恐ろしい想像に嫌悪を感じるのだ。

 なぜ自分がそんなことを考えるか理由は分からなかったが、納得はできた。

 人は、学ばずとも理解できるものがある。

 綺麗な景色を綺麗だと思う感情も、可愛い小動物を可愛いと思う感情も、僕は誰に学んだわけでもなく自然に理解していた。

 命を奪うことの快感を、僕は誰に学んだわけでもない。

 だけど、納得はしていた。



              ***


 高校生になった。

 だけど、何が変わるというわけでもない。中学生から通う学校が変わっただけで、後は何が違うのかまだよく分からない。進学しても、やっぱり僕は僕のままだった。

 とはいえ希望はあった。高校では中学校とは顔ぶれが大きく違う。殺したいと想像することを止められなかった級友たちは軒並み違う学校へ進んで行った。

 しばらくは、これで良からぬ想像をすることもないだろう。もしかしたら、このままこの衝動も自然消滅してくれるかもしれない。

 新しいクラスメイトたちに、特別僕の興味を引く者はいなかった。体のパーツなどを見ても別段何を感じるでもない。これならば、当面はあのおぞましい想像とも無縁でいられるのではないか。学校が始まってから一度も登校してきておらず姿を確認してない女子がクラスに一人だけいたが、まあきっと大丈夫だろう。そう僕は楽観視していた。

 だから、件の浦部イツミがとうとう登校してくるとクラスで話題になっていても、僕はそれを特別な大事件だなんて思っちゃいなかった。早く姿を確認して安心しておこう――そんなことまで考えていた気がする。

 完全に、油断していた。

「浦部イツミです」

 黒板の前に立って無表情で自己紹介をする彼女を見て、僕は忘れたいあの衝動が蘇ってくるのを感じた。

 黒い制服から白くて綺麗な首が伸びている。細くて絞めやすそうな首だと思った。

 長い黒髪は見たところかなりのボリュームがあり、光を受けてつやつやと輝いている。彼女を溺死させ、水面に広がる綺麗な髪を眺めてみたいと思った。

 腕も体も細く華奢で、誰であっても簡単に組み伏せられそうだった。抵抗する彼女を無理矢理押さえつけ馬乗りになり、刃物を取り出して首筋に押し当てる事を想像すると、全身が熱くほてるのを感じた。

 ――殺したい。

 彼女のように殺しやすく死体映えしそうな女性は、必ず僕の興味を大きく引いた。今回も例外ではなかった。内面に昂る衝動を全く抑えることができなかった。

 駄目だ。それ以上踏み込むな。

 いつもいつも、その先に待っているのは後悔だけだ。自分の異常性を確認し、自分で自分を嫌いになって行く。もう止めにしたいと思っていたのに。彼女もきっと悪人などではなく、ごく普通の「いい人」なのだろう。相手を一人の人間だと認識し、そして親密になっていくほど僕の罪悪感は膨れ上がっていく……。

「それじゃあ、浦部は一番後ろの席に座って」

 教師の言葉に従い彼女が歩き出す。僕の席の隣を横切るという所で、彼女と目が合った。

「じろじろ見ないで」

 それが浦部が僕にかけた最初の言葉だった。



                ***



 浦部は転校生というわけではなかったが、当初の扱いはまるで転校生だった。休み時間が始まると彼女の周りには女子たちが集まり、好き勝手に彼女を質問攻めにした。

「ねー浦部さんってどこ住んでるの?」

「趣味なに? 音楽なに聴いてるの?」

「しばらく来てないと大変じゃない? 分からないことがあったら何でも聞いて!」

 彼女たちはとても楽しそうだった。これから友人が増えるであろう事を純粋に喜んでいた。


「馴れ馴れしく話しかけないで」


 空気が凍った。

 クラス中が静まり返り、浦部を見つめていた。針のような視線の束を受けても浦部は全く動じる様子も無く無表情で佇む。彼女を取り巻いていた者たちはみな一様にぽかんとした表情を浮かべて、自分が今なにを言われたのか咀嚼しているようだった。

 その後、一言二言浦部と再び会話を試みる者もいたが、浦部は視線を合わせずただ黙るだけ。やがてその空気に耐えられなくなったのか彼女の周りからは人が消えて行き、それきり浦部に話しかける者はいなかった。

 大丈夫なのか、と心配になった。初対面でいきなりこんな態度を取ってしまったら、その後の学園生活に大きな支障を来たすのではないか。

「なにあいつ」

 ひそひそと囁き声が聞こえた。


 浦部は性格に多大な問題があった。他人との接触を極度に嫌い、無理矢理関わろうとする者があれば暴言を吐いて追い返した。何をするにもトラブル続きで、友人との軋轢は広がるばかりだった。

 大部分の生徒は浦部を腫れ物を触るように扱うようになった。話しかけず、視線を合わせず、まるで彼女がそこにいないかのように振舞った。浦部はクラスにて凄まじい速さで孤立していった。

 一部の生徒はむしろ彼女と積極的に関わりを持つようになった。とはいえそれは友人のような関係とは真逆のもので、見ていてあまり気持ちのいいものではなかったが。

 ある日登校すると、女子たちがなにやらクスクスと笑っていた。見ると、浦部の机が尋常でないほど汚されているのに気付いた。

『死ね』

『気違い』

『生きてる価値なし』

『不登校ガンバレ!』

『人格障害』

 下品な落書きにより埋め尽くされた机。それを笑う一団の中心に女子のリーダー格的存在の水谷がいる。多くの人間が浦部とは距離を置く中、水谷は他の女子と徒党を組んで浦部への陰湿な嫌がらせを始めていた。初期は陰口程度だったそれも、時間が経つに連れどんどん大掛かりなものに発展していき、今はもはや物品の汚損などの悪質なイジメも当たり前だ。最初に懸念した通り、クラス内での浦部の立場はこれ以上ないというほどひどいものになっていた。

 ただ、浦部自身がそれについて何を考えているかについては、その表情からは窺い知ることが出来なかった。

 始業時間ぎりぎりに登校してきた浦部は机を見ても顔色一つ変えずに着席し、どんな反応をするかわくわくしながら見守っていた水谷たちを大変がっかりさせた。

 これに限らず、浦部は自身へのイジメに対してほとんど反応らしい反応を見せなかった。陰口を叩かれても完全無視を貫き、机に花瓶を置かれてもただ無表情で片付けるだけで、二階から水をぶっかけられても無言で更衣室へ歩くのみ。もしかしたら、彼女は苦しみといった感情をほとんど感じていないのではないかとも思った。

 彼女に突然襲い掛かり首を絞めたらどんな反応をするのだろうか。ああまで反応が薄いと逆になんとしてでも反応を引き出してやろうという衝動が湧いてきてしまう。彼女を視界に入れて生活しているとどうしてもそんなことばかり考えてしまうので、僕は彼女の存在を意識しないよう努めて振舞った。

 僕と浦部はクラスメイトであるという以外ほぼ接点のない生活を送っていたが、それでよかった。浦部と深く関わりすぎれば、僕のあの悪癖は間違いなく悪い方向に作用するだろうからだ。

 浦部がイジメを受けているということに関しても、僕は別に彼女を助けてやろうなどとは全く考えていなかった。彼女と関わるのはまずいと思っていた事もあるが、そもそも浦部がイジメの標的になっているというのも彼女の自業自得な面が強いと考えていたし、なにより浦部自身がイジメを苦にしてない様子なのがもっとも大きかった。例え助けたとしても、彼女の性格を考えれば「余計なことをしないで」と迷惑がられる可能性すらあった。

 浦部は一月経っても二月経っても相変わらずいじめられ続けてたが、それに対する反応の無さも相変わらずだった。だから僕も相変わらず静観を続けていた。

 その停滞を良しとしない者もいた。イジメの主導者的存在であった水谷は、浦部をいたぶることに最初は愉悦を感じていたものの、そのあまりの反応の薄さに途中から明らかに苛立ちを感じていた。

 彼女は、強硬手段に出た。今までは自分たちが犯人である事が明確にならぬようあからさまに表立っては嫌がらせを行ってはこなかったが、とうとうその枷を破って直接浦部の前に姿を現し攻撃を加え始めた。

 その時、僕はじょうろを手に中庭へ歩いていた。中庭は特に誰も足を運ぶ理由が無いからか人気の無い場所だったが、美化委員の僕は花壇に水をやるため定期的にそこを訪れる必要があった。

 遠くに運動部の喚声を聞きながらじょうろを傾けてると、その「声」は聞こえた。

「……キャハハ……」

「……ちゃれ………………じゃん……」

「…………っぞー……てんじゃねーよ……」

 楽しげな笑い声だったが、明らかに雑談ではない。それはもっと暗い何かだ、と直感した。

 予感は正しかった。声を辿って校舎裏へ向かってみれば、そこには浦部を取り囲み、醜い笑みを浮かべる水谷たちがいた。

「……いい加減にして。私は早く帰りたいんだけど」

「え~? 帰りたいなら帰れば?」

 浦部は包囲の間を抜けようとするが、それを水谷が遮り突き飛ばす。

「どうしたの~? 早く帰りなよ~」

 クスクス。キャハハ。

「ねえ浦部ってさ、毎日放課後になるとここ来てんでしょ? 一人で校舎裏とかキモくない?」「しかもさぁ、なんもしないで時間潰してるだけなんだよね? ねえ、お友達と一緒に遊んだほうがいいんじゃないかな~?」

「誰もいない所が好きって、ゴキブリみた~い! ホウ酸ダンゴとか食べてそう!」

「…………あなた達には何も関係ないことでしょ。さっさと退いて」

 今度は足早に突破を試みるものの、水谷はそれを容赦なく突き飛ばし、浦部は地面に倒れこんだ。制服が泥だらけで汚れるのを見て水谷たちは下品に笑い声を上げた。

 対照的に、浦部の顔からは表情というものが全く失われた。上体を起こしたまま動きを止め、その目は中空を見つめて虚ろだった。水谷たちはそんな浦部を足蹴にしたり頭を掴んで揺さぶったりしていたが、浦部は抵抗する素振りも見せない。

 やがて水谷たちは直接浦部をいたぶる事に飽きたのか、一人が脇に用意してあったバケツを取り上げ、中身を浦部にぶちまけた。泥水が浦部の全身を汚し、その白い肌や制服は泥にまみれて見るも無残な有様となった。

「うわきったねー!」

「アッハハ、ひどいなーこりゃ」

 彼女らは散々浦部を嘲笑したあと、満足したのかその場を意気揚々と去っていった。後には泥まみれになった浦部だけが残された。

 水谷たちの気配が完全に消えて、ようやく浦部は顔を上げて動き始めた。このまま帰るとするならば、僕が身を潜めてる角を曲がって正門に向かうつもりなのかもしれない。そろそろ見物は終わりにしたほうが良さそうだった。

 浦部が何を考えているのか、なぜ無抵抗なのか、それは分からない。だけど、知る必要は無いだろう。このまま交わらず、距離を置くと決めた。ならば無関係な他人のことを知ったとして何のためになるのだろう。

 僕は身を翻し、足音を立てぬようにその場を離れた。

 離れるつもりだった。


「…………死にたい」


 ドキリとした。

 今のは浦部だろうか。と疑ってみても、その冷たくか細い声は浦部のものに間違いはない。

 ずっと、浦部のことが分からなかった。苦痛も何も感じない人形のような奴なのかと思ってた。どんな責め苦にも耐えられる鋼のごとき強い心を持っているのかとも考えた。

 間違っていた。彼女は弱かった。心は穴だらけのボロボロで、いつ折れてもおかしくはなかった。堪え切れずに漏れた本心を、僕は不躾にも覗いてしまったのだ。

 声は、出さなかったと思う。だけど動揺した僕は自らの気配を隠し切る事に失敗していた。

「誰?」

「……………………」

「そこに居るの?」

 浦部がこちらに向かってくる。逃げるべきか、身を隠すべきかと逡巡してるうちに、校舎の角を曲がって浦部が目の前に現れた。泥まみれの顔から鋭い眼光が覗き、静かに僕を見つめていた。

「あなた、同じクラスの人だっけ」

「……そうだよ」

 浦部は、いつも通りに見えた。無表情で、その声からは動揺も怒りも感じ取れない。

「…………聞いてた?」

 見ていた? と咎められるかと予想していた。だが、彼女がもっとも警戒していたのは覗き見などではなかった。

「……ごめんよ」

「あれは忘れて。ただの気の迷いだから」

 そう言い放つと、彼女は僕の返事も聞かずにスタスタと歩き出した。もう僕のことは全く興味も無くしたようだった。

 待ってくれ、と口から声が出かかった。だけど僕は彼女を呼び止めて何を話すのか、躊躇っているうちに浦部はどんどん遠ざかり、あっという間に僕の視界から消えていった。

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