されどあの空は青すぎる

吉柳葵緒

第1話

 世界で一番足が速い人間は、どんな世界を見ているのだろう。

 コンマ以下の秒数で変わっていく景色に酔わないのか。ひたすらに地面を蹴る足は痛くないのか。はたまたそんなものなどはなから認識しておらず、見えているのはゴールテープだけなのか。それとももっと先の空模様なのか。

 そこまでいかなくとも、徒競走で一位になる人間は、グラウンドを駆け抜けていくその刹那、なにを見ているのだろう。

 土ぼこりのたて方もスマートに、文字通り風のような軽やかさでみるみる遠ざかっていく背中を、我ながらひどすぎる緩慢さで追いながら、私はそんなことを考えていた。


「十八秒二!」


 一人だけ大幅に遅れて倒れこむようにゴールラインを踏み越えると、ストップウォッチを睨んでいる同級生がやや尖った声で言い放つ。おお。百メートル世界記録の約二倍ではないか。距離は通常どおりだけれど。

 余裕綽々で馬鹿なことを考える脳とは裏腹に、ほどほど急速に酸素を消費した肺は新鮮な空気を求めて浅い呼吸で胸を上下させ、循環が滑らかになった血流を管理する心臓は鈍い音をさせて胸骨を叩いている。


「道成寺~、真面目に走ったか~? やり直すか?」

 記録をつけている体育教師が、バインダーにはさんだ記録表を見ながらけだるげな声で言う。

 首から鎖骨へ流れた汗を体操着の襟で拭って私はあいまいに笑う。

「私、めっちゃ足遅いんです。長距離も短距離も」

「だからっておまえ、あんまり遅すぎだろ。逆にレアだぞ。百メートルで十八秒て」

「もともと足の筋肉が弱いんですよ。見てください。この枯れ木みたいなふくらはぎ」

 ハーフパンツの裾から伸びた足を指すと、体育教師は呆れたように息を吐いた。

「しょうがねーな。今日はもうこれでいいけど、次はもっと全力で走れよ」

「はーい」

 次が来る時には、どっちもこんな会話があったことを忘れているだろうけれど。


 次のレースの記録をつけるために視線をそらした教師に背を向け、走り終わった同級生たちが膝を抱いて座っている列の最後尾へと回り込む。ちらりと見上げた空は濃い青。吹き抜けていく七月の風は、太陽に温められてぬるい。


「あーおん、おっつー」

「おっつー」

 同じ組で走り、先に座っていた四人組のうち、同じクラスの二人が片手を振って話しかけてきた。

「おっつー」

 風圧で少し絡んでしまったポニーテールの毛束を指先で梳いてやりながら、私も挨拶を返して空いている一人分のスペースに腰を下ろす。

「てか、あーおんさぁ、ヤバい足遅くね? めっちゃ余裕そうな顔でダントツビリとかすごくね? あれってネタ? ガチ?」

 隣の隣に座っている藤原が、まだ疾走の余韻をまとった紅潮した頬のまま興奮した口調で問いかけてくる。

「あーおんて運動神経よさそうに見えるのにねえ」

 その隣で佐伯がまぶしいものでも見るような顔で言う。私よりは速かったとは言え、佐伯も決してタイムがよかったわけではない。

「残念ながら運動神経はブチ切れてるんだよね」

 あははと笑う呼吸はまだ少し荒い。

 運動が苦手なのも、やる気がないのも、どちらも本当のことだ。


 抱え込んだ膝の間に顔を埋めて、急に火照ってきた頬を日差しから遠ざけていると、背後で野太い歓声が上がった。反射的に振り返る。あまりよくはない動体視力でとらえたのは、体操着の残像の白と、あずき色のハーフパンツから伸びた真っ直ぐな足の褐色。蹴散らした土の煙の向こうでくすんだ運動靴が滑って止まった。

「大和―!」

「最速―!」

 トラックの反対側でやはり同じように五十メートルのタイムを計っている男子たちが、だみ声で叫んで手足を振り回す。呼ばれた彼はとはいえば遠目にも爽やかな笑顔を浮かべ、坊主頭の額に流れた汗を手の甲で拭いながら列の後ろへと向かう。一番でゴールしたのだろうそのタイムがどれほどのものだったかと言えば、足を止めた彼の後ろに駆け込んでくる同列の男子たちの姿をとらえるまでに一呼吸置いたことからわかる。

「大和くんてめっちゃ足速いんだねー」

 佐伯がほーっとため息交じりに漏らすと、藤原が少し得意げな顔で相槌を打つ。

「そりゃ入学早々いきなり野球部のレギュラー入りしちゃうくらいだし。来週から始まる甲子園予選だって、先輩たちごぼう抜きで出るらしいよ」

「しかも成績優秀! 五月の中間も先月の実力も総合一桁。教科によっちゃ学年一位もあったって話だし~。あと出身校、紫が丘学園の中等部なんでしょ~? 県下一の金持ち校じゃん。あー、なんでこんな庶民校に来たんだろ。こっちは大歓迎なんだけどさ」

「くわえてあの爽やかイケメンフェイス! あんな人間がそこらへんに存在するなんて思いもよりませんわ。見てみなよあの姿を。じゃがいも畑に咲いたひまわりじゃん」

「いや……じゃがいも畑にひまわりは植わってないでしょうよ……。言いたいことはわかるけどさ」

 ふーん。

「……あの人、大和くんて言うんだ」

 きゃいきゃいと盛り上がる二人の横で、独り言のつもりでつぶやいた言葉は、存外大きかったらしい。俊敏な動きで藤原に裾を掴まれるのと、こっちを向いた佐伯がかっと目を見開くのはあっという間のことだった。

「え!? なんなのあーおん! 今の発言の真意はなんなの!? 今なんて言ったの!? ねえねえねえねえ!?」

 藤原が佐伯の膝につっぷすほど大きく体を乗り出して、ぐいぐいと布地を引っ張りながら叫べば、佐伯は背筋の限界に挑戦するというように大きくのけぞって、「ひいぃい」とうめく。一体なんなのか。

「大和くんだよ! 大和くん! 寺迫 大和くん! D組の!」

 知らねーよ。

「てゆーか、あーおん、たしか数学と英語で同じクラスでしょ? 習熟度トップクラスって少ししかいないんだからさあ」

 ますますもって知らねーよ。

 これでもかというほど眉間にしわを寄せている藤原と、驚きを通り越して呆れたような佐伯にふるふると首を振ってみせる。

「知らん」

「「ひぎぃぃ」」

 しめられる寸前の家畜みたいな声を上げて二人は顔を見合わせた。

「ないわー。あーおん、それはないわー」

「あんな有名人をねー」

「まあ、ある意味あーおんも有名人だけどね」

 それっきり二人の関心は大和くんから完全にそれたようで、今度は先日終了したばかりの期末テストの内容について話し始めた。再び振り返ってみると、とっくに整列してしまったのか大和くんの姿はとっくに見えなくなっており、私ももう興味をなくして向き直った。

◆◆◆

「それで?」

 放課後。

 敷地の外れのそのまた外れ。図書館棟二階の最奥。夏の夕方でも薄暗い、窓一つない廊下をつきあたりまで進んだところにある一室。ペンキがはがれた古い木の扉にピンで留められた、黄ばんだコピー用紙に殴り書かれた文字は九つ。“悩み相談解決安心係”。


 その室内で、古びたパイプ椅子に腰を下ろして私は目の前の応接ソファーに座っている来客を見るともなしに見ていた。

「結局、なにごとなわけ?」

 隣の、これもまた古くてぼろい、応接ソファーであるというだけほんの少しましな椅子に背をあずけた馨先輩が、独り言のように無表情な声で言って、右手に持った紙パックの紅茶をジルルーとすする。

「んー。ゆーてこの件はウチもわりとどうでもいいんだけどね」

「だったらほっとけばいいじゃん」

「ほんとそれなんだけどさー」

 馨先輩のちょうど真向かいに座っている生徒会長が、先輩に負けないくらいやる気のない顔で相槌を打つ。

「お、おい、鈴ヶ森……」

 唐突に、その隣でそれまで黙り込んでいた坊主頭が、そのやりとりに不安げな顔をして口を開いた。

「あー、はい。わかってます。わかってます。これからちゃんとします」

 呼びかけられた会長――――――二年の鈴ヶ森先輩―――――――が、続きかけた言葉をさえぎって適当にうなずいてみせる。

「ちゃんとするのはワタシらなんだけど」

 あたりまえといえばあたりまえなのだが、馨先輩のその発言に自分も含まれていることに私はげんなりする。

「どうした道成寺」

「どうもいたしません。馨先輩」

 ズリュリュリュリュと紅茶を―――近所のコンビニに売っている、坊主頭からの献上品だ―――すすりあげて、先輩は紙パックを片手で握りつぶした。

「それでは最初からうかがいましょうか。よろしく、鈴ヶ森会長」

「お許し、有難く」

 そして鈴ヶ森生徒会長は、奇妙な、そしてほんの少しはた迷惑な話を始めた。

◆◆◆

 ことは三日前にさかのぼる。

 今学期最後の定期テストを終え、それぞれの教科の担当教師がすべての答案の採点を終えようとしていたその日、事件は発生した。


 放課後、一年の物理を担当している教師が東校舎三階の物理準備室で答案の採点をしていた時のことだったそうだ。その日、教師は前の夜から彼女との別れ話がこじれており、その時も携帯に彼女から着信が入ったのだそうだ。通話自体は手短に終わったのだが、教師はその間、ほんのわずかな時間だが準備室を離れてしまったのだという。

これについては、なぜその場で通話しなかったのかとか、場を離れなければよかったのにとか、つっこむことは多々あるのだが、本人だってそんなことはよくわかっているだろうからいちいち言及するのは野暮というものだろう。

とにかく、そうしてほんの少しの時間、物理準備室は無人になった。そうして教師が戻ってみると、事務机の上に広げられていた採点中の答案がまるまる一クラス分消失していたのだという。

◆◆◆

「まじすかー」

 よっこらせとパイプ椅子に座りなおしながら、私はつぶやいた。

「リアクション薄いな」

「まじすか!」

「やかましい」

「すんません」

 かくんと頭を下げる私を横目でチラリと見て、「そんで?」と馨先輩は話の続きをうながす。

「それがなんで生徒会長殿と野球部主将のおこしにつながるのです?」

 くるりと顔ごと向けられながらそう問いかけられて、会長の隣でずっと不安そうにしていた野球部主将―――三年の田中だか田代だかとにかく「た」がつく先輩―――はびくりと厚い肩を上下させた。

「意地悪い質問すんなあんたー。天下のそーあんにはそんなのとっくにお見通しでしょうよ」

 横から茶々を入れる会長を完全に無視して、「そんで?」と先輩は繰り返す。それに対し主将はまだ不安げな顔をしながらも、なにかを自分に言い聞かせるようにぎゅっと目を閉じて深呼吸をニ、三度繰り返すと、ゆっくり口を動かしはじめた。

「……………………昨日、うちの部の部員に打ち明けられたんだ。答案を盗んだのは……自分だって。最初は嘘だと思ったよ。意味不明な冗談だって。けど、答案がなくなったのは本当のことだって聞いて…………」

 一息にそう言ってしまうとうつむいた主将を見やって会長が補足する。

「ちなみに主将に答案がなくなったことガチだって教えたのはウチ。あと、わかってると思うけど答案がなくなったことはまだ生徒には伏せられてる。ウチみたいな特殊階級ならともかく、一般生徒がそんなこと知ってるはずない。関係者でもない限りね」

「じゃあもう問題解決じゃん。あいつが犯人です、で終了。ワタシらが出張っていく必要性なんて一グラムもないよ」

「ところがそうもいかないんだな~」

 はぁ、と会長は憂鬱そうな息を吐く。

「その犯人がちょっと頭おかしいっていうかイカれてるっていうかさ、どうやって自分が準備室から答案を持ち出したのか当ててみせろっていうんだよ。できなきゃ自分がやったって職員室に出頭するってさ。だからこのままだと週末からの甲子園予選、やばいわけ」

「ふーん」

「へー」

 私と馨先輩は同時に相槌を打った。

「おいおいおいおい」

 そっけないその口ぶりに、思わずというように主将が身を乗り出す。その顔色は、青ざめているとか血の気が引いているを通り越して死人のような土気色だ。こんがりと日焼けした肌が今は泥でも塗っているように見える。

「別にいーんじゃないの? 触法行為に手を染めてるならともかく、部員の一人がテストの答案盗んだくらいで、甲子園予選、出場停止にはならんでしょうよ」

 手首に連ねた銀色のブレスレットをしゃらしゃらと鳴らして、馨先輩が手を振る。

「だからー、話はそんなに単純じゃないわけよ~」

 会長が情けない声を出して追いすがるが、先輩は答えない。ただ、あの、面白いことを見つけた時特有の、チェシェ猫のような笑みを浮かべている。この数分足らずでおそらく先輩はもう何かにたどり着いたのだ。そしてそのうえでそれが引き起こすであろう事態を面白がっている。

 その横顔をジットリと見ながら遅れること考えをめぐらせていたその時、突然、私の脳内で小さな点と点がつながって絵が浮かび上がった。

「…………ん? んんん?」

 思わず声が漏れる。

 先輩、会長、主将。その場にいるほか三人の視線が一斉に私に集中した。

「続けて」

 馨先輩があごをしゃくってうながす。

「問題なのは答案が盗まれたことではないんですよね? 一番今主将さんが困ってるのは、その部員が答案を盗んだこと。そして、やばいのは、スキャンダルでチームが甲子園予選に出場できなくなるなんてことではなく、その部員単独が出場できなくなるかもしれないということ。…………つまりですよ、その人は部のエース級の選手なんじゃないですか?」

 人差し指を立てて、きゅーいーでー、と締めくくると、馨先輩がにたりと笑った。

「That’s right! さすが道成寺。ワタシの一番弟子」

 ぱちぱちぱちと指先だけを打ち合わせる拍手をして、「そんで?」とまた先輩はうながす。

「そこまで大事にする選手って誰なわけ?」

「…………あいつが出場できれば、一回戦突破どころか決勝まで、うまくいけば県代表にまでなれるかもしれないんだ……」

 苦しげに主将が言葉を絞り出す。マスカラでばさばさのまつげをゆっくりと上下させて」、先輩が軽く目を細めた。

「答案を盗んだのは…………一年D組、出席番号十八番、背番号七番、寺迫 大和、だ」

◆◆◆

「どうして彼は答案を盗んだんでしょうか」

 夏の夕暮れは遅く、西に傾いてはいるもののまだ昼のように明るい日差しを受けて、空中渡り廊下に敷き詰められたアスファルトブロックが鈍色に輝いている。その上をそろそろとつま先でひとつひとつ踏みしめて、先輩の後ろ一メートルを追いかけながら、私はふと疑問を口にした。

「あ、違いますね。正確には、どうして一クラス分だけの答案を盗んだんでしょうか」


 そう。どうして盗まれた答案は一クラス分だけだったのか。

 そもそもなぜ彼は答案を盗む必要があったのか。


 単純に考えれば、テストの出来栄えに自信がなくて採点結果が出るのが嫌だった、ということがまず思いつく。特に大和くんは成績上位の優等生らしいし、ひょっとしたらプライドの高い性格で、出来の悪い答案を採点されることを嫌ったのかもしれない。でも、だとしたら、犯人が絞り込まれてしまうのに一クラス分だけしか盗まなかった意味が通らない。それ以前に自分がやったなんて告白する必要性もない。


 ということは、彼の目的は答案ではなかったのではないか?


 そこまで考えたところで、思考過程をひととおり口に出すと、先輩が振り返らないまま「そうだろうね」と言った。視界の下で短く改造されたスカートがゆらゆら揺れている。

「そもそも採点結果がどうこうっていうなら、もっと早く、採点が始まる前か始まった直後くらいに答案に手出ししていなきゃ。答案がなくたって結果はデータ入力されてるかもっしれないのにさ。それを考えなくても、わざわざ答案を持ち去らなくたって、コーヒーをぶちまけるなりなんなりして汚せばいいじゃん。大和くん、だっけ? 聡明そうだし。話を聞いた感じ、そんなことに気づかないとは思えない。ってことは、答案を盗むこと自体は重大ではなかったし、答案を盗み出した手段自体も事前によく考えられたものではなく、急ごしらえだったのではないか」

 パステルブルーのサマーカーディガンの背中を追いかけながら、私は口を開く。

「「つまり」」

 異口同音につむがれた言葉は、息遣いまでもぴたりとシンクロした。そして、そのあとに続いた回答までも同一に。

 ◆◆◆

「失礼しゃーす」

「後ろに同じっす」

 生徒会長が一体どのように手をまわしたものか、静まり返った物理準備室のドアノブはたいした手ごたえもなくあっさりと回転した。それでもひそめた声でささやいて、あまり広くないと戸口を縦一列にのそのそ入る。

案の定、室内は無人だった。準備室といっても、もともと教師の私室として使われているわけではない。本当に、授業で使う教材や資料を置いているだけの部屋だから、当然と言えば当然なのだが。だからってあんまり不用心だとは思う。

「道成寺は、物理、得意なの?」

「いや。まったく」

目についた模型装置のほこりを指先でぬぐうと、指先が白く汚れた。

「こないだの実力、二十六点でした」

「赤点かよ」

「赤点じゃありませんよ! 定期テストはなんとか三十点ギリで取ってます!」

 本当にギリギリだけど。

 得意なものはとことん得意。苦手なものはとことん苦手。中庸という言葉は私の辞書にはない。


 さてさて。


 スカートの上から腰骨に両手をあてて、私はぐるりと室内を見回す。

「先輩。先生がここを空けた時間って、どれくらいでしたっけ?」

「五分ってとこかな」

「しかも大和くんは、その時間、野球部の練習中だったんですよね? その彼が、どうっしてその時ここで先生が採点をしていることを知ったのか? どうやって持ち出した答案を隠すことができたのか?」

「彼がここに至ったルート自体は簡単だけどね。ここは廊下のちょうど真ん中にある。先生が電話してたのは北端の階段。わずかな時間の間に南端の階段を駆け上って、また駆け降りることは野球部なら簡単だったと思う」

 先輩はこちらに背を向けて窓の方を見ている。

 年月にすり切れた木枠は茶色くくすみ、ほこりが張り付いたガラスは白くくもっている。窓枠の側に、真新しい筆跡で“割れもの注意”と書かれた紙が貼られたビニール袋がひとつ。

 ごちゃごちゃと様々なものがつめこまれた室内は狭苦しく、掃除当番がさぼっているのか全体的にほこりっぽい。事務机の下に押し込まれている古紙回収ボックスなんて、限界まで詰め込まれた紙が不安定なタワーを形成し、いまにも崩れ落ちそうだ。

 先輩の横に体を押し込むようにして窓の外を見やる。窓のすぐ下はグラウンドで、きつい西日に照らされながら野球部が大声を出して練習に励んでいる。視力の悪い私の目では判別できないが、あの中に大和くんもいるのかもしれない。褐色に日焼けした横顔と真っ白なユニフォームのコントラストがまぶしかった。


 

 ・大和くんが答案を盗んだ目的は何か?

 ・部活中だったはずの彼はなぜここで採点が行われていることを知りえたか?

 ・どうやって答案を持ち出したのか?

 ・持ち出した答案を一時的にどこに隠したのか?


 窓の外をぼんやり見ながら、私はひたすら考える。考えて、考えて、考えていく。

 

 そしてそれは、テスト中にわからない問題の答えを思い出した時のように唐突に訪れた。


「先輩」

「なに」

 横顔で先輩は返事をした。長いつけまつげがふわりとまたたくと、光の中でほこりがきらきら輝く。私も窓の外を見たまま、自分が整理した四つの論点をひとりごとのように話した。そうして、言った。


「本当に答案を盗んだのは、先輩ですね」


 間髪を入れず、ためらいもなく、よどみなく、答えが返る。


「そうだよ?」


 カラコンで飾った魚の目がまたたく。

 ああ。

なんだかとても家に帰りたい気分だった。

◆◆◆

 答案紛失事件から一週間後の放課後。


 そーあんに割り当てられた一室で、相変わらず粗大ゴミと大差ないソファーに腰かけて、私は先輩と向き合っていた。互いの膝の間にある小さな応接テーブルの上には、ワンセグで甲子園県予選の様子を中継しているスマホが置いてある。今対戦しているのはまさにわが校で、対戦相手は近所の工業高校。さほど強い学校というわけではないが、まだ二回裏にも関わらずすでに八点もとられており、おそらくこのままコールド負けだろう。そしてたまに映るボードに記された出場メンバーの中に大和くんの名前はなかった。


「結局、大和くんの目的は、主将にダメージを与えることだったのですね」

「そう」

 肯定なのか相槌なのか。

 短くうなずいて先輩は爪を磨いている。

「ただし、自分にも何らかのダメージを与える形で」

「そう」

 かくんと首が揺れる。リングのピアスが振れる。


「あの子、大和くん。大和くんからそーあんであるワタシへの依頼は、今ある事態をどうにかすること。主将に考えられる限りの大ダメージを与えつつ、自分も身を切るような事態を引き起こしてほしいということ。でもまあ、ワタシがしたことなんて本当に微々たることなんだけどね」



 すべては先輩の掌の上だったということだ。

 そーあんの仕事はなにも問題を解き明かすことには限らない。逆に問題を作って誰かを手助けすることにもあるのだ。そして大和くんは先輩に相談した。どんな悩みも困りごとも解決してくれるという、噂のそーあんに。単に私が知らなかっただけで、話はそこから始まっていたのだ。


 少し昔の話をしよう。

ある中学の野球部に、将来を期待された新入生ピッチャーがいた。彼は大変優れた選手だったが、周りはそうではなかった。それでも健気に、彼はチームを栄光に導こうと練習や試合で活躍し、いつしか周囲もそんな彼に大きく頼るようになっていった。しかし、大きすぎる期待は時に人を潰す。結果、一人で無茶を重ねた彼は中学一年にして肩を壊し、二度と野球ができなくなってしまった。


そして、その彼に無茶を強いた中心人物であった野球部の先輩こそ、この高校の今年の野球部主将であり、今年偶然にもこの学校の野球部に進んだ一年生の中の一人が彼の小学校時代の親友にしてチームメイト、大和くんだった。ただ、これがただの復讐譚でなかったのは、主役となるところの大和くんが、ある意味では誠実で、ある意味では生真面目で、ある意味では自分に厳格だったというところだ。

主将が親友をニ度と野球ができない状態に追い込んだ主犯であると知った大和くんは、どうにかして主将に絶望を味あわせたいと考えた。しかし、一高校生ができることなどたかが知れている。そこで彼は、手近かつ因縁の深い野球を手段にすることを考えた。だが同時に、彼は、親友が野球部で無茶をさせられていることを知りながら何もできなかった自分を強く後悔していた。そこで彼は、そんな自分にも復讐はなされるべきだと考えた。そして、一見めちゃくちゃなそんな彼の望みを叶える策を立てたのが、馨先輩だった。



 はじまりはただの偶然だった。

 その日、ある先輩部員が練習中に打ち上げたボールが、物理準備室の開いていた窓から室内に飛び込んだ。そのボールを取りに行かされたのが、たまたま側にいた大和くんだった。有望選手とはいえ、一年生には変わりない。雑用だってすることはある。

教師に見つかることを恐れた彼は素早く階段を駆け上がり、開いていた扉から準備室に入った。そしてそこで彼は答案を見つけてしまう。その時彼の内心にどんな葛藤があったかは知らない。ともかく、そのわずかな時間で彼は答案を盗む決断をし、実行した。


その時点では彼には何も考えはなかったのだろう。せいぜい、主将が困ればいいくらいのことで。しかし、自分がしたことの引き返せなさに気づいてしまった彼は、藁にも縋る思いで、不可能を可能にするというそーあんを、馨先輩を訪れたのだ。


馨先輩が彼に授けた策は、たったひとつ。


何もするな。

ただ、自分が盗んだと主将に告白しろ。

盗んだのは自分だ。そして、その方法を推理できなければ職員室に出頭すると。


本当にそれだけ。


あの日、大和くんは、自分の答案だけを抜き取った。そして、その一枚で窓際に落ちていた野球ボールを包んで、グラウンドのボールかごめがけて力いっぱいぶん投げた。野球部のエースである彼のコントロール力ならそのくらい簡単だっただろう。そうして答案が一枚なくなった。残りの答案は、事務机の下の古紙回収ボックスの束の中に裏返して混ぜた。こうして答案がすべてなくなった。

彼が準備室に入った方法、というか理由に気づいたのは、窓際に置かれていた割れもの入りのゴミ袋を見た時だ。おそらく、ボールが飛び込んできた時にぶつかって壊れたのだろう。


だが、その後彼には残りの答案を回収する機会がなかった。準備室にはいつも鍵がかかっていたからだ。答案を回収するには準備室に再び入る必要がある。そこで先輩は彼に助言したのだ。主将に告白しろと。

指示したように主将に告白すれば、ほぼ間違いなくめぐりめぐって話はそーあんに回ってくる。その程度にはそーあんは校内で信頼を得ている。そうなれば室内に入るチャンスも生まれるし、あとはその時に先輩が残りの答案を回収すればいい。そうして、わからなかったと知らんぷりすれば大和くんは職員室に出頭できる。

万が一話がそーあんに来なくても、事態が発覚すれば当然大和くんは大会に出場できなくて野球部はぼろ負けするだろうし、主将の心理的ダメージは変わらない。


はじめから、どう転ぼうが終わりはひとつだったのだ。


「物理の再テスト、前より問題が簡単だといいんですけどね」

 この一週間、校内はテスト盗難事件でもちきりだった。そしてその犯人が大和くんであるということも。なぜそのようなことになったのか、彼は頑として語らず、答えを知るのは私と馨先輩だけのまま、真実から遠い薄汚れた噂は流れ続けている。


 彼が本当は何を望んでそんな道を自ら選んだのか。

 今、噂の渦中で何を考えているのか。

 本当にこれでよかったのか。


 そんな感傷たちに耳をふさいで、目を閉じて、口を縫って。

私はここにいる。


「物理、教えよっか。ワタシ、得意だよ」

 スマホの画面の中で歓声が上がる。また対戦相手に点が入ったらしい。

「なんか裏がありそうだからヤです」

 じるるるると紙パックのジュースをすすって私は首を振った。

「これでも道成寺には悪いと思ってるんだよ。二パーセントくらいは。今回のことがなければ再テストにはならなかったわけだしね」

「まったくですよ。せっかく期末が終わったと思ってたのに。まあでも、再テストの方が点数高いかもしれないですしね」

「それはないと思う」

 無言で私は口を尖らせた。


 スマホの向こうの小さな青空。

その景色を背に、無慈悲な実況の声がグラウンドに響く。

三点追加。


 ああ。彼らの夏が、死んでいく。

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