激突!暴走族vsがしゃどくろ(前編)


 エイルとアイルはミクト村に住む姉妹である。

 姉のエイルは弓を取れば百射百中の腕前で、妹のアイルは薬草やキノコを探せば誰よりも早く背負い籠を一杯にした。

 2人とも母親ゆずりのはちみつ色の髪と目をしていて、目鼻立も母親似であったので、父はたびたび「もう少し俺に似てくれてもよかったのになぁ」などとぼやいていたが、特に標的を狙う時のエイルの険しくも凛々しい目つきなどは、工場で真っ赤に焼けた鉄を一心不乱に打つ父の目とそっくりだった。


 この日、いつものように狩りへと出かけた姉妹が、もう間もなく日が暮れるという時刻になっても森に留まっているのは、いくつかの理由がある。


 1つには、その日の森は奇妙なほど獲物が少なかった。普段なら朝に森へ入り、昼には兎や子鹿の2、3匹は獲れるものが、夕方近くになっても獲物の影すら見えなかった。

 2つ目は、そんな時に若いカモシカが森の奥へ走って行くのを見かけた事。

 3つ目は、今日が彼女たちの母の誕生日であった事だ。希少で美味なカモシカは家族みんなの好物でもあった。祝いの品として、まず最適といえる獲物である。


 エイルは追う決断を下した。とはいえ、日が沈む前には村に帰らなければならない。さもなければエイルたちは狩人ではなく、闇から這い出した悪霊どもによって狩られる立場へと回る事になる。


 アイルに先に村へ帰っているように言うと、妹は首を振って「わたしも手伝う」と言ってきた。確かにカモシカのような大物を1人で運ぶのは骨が折れるし、1人より2人の方が早くて楽なのは自明だ。

 逡巡の末に、エイルが折れる事にした。要は深追いして森の中で日没を迎える事さえ避ければよいと、そう考えたのだ。妹の真剣なまなざしも、その決断を後押しした。


 それが4つ目の要因だった。今にして思えばなんと甘い考えだったのだろうと、エイルは心の底から後悔していた。

 幼い頃から自分の庭のように駆け回り、隅から隅まで知り尽くした森といえど、夜になれば突然別の世界に変貌するという事は、村の大人たちから口を酸っぱくして言われていたというのに。


「おねえちゃん」

「大丈夫。私の後ろについて、離れないで」


 エイルは弓に矢をつがえながら、極力小さな声で言った。

 アイルの手がジャケットの裾をきゅっと掴んでいる。妹は小さな頃から、不安な時はいつもこうしてエイルの後ろに隠れていた。

 アイルの体温を背中に感じながら、エイルは木陰からわずかに顔を覗かせて様子をうかがう。視線の先には、さっき仕留めたカモシカが横たわっている筈だが、今はその姿を確認できない。


 カモシカの死体には、5、6体の薄墨色をした影が群がっていた。

 くちゃくちゃ、ぺきぱきといった肉や骨を咀嚼する音、それに水音が混じったような唸り声がひっきりなしに聞こえてくる。


 影は、太陽の下に暮らす生き物とは大きく異なる姿をしていた。

 顔は老人のようだが、口元が大きく裂け、狼のような牙が並んでいる。耳先も尖っていて、人と犬の中間のような形だ。

 しわだらけのやせ細った上半身もやはり老人めいて精気がなく、下半身のあるべき位置には腰から蛇のように伸びた脊椎があるのみ。

 そうした醜怪な化け物が、カモシカをむさぼり喰っている一団を除いても、そこら中を数十匹は漂っている。


 夜の森に潜む異形の中でもっとも数が多いとされるその悪霊を、村では幽狼ワーグと呼んでいた。

 通常、夜を迎えると同時にどこからか湧き出てきて、森を徘徊する迂闊な獲物を集団で襲う低級霊である。悪霊の中では格の低い存在とはいえ、飢えた狼の群れと同程度の危険性はある。

 

 エイルは頬を伝う汗を肩口でぬぐい、ちらりと空を見た。

 直接には見えないが、地平に半分ほど身を隠しただろう太陽が、ちぎれ雲を茜色に染めている。


 それは不可解な事態だった。悪霊どもは例外なく太陽を嫌う。創世の折、強大な力に驕って地上を思うがままに支配していた傲慢が神の怒りに触れ、彼らは太陽の下から追放されたのだ――と、村の司祭様が言っていた。


 それが事実であるのか、単なる伝説なのかはエイルには分からない。

 確かな事は、エイルの17年の人生で、日が出ている内に悪霊を目にしたのは、今この時が初めてだという一点だ。


 理由は分からないが、森に何か異常な事が起こっているのだと考えざるを得なかった。


「アイル。私について、ゆっくり動くよ。籠は置いていきな」

「……うん、わかった」


 幽狼たちがこちらに気づいている様子はない。カモシカに気を取られているのだろう。この場から脱出する機は、今をおいてない。


 アイルは背負った籠を名残惜しそうに見やり、それから静かにその場に置いた。大きな籠は音を立てずに移動するには邪魔になり過ぎる。母への手土産は無くなるが、命の方がよほど大事だ。

 

 木の影に隠れながら、そろりそろりと抜き足で動く。

 空中を回遊する幽狼の視界から逃れる為、神経を削りながら死角から死角へと移動する。エイルは自分が握る妹の小さな掌が、じっとりと濡れているのが分かった。


「大丈夫――大丈夫。気付かれてない、このまま……」


 アイルを励ます為の言葉は、最後まで言い切る前に喉の奥へ引っ込んだ。

 妹が枯れ木か何かを踏み折って、その音を聞き付けたのかと思った。

 幽狼たちが一斉に短い金切り声を上げ、姉妹のいる方角へと移動を始めたのだ。アイルは思わず漏れそうになった悲鳴を左手で抑え、エイルは妹の右手を引いて抱き止めると、一際大きな樹木に背中を預けた。判断を迫られていた。


 もし幽狼がエイルとアイルに気づいて、その柔らかい肉に噛り付こうと追ってきているなら、この場で戦わなくてはならない。走って逃げても、村に着くまでに追い付かれるだろう。妹を連れていては尚更だ。


 それはほとんど絶望的な状況である。数十匹もの幽狼に対し、エイルの矢筒には20本程度の矢しか入っていない。司祭によって祝福が施された矢じりを用いている為、幽体にも効果はあるが、すべて一撃で仕留めたとしても足りないのではないか。その上、アイルを守りながら戦わなければならないのだ。


 一方、もし彼らが別の要因によってこの場を離れようとしているなら、このままやり過ごせるかもしれない。というより、姉妹が揃って生き残る可能性は、もうそこにしか残されていないように思えた。


 エイルは妹を抱く手に力を込め、自分と同じはちみつ色の髪に鼻先をうずめた。アイルはすべてを委ねるように、姉の手を爪が白くなるほど握りしめた。


 姉妹が身を預ける巨木のすぐ横を、おぞましい叫び声をあげながら幽狼たちが飛び交う。その内の一匹にでも見つかれば、群れはいなごのように姉妹に喰い尽くすだろう。早まる鼓動をなだめるように、深く静かな呼吸を繰り返す。

 

「おねえ――おねえ、ちゃん」


 何を思ったのか、妹が喋り出すので、エイルは慌てて口を塞いだ。

 彼女はそれでも何かを伝えようと、姉の手を口から離そうとする。幽狼はまだ飛び去っていない。

 仕方なく、エイルは妹に覆いかぶさるようにして、その口元に耳を近づけた。より密着した事で伝わってくるアイルの震えが、先ほどよりも大きくなっているような気がした。


「ちがう――わたしたちを探してるんじゃない」

「……え?」


 アイルの小声は恐れに満ちていた。それは、この状況よりも更に悪い何かを予感させるのに十分な、どうしようもない不吉さを孕んでいた。


 骨肉を咀嚼するのではない、何かもっと大きな、めきめき、ばきばきといった音が聞こえてくる。地鳴りのような音も。これはいつから鳴っていたものだったか。


「……あれ、逃げてるんだ」

「逃げてる……って、」


 何から――という問いは、発される事なく消えた。答えの方が先にやってきた。


 その音は遠雷にも似ていた。

 それは無数の生木が引き裂かれる轟きであり、膨大な質量が木々もろとも大地を踏みしめる響きであった。

 それが一体何であるのか、姉妹にはもう分かっていた。このような音を出す存在は、この森において一つしかない。

 それでも見ずには居られない。その目で確かめずには居られない。そうしなければ、恐ろしさで気が触れてしまいそうだった。

 だから、姉妹は同時に木陰からそれを見た。


 夕日はもうほとんど沈みかけている。茜から紺、紫色へと変わっていく空の色を投影するかのように、本来白いその巨体も夕日の色を身に映していた。


 それは巨大な人骨だった。肉も筋も付いていない、綺麗な人体骨格。いかにしてか、その骸骨は動いていた。四つん這いで、緩慢に歩を進めていた。

 それはゆっくりと……しかしその巨大さ故に、相対としては迅速に……姉妹の方へと向かってくる。


「がしゃどくろ」


 アイルは呆然とその名を口にした。森の奥地に眠る、伝説の大妖。数多の勇者が挑み、その悉くが敗北を喫したという、夜の森の主。その巨体は森で最大の生物である大鹿エルクの、かるく10倍はあろうか。


 あまりにも非現実的な光景を前に、エイルは逆に冷静さを取り戻していた。何故今がしゃどくろが――それも日没前にもかかわらず――動き出したのか、そんな事は村に帰って考えればいい事だ。

 今すべきは、一刻も早くこの森を脱出する事だと、そう結論付けた。

 隠れてやり過ごすには、もう時間がなかった。日が完全に没すれば危険は飛躍的に増す。まして異常だらけの今日の森では。


「アイル、立てる!?おねえちゃんに付いてきてきて、今度は走るよ!」

「う、うん」


 返事を聞くが早いか、エイルは妹の手を引き、脱兎のごとく駈け出した。

 がしゃどくろに視覚が備わっているのかどうかは分からない。両目はぽっかりと穴が空いていて、普通なら見えている筈はないが、怪異を常識で語るほど愚かな事もない。

 よって、エイルは極力木々の影や茂みの中を選び、逃げた。後ろを振り返らずとも、地響きによってどんどん迫ってきているのが分かった。

 

 一際背の高い、等間隔に連なった4本の杉の下を通り過ぎる。

 コウモリが沢山住んでいる、大きな洞穴の横を通り過ぎる。

 双こぶに並んだ、象の背のような巨岩の脇を通り過ぎる。

 そして見えた。村へと繋がる、結界の谷の入り口だ。

 地響きは、もうすぐ後ろにまで迫っているようだった。 


「頑張って、もう少し――」


 息の上がったアイルを励まし、視線を前へ戻した瞬間だった。木と木の間から、幽狼が飛び出してきた。

 それは姉妹の姿を認めた瞬間、ぎィ――と、出来損ないの弦楽器のような声をあげようとした。


 咄嗟の判断としては、エイルは絶妙の動きを見せたと言えた。妹の手を離し、矢筒から矢を抜き、弓につがうと同時に後ろへ跳んだ。

 仰向けに倒れ込みながら放たれた矢は幽狼のあぎとを穿ち、樹木の表皮に縫い付けた。化け物は溺れるようなごく短い断末魔の後に、ごぼごぼと黒い泥のようなものを噴出しながら動きを止めた。


「おねえちゃん!」


 アイルが駆け寄ってくる。大丈夫だと言おうとしたが、実際に口にする事はできなかった。

 代わりに渾身の力を込めて、妹の腹を蹴り飛ばした。足の裏で突き飛ばすように、できるだけ遠くへ離れるように。

 

 そうしなければ2人ともが、頭上から降ってくる隙間だらけの白い手に捕まっていただろう。

 骨の掌はエイルを押さえつけたまま、土や木の根ごと彼女を握りしめ、遥か上空へ持ち去った。


 エイルの体はものすごい勢いで上昇し、そしてすぐに止まった。

 彼方に見える太陽は、もうほとんど沈みかけている。冷たい風が汗の浮いた額や頬を撫でていく。知らない動物の吠える声が聞こえる。

 夜が始まる。


 がしゃどくろは四つん這いのまま、右手に掴んだエイルを眼球のない目でまじまじと見ているようだった。眼窩はあまりにも真っ黒で、底がないようにすら思える。

 

「おねえちゃん!おねえちゃん!いやっ、いやあっ!おねえちゃん!!」


 森の中からアイルの声がする。

エイルは懸命に身をよじり、自由になっている両手で丸太程もある指の骨を叩いたり、体を引き抜こうとしたりしてどうにか拘束から逃れようとするが、髪の毛一本分の隙間も空く事はない。


「アイル!アイルッ!逃げて、今すぐ逃げなさい!早くッ!」


 エイルは喉が張り裂けるほどに叫んだが、果たしてアイルが言葉の通りに逃げてくれるだろうか。あの優しい子が、自分を見捨てて逃げる事ができるだろうか。

 もしアイルが姉の命を慮って逃亡を躊躇すれば、姉妹揃ってこのバカげた骨の塊に殺される運命は避けられない。


「(ふざけるな)」


 何故がしゃどくろが自分の体を握りしめたまま、様子をうかがうように止まっているのか。そもそも何故さっさと握り潰してしまわないのか。人間が小虫を捻り殺すように、それはいかにも簡単な事であるだろうに。

 

 エイルにはおおよそ見当が付いていた。いつか司祭様が言っていたのだ。

 高位の悪霊や化け物には、人の恐怖を糧とするものが少なくないのだという。だからそうした存在の多くは、できる限り人間を怖がらせ、苦痛を味わわせて、恐怖という感情を一滴まで絞り尽くすのだと。


「(ふざけるな)」


 絶対の死を前にして、思考が高速で回り続けている。

 そもそも、あの幽狼だ。日没前だというのに群れで現れ、がしゃどくろに驚いて飛び去ったと思ったら、一匹だけで引き返してきた。動きが理屈に合わない。

 その割を今、アイルが食っている。なんという理不尽。なんという不条理。


「(ふざけるな)」


 腹の底から、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じていた。

 それは人の尊厳を踏みにじる怪異に対する怒りだ。罪の無い妹を巻き添えにし、母の誕生日に死なねばならない、無慈悲な運命に対する怒りだ。


 死の恐怖すらも吹き飛ばす程の怒りの塊だ。

 

「ふざけるなぁッ!!」


 憤怒は言葉となって喉を突き、闇に飲まれていく森へと響き渡った。

 それは一時命を掴まれている恐怖を忘れさせ、エイルを誇りある狩人に立ち返らせた。

 

 弓は折れていなかった。矢筒をまさぐると、指先に慣れた手触りがあった。

 父が手ずから加工し、司祭様の祝福を受けた、銀の矢じりを嵌めた矢。

 これで倒せるとは思っていない。どうあっても死の運命は避けられない。

 だが、せめて一矢。

 一矢を報いて己の尊厳を証明したかった。人の、信仰の力を示したかった。


 矢を取り、弓につがえ、構える。虚無の両眼の間、眉間に狙いを付ける。

 標的を見据える険しくも凛々しいその目は、彼女の父によく似ていた。

 そうして渾身の一射が放たれた。


 銀の矢は狙い過たず、がしゃどくろの眉間を打ち――重力に従い、ぽろりと落ちた。

 跡には、よくよく目を凝らしてやっと見える程度の凹みが残った。

 エイルの誇りと尊厳と、信仰と絆を乗せた一矢の残した結果は、ただそれだけだった。


「……あ」


 そして一時の狂熱によって抑えつけられていた恐怖は、その重さを倍にして折れた心にのしかかってきた。

 暗黒に満ちたがしゃどくろの目の奥に、感情の揺らぎを見たような気がした。それは身の程を知らず、哀れにも抵抗を示した矮小な獲物に対する、侮蔑と嘲笑の念だ。


「ああ、あ……あ、いや……いや、いや……!」


 ひび割れた心の底から、間欠泉のように抑えていた感情が噴き出す。


 できる限り人間を怖がらせ、苦痛を味わわせて、恐怖という感情を一滴まで絞り尽くす。

 この大妖は、初めからそれを求めていたのだろう。獲物をなぶり、追い詰め、抵抗させ、それすらも無駄と悟らせる。その時生まれる恐怖と絶望を舐り尽くす為に。

 

 がしゃどくろの顎ががばりと開いた。歯の一本一本が、エイルの頭よりも大きい。


「は、ひ……い、いやだ、やだよぉ、こっ、こんな……こんな死に方……死にたくない、誰か、誰か……!」


 体は麻痺したように動かない。エイルは絶望の中、誰も聞く事のない命乞いを繰り返した。


 あの巨大な歯で、断頭台めいて一息に噛み砕かれるのだろうか。それとも圧搾機にかけられたオリーブのように、じわじわとすり潰されるのだろうか。


 エイルの上半身は、もうがしゃどくろの口内に収まっていた。

 涙で霞んだ夕陽が、馬の胴よりも太い脊椎の陰から滲んでいた。それはこの世で見る最後の光景としては、皮肉が過ぎるほどに美しかった。

 最早エイルに残された自由は、死の瞬間までその景色を目に焼き付けるか、瞳を閉じて死に備えるかの選択権のみだった。


 彼女は強く目を瞑った。溢れ出した涙が両頬を濡らす。今生に味わう、最後の感覚。


 どん、という衝撃があった。想像していたよりもずっと大きな、頭の芯まで痺れるような振動と破壊音。

 そう、破壊音だ。エイルは己の耳でそれを聞いた。がしゃどくろの顎がエイルの頭部を噛み砕いた音ではない。


 視界が反転する。

 気付けばエイルは、空を見上げながら落下していた。あれ程堅固に拘束していた骨の手は、まったく力が抜けたようにだらりとした形で、エイルと共に地上へと落ちていく。


 頭と胴がいまだ繋がっている事に喜びを抱く余裕もなく、叫び声を上げる暇もなく、一切状況を理解できぬまま、エイルの体は骨の手諸共、緑の波の下へと吸い込まれていった。

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