ボタンとの戦い方

 私から時計回りに、ヘイリーさん、剣崎さん、そして牡丹が机をふたつにくっつけて作った四角を囲っている。四つの辺のひとつにひとりがそれぞれ着席している構図は、ポーカー用テーブルクロスの代わりに置かれた麻雀マットの存在も相まって麻雀を連想させた。

 デッキのシャッフルも終わり、あとは私がカードを配るだけだったが、そこで牡丹が「あ、たまちゃん。ひとついい?」と聞いてきた。先ほどまでの燃えあがっていた姿が一瞬でリセットされる変わりっぷりだったが、牡丹の場合はそれも驚くに値しない。すっかりいつもどおりの牡丹に私もいつもの調子で「どうかしたか?」と返した。


「あのね、くるみちゃんはまだポーカー初心者だよね。だから――”アレ”を。ね?」


「なんだよ? ”アレ”って……あっ」


 ……なるほど、"アレ"か。

 私はポケットからスマホを取り出し言った。「剣崎さん、LINEの連絡先、交換してもいいかな?」


「……信用してもいいんですよね?」


 牡丹に一度、振り回された剣崎さんの態度は予想外に冷ややかだった。私と剣崎さんのやり取りを横で見ていたヘイリーさんに「コダマさん……もしかしてクルミに、なにかひどいこと、したんですか?」と言われた。「えっ? 違っ――」。とんでもない誤解だ。「たまちゃん、何かしちゃったの?」。牡丹までもがそんなことを言う。


「違うから! 私じゃないから! というか何かしちゃったのは牡丹、おまえだ!」


♥♦♠♣


 ひと悶着あったが、無事に連絡先を入手した私は、PDFファイルをひとつ剣崎さんに送信した。


「菱沼さんが送ってきたファイル……これはなんの図ですか?」


 スマホを注視する剣崎さんに、牡丹が椅子から腰を浮かせ、画面を一緒に見ながら答える。「それはねー、<スターティングハンド表>だよー。それを見ればそのポジションからどうプレイすればいいのかわかるの!」


 牡丹が”アレ”と指したもの。それはスターティングハンド表だった。

 テキサスホールデムは二枚のカードを手札として扱うゲームだが、そのハンドの組み合わせは1326通りに及ぶ(計算するには、五十二枚のカードで構成されるデッキから二枚を選ぶ組み合わせの数を数学Aの<組み合わせの数の公式>で導き出せばいい)。その中で、同じ数字のポケットペア、スーテッド、オフスーテッドの組み合わせは強さについて考慮する上で同じカードとして扱えるので実質的な組み合わせは169通りだ。その169通りのハンドのプリフロップでの各ポジションごとに推奨されるアクションを記したもの――それがスターティングハンド表だ。

 表はあくまでも目安であり絶対の指針ではないが、それでもハンドの強さの判別が難しい初心者にとってこれほど重要なものはない。表を参考にすれば多くのプレイヤーが陥りがちなミス――多くのハンドをプレイしすぎてしまうこと――からプレイヤーを守ってくれる。

 牡丹が表の説明を終えたようだった。

「それじゃ、初めてもいいか?」私が確認した。

「オッケーだよー」牡丹がサムズアップする。

「私も、もう大丈夫です」剣崎さんがスマホから目を離し私を見て言う。

「わたしも、いつでも、へいきです」席を離れ一緒にスマホを覗いていたヘイリーさんも自分の席に腰を落とした。


「よし。ゲーム開始だ」


 カードを一枚づつ時計回りに配る。カードが弧を描いて二周する。


♥♦♠♣


 あれからだいたい10ハンドほどがプレイされた。これまでの所感を述べると、スターティングハンド表を見ながらプレイしている剣崎さんは標準的なハンドの参加率をキープしていた。どんなプレイをするだろうかと思われたヘイリーさんも同様にタイトなプリフロップのアクションをこなしている。基本はこなせるようだった。問題は――


「牡丹さん、参加しすぎじゃないですか?」


 剣崎さんにスターティングハンド表の存在を教えた牡丹本人が一番ハンドの参加率が多いことだ。レイズインも多いがリンプイン(ブラインドに対してコールで参加すること)さえする。教科書的なプレイからはおよそ離れたプレイングだった。そしていま、牡丹の総チップ量は約$2,500で私たちをリードしていた。


「ふふふ。わたしのことをポーカー界のフィル・アイビーと呼んでくれていいんだよ」


 いやフィル・アイビー、ポーカー界の人だし。ていうかフィル・アイビー好きすぎだろ。

 ようするに、牡丹のプレイスタイルは彼やトム・ドワンのようなルーズアグッシブプレイヤーのだった。ところで……。


「どっちかというとフィル・アイビーというよりフィル・ヘルミュスじゃないか? サングラスしてるし」


「…………」


 牡丹が無言でサングラスを外すとそれを丁寧にたたんでブレザーの内ポケットにしまった。


「なんでだよ! フィル・ヘルミュスもいいプレイヤーだろ!」


「そこはせめてフィル・ラークさんでお願いしたかったよ……レイズメイク$60!」


 くっ。ボタンのポジションにいる牡丹からまたしてもレイズが飛んできた。カードをめくってハンドを確認する。6♠5♠。スーテッドコネクターだ。どうする? 牡丹は明らかに多くのハンドをプレイしてきている。このレイズはおそらくブラインドスチール(ボタンのような良いポジションからブラインドのチップを奪うために弱いハンドでするレイズのこと)だ。それなら――


「レイズメイク――$180」


 このようなハンドでレイズを返すのはいつでも勇気がいる。だがアグレッシブなプレイで好調な牡丹をこのまま勢いづかせるのはまずい。このあたりで反撃にでる必要があった。

 ビッグブラインドのヘイリーさんはハンドをフォールドした。


「ふうん。リレイズかぁ……」


 そうつぶやく牡丹の顔はいつになく真剣だ。私の表情の読み取ろうと視線がこちらに向いている。私は内心を悟られまいと無表情をつらぬく。降りろ牡丹。どうせいいハンドじゃないんだろう?


「コールするよ。たまちゃん」


 嫌な展開だ。

 デッキを持っている私がフロップを開く。K♣9♠8♣。

 頼みのフロップはガットショットストレートドローのアウツが4枚あるだけのブタノーハンドだった。

 再び岐路に立たされる――ベットか? チェックか?

 強いハンドを持っていない私はこのポットにこれ以上のチップを投資したくない。しかし、ここでチェックをして牡丹がベットすれば私はもうこのハンドをあきらめるしかない。牡丹がチェックバックで合わせてくることを期待するか? ターンでストレートのアウツをキャッチすることを祈って……。

 ……決めた。

 私は覚悟し、鼻で静かに長く息を吸った。本当は口で大きく深呼吸したかったが、それはできない。これはポーカーだ。勝負のヒントになるものは言葉ひとつ、表情筋の1ミリだって与えない。


「ベット。$250」


 私が選択したアクションはベットだった。

 私はプリフロップで牡丹にリレイズしたことでより強いハンドを持っていることを主張している。そこでもう一度、フロップでベットすることで強さを主張する――コンティニュエーションベットをした。


「コール」


 牡丹がコールした。わかってるよ牡丹。牡丹ならこのボードで多くのハンドの範囲レンジで一回はコールしてくるだろう。だが――


「ベット。$600」


 ターンで2♠を確認して私は二発目の弾丸を撃ち込んだ。

 フロップで牡丹がコールするようなハンドレンジ―ミドルのワンペアやフラッシュドロー、ストレートドロー―に対してこのターンカードは役に立っていない。さらにもう一度ベットすることで牡丹がフォールドすることに賭けた。ターンカードでスペードが落ちたことによって私にフラッシュドローができたのは幸運だったが、いずれにせよターンカードで低い数字のカードがでればベットするつもりだった。

 私はすでにポットにスタックの半分近くを投資している。かつて、ポーカープレイヤーのトム・マクエボイは”ノーリミットホールデムは退屈な時間の後に真の恐怖の瞬間が続く”と言った。さっきまでだれもが小さなポットのやり取りしかしていなかったというのにいま、私は地獄に片足を突っ込んでいる。もし牡丹がここでもコールしてくるということがあれば、私はリバーでブラフオールインして、一番最初に退場――そんなシナリオだってみえている。

 静まり返ったテーブルで私の心臓だけが激しく自己主張した。

 どうする、牡丹? おまえは確かにルーズなプレイヤーだ。だけど、薄い勝ちの可能性を追ってどんなハンドでもコールし続けてくるようなコール屋コーリングステーションなんかじゃ決してない。勝算がないと踏めばきっちりとハンドを捨ててくる。そうだろ?

 牡丹がボードとしている。その時間が妙に長く感じた。


「――今回は私の負けだね。フォールドするよ」


 先に笑ったのは牡丹だった。

 私はほっと一息つきたかったが、安堵は態度に表さず、心の中にしまっておいた。


「どんなハンドを持っていたんですか?」


 勝負のいくすえを見守っていた剣崎さんが尋ねてきた。


「んー、今回はみんなもいることだし、特別にサービスしちゃう!」牡丹がカードを表にしてA♣とT♣を見せる。プリフロップでのルーズなイメージに対してずっといいハンドを持っていた。あるいは、だからこそ見せたのだろうか?

「菱沼さんはどうでしたか?」剣崎さんの質問は私に移った。


「それは……ひ、ひみつ! ささ、次のハンドにうつろう」


 私は、そそくさとチップとカードを回収した。ケチだと思われてしまったかもしれない。しかし、有益なポーカーの知識について人に教えることにためらいはないが、ショーダウンされなかったハンドについては秘密主義をつらぬきたかった。

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