その27-2 その微笑みは誰がために

 それ以上、もう言葉が出てこない。

 こんな笑い方をする親友を前に、どんな顔をすればいいかわからない。

 威風堂々、どんな相手にも臆さず立ち向かってきた音高無双の少女は、まるで捨てられた子犬のように隠すことなく絶望を顔に浮かべ、ただただ微笑みの少女を見つめていた。


「レナ……おいで」


 そんな彼女とは対照的に、恐る恐るではあるが待ちかねたような弾む声色で愛しき人の名を呼んで、マダラメは手を差し伸べる。

 はたして、微笑を浮かべて東山さんを見下ろしていた少女は、呼ばれるがままに死神を振り返ると、彼の手を取った。そしてニコリと微笑み、その手を強く握りしめる。

 

「……マダラメ様。ずっとお逢いしたかった――」


 ――と。

 

「おお……おお……レナ!」


 紫色の唇を噛み締めてマダラメは立ち上がると、感極まってその白い頬に涙を伝わせた。そんな死神に向かって、微笑みの少女――いや、『レナ』は小さく頷いてみせる。

 途端彼女の手を引き寄せ、そのか細い背中を抱きしめると、マダラメはそれまでの六百年、溜めに溜めて鬱屈させた恋慕の感情を暴走させた。

 

「レナ! レナ! この時をどんなに待ち望んだことか! 逢いたかった! 抱きしめたかったんだ! 君のその身体を!」


 死神は隠すことなく迸る感情を言葉に乗せて恋人へと紡いでゆく。

 されるがままに光を灯さぬ瞳を虚空へ向けて、レナは死神の腕の中で揺蕩たゆたっていた。


 こりゃとんだ茶番だぜ――

 恋人同士の――この場面だけ見ればまさに涙を誘う場面だろう。

 だがしかし、その経緯も歪められた事実も知っている者から見れば反吐が出る思いだ。

 普段は温厚なこーへいですら顔を顰め、目の前で繰り広げられているその光景を不快感と共に見据えていた。


「こっちを向いておくれレナ。その顔をよく見せておくれ!」

「はい……」

「ああ、レナ! その白く美しい肌、綺麗な瞳、高い鼻――」


 これこそもう一度見たいと思い焦がれた見紛う事なき彼女の顔だ――枯れ枝のような白い指でレナの頬を撫で、マダラメは頬まで避けた口を醜く歪ませる。

 だがその悍ましい笑顔すら真っ直ぐに受け止めて、レナは妖絶に微笑んでみせた。

 

「……クキキ……クキケケケケケケ!」


 と、やにわに塔に響き渡る狂笑。

 勝利と愉悦に満ち溢れたその笑い声を、這い蹲る|達へと向け、マダラメは法衣を翻す。

 そして掌中に収めた珠玉をひけらかすように、抱き寄せたレナを三人へと見せつけると、その獣の瞳にギラギラと殺意を灯しはじめた。


「残念だったなァァ虫ケラども。散々に邪魔してくれおって。だが奮闘虚しくお前達の仲間だった『器』の魂は消え去ったわけだが、はたしてどんな気持ちだ?」


 傷口を抉るようにして飛んできた、下卑た笑いを含む問いかけに、東山さんは奥歯を噛み締め死神を睨みつける。

 だが途端、その頭部にマダラメの足が踏み落とされ、強引に頭を垂らす体勢となった彼女はくぐもった呻き声をあげた。


「散々に邪魔してくれたが、所詮は虫ケラよ。私とレナの愛には敵わなかったということだ。クケケケケ!」


 死神の靴底が少女の頭を容赦なく踏みにじる。

 這い蹲る少女をさも小気味良さそうに見下ろし、マダラメは顔を近づけた。


「だが悲しむことはない。お前達もすぐに器の下へ送ってやる」


 そう言って愉悦の表情と共に懐から鈍く光る銀製のナイフを取り出すと、死神は東山さんの顔を覗き込む。

 だが前髪の影に隠れたその顔上半分からは残念ながら彼女の反応を窺うことはできなかった。唯一見えたきゅっと閉じられたその唇の端は、親友を救えなかった悔恨から小刻みに震えているのが見て取れる。

 しかし、それだけでは芽生えた嗜虐心を満足させることができなかった死神は、少女に向かって無慈悲かつ残酷な宣言を放ったのだ。


「さあレナ、せめてもの手向けだよ。この虫ケラ達の命を君の手で摘んであげるんだ」

「――っ!?」


 耳を疑うようなその言葉にかっと目を見開き、東山さんはマダラメの靴を押し上げ、跳ね起きるように顔を上げた。

 彼女のその目に映ったのは、微笑みを絶やさぬまま、差し出されたナイフを受け取る親友の姿。


「おい、ちょっと待てクソ野郎」


 悪趣味にほどがあるだろ?――流石に我慢の限界だった。

 太い眉を吊り上げて、こーへいは声を荒げる。

 だがパチンと指を鳴らしたマダラメのその動作に反応し、途端にクマ少年を押さえつけていた黒い手が、彼の頭を掴んで組み伏せた。


「大人しく順番を待て。なに、すぐに済む……クキキ、クキケケケケケ! ああ愉快だ、ざまあないなあ虫ケラども、クケケケケケケ!――」


 心底愉快そうに笑うマダラメの声が響く中、派手に顔面から床に叩きつけられて呻き声をあげながらも、こーへいはなおもって必死に顔を上げる。

 こりゃ悔しいが手も足も出ねえ。

 けどよー? これはねーぜ女神様よぉ……なんであんたこんな時にだんまりなんだ?

 このままじゃあ、一人一人刺されて終わりだってのに、ご自慢の勘は、何故だかうんともすんとも警鐘すら鳴らさずこの場を静観している。

 死神の狂気に中てられて、とうとう勘も狂ってしまったのだろうか――

 何とも解せぬ状況に不可解そうに顔を歪めながら、こーへいは血の混じった唾を吐きだすと、レナを見据えた。


 と、一歩退き、道を譲るように手を翳したマダラメの前を通過して、彼女は一歩、また一歩と東山さんへ歩み寄る。


「なっちゃん……」


 目の前に下ろされた、白い足を上へと辿り、東山さんは縋るように親友である少女を見上げた。

 だが自分を見下ろす彼女のその眼差しが、やはり光の灯らぬ虚ろのままであったことに気づくと、東山さんは絶望を顔に浮かべ眉尻を下げる。

 

「ごめん……なさい……」


 震える声で少女は告げた。

 止めようもない後悔と憤りが溢れ出てくる。

 これがヒロシさんが言っていた仲間を失うということか。

 ぽっかりと胸に穴が空いている。

 塞ぎようのない穴が空いてしまっている。


 助けられなかった。間に合わなかった。

 護ると決意したのに、大切な親友を護り切れなかった。

 なんて自分は無力なのだろう。

 許してなんていえない。

 いや、もう伝えようとしても相手はここにいない。

 

 だとしても――

 

「もう……貴女のあの笑顔……見る……ことができないの?……そんなの嫌だ……私は貴女を――」

 

 ポロポロと涙を流し東山さんは子供のように泣きじゃくりながら、嗚咽交じりに拳を握りしめた。

 

 


「バカね……やっぱり何にも見えてない」



 

 と、侮蔑と憤りの籠った、独り言のようにも聞き取れる言葉と共に、レナは振り上げていた銀製のナイフをピタリと止める。


「レナ……どうしたんだい? 早くその虫ケラを器の下へ送っておやり――」


 がらりと口調の変わった恋人の様子に違和感を覚え、マダラメは訝し気に口籠りながら彼女の肩へと手を伸ばす。

 だがしかし、自分の肩に触れようとした死神の手をぴしゃりと払い除け、レナはまるで野良犬を追い払うように肩越しに手を振ってみせた。

 ひっ――と情けない悲鳴をあげて、マダラメは怯えるように払い除けられた手を押さえる。

 

「レナ、一体どうしたというのだ?」

「はぁ……レナ、レナってあなたの眼は節穴? 私が誰かまだわからない?」


 俯き加減に返答した彼女のその薄桃色の唇から小さな溜息が漏れ聞こえてきた。

 もしや――と、東山さんは息を呑む。

 真っ赤に腫れた彼女がまじまじと見つめ直したレナのその口元には、鹿『微笑』が浮かべられていた。


 そう、それはこの三年間、何度となく見てきた親友が浮かべる微笑み――

 はたして。


「お前は!? バカな……おのれ、器ぁぁァァァッ!」

「ようやく気付いた? 見たいものしか見ていないから気づかないのよ」


 本当、呆れるほどに自己中な男。反吐が出るわこの変態っ!――

 ゆっくりとナイフを降ろした『微笑みの少女』は、怒りと憎悪を剥き出しにして吠えるマダラメを臆することなく振り返る。

 その瞳には抗い、そして諦めない神器の使い手達が宿す『強き意志』の光が灯っていた。


「なっ……ちゃん」

「ありがとう恵美。あなたの言葉も行動も全部見えてた……あなたのおかげで私は今ここにいることができる」


 感謝してもしきれない。

 惚けたように名を呟いた東山さんをちらりと振り返り、なっちゃんはいつも通りの微笑みを浮かべながら、目配せしてみせる。

 途端、満面の笑みを顔に浮かべて、東山さんはゆっくりと首を振ってみせた。

 間に合った。助けられた――と。


 そう言うことか、あんたは知ってたわけだ女神様。だから警鐘を鳴らさなかった、てか?――

 二人をやり取りを眺めながら、自らの勘が冴えない理由に納得しつつこーへいはにんまりと猫口を浮かべる。

 

 だが感動の再会もここまでだ。

 まだ窮地は続いている。

 即ち――

 


「器ぁぁァァァ! 誰に断ってその身体を動かしているッ!」



 塔の頂に響き渡った死神の怒号に、嫌悪を隠すことなくその整った顔に浮かべ、なっちゃんはマダラメを睨みつける。


「何だその反抗的な目はッ! 今すぐ私の下へ来いッ! そうすればこの暴挙は許してやるッッ!」


 虫の羽音のように甲高い怒鳴り声あげ、マダラメは口角泡を飛ばしながら威圧的に少女へ告げた。

 だが微笑みの少女はもう怯まない。

 心の奥で僅かに生まれた怯懦を必死に押さえつけ、彼女は敢えて笑ってみせた。


「ごめんだわ。あなた何様のつもり? 何故私があなたの指示に従わなくちゃいけないのよ」


 その笑みは、いつも通りの相手を掌で転がすような、小悪魔的な微笑――

 器が見せた反抗的な態度に、死神は伸びきった前髪の奥の金色の瞳をますますもって輝かせ、口惜し気に唸り声をあげる。


「お前は! ただの! 器なのだ! レナの! 器なのだ! 器が口を利くな! 器が背くな! 黙って私の命に従っていろッッ!」


 まるで駄々を捏ねる子供のように床を踏み鳴らし、マダラメは上ずった声でまさに獣のように吠えた。

 だが涎を垂らし、血走った眼で狂気を放ち続けるその様を眺める少女の目は、マダラメと反比例するように益々もって冷徹な光を放ち始める。

 

「私が……器?」

「そうだ。お前はただの器なのだ。その身体はレナのものだ! レナの顔だ! レナの手足だ! レナの髪だ! 何一つお前の物などないのだッ!」


 ダメだこいつは、やはりどうしようもない程の屑だ――

 肩で息をする程に高揚し、罵声を放つ死神を醒めた目で見据えつつ、なっちゃんは失笑した。


「つくづく救いようのない男ね。本当に見たいものしか見えていない」

「黙れ……黙れッッ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇェェェッ! レナの! 声で! 話すな器ぁぁァァァッ!」

「黙るのはあなたの方。この身体は私の身体よ。レナさんのものでも、あなたのものでもない――」


 もはや呆れを通り越して憐れみすら感じてしまう。

 けれど、私は私。誰のものでもない。

 それを教えてあげるわ。死神さん――

 

 意志強き瞳を射抜くようにしてマダラメへと向け、なっちゃんは右手に持っていた銀のナイフを胸元へ寄せた。


「ねえ……レナさんの髪は覚えている? 長くて、細くて、とても綺麗な黒髪だったわね――」


 そう言って、なっちゃんは自らの髪をまとめると左手で束ね、死神へ見せつける様にして胸元へと手繰り寄せる。

 ぞくりと悪寒を感じ、固唾を呑んで様子を窺っていた東山さんは自らの目を疑うようにして見開いた。

 その瞬間、親友が再び浮かべた微笑みは、先刻同様ぞっとするほど艶やかで蠱惑的な微笑みだったからだ。


 なっちゃん、あなた何する気なの?――

 困惑の表情を浮かべる東山さんに気づき、しかしなっちゃんは彼女だけにわかる角度で再び目配せしてみせる。

 

「何をする気だ器ッ!? 私の命なくして勝手に動くんじゃないッッ!」

「何をする気ですって? 決まっているじゃない――」


 そう言って少女は胸元に束ねた自慢の髪に、右手に握ったナイフの刃を当てた。

 そして、クスクスと挑発的に笑いながら、うろたえる死神へとこう告げたのだ。




……のよ」




 ――と。

 刹那。

 月光を受けて鈍く輝いていた銀の刃は、少女が束ねた黒髪の根元に向けて、ゆっくりとその身を沈めていった。

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