その26-1 ポルカ『雷鳴と稲妻』

コルネット古城 祭壇の塔六合目――


 つい先ほどまで広がっていた満天の星空は瞬く間に厚い雲に支配され、その姿を消し去った。

 古城の上空だけをすっぽりと覆い尽くしたその暗雲目掛けて魔力の備わった樫の杖を掲げ、そして日笠さんはぽたりとその鼻先から汗を滴らせる。


 詠唱はまだ終わっていない。

 まだ先程唱えた一文ワンセンテンスのみだ。

 だがしかし、少女はそれ以上の詠唱を続ける事に戸惑っていた。

 

 ヨハン・シュトラウス2世 作曲 『雷鳴と稲妻Unter Donner und Blitz』――

 ササキから送ってもらった新しい魔曲。

 その効果はご覧の通りだ。

 月を隠す――突拍子もないその策に思い至った少女が実行に移そうと詠唱を始めると、魔曲は彼女の意志に応え古城の上空に雷雲を生み出した。


 だがこの魔曲を送信した際、ササキはこう言っていたのだ。

 今回の魔曲は急場で作成したためにまだテストをしていない。正常に動作するかは保証できない――と。

 

 はたして、定めた呪文キーワードを詠唱し始めた途端、日笠さんはこの魔曲のとんでもない欠点を身をもって知ることになる。

 

 たった一文。

 まだほんの一行、唱えただけなのに。

 

 まるで心臓を鷲掴みされたように息苦しくなり、血の気が引いていく。

 動悸が乱れ、全身から汗がどっと吹き出し始める。

 

 『魔法使いの弟子』然り、『1812年』然り、そして『魔弾の射手』然り。

 これまでの魔曲はせいぜい使用した者の周囲に魔曲の効果を具現化させるに留まっていた。

 だがこの『雷鳴と稲妻』は、使用者の周囲に留まらず局地的とはいえそれまでの魔曲とは比較にならない広範囲の環境を変化させる効果があるようだ。

 当然その発動に要する精神力も比例して膨大なものとなる。

 

 なによこの魔曲?

 これまでのと全然違う。精神の摩耗が桁違いだ。

 今回ばかりは長めの呪文キーワードを設定しておいて良かったと心底思う。

 痛い痛いってみんなに言われて自信なくしてたけど、短い詠唱で発動させていたら一気に削がれて、意識を失っていただろう。

 でも遅かれ早かれ、結果は変わらない。詠唱を続けて、はたして私の身体はどうなるだろう。

 そう考えると、それから先の呪文キーワードを口から紡げない。

 どうしよう、続けるか? それとも諦めるか?――


 深い深い息をゆっくりと吐いて、日笠さんは唇を噛み締める。

 

 刹那。

 暗雲の下に木霊する、怒りと焦りを含んだ大鴉の鳴き声。

 そして、けたたましく『死神』の笑い声を奏でる、なつき達の『死の舞踏』――

 

 二つの相反するその『調べ』を耳にして、葛藤を続けていた少女は弾かれるようにして顔を上げた。

 やにわに歯を食いしばって、瞳を閉じると日笠さんは大きく吸い込んだ空気を言葉に変えて、口から放つ。

 

「空を裂き……放てその力を……地を震わせ……爆ぜよ神々の怒りよ……っ!?――」


 途端、細く白いその腕にくっきりと毛細血管が浮かび始め、耳鳴りと頭痛が激しく脈打つ鼓動と共に少女の脳を揺さぶった。

 一瞬意識が飛びかけ、たまらず掲げていた杖を地に下ろし、日笠さんはもたれ掛かるようにしてそれを握りしめる。

 しかしその声が止むことはなく、か細く、途切れ途切れになろうとも、彼女は歯を食いしばり、振り絞る様にして詠唱を続けていった。

 


 だからさ、日笠さんも『やりたい』ことをやればいい。一番望むものを求めればいい。

 なあ、日笠さん。今、日笠さんが一番やりたいことってなんだ?――



 私のやりたいこと? そんなのもう決まってる。

 誰一人欠けずに、みんなで生き抜いて、元の世界に戻る事。

 酷く矛盾した、理想論だってわかってる。

 でも、本当に我儘な少年の、本当に身勝手な提案に、私は乗ると決めたんだ。

 やりたいことをすると決めたんだ。

 だから弱音は吐いていられない。

 

 振り返るな私。

 みんなを信じて、足を踏み出すんだ。

 そう、一歩でも。

 

 一歩でも前へ!――



「今こそ我にその力を……邪なる者に裁きの鉄槌を――」


 やにわに身を預けていた杖に変化が生じる。

 仄かに青白い光をその身に灯しだした杖の先端から飛び出したそれは、闇夜を照らす一条の雷光だった。

 目に見えて放電を起こし始めた杖を見据えるようにして目を開けると、日笠さんは気力を振り絞って身を起こした。

 そして彼女は杖を掲げる。

 照準は勿論、張り付いた少年もろとも夜空を所狭しと飛び回る漆黒の猛禽――


 響き渡る死の舞踏が、いよいよもって宴の終わりを迎えようとしていた。

 


♪♪♪♪



同時刻。

祭壇の塔頂き――



「バカな、月がッ!?」


 魔曲『雷鳴と稲妻』の効果により、みるみるうちにその姿を雷雲の向こうへと消していく満月を見上げ、マダラメは奇声を放つ。


 ありえない。いつもこの地に施している『雨雲の結界』は解除したはずだ。

 一体誰の仕業だ!? 乾季であるこの季節に魔法無しでこのような雲が現れることなど――

 

 雲間で瞬く雷光を眺め目を見開く死神に、だがそれ以上思案の猶予はなかった。

 月が、月が隠れる! それよりも前に半転生の法を完了させなければ、全ては水の泡と化してしまう!

 

「レナ、こいっ! 早く器へ!」


 カタカタと下顎を鳴らして叫ぶと同時に、マダラメは頭上を彷徨うにして浮遊していた光の玉目掛けて叫んだ。

 そして掲げていた右手を振り下ろす。

 黒き魔力の帯に残して下ろされたその右手に誘われるようにして、やにわに光の玉は降下を開始した。

 横たわる『器』の胸目掛けて――

 光の玉が呑み込まれるようにしてその胸の中に侵入すると同時に、少女は身体を大きく弓なりに撓らせる。

 

「っ……ぅぁぁ……うああああっ!」


 まるで断末魔のような悲痛な叫びが、なっちゃんの口から洩れた。

 なっちゃんっ!――

 助けを求める様に響いたその悲鳴に、東山さんは縛られてなお抗い、あらん限りの力を振り絞って手を伸ばす。

 だが即座に現れた黒い手がその腕に絡みつき、まるで鋲を打つかの如く地へと縫い付けた。

 無念。唇を噛み切るほどに食いしばり、音高無双の少女は喉奥で唸る。

 

「クキケケケケケケ! さあレナ、食ってしまえ器の魂を! そしてまた見せておくれ君の笑顔をッ!」


 声高らかに嗤い、死神は諸手を挙げて天を仰いだ。

 皮肉にも宴の終わりを告げる様に盛り上がりを見せる死の舞踏の調べが、その笑い声を彩って古城に響き渡る。


 だがしかし。

 不躾にもそこに割って入った猛禽の絶叫と、視界を遮るようにして急降下してくる黒い影に、悦に浸っていたマダラメは顔を顰めた。

 オオウチ?!――と。

 

「……なっ?」


 驚愕の声が思わず漏れる。

 塔の頂きを覆い尽くさん程に翼を広げた大鴉は、助けを求めるようこちらへ迫っていた。

 急降下ではない。あれは……落下しているのか?

 馬鹿な、このままでは激突する?! よせ! やめろ! 来るなっ!――


 刹那。

 思わず身を竦め、顔を覆ったマダラメを突風が襲う。

 同時に塔のすれすれを矢の如く通過し、大鴉はドップラー効果を伴った鳴き声を残して、その身を王の間へと落下させていった。

 どうしたというのだオオウチ、何が起こっている?!――

 ゆっくり手を降ろしたマダラメが、姿を消した大鴉を追うようにして頂の端を見つめる中、東山さんは息を呑む。

 

 大鴉が塔のすれすれを落下していくその瞬間、彼女の双眸は捉えていた。

 猛禽の頭に剣を突き立て、歯を食いしばってしがみつく我儘少年の姿を。

 

 彼はまだ抗っている。

 いや、もきっと抗っている。

 この雷雲はきっと彼女の力だ。


 まだだ。まだ終わりじゃない。

 柏木君、まゆみ……どうかなっちゃんを――

 音高無双の少女はその瞳に消えかけた闘志を再び灯し、祈る様に眉間にシワを寄せた。

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