その25-1 首席奏者とは
コルネット古城、祭壇の塔 三合目――
紅い月が怪しく照らす塔の外周を、日笠さんは足を踏み外さぬように慎重に、しかし確実に階段を上がっていく。
この先に、微笑みの少女がいる。少年はそう言っていた。
先に行った三人の姿はまだ見えない。もう頂上に到着したのだろうか。
見上げた塔には蔦の如く塔に絡みつく螺旋階段がまだまだ続いている。
空気が重い。頂きから冷気のように降り注ぐ嫌な空気が、少女の心に不安の影を落とす。
その空気にまるで歪められたように、聞こえてくる死の舞踏の旋律も、弱々しく消え入りそうなものへといつの間にか変わっていた。
「なっちゃん……」
胸騒ぎがする。上で何かが起こっている――
弾む息を整えながら囚われた少女の名を呟くと、日笠さんは階段を上がるその足を速めようとする。
だが、死の舞踏に混じって聞こえ始めた微かな異音に気づき、彼女ははた、とその足を止めた。
なんだろうこの音は?
何かが慟哭するようなそんな甲高い音色。
嵐の夜に、窓を鳴らし、隙間風が奏でる音色。
風の……唸り?――
やがてその音が塔の下から聞こえてくる事に少女が気づいた時、周囲に変化が生じる。
「っ!?」
予兆なく塔をなぞる様にして吹き上げてきた突風が全身を襲い、バランスを崩した日笠さんは思わず長衣の裾を押さえながら塔の壁へと背を持たれた。
その間も吹き荒れる風は勢いを弱めず、まるで嵐のように塔の表面を昇ってゆく。
と、その風に乗るようにして、現れた巨大な黒い物体が少女の身体に影を落とした。
夜空を覆わんばかりに開かれた黒い翼、そして爛々と光る金色の眼。
それは即ち――
「大鴉?!」
顔を覆う腕の隙間から見えた漆黒の猛禽の姿に日笠さんは息を呑んだ。
はたして塔すれすれを垂直に舞い昇りながら、大鴉は悲鳴に近い鳴き声を夜空へと響かせる。
だが様子がおかしい。少女はすぐに大鴉の姿を追いかけながらその双眸を細めた。
その翼が羽ばたく度に、鮮血が飛沫をあげて月夜を彩り、そして少女の身体ほどもある巨大な黒羽根が幾本もゆらゆらと舞い散る。
月光に照らされた大鴉の身体は所々から出血しており、その飛び方もまるで何者からか逃げ惑うかのようだったのだ。
一体何が下で起こったの?――
這う這うの体で上空へと消えていく大鴉を見上げ、日笠さんは止めていた吐息を漏らした。
と――
またもや少女の眼前を黒い影が下から上へと通過する。
あっという間に彼女の前を通過したその影は、そのまま塔を登っていった。
連続して壁を蹴り上げる音が、その影の後を追うようにして周囲に響きわたる。
ありえない光景だった。
嘘でしょ?――と、反射的に身を竦ませていた日笠さんは目をぱちくりとさせる。
そして弾けるように壁から離れると、彼女はかぶりをふって塔を見上げたのだった。
はたして視界に映ったのは、人とは思えぬ超人的なスピードで、
「カッシー!」
思わず叫んだ少女の声に反応するように、少年の持つ双剣が月光を反射して鈍く光った。
―ケケケ、あいつ形成不利と見るや迷いなく上空へと逃げやがった―
やはり知恵が回りやがる。これだから鴉は嫌いだ――
壁を蹴り上げる少年の身体を操りながら、時任は口惜し気に笑い声をあげる。
「上等だっ、ここまできたらどこ逃げようが相手してやるっつの!」
是非も無し――と、カッシーは荒い鼻息を一つ吐くと、やにわに左手に持っていたブロードソードを振りかぶった。
甲高い音色を生み出しながら、剣先が塔を形成する煉瓦の隙間に刺さる。
丁度、塔の七合目。
一気に駆け上がった少年は、ブロードソードと右足を支点にして塔にぶら下がると、上空をギロリと睨みつけた。
満月の中にシルエットを落とし、塔の遥か上を円を描くように旋回する大鴉の姿が見える。
限界を超えた和音、諸刃の剣である時任の切り札は解き放たれた。
はたして、一気に片を付け主の下へ向かおうとしていた大鴉のその目論見は、見事に覆されることとなる。
超人的な身体能力を発動させたカッシーは、まさに鬼神の如き圧倒的な力とスピードにより、瞬時に形勢を逆転させると、大鴉を完膚なきまでに叩き伏せたのだ。
馬鹿な、あり得ない!? これが先刻までのあの少年だと?――
あろうことか、逆に一気に片を付けられそうになった漆黒の猛禽は、たまらず身を翻し一目散で上空へと離脱する。
無論それを逃す妖刀ではなく、少年はその後を追って天窓から飛び出したのだった。
そして今に至る。
―野郎、随分上まで逃げやがったな―
大空は翼ある者が支配する空間だ。
地の利は向こうにある。時任は舌打ちした。
「けど、このまま逃げはしねえだろ」
―自信たっぷりにいうじゃねえか小僧―
「俺だったら逃げない。絶対決着つけに降りてくる」
失望したぞ少年、この程度とは――
そこまで宣った相手に、完膚なきまでに叩き伏せられかけたのだ。
あいつのプライドはズタズタだろう。その腸は煮えくり返っていることだろう。
きっとあいつはもう一度やってくる――
吹き付ける風が前髪を靡かせる中、油断なく上空を見据えカッシーは答える。
はたして。
数秒の沈黙の後、満月の中で旋回していた大鴉の影に変化が見えた。
一際大きく夜空に轟く、怒号のような猛禽の嘶き。
やにわに黒き翼が旋回を終えて急降下を開始する。
きたっ!
双眸を細め、少年はブロードソードを握る左手と、右足に力を漲らせた。
―小僧、もうちんたらやってる時間はねえぞ! 和音を使えるのはもってあと少しだ。次の一撃で
「言われなくてもそのつもりだっ!」
龍が火炎を吐くが如く気焔を迸らせながらカッシーは答える。
迫り狂う大鴉が再度鳴き声をあげて、少年目がけて大きく嘴を開いた。
よっしゃ、やってやる。
こっちはなあ、意地の張り合いなら負けたこと無いんだっつの!
吠 え 面 か く な よ 風 使 い っ !
「ってえええりゃあああああーっ!!」
乾坤一擲。
少年は勢いよく壁を蹴りブロードソードを引き抜くと、双剣を構えて宙へと躍り出る。
同時に、息を吹き返したように意気揚々と奏でられ始めた死の舞踏の調べが、まさに死人の宴の最高潮を歌い始めた中――
古城に覆い被さるように紅く輝く満月の中心で、鴉と少年のシルエットは舞うようにして交差した。
♪♪♪♪
およそ一分前。
コルネット古城、礼拝堂の頂き――
「……っく!」
「ウェップ……だめだこりゃ」
とうとう
途端荒い息を吐きながら弓を降ろし、柿原と阿部は楽器に持たれるようにして呟く。
やにわに彼等の周囲で演奏をしていた光の奏者達がその姿を消していき、死の舞踏の音色はヴァイオリンとヴィオラの二重奏に戻ってしまった。
しかし、なんだこの空気? まるで水中で演奏しているように腕は全く動かなくなるし、全身を襲う虚脱感が半端ない。
淀んだ空気のせいで気分まで悪くなってくるし、一体何が起こっているのか――
肩を上下させながら阿部は限界が近付いてきた体力を振り絞り、祭壇の塔の頂きを見据える。
「っ……くぅぅぅ~~――」
と、可愛い悲鳴と共にまたもや音が欠けた。
頬をぷくっと膨らませて、う~う~と唸りながらも演奏していた亜衣が、たまらず身を屈ませる。
「亜衣! ちょ、ちょっと大丈夫?!」
「……もう、なんなの急に? 何が起こってるの?」
玉のような汗を額から落としながら、少女は悔し気に呟いた。
「やるな若造め、瘴気を呼び出して君達の演奏を拒むとは――」
と、未だ軽やかに
「瘴気?」
「魔力の風、死人の吐息――生ある者にはたまらぬ嫌悪感かもしれないね」
「それを、マダラメが……!?」
恐る恐る祭壇の塔を見上げ、そしてそこから吹きつける様にして古城全体へと迸る淀んだ空気の気配に気づくと、三人はごくりと息を呑んだ。
あの嫌な気配の空気によるものなのだろうか? あの空気によって演奏は遮られたと?
なんてこった。こりゃまずい。
このままでは死の舞踏が止まってしまう。
カッシー達はこの演奏を信じて、今もあの塔の頂を目指しているはずだ。
何とかしなくては、しかしこの淀んだ空気の中、これ以上演奏を続けることができるだろうか――
既にかなりの精神力を消耗してしまっていた三人は、汗の引かぬ真っ青な顔でお互いを見合った。
だがしかし――
それでも鳴り止まず、なおのことその音量をあげるヴァイオリンの調べに気づき、彼等は我に返ったようにしてその主を向き直る。
頂きに吹く淀んだ風に立ち向かうようにして、音高最凶の
「なつき……」
見惚れるようにその姿を見つめ、思わず柿原は少女の名を口にする。
とっくのとうに
と、その旋律が滑稽な骸骨の踊りを表現するスケルツォから、やにわに優雅なバラードへと変調する。
死の舞踏の最高潮、死人の宴を盛大に彩るフィナーレの前奏に突入したのだ。
「ナツキ君、君は降参しないのかね?」
既に本日二回目の魔曲。おまけに瘴気漂うこの状況で、独奏を続ける彼女の精神と体力は既に限界のはずだ――
彼女のためだけに指揮を振り続けていたシンドーリは、たゆたうようなそのバラードを引率するようにゆっくりと
はたして、なつきは閉じていた片目を徐に開くと、その問いを投げかけた銀髪の吸血鬼を見据え、口元を歪めてみせる。
いつも通りの、彼女を象徴するような強気な笑みで。
ちょっとさあ、あんたこの私を誰だと思ってんの?
このオケの
コンミスが演奏を止めていい時ってのは決まってんのよ。
たった一か所だけって決まってんの!
それは指揮が止まり、曲が終わる時のみ。
たとえ瘴気によって腕が動かなくなろうとも。
呼吸がままならなくなろうとも。
その時は変わらないっての!
余計なお世話よ。
い い か ら さ っ さ と 続 け ろ 吸 血 鬼 ! ――
紅い月光を反射して闘志揺らめく彼女の瞳はそう語っていた。
生気の失せた口許に強気に浮かんだ、彼女の笑みは雄弁にそう告げていた。
「ブリリアント! 君で二人目だ。人間でありながら私が敬意を表するに至った者は」
ならば続けよう。死人の宴はこれからだ。
途端、シンドーリは歓喜に満ちた一振りを天高く掲げ、鋭く尖った犬歯を覗かせる。
「なつき――」
「先輩……」
そうだった。
傍若無人で、天上天下唯我独尊で、とんでもない我儘コギャルだが、こと音楽にだけは真摯で妥協しない。
これが
ならばそう。しばかれる前に曲を続けなければ。
もとい、コンミスだけに
失いかけた復讐の闘志を再び灯し、柿原達は弦に弓を添えた。
「あーもう! どうにでもな~れ♪」
「はあ、こりゃやばい。この世界点滴ないのかな、後で一本打たせてほしい」
「もう、お兄ちゃんも阿部さんも、しっかりして! ほら、行くよ!」
アインザッツと共に、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの音色が復活する。
最後の力を振り絞って演奏を再開した三人によって、やにわに死の舞踏の旋律は息を吹き返し、厚みを増して古城へと響き始めた。
何十人、何百人という奏者によって形成されるオーケストラは、時にどうしようもなく崩壊することがある。
テンポが乱れる。各セクションの呼吸が乱れる。落ちる、指揮者がミスをする……理由は様々だ。
だが逆に、それこそ曲が止まってしまうような状況に陥ったとしても、首席奏者の目の覚めるようなたった一音、たった
今まさにその
「さあ、踊り狂え死神――」
ニヤリと嗤ったシンドーリが振り下ろした
刹那。
弾けるようなヴァイオリンの一音を皮切りに、交響詩『死の舞踏』は最高潮を迎えた。
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