第九章 伸ばした手で掴み取るモノ

その24-1 限界を超えて


「くっ――」


 絶体絶命の窮地を逃れた少年は、空中で身を捻って態勢を立て直した。

 そして迫る床へと激突するその瞬間、前方へ倒れ込むように数度転がって巧みに衝撃を分散させる。

 それなりの高さからの落下であったが、何とかうまくいった――

 床を滑るようにして、着地に成功したカッシーは、荒い息を繰り返しながら、油断なく双剣を構え天窓を仰ぐ。


 横殴りに飛び込んできた光の弾の一撃をもろに食らい、大鴉は驚愕の混じった悲鳴をあげていた。

 だが、黒い羽根に纏わりついた火を消すために、大きく羽搏たいて空中制止ホバリングしていた風使いの成れの果ては、やにわに天窓を突き破り、堪らず外へと飛び出していった。

 

 王の間に吹き荒んでいた風が収まり、舞い戻った静寂の中、歪な死の舞踏の音色だけが聞こえてくる。

 天窓から差し込む満月の光の下、ようやく構えを解くとカッシーは安堵の吐息をついた。

 

 一時撤退。そんな感じに見えた。

 油断はできない。

 奴はきっとまた来る。次来た時が正念場だが……だが、どうすりゃいい――

 剣呑な表情を顔に浮かべ、少年は口をへの字に曲げる。

 

 と、そこで彼は自分の窮地を救ってくれた、恩人のことを思い出し、はっとしながら振り返った。

 はたして、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるまとめ役の少女の姿に気づき、カッシーは笑顔を浮かべる。


「悪い日笠さん、助かった……ぜ?」

 

 だがその笑顔はすぐに引き攣ったものへと変わった。

 淡い月光のスポットライトにその身を投じた少女の顔は、憂いと憤りを隠すことなく露にしていたからだ。

 やがてカッシーの前までやってくると、日笠さんは歩みを止めて、何も言わずに彼の顔を覗き込んだ。

 やはり変わらぬ、不機嫌そうな表情のまま。


 わからん、なんでかわからんが機嫌が悪そうだ。俺なんかしたか?――

 唐突に目の前に迫った、学校で一、二を争う美貌を持つ少女の顔に、カッシーは思わず身を仰け反らせて息を呑む。


「あー、その……日笠さん?」

「……血が出てる」


 と、ようやく呟くようにそう言うと、日笠さんは僅かに表情を緩めた。


「え?……ああ、これか。大丈夫、かすり傷だからさ」


 きょとんとしていたカッシーは、そそくさと袖で額を拭った後、誤魔化すようににへら、と笑う。

 だが様子を窺うようにして、なおもしばらく少年の顔を見据えていた日笠さんは、やがて大きな大きな溜息をついて俯いた。

 

「まったく、人の気も知らないで」

「あーその……日笠さんさ――」

「あんな化け物を一人で相手にして、怪我までして、死にかけて……それでもまだ挑もうとして……本当意地っぱり」

「うっ……」


 いくら心配してもこれじゃきりがない――

 やにわに顔をあげた日笠さんは、目にうっすらと涙を湛えながら、悔しそうに少年を睨みつけていた。


 そうだ。


 私は悔しいんだ。

 君が羨ましいんだ。

 もう少し仲間を信じておあげなさい――そう言われたばかりだ。

 そして、信じて前へ進んでみよう。そう決意したばかりだ。

 なのに、この少年は、その決意も追いつかないさらに先へいつも進んでいる。

 

「どうして君は、躊躇せずに真っ直ぐ前を向けるの?」

「は?」

「どうして君は……そんなに恐れず足を踏み出せるの?」


 躊躇いながらもずっと抱いていた羨望を、日笠さんは少年へと投げかける。

 

 あの日パーカスで。

 君の背中を追いかけてみようって決めた。

 君の背中を支えていこうって決めた。


 そうすればいつか私も、一緒に並んで歩けるかもしれない。

 そう思ったから。


 でもやっと追いついても、すぐに君はその先へ進んでしまう。

 慌てて追いかけようとしても、私の竦んだ足では追いつけない。

 遠い。君の背中が遠い――

 

「これじゃどんなに頑張ったって……追いつけないよ――」


 消え入りそうなほど弱々しい声で、少女は嘘偽りない気持ちを告げる。

 その両手は杖を絞るようにぎゅっと握りしめられていた。

 だがしかし。

 そんな少女の問いかけに、しばしの間、思案するように押し黙っていた我儘少年は、やがて神妙な顔つきで溜息をつくとこう答える。


「追いつけない? そりゃ違う。追いつく必要なんてねえよ。日笠さんが立ってる場所がだろ?」


 ――と。


 彼のその表情は、大広間で浮かべたものと同じだった。

 納得いかない――そんな気持ちがありありと見て取れる不機嫌そうな表情。

 息を呑み込み日笠さんは意外そうに目をぱちくりとさせる。


「カッシー……」

「考えすぎだぜ日笠さん。俺ってそんなに信用ないか?」


 彼女が悩む必要なんてない。彼女がそこにいて背中を任せられるからこそ、自分は覚悟を決めて道を開いてこれた。

 チェロ村の時も、ヴァイオリンの時も、大鼠の時も、そしてついさっき大鴉にやられそうになった時だって。

 でもそれって俺の思い込みだったんだろうか。まあ、確かに俺も含めてみんなやりたい放題だしな。

 

 けどさ、日笠さん。考えすぎるのは悪い癖だぜ。

 もう少し俺のこと信じてくれてもいいじゃねーか――

 当惑の色を瞳に浮かべる日笠さんに気がつくと、カッシーはすぐに浮かべていた表情を引っ込めて、もどかしそうに頭の後ろを乱暴に掻く。


 そして、追いかけるように何かを告げようとしたが、その言葉が口を衝いて出ることはなかった。

 僅かに聞こえた猛禽の鳴き声。やにわに王の間の上空で、再び吹き荒れ始めた木枯らしの音――

 開きかけた口を真一文字にきゅっと閉じると、カッシーは頭上の様子を窺う。


「カッシー?」


 唐突に会話を中断し、天窓へと注意を向けた少年に気づくと、日笠さんは不思議そうに首を傾げた。

 だが少女の呼びかけにもやはり向き直ることなく、カッシーは睨みつけるようにして天窓の向こう側を一心に見据える。

 やにわに彼は口を開いた。


「後にしよう、憂うのも迷うのも――」

「え……?」

「もうさ……今は、いろいろ考えんのはやめだ」


 あれこれ考えすぎて頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 今しがた聞いたばかりの少女の本音を頭の中で思い返し、さらに自分に対する憤りが込み上げてくるのを覚えながらも、カッシーはその気持ちを必死に抑え込み、静かに首を振る。

 サイコさんは言ってた。冷静になれ、一時の感情に流されず――って。

 自分の決断は間違ってたんだろうか。

 もっと冷静に状況を分析し、もっと考えてやるべきことをしていれば、ここまで日笠さんを思い詰めさせることはなかっただろうか。

 或いは、こんなにも窮地の連続に陥ることもなかったのだろうか。


 でもそんなの俺には無理だ。

 だって仲間がやばいんだぜ? 

 もう二度と彼女なっちゃんに会えなくなるかもしれないんだぜ?

 冷静になんてなれるもんかよ。


 それにすべきことが正しいかどうかもわからない。感情に流されずに行動できる程、人間ができてるわけでもない。

 何よりそんなの、自分じゃない気がする。

 何故ならば――

 

「前も言ったよな?……俺、後悔するの嫌なんだ。自分を抑えて冷静に行動して……それで後になってから、ああしとけばよかった――って、後悔するの嫌なんだよ」


 あの日パーカスで、彼女に告げた想いは今も変わらない。

 一番恐れるのは迷って足を止めることだ。迷っているうちに誰かを失うことだ。

 だから前に進む。こうと決めたら迷わず前に進む。

 それが例えじゃなくたって、後悔するのは嫌だから。


「俺は『するべき』ことじゃなくて、『やりたい』ことをやるって決めた。今決めた」

「やりたい……こと?」

「ああ、あの化け物大鴉を倒すこと……そしてこの塔の上の死神マダラメをぶん殴ってやること――」

 

 そうだ。それが俺の『やりたい』ことだ。

 迷いも憂いも、考えるのも、後回し。もう何言われたって絶対曲げるつもりはないからな?――

 そう言いたげに、大きな鼻息を一つ吐き、意地っ張りな少年は誰にといわず意気込んだ。


「だからさ、日笠さんも『やりたい』ことをやればいい。一番望むものを求めればいい――」


 なあ、日笠さん。今、日笠さんが一番やりたいことってなんだ?――


 そう言葉を続け、カッシーは少女へと尋ねる。

 お決まりの如く、いつも通りの、締まりのないにへら笑いを顔に浮かべながら。


 二の句が継げずに、ぽかんと少年の顔を見つめていた日笠さんは、やがて呆れたように深い溜息を吐く。

 そして目元の涙を拭うと先刻と変わらず顔を顰めてカッシーを睨みつけた。


「……ずるい」

「へ?」

「答えになってない。誤魔化してる」

「うっ、だからそれは後回しっていっただろ?」


 少女に睨まれ、途端カッシーはにへら顔を引っ込めると、口をへの字に曲げながらしどろもどろで言い返す。


「大体何? やりたいことやればいいって? それってただの我儘じゃない」

「俺が我儘なのは知ってるだろ、何を今更」

「ずるい、今度は開き直った!」

「い、いいからここは俺に任せてくれって! それよりなっちゃんを頼む。そこの扉からこーへい達が先に行ったけど、あいつ等だけじゃまとまりなくて不安だ」

「それ、カッシーが言える立場じゃないよね?」

「ぐっ……」


 悔しいが全て反論できない。

 酸欠の金魚のように口を開閉させながら、カッシーは絶句する。

 まるで子供だ。やれやれ、と諦観したようにまたもや溜息を吐くと、日笠さんはちらりと塔に続く扉を見やった。

 

「君を……信じていいんだよね?」

「……できれば、もっと前から信じて欲しかった」

「それは日頃の行いのせい」

「……勘弁してくれ」


 言えば言う程どつぼにはまり、カッシーは辟易しながら唸り声をあげると口を尖らせ押し黙る。

 そんな彼を見て、溜飲が下がったかのように、日笠さんはクスリと微笑んだ。


 答えはまだもらっていない。

 けれど、憂うのも迷うのも、考えるのも後回しにしてみよう。

 私のやりたいこと、もしそれを望むのだとしたら――それは彼の言う通りこの上にあるから。


 佇まいを改め、日笠さんは表情を穏やかなものに戻すと、やにわに踵を返して走り出す。

 と、軋む音を立てて開いた扉の向こうを覗き込んだ後、少女は再び振り返った。


「さっきの答え、後で必ず教えてね?」

「わかったよ。約束する」


 コクンと頷いた少年を見届けて日笠さんは扉の向こうへと姿を消した。

 しばらく階段を上がる足音が聞こえてきていたが、やがてそれも聞こえなくなった。

 

 一人王の間に佇み、カッシーは小さく息を吐くと月を臨む。

 天窓にすっぽり収まるほどに天高く昇った満月をじっと見つめる彼の表情は、再びやる気に満ち溢れ、間もなく訪れるであろう敵を待ち構えていた。

 

 刹那。

 少年の頭上から、怒りに満ちた猛禽の鳴き声が降り注ぎ、巨大なシルエットが王の間に影を落とす。

 再びその姿を露にした大鴉は、逃げずにこちらを睨みつけていた少年の姿を捉えると、爛々と金色の瞳を輝かせた。

 

―ケケケ、来やがったか。こりゃ火に油を注いだ、って感じだな―


 その羽根を燃やしていた炎は既に消えている。光の弾の直撃によって、その胴体や翼の一部が焼け爛れ羽根が削げ落ちていたが、手負いとなった猛禽はますますその凶暴さを増したようだ。

 呆れたように愚痴を零すと、だが強敵を前に時任は嬉しそうに笑い声をあげる。


「ナマクラ……」


 と、じっと大鴉を見据えていたカッシーは、やにわに妖刀の名を呼ぶと、決意新たにその柄を握りしめた。

 何だと言いたげに時任がその刀身を鈍く光らせる。


「おまえさっき言ってたよな? 今の俺じゃ和音の力はこれが限界だ――って」

―ああ、言ったぜ?―


 刹那。

 そう返答した時任は、迸るようにして生まれた、並々ならぬ覚悟が柄を握る少年の手から伝わって来るのを感じ、呆れたように溜息をついた。

 はたして、カッシーは歯を食いしばるように一度息を呑むと、言葉を続ける。



「もしその限界を超えて和音を引き上げたら、俺の身体はどれくらい持つ?」



 ――と。


―おまえ本気か? 気は確かか?―

「いいから答えろよ。どれくらい持つんだっつの」

―ケケケ、まったくこの小僧は。あの娘が怒るのもそりゃ無理ねえな―


 だが相変わらず覚悟だけは本物だ。

 他はからっきしの癖に大した肝の据わりようだぜ。

 

 …………いや、まて。


 何だこりゃ?

 おいおい、嘘だろ?

 こいつは何かの冗談か?――

 

 と、小気味よい笑い声をあげていた時任は、やにわに笑いを引っ込め途端驚嘆の唸り声をあげる。

 突如、少年の身体に生じたを感じ取って。

 

「おい、どうしたナマクラ? 答えろよ」

―……五分だ。それ以上過ぎれば命の保証はできねえぞ―


 ぎりぎり五分。或いはそう、今ならいけるかもしれない――

 しばしの間の後に、時任は神妙な声で答える。


「それだけあればあいつ……倒せるか?」

―ケケケ、が来るな―


 妙に態度の改まった妖刀の様子に、カッシーは不思議そうに片眉を吊り上げていたが、すぐに、よし――と、頷いてボロボロになった蒼い外套を剥ぎ取った。

 小癪な、懲りずにまだ挑むのか人間――

 その行為と共に、不屈の闘志を灯した少年の瞳に気づくと、大鴉は苛立たし気に甲高い一声を迸らせ、王の間へと急降下を開始した。


―いいんだな小僧?―

「ああ!」

 

 念を押すように確認した妖刀に対し、迷いなくそう答えるとカッシーは腰を落とし二刀を構える。

 途端四肢に漲り始める『限界を超えた』和音の力。

 同時に心臓は激しく鼓動を打ち始め、全身の血管が浮かびだした。


 何分、いや何十秒でもいい。

 そこに勝機があるのなら、なんだってやってやる。

 あいつを倒す、それが自分で決めた、自分で求めた『やりたい』ことだ――

 

「リベンジだ大鴉ッ!」


 勢いよく床を蹴り、宙へと躍り出た少年は、大鴉目掛けて二刀を繰り出す。

 その戦いを彩るようにして鳴り響く死の舞踏は第三主題へと突入した。

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