その20-2 胎動

 そこにいるはずのない人物が歯牙にかかり、キシは浮かべていた愉悦の笑みを消し去った。

 何故こいつがここにいる――愛剣が貫いたその人間を不思議そうに見下ろす氷使いに、一瞬ではあるが隙が生まれる。

 刹那、前のめりに倒れるようにして、その胸元に刺さっていた刃の束縛から逃れると、チョクは素早く身を翻した。

 その手に握りしめていた細剣レイピアが満月の光を鈍く反射する。


 しくじった――と。

 切れ長の目を見開き、氷使いが慌てて防御の構えに移行するよりも早く。

 乾坤一擲、眼鏡の青年が繰り出した一撃は、正確にキシの喉元を刺し貫いていた。

 金色の瞳が、ありえない光景を目の当たりにしたようにチョクを見下ろす。


「この……人間め」


 気道に溢れ出した血により溺れるような呼吸音を放ちながら、キシは喉を押さえてよろよろと後退った。

 細剣レイピアの切っ先を掲げ、チョクは油断なく氷使いを見据えながら眼鏡を押し上げる。


「おのれ……おのれ……あと少しであったというのに――」


 欄干にもたれ掛り恨めしげに呻いたキシの身体がゆっくりと後ろへ傾いた。

 やがてその姿が視界より消え去り、内堀へと落下していくのを見届けると、チョクは構えを解きその場に膝をつく。

 

 橋上を支配していた冷気は主を失い、急速にその力を弱め出していた。

 みるみるうちに溶けていく周囲の氷を眺めながら、チョクは荒い呼吸を何度も繰り返し胸元を押さえる。


 どうして? なんで?――と。


 その背中に滲む紅い染みが、消えゆく冷気とは反対にどんどん大きくなっていくのを呆然と見つめながら、エリコは頭の中で同じ言葉を繰り返していた。

 たった今目の前で起こった出来事が理解できない。いや、理解したくない。必死に否定しようと彼女は唇を噛み絞める。


 一際大きな深呼吸を一度吐くとチョクはゆっくり振り返った。

 そしてそんな自分を強張った表情のままじっと見つめ続けるエリコに対し、心底ほっとしたようにニコリと微笑みかける。


「いやぁ、間に合ってよかったっス」


 呟くようにそういうや否や、チョクは蹲るようにして床に倒れた。


「チョクッ!」


 金縛りが解けたかのように身を跳ね起こしエリコは叫ぶ。

 途端全身に走る激痛に顔を歪め、それでも彼女は構わず立ち上がると、左足を引き摺りながら彼の下へ身を寄せた。


 覗き込んだ眼鏡の青年の顔色は真っ青だった。

 一瞬脳裏をよぎった最悪の展開を必死に振り払い、エリコは辛うじて動かすことができる左手でチョクの上半身を起こす。


「姫……」

「アンタ……何やってんの!? バカじゃない!?」


 沸き起こる感情を必死に抑えた結果、顔に浮かび上がったのは怒りの形相だった。

 うっすら目を開けたチョクに顔を近づけ、エリコは唾を飛ばす勢いで怒鳴りつける。

 

「ハハハ……せっかく助けに来たのに、バカとはなんとも酷い言われようで」

「それがバカだって言ってるのよ、恨みっこなしって言ったじゃない! まったく命令も守れないの?」

「やっぱりなあ、絶対そう言うだろうなーって思ってましたが。本当に容赦ないなあ……」

「そう思ってたんなら戻ってくるんじゃないっ! ありがた迷惑なのよこのハゲッ!」

「ハゲじゃないッス、ちょっとデコが広くなっただけですって」


 弱々しい苦笑を口元に浮かべ、チョクはとほほ――と溜息を吐いた。

 少しずつではあるが青年のその声が小さくなっていくのに気づき、エリコは血相を変えながら彼の胸倉を掴んだ。

 右肩がズキンと痛む。穿たれた脇腹が悲鳴をあげる。

 だがそんなもの知ったことか。


 知 っ た こ と か !


「チョクッ! 聞こえてる? いい? 礼なんか言わないからね! ここで死んだらアンタやられ損よ! だから死ぬんじゃない! しっかりしなさい!」

「き、聞こえてますって……死なないっスよ。ちょっと休むだけっスから……なので、ちょっとお願いが――」

「お願い?」


 乱暴に自分を揺するエリコに対し、チョクは腰の差してあったもう銀の細剣を手に取るとそれを彼女に差し出した。

 唖然としながら差し出されたその銀の細剣を見つめていたエリコはやがて眉根を寄せるとチョクの顔を再び覗き込む。


「何よこれ?……アンタまだ刺してなかったの!?」

「申し訳ないッス、途中で気になって戻って来たんで……あの、ちょっと……無理そうなんで……お願いできませんか?」

「だめよアンタがやりなさい! 責任果たしなさい! 無理なんて……いうなっ!」

「……き、厳しいッスね姫は――」


 そんな今際の際のような言い草は認めない。

 ブンブンと首を振ってきっぱりと否定すると、エリコはチョクを睨みつける。

 すっかり真っ白になったその顔に再び苦笑を浮かべ、眼鏡の青年はゆっくりと目を閉じた。


「でも間に合って本当によかったスよ。姫に何かあったら国の一大事ッスから――」

「アンタに何かあったって国の一大事でしょ! 人の心配してる場合か、しっかりしなさいよ宰相補佐!」

「…………ありがたいお言葉で」

「……ちょっと何言ってんの? そんな言葉聞きたくないのよ。礼を言うくらいなら目を開けなさい。今すぐ立ち上がりなさい!

「……」

「チョク?」

「……」

「……鉄道を作るのが夢だったんでしょ!? マーヤはどうするのよ! 宰相になってあの子のこと迎えに行くんでしょ?!」

「…………」

「チョク! ねえチョク!」


 掴んだ胸倉を乱暴に揺すり、エリコは叫ぶ。

 だがその呼びかけに眼鏡の青年から返事はなく。

 やがてゆっくりと、銀の細剣を握るその手が力なく石畳に降ろされた。

 息を呑み、エリコは目を見開きながらチョクの手を取る。

 

 その手は氷のように冷たかった――


「ふざけるなっ! 根性見せなさいよチョク!」


 あらん限りの声で彼の名を呼び、と、そこでエリコは胸倉を掴んでいた掌をいつの間にか鮮やかに染めていた色に気づき、動きを止めた。


 紅。

 親友の血に染まった紅。

 彼の胸元からじんわりと染み出した生命の色――


 守れなかった。

 もう誰も死なせはしない。私が護る――そう約束を交わしたのに。

 

 途端震えだした唇をエリコはぎゅっと噛み締めた。

 しかし止めることができない。耐えることができない。

 歯を食いしばっても、手を握りしめても、込み上げてくるその震えを抑えることはできなかった。

 

「冗談じゃないわよっ……頼んでもいないのに……ホントいい迷惑――」


 ぽたりとチョクの顔に熱い雫が落ちる。


 と――

 冷たく橋上を照らしていた月光を遮り、不意に彼女を覆うようにして影が落とされた。

 内堀から飛沫をあげて飛び出したその影の正体は、瞬く間に連絡橋の端へその身を叩きつけ、それを崩落させる。

 飴細工のようにいともたやすく砕け散った橋の破片を振り払い再び姿を現したその影の正体は、物見塔よりも太い胴周りをした巨大な爬虫類の尾であった。

 やがてその尾を追うようにして、同じく内堀からもう一体の影が姿を現す。

 水を巻き上げ、ぬっ――とエリコの前に現れたその影は、金色に爛々と光る一対の大きな目に激しい憎悪と怒りを灯し。彼女を見下ろした。


 それは禍々しい氷塊のように巨大な、青い鱗に覆われた大蛇の頭。

 先刻内堀へと沈んだ、氷使いの成れの果てであった。

 真っ赤な口の中より先が割れた舌を覗かせ、大蛇は、爬虫類独特の威嚇音を周囲へと轟かせる。

 

 だがしかし――

 

 エリコは微動だにしない。

 まるで大蛇などそこにいないかのように、じっと石畳に横たわる眼鏡の青年を見つめていた。

 苛立つように鎌首をもたげ、大蛇は再び嘶いた。

 刹那。


「うるさい……」


 聞いた者が問答無用で従わざるを得なくなる程の『大いなる畏怖』の音色。

 ぞっとするほど低く、そして重い声色が大蛇の本能に警告を促す。

 途端野生の直感が蛇に告げ始めた。今すぐに逃げろ。離れろ。こいつにはかなわない――と。

 

 だが大鼠同様、死神より賜った強大な力を過信していた大蛇は、野生が告げたその警告を怯懦の迷いだと振り払い、エリコを一飲みにしようと大きく口を開く。

 そしてそのまま、大蛇は固まった。

 

 目の前のちっぽけな存在である人間に集まり始めていた、膨大な量の『魔力』にようやく気付いて――


「消えろ――」


 そう言って徐に顔をあげたエリコの瞳は、かつてない程に紅く、そして眩い光を放っていた。

 自分に向けられた紅き鷹の王女の双眸を見て大蛇は後悔する。

 野生に従うべきであったと。

 

 だが、やはり。

 全てはもう、遅すぎた。


 鳩血紅玉ピジョンブラッドの如き禍々しい紅光が彼女の身体から迸ると、凝縮された魔力の胎動が始まる。

 それはまるで波紋のように橋上に広がっていき、やがて城全体を包み込んだ。

 

 無造作にエリコが翳した掌が大蛇の頭部へとに向けられる。

 月の光を覆い尽くすほどの膨大な紅き魔力が空へと放たれると――


 刹那、橋上は無音に包まれた。

 


♪♪♪♪



同時刻。

コルネット古城、隠し礼拝堂――


 黒い外套を大きく翻し、シンドーリは立ち上がる。

 そして珍しく驚きを隠さず顔に浮かべながら諸手を広げて天を仰いだ。


「これは驚いた……」

「今度は何よシンちゃん?」


 もういい加減慣れた――

 すっかり待ちくたびれて、長椅子に寝転がっていたなつきは身を起こすと面倒くさそうに尋ねる。

 と、そんな彼女に目もくれず、銀髪の吸血鬼は興奮した様子で口元から不敵に八重歯を覗かせて笑った。

 

「この魔力の胎動……あの姫君、まさかこのような力を秘めていたとは――」

「だーかーらーさぁー? 私達にもわかるように言えっての!」


 バン!と長椅子を叩き、一人高揚して語り始めたシンドーリに向かってなつきが怒鳴る。

 

「伯爵、また何か起きてるのかい?」

「姫君って、もしやまたエリコ王女達の身に何か?」


 お互い顔を見合わせた後、阿部と柿原は各々懸念の色を顔に浮かべながらシンドーリへと尋ねていた。

 と、そこでようやく四人を向き直り、銀髪の吸血鬼は愉快そうに含み笑いを放ちながら、感じ取った魔力の正体を彼等へ明かす。


「レッドアイだ」

「レッド――」

「――アイ?」


 刹那。

 きょとんとしながら一様に彼の言葉を繰り返した四人の頭上に、眩い程の紅い光が降り注ぐ。

 一瞬後に、耳を劈く程のソニックブームに酷似した衝撃音が轟いたかと思うと、激しく礼拝堂が揺れ始めた。

 

「きゃあっ!?」

「ななななんだぁ?!」

「地震かな?」


 立っていられずその場にへたりこんだ亜衣を庇うように抱き起し、柿原と阿部は狼狽しながら周囲を見渡す。


「なによあれ……」


 慌てて身を起こし、煌々と光を放つ輝く夜空を見上げていたなつき思わず呟いた。

 天窓の向こうを凝視した彼女の瞳は、城のすれすれを掠めて一直線に空へ伸びる紅い光を捉え大きく見開かれる。


 なんて綺麗な光だろう。

 そしてなんて怪しく、心を不安にさせる光なのだろう。


 あれがレッドアイ?

 てか一体何が起きているの?


 みんな無事なのだろうか。

 刻一刻とタイムリミットは迫っている。

 早くしてよカッシー……でないとあの娘なっちゃんが――



 禍々しく輝く紅い閃光を祈る様にじっと見つめ、なつきはぎゅっと両拳を握りしめた。

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