その20-1 紅き鷹と冷徹なる氷
十数分前。
コルネット古城、北の物見塔連絡橋――
やはりこいつは私を選んだ。
同時に突撃を開始した眼鏡の青年を完全に無視し、躊躇なく自分を狙って繰り出された一撃を紙一重で躱しながら、上等だ、とエリコは強気な笑みを口元に浮かべる。
主に襲い掛かった氷使いに気付き、チョクが戸惑うようにこちらを向き直ったのが見えた。
だが彼はすぐに踵を返すと、対峙する二人の脇を駆け抜け、落下してきた銀の細剣を手にして一途物見塔へと向かってゆく。
そうだ、それでいい。恨みっこなしなんだから――視界の端でその背中を見送ると、エリコは気炎万丈手にした鞭をキシ目掛けて放った。
あとはできる限り時間を稼ぐ。
勝てずとも負けぬ戦いをしてチョクが戻ってくるのを待つ。
単純な力のぶつかり合いでは相手が有利だ。接近戦は勿論NGだ。小柄な自分では強引に組み伏せられて詰む。
剣の間合いではなく
鞭を受け流したキシが返す刃で放った一撃を頭を下げて躱すと、エリコは床を蹴って後方へ退いた。
そして鞭の間合いギリギリから強烈な鞭打を放とうと、手首を返す。
彼女の目論見、事は進むかと思われた。
だが振りかぶった鞭の先端が今にも氷使い目掛けて放たれようとした瞬間、彼女は足元に漂い始めた何とも嫌な冷気を感じ、動きを止める。
刹那。石畳を凍結させ生まれ始めた見事な霜柱が、瞬きする一瞬で鋭利な刃へと成長し、彼女の眉間目掛けて迸った。
意表を突かれたエリコは息を呑むと、慌てて鞭を戻し回避を試みる。
その頭部を穿たんと突き出された氷槍は、咄嗟に身を捻った彼女の右腕を掠め、動きを止めた。
「っ!?」
じんじんと熱くなるような切創の痛みが二の腕から伝わってくる。だが止まることはできない。
第二、第三の『氷槍』がそこかしこの石畳から生まれようとしていたのだ。
歯を食いしばって痛みを堪え、エリコは後方へと飛び退いた。
追うようにして次々と氷槍が地から飛び出し、逃すものか――と、彼女に襲い掛かる。
間を開けずにバック転を繰り返し、その鋭利な冷撃を躱すと、エリコは最後に空中二回転を決めて、キシから十分な間合いを取った。
連絡橋の上はあっという間に吐いた息が白く濁るほどの凍結世界へと変貌する。
「アンタさあ、シツコイ男って嫌われるのわかってる?」
そう軽口を叩きながら、乱れた呼吸をできる限り整えようと肩を上下させ、エリコは確かめる様にして右腕の付け根を押さえた。
出血はそれほど酷くない。だが軽い凍傷を起こしているようで二の腕の感覚がない。
ただの鋭い氷かと思ったけれど、触れたものを凍結させる魔力でも帯びているのだろうか。
いずれにしても厄介だ。利き腕の負傷が今後どう影響するか――添えていた左手を離し、その掌に付着した血の量を窺いながらエリコは悔しそうに顔を歪ませる。
だが、気取られまいとすぐにその歪みを顔から消し去り、彼女はキシを睨みつけた。
そんなエリコに向けて、狐のように切れ長な双眸を不敵に歪め、氷使いは石畳に刺していた愛剣を抜き取る。
これは分が悪い。どうもあの剣は地中を伝って冷気による攻撃を仕掛けることができるようだ。
しかも鞭の間合いより大分広い。あんな技アイツ持ってたっけ?――
自分の間合いから攻めの起点を作ろうとしていた彼女は、逆に間合いを取られ一方的に攻められようとしていることに気づき、どうしたものかと思案する。
しかし案の定、氷使いが彼女にそれ以上考える時間を与えるはずもなく。
再び床に突き立てられた透き通る氷の剣によって冷徹な連撃は出し抜けに放たれた。
波間を跳ねる海豚のように左右から同時に氷槍が飛び出したのに気づき、紅き鷹の王女はカツンと石畳を蹴る。
このままでは攻められる一方だ。ならば道は一つ、自分の間合いまで近づくしかない――意を決した彼女は前へと跳躍して攻撃を躱した。
カツン――と、ヒールの音を響かせ着地したエリコは、だがすぐさま床より漂い始めた冷気を感じとり、否応なしにさらに前へと跳躍する羽目になる。
刹那、石畳から飛び出した幾つもの氷槍が彼女が数瞬前にいた空間を交差しながら貫いた。
執拗な攻撃は終わりの兆しを見せようとしない。
エリコのヒールが石畳を鳴らすその都度、氷の凶刃が甲高い氷結音を響かせながら足元から飛び出し、橋上の至る所を凍結させていく。
再度着地したエリコは側転から横跳び、そのままアクロバティックに宙を舞うと欄干に飛び乗った。
鞭の間合いあと少し――
欄干の上を颯爽と駆け抜けながらエリコは愛用の鞭を構える。
だがしかし。
まるで獲物を追跡する蛇のように、駆け抜けたそばから凍結していく欄干をちらりと振り返って、彼女は舌打ちした。
早い、追いつかれる。徐々に精度が増しているようだ。
「ふっ!」
足元を捉えようと迫った冷気から逃れる様にして大きく一度欄干を蹴ると、エリコは大きく跳躍して宙へと躍り出た。
そこは空中ではあるが既に
即ち、敵の頭上――
どう氷使い? 流石に自分を巻き込む位置で氷槍は生み出せないでしょう?
それに地を這う冷気は確かに厄介だが使役する間、剣を床に突き立てる必要があるようだ。
今キシは自慢の剣も、冷徹なる連撃も使えない。今こそ好機。
エリコは鞭を振りかぶり、キシの頭上目掛けて渾身の一撃を放つ。
風の唸り声を生み出し頭上から迫ったその鞭打を見上げ、氷使いは冷静に身を捻って躱した。
虚しく石畳に落とされた鞭が、弾けるような衝撃音を生み出す。
紅き鷹の王女の反撃はそれで終わらない。
跪くように着地したエリコは素早く立ち上がると、紅く爛々と輝く双眸に更なる闘志を燃やし続けざまに鞭を放った。
下から上へ唸りをあげて迫った鞭の先端を、キシは顔を横へ倒し辛うじて躱した。
「逃すかっての!」
かっと目を見開き手首を返すと、エリコは回避され宙を彷徨っていた鞭を今度は上から下へと躍らせた。
氷使いは冷静にその鞭の動きを目で捉え回避を試みる。
しかし先刻よりも速さを増した彼女の鞭は、避けるキシの身体に食らいつき、その右腕の皮膚を弾いた。
鞭が再び石畳を打つと同時に、氷使いの右腕から血が噴き出す。
途端キシの表情から不敵な笑みが消え、険しくなった。
まだだ。まだ終わらない。攻撃の手は休めない。
その剣を抜かせる暇は与えない!――
途端に空を裂く甲高い風の唸りが連続で生まれ始める。
徐々に石畳を打ち付ける破裂音の間隔も短くなっていく。
絶え間なく繰り出される鞭打の嵐を氷使いも完全に避ける事ができず、時折その身体を掠める一撃によって、少しずつではあるがキシの肉体に傷が作られていった。
一方で怒涛のラッシュを放つエリコも、額に脂汗を浮かばせながら歯を食いしばる。
鞭が石畳を着地する度に、右腕の切創に鈍い痛みが走っていた。手先の感覚ももはやない。
連続で放つ鞭打によって呼吸も乱れだした。
それでも攻撃の手は休めることはできない。
ペースを掴んだ。このまま押し切る。
後は我慢比べだ。お願い右腕よ、どうかもって――
一際大きく息を吸い、気合と共にエリコは鞭を繰り出す。
だがしかし。
彼女の祈り虚しく、一際大きな肉を弾く音を立てて鞭はその動きを止めた。
受け止めるようにしてその眼前に差し出された、氷使いの右腕に遮られて――
皮膚が裂け赤い血をぽたぽたと垂らすその右腕に絡みついた鞭をがっしりと掴み、キシは再び不敵な笑みを口に浮かべる。
こいつ、ワザと受けたの?!
右腕を犠牲にして鞭を――
途端ピンと鞭が張り詰めた。ガッシリと捉えたその鞭をキシが引き寄せ始めたのだ。
意表を突かれて唖然としていたエリコは我に返る。
慌てて鞭を引き返すがもはや遅い。彼女自身が言っていたのだ。
単純な力比べでは敵うはずがないのだと。
抵抗試みる紅き鷹を捉えようと、絡みついた鞭を左手でも掴み上げキシはさらに手繰り寄せる。
「くっ!」
ふわりと小柄なエリコの身体が宙に浮き、一気に引き寄せられた。
だが慌てて腰を落としてヒールの踵を石畳に押し付け、彼女の身体は辛うじて一瞬宙を漂うのみにとどまる。
ほっとしたのもつかの間、彼女の第六感は更なる追撃を感じ取り、ぞくりとその身に悪寒を走らせた。
刹那。
柄を握る両手を何とも嫌な冷気が覆い始める。
まさか――と、紅い瞳を仰天から見開いたエリコの視界に映ったのは、みるみるうちに凍結していく鞭の先だった。
まるで導火線のように鞭を伝ってこちらへと向かってくる禍々しい冷気を見据え、仕方なくエリコは鞭を手放すと急ぎ後方へと飛び退いた。
主を失った鞭は、やがて柄の先まで氷に包まれ石畳へと落下すると、硝子のように砕け散る。
その音は、奇しくも氷使いのさらなる反撃の合図となった。
やにわに石畳から剣を抜き取ると、キシは豹の如く地を蹴って後方へと逃れたエリコを追う。
「っ!」
息を呑むようにして声をあげ、エリコは迫りくる凶刃を見据えた。
武器を失った彼女に反撃の術は既になく、躱すしかない『選択肢』を恨みながらもさらに石畳を蹴って後方へと逃れる。
眼前を通過した刃によって、切り落とされた前髪が数本、はらりと宙を舞った。
そこでエリコは悟る。
己の判断が誤りであったと悟る。
距離を取るのではなく、たとえ武器を失っても、懐に潜り込むべきであったと――
気づいた時には、もうそこは氷使いの間合いだった。
しまったと、歯噛みするエリコの目に愛剣を石畳へと突き立てるキシの姿が映り込む。
刹那、周りを囲むようにして噴き出し始めた冷気を肌で感じ。
避けられない――そう判断したエリコは咄嗟に身を屈めて防御の態勢をとった。
そんなものは意味がない。
まるでそういわんばかリに氷使いはニヤリとほくそ笑む。
途端、澄んだ音色を橋上へと響かせ石畳から現れた無数の氷槍は、四方八方から彼女へ襲い掛かった。
肉が抉れる不快な音が身体の中から聞こえたかと思うと、一瞬後に激痛が彼女の右肩を走る。
次いで左太腿、そして右脇腹――
「――うあっ!」
冷徹なる氷撃によって突き飛ばされたエリコは背中から石畳に落下に、強かに身体を打ち付けた彼女は呻き声をあげた。
身体全体が焼ける様に熱い。
反射的に押さえた脇腹から生暖かい液体が滲み出してきているのが感じられた。
見るまでもなくその液体は押さえた自分の左手を紅く染めているのだろう。
「くぅぅ……」
その身をくの字に曲げて、歯を食いしばりエリコは痛みに耐える。
それまでの経験と本能が反射的に彼女の身体を捻らせていたおかげで辛うじて急所は外れたようだ。
だが重傷には変わりない。少しでも身を起こそうとしただけで、身体に激痛が走る。
と――
眼前に一歩踏み出された革のブーツに気づき、彼女は痛みを堪えて顔を上げる。
見えたのは勿論、勝ち誇ったように笑みを浮かべ、地に伏せる自分を見下ろす氷の剣士の姿――
ぎゅっと右手を握りしめ、エリコは気力を振り絞ってキシを睨みつける。
「止め刺すワケ? やれば? どうぞご自由に」
「――」
「でもアンタの負けよ? そろそろチョクがあの支柱を刺し終える頃だわ。そうなればアンタもマダラメももうおしまい」
「――」
「せいぜい今は、勝ち誇ってなさいよ。すぐにアンタ達は私の仲間に倒されるんだから」
負け惜しみのようにたどたどしく言葉を放ちつつも、徐々にエリコの表情は屈辱に歪んでいった。
悔しい。負けた。勝てなかった。
こいつのこの勝ち誇った顔が腹立たしい。その微笑が許せない!
「――そうだ。その表情……それを待っていた」
――と。
頭上から抑揚のない声が降り注ぐ。
氷の剣士は何とも醜悪で愉悦に塗れた笑みで口元を歪ませ、その金色の瞳で心行くまで彼女を見下していた。
「この下種野郎っ――」
「おまえの負けだ。死ね……」
ゆっくりと掲げられた氷の剣が、凍てつく冷気を迸らせながら彼女の眉間目掛けて突き下ろされた。
こんな奴に――
込み上げてくる例えようのない怒りと憎悪を瞳に灯し、エリコは最後の意地でキシを睨み付ける。
ズブリ――
肉を貫く鈍い音が橋上に聞こえた。
鮮血は刀身を伝い、しかしそれは一瞬にして迸る冷気により真紅の珠と化すと、刃の先端から石畳に零れ落ちる。
喉の奥から呻き声にも似た吐息を漏らし、鷹の王女はカッと紅い瞳を見開いた。
刹那、目の前で起きた全てを疑いたくなるようなその光景によって――
「…………チョク?」
絞り出すようにして放たれた王女のその声に、眼鏡の奥の瞳が優しく応える。
彼女を庇うように跪く青年のその胸元には、背中から侵入した氷の刃が紅く染まって突き出していた。
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